2014年 02月 23日
母神イザナミをしのぶ神在月 — 佐太神社 —

2014年 02月 03日
母神眠る 比婆山・久米神社 安来市伯太町(2)
かなり急な山道です。くさりをつかんで登るところもありました。


ここは、社詞峰の元拝殿跡です。御陵峰は昔、「禁足地」で、社祠峰から遥拝したと伝えられています。

島根県:比婆山のインヨウチク

これが今の拝殿です。おそれおおく、個人のお願いごとではなく、日本の平和を祈願しました。
2014年 02月 02日
母神眠る 比婆山・久米神社 安来市伯太町(1)
「日本書紀」となるとまた、話が違い、紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたといいます。花窟神社
2014年 01月 25日
出雲大社より格上の神社 熊野大社 (二)
ここで古事記を振り返りますと−この熊野大社にまつられている母神イザナミノミコトですが火の神であるカグツチ(軻遇突智、迦具土神)を産んだために陰部に火傷を負って亡くなります。
この同じ火をその息子である(厳密に言えば、夫であるイザナギノミコトの禊ぎにより、アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三神が生まれる)スサノオノミコトが神聖な火として、伝授するのです。
現代でも、出雲大社の出雲国造は、代替わりになると国造家に伝わる燧臼・燧杵を持って熊野大社におもむきます。
そして、熊野大社の鑚火殿(さんかでん)で、神火を切り出しその火で調理した食事を食べることにより、新たな出雲国造となります。
熊野大社 鑚火殿(さんかでん)

また、熊野大社で毎年10月15日に行われる鑚火祭(さんかさい)では、出雲大社の宮司が、「古伝新嘗祭」(こでんしんじょうさい)に使用する神聖な火をおこすための燧臼・燧杵をもらいに訪れます。
出雲大社側は、長さ一メートルもある長方形の餅を持ってくるのですが熊野大社側の下級神官が、この餅の出来栄えについて「色が黒い」とか「去年より小さい。」とか難癖をつけるのです。
出雲大社側の神官は、ひたすら聞き手にまわり熊野大社の神官がようやく餅を受け取り燧臼・燧杵を渡すという神事があります。(亀太夫神事)
上記のような火継神事を考えると、古くから、熊野大社の方が出雲大社より格が上だったと想像できます。
2014年 01月 24日
出雲大社より格上の神社 熊野大社 (一)
所在地は、松江市八雲町熊野2451で、松江駅よりバスで40分の距離の所にあります。
中海に注ぐ意宇川(おうがわ)の氾濫によって造られた意宇平野(おうへいや)は、古代出雲文化の中心地と言われています。
奈良時代から平安時代にかけても、出雲国庁(昔の県庁)が置かれておりいました。大和朝廷の全国統一後、出雲国造(いずもこくそう)として(その子孫が出雲大社の宮司)出雲地方を収めた一族も、この平野を拠点として住んでいました。
出雲国造は、松江市東部(意宇平野)からわざわざ、車で1時間半かかる出雲大社まで祭祀に通っていたことになります。
意宇川の源流に近い山あいに鎮座している熊野大社。
「厳」というか「凛」とした感じのする渋い神社です。
標高610メートルの天狗山の山頂近くには、神が降臨した巨大な岩(磐座ーいわくら)がいくつか見られ、毎年5月に「元宮祭」が行われています。
熊野大神は、「出雲国風土記」(733年)の「意宇郡出雲神戸の条」(おうぐんいずもかんべのじょう)というところに、「熊野大神は伊弉諾(イザナギ)の愛しい子であるクマノカムロノミコト」と書かれています。
「延喜式」に収められている『出雲国造神賀詞』(いずもくにのみやつこかむよごと)という文書によると、「熊野大神櫛御気野命」(くまののおおかみくしみけぬのみこと)とあります。
「みけ」というのは、食物のことで、食物の生産を見守られる神でもあるとのことです。
「出雲一之宮」という「一之宮」というのは、平安初期から中世にかけて行われていた「社格」の一