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松江市鹿島町の「古浦砂丘遺跡」は、砂浜から弥生時代の埋葬人骨約60体が埋まっていた遺跡です。

60体の人骨は、当時の弥生人より手足が長いといった身体的特徴から、朝鮮半島から来た渡来人ではないかとされています。


つまりは、弥生時代より海上交通というものがあり、朝鮮半島との交流があったということを示しています。


また古墳時代に近づくと、近畿の土器が、鹿島町の遺跡(南講武草田遺跡)より発見されており松江市北部の地域が、海上交通の拠点だったのではないかと想像されます。


その松江市北部に鎮座しているのが、この佐太神社(さだじんじゃ)です。

現在 南殿 修復工事中です。出雲大社、伊勢神宮の遷宮で盛り上がりましたが、平成28年に正遷座祭があります。
母神イザナミをしのぶ神在月 — 佐太神社 —_e0354697_15051346.jpg


秘説四柱


佐太神社は、本殿が3つという珍しい作りです。

正殿、北殿、南殿に、秘説四柱を含めて12柱が祀られています。


正中殿 佐太大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命の五柱。

北殿 天照大神及びニニギノミコト。

南殿 スサノオのミコト 秘説四柱の計五柱。この秘説というのが意味深です。


この出雲の国にあって、オオクニヌシノミコトのオの字もありません。

この佐太大神というのは、どういう神様なのでしょう。

佐太は岬の意味

杵築大神(オオクニヌシノミコト)というように、佐太は、地名を指します。

「伊予国の佐田岬、大隅半島の佐多岬等の地名にみられる岬の意味で島根半島の一円の祖神であり」

「世に言う猿田毘古大神(さるたひこおおかみ)」です。(佐太神社パンフレットより)


ただ、明治維新の神道再編の折には、神社側は猿田彦命であることを拒絶しています。→ 佐太神社 wikipedia


猿田彦命は、ニニギノミコトが地上に降りてくるのを導く役割の神様です。

「交通の神」と一般的に言われます。

もしかしたら、出雲王朝を滅ぼすヤマト王権を「導いた」役割の神だったのではないかと想像してしまいました。

神在の社 母神イザナミの陵墓 

また この神社は 母神イザナミの陵墓である比婆山の神陵を遷し祀ったイザナミの社として八百万(やおよろず)の神々が、佐太神社に集まるとされ、「神在の社(かみありのやしろ)」とも云われています。


出雲大社に八百万の神々が集まり、出雲地方は神在月になると云われていますが出雲の国の東部では、そうではなくて母神イザナミをしのび、全国から神々が集まってくるのです。


佐太神社の裏の山(三笠山)を登っていくと

母神イザナミをしのぶ神在月 — 佐太神社 —_e0354697_15051343.jpg

山腹に「母儀人基社(はぎのひともとしゃ)」があります。

中世より、イザナミの神陵(御墓)を遷し祀った神社と云い伝えられています。

母神イザナミをしのぶ神在月 — 佐太神社 —_e0354697_15051313.jpg

縁切りの神社 田中神社

佐太神社から100メートル東へ離れた所に、北殿の摂社「田中神社」があります。

ニニギノミコトの天孫降臨神話に出てくるイワナガ姫・コノハナサクヤ姫姉妹の神様です。

背を向けて並んでいます。

ああいうことがあり仲良くはできるはずがありません。


~ニニギノミコトは、コノハナサクヤヒメに一目ぼれし妹であるコノハナサクヤヒメと姉のイワナガヒメを嫁にします。

しかしながら、ニニギノミコトは、岩のようにゴツゴツとしたみにくい顔を嫌って、姉を親元に返してしまいました。~


同じ境内に入れられなかったのは、国津神(高天原の神さんでない)だからなのでしょうか?

母神イザナミをしのぶ神在月 — 佐太神社 —_e0354697_15051422.jpg

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# by yuugurekaka | 2014-02-23 08:00 | 日記 | Trackback | Comments(2)

標高約300mの山というので、ハイキングのつもりで軽く考えていました。

粉雪が降っていたので、長靴に履き替えて登りました。

木や竹が倒れていて2か所道がふさがれていました。

かなり急な山道です。くさりをつかんで登るところもありました。

母神眠る 比婆山・久米神社  安来市伯太町(2)_e0354697_15051172.jpg

休み休み歩いて40分、やっと社祠峰頂上の鳥居が見えて来ました。ふうー。

母神眠る 比婆山・久米神社  安来市伯太町(2)_e0354697_15051248.jpg

ここは、社詞峰の元拝殿跡です。御陵峰は昔、「禁足地」で、社祠峰から遥拝したと伝えられています。

母神眠る 比婆山・久米神社  安来市伯太町(2)_e0354697_15051229.jpg


御陵峯 山頂付近には男竹に女性的な笹のついたここにしか繁殖していない「陰陽竹」が生えています。(島根県の天然記念物)

イザナミノミコトが出産のため登ったときに、竹杖をたてかけたものが根付いたと伝えられています。

説明の看板の後ろに生えていました。竹に詳しくないので、自信ありません。

これが本当に「陰陽竹」なんでしょうか?
 
島根県:比婆山のインヨウチク

母神眠る 比婆山・久米神社  安来市伯太町(2)_e0354697_15051228.jpg


これが今の拝殿です。おそれおおく、個人のお願いごとではなく、日本の平和を祈願しました。

母神眠る 比婆山・久米神社  安来市伯太町(2)_e0354697_15051224.jpg


おお!本殿の後ろに「伊邪那美大神御神陵」があります。

母神眠る 比婆山・久米神社  安来市伯太町(2)_e0354697_15051216.jpg


本殿の後ろから見ました。今は円墳です。「今は」と書くのは、過去「前方後円墳」だったという説もあるとのことです。

母神眠る 比婆山・久米神社  安来市伯太町(2)_e0354697_15051238.jpg

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# by yuugurekaka | 2014-02-03 23:32 | Trackback | Comments(2)

日本創造の母神 イザナミノミコトの墓(御陵)のある神社が島根県安来市伯太町にあると知り参拝しました。安来市観光協会 比婆山久米神社

万物を生み出した神様の、「御墓」が実在するとは、とても混乱しそうな話です。

まあ 日本人の祖先の墓だと思えば、そう不思議な話でもないでしょう。

イザナミの御陵の伝承地というのは、全国にあります。

明治政府は、明治33年調査を行い、宮内省は松江市八雲村の神納山を最も有力として陵墓参考地」に認定し 岩坂陵墓参考地

内務省は船通山(鳥取県日南町と島根県奥出雲町の境にある)の北にある御墓山を「伊弉冉尊御陵流伝地」に指定していました。

「古事記」によりますと、「かれその神避りし伊邪那美の神は、出雲の国と伯伎の国(伯耆の国)の堺、比婆の山に葬りき」とあります。

比婆山というと、島根県安来市の比婆山だけでなく広島県庄原市にも比婆山があり、両方共イザナミの御陵の伝承地です。

本居宣長の『古事記伝』の記述からは出雲と伯耆の境に近い島根県安来市の比婆山のほうが妥当性が高いと、考えられています。
Wiki 比婆山より)

「日本書紀」となるとまた、話が違い、紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたといいます。花窟神社

さて、この「比婆山」ですが、一説には「火場の山」で、たたら製鉄に関係があるとのことです。

火の神を生んで亡くなったイザナミノミコトですが、鉄器の技術を朝鮮半島から運んできたとされるスサノオノミコトの母神です。

そういう鉄器の伝来という流れで考えると、つながりが面白い気がします。

さて、前置きが長くなりました。

この比婆山というのは、一つの峰の山ではありません。

比婆山は、社祠峰、御陵峯、妙見峰の3つの峰で成り立っています。

イザナミの御陵があるのが、この御陵峰の山頂です。参道が3つあり、私は、久米神社 下之宮(里宮)がある「横屋参道」から登っていきました。


母神眠る 比婆山・久米神社  安来市伯太町(1)_e0354697_15051179.jpg

社祠峰の麓にある 久米神社 下之宮です。

本殿が、なぜか出雲地方の「大社造り」ではなく、お伊勢さんと同じ「神明造り」でした。


母神眠る 比婆山・久米神社  安来市伯太町(1)_e0354697_15051162.jpg


久米神社 下之宮の本殿
母神眠る 比婆山・久米神社  安来市伯太町(1)_e0354697_15051133.jpg
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# by yuugurekaka | 2014-02-02 23:00 | Trackback | Comments(14)

出雲国造の祖先である天穂日命は、熊野大神から燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりぎね)という古代の発火器を受けたと言われます。

神聖な火の発祥地でもある熊野大社は「日本火出初社」(ひのもとひのでぞめのやしろ)とも言われています。

ここで古事記を振り返りますと−この熊野大社にまつられている母神イザナミノミコトですが火の神であるカグツチ(軻遇突智、迦具土神)を産んだために陰部に火傷を負って亡くなります。

この同じ火をその息子である(厳密に言えば、夫であるイザナギノミコトの禊ぎにより、アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三神が生まれる)スサノオノミコトが神聖な火として、伝授するのです。

現代でも、出雲大社の出雲国造は、代替わりになると国造家に伝わる燧臼・燧杵を持って熊野大社におもむきます。

そして、熊野大社の鑚火殿(さんかでん)で、神火を切り出しその火で調理した食事を食べることにより、新たな出雲国造となります。

熊野大社 鑚火殿(さんかでん)
出雲大社より格上の神社 熊野大社 (二)_e0354697_15051054.jpg


また、熊野大社で毎年10月15日に行われる鑚火祭(さんかさい)では、出雲大社の宮司が、「古伝新嘗祭」(こでんしんじょうさい)に使用する神聖な火をおこすための燧臼・燧杵をもらいに訪れます。

出雲大社側は、長さ一メートルもある長方形の餅を持ってくるのですが熊野大社側の下級神官が、この餅の出来栄えについて「色が黒い」とか「去年より小さい。」とか難癖をつけるのです。

出雲大社側の神官は、ひたすら聞き手にまわり熊野大社の神官がようやく餅を受け取り燧臼・燧杵を渡すという神事があります。(亀太夫神事)

上記のような火継神事を考えると、古くから、熊野大社の方が出雲大社より格が上だったと想像できます。

また、大和朝廷の解釈(出雲大社は国津神を祀っているので位が低い)とは別にしてイザナミースサノオを、出雲王朝の祖神として祀り、出雲大社よりも古くから熊野大社の存在感があったのではないかと、私には思えてなりません。

ちなみに熊野大社の存在する八雲村の入り口に神納山がありますが、母神イザナミの御墓ではないかと伝えられております。

出雲大社より格上の神社 熊野大社 (二)_e0354697_15051144.jpg


〇参考文献 「熊野大社」(熊野大社崇敬会 発行)
 
熊野大社社務所で販売していました。

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# by yuugurekaka | 2014-01-25 08:55 | 熊野大神の謎 | Trackback | Comments(0)

奈良時代にはすでに格が高い神社 熊野大社

『出雲國風土記』(733)に「熊野大社」、『延喜式神名帳』(927)に「熊野坐神社」と記述されており杵築大社(出雲大社)と並ぶ、出雲の国の大社です。

所在地は、松江市八雲町熊野2451で、松江駅よりバスで40分の距離の所にあります。


中海に注ぐ意宇川(おうがわ)の氾濫によって造られた意宇平野(おうへいや)は、古代出雲文化の中心地と言われています。

奈良時代から平安時代にかけても、出雲国庁(昔の県庁)が置かれておりいました。大和朝廷の全国統一後、出雲国造(いずもこくそう)として(その子孫が出雲大社の宮司)出雲地方を収めた一族も、この平野を拠点として住んでいました。

出雲国造は、松江市東部(意宇平野)からわざわざ、車で1時間半かかる出雲大社まで祭祀に通っていたことになります。

意宇川の源流に近い山あいに鎮座している熊野大社。

「厳」というか「凛」とした感じのする渋い神社です。

標高610メートルの天狗山の山頂近くには、神が降臨した巨大な岩(磐座ーいわくら)がいくつか見られ、毎年5月に「元宮祭」が行われています。

この天狗山に祭られていた神をふもとに迎えて祭ったのが熊野大社です。

熊野大神は、「出雲国風土記」(733年)の「意宇郡出雲神戸の条」(おうぐんいずもかんべのじょう)というところに、「熊野大神は伊弉諾(イザナギ)の愛しい子であるクマノカムロノミコト」と書かれています。

ここは、ヤマタノオロチ伝説で有名なスサノオノミコトの別名であると解説されるのが多いのです。

ここから南西方面に上がったところに、スサノオノミコトが稲田姫と夫婦になったとされる須我神社があります。


熊野大社 拝殿
出雲大社より格上の神社 熊野大社 (一)_e0354697_15050907.jpg


拝殿の向こうに本殿、向かって左側に「伊邪那美神社」右側に「稲田神社」があります。

「延喜式」に収められている『出雲国造神賀詞』(いずもくにのみやつこかむよごと)という文書によると、「熊野大神櫛御気野命」(くまののおおかみくしみけぬのみこと)とあります。

みけ」というのは、食物のことで、食物の生産を見守られる神でもあるとのことです。

「出雲一之宮」という「一之宮」というのは、平安初期から中世にかけて行われていた「社格」の一種です。

「一之宮」は、出雲の国の場合、昔は出雲大社ではなく熊野大社でした。

「日本三大実録」(901年)という書物にも「熊野大神は従二位勲七等、杵築大神(出雲大社の大国主命)は従二位勲八等」というように大和朝廷においても熊野大社を第一位、出雲大社を第二位に取り扱っていたのでした。

それはなぜなのでしょう。

承和元年(834年)に成立した『令義解』(りょうのぎげ)と言う法令の説明書によると「出雲国造がまつる熊野大神は、イザナギノミコトの愛しい御子であり皇室とのつながりのあるアマツカミ(天津神)であるが、オオクニノカミ(大国主命)は国土を開いた神であっても皇室とはつながりを持たないクニツカミ(国津神)である」と記されています。

〇参考文献 「熊野大社」(熊野大社崇敬会 発行) 

熊野大社社務所で販売していました。


熊野大社 本殿
出雲大社より格上の神社 熊野大社 (一)_e0354697_15051003.jpg


舞殿
出雲大社より格上の神社 熊野大社 (一)_e0354697_15051019.jpg



# by yuugurekaka | 2014-01-24 00:48 | 熊野大神の謎 | Trackback | Comments(0)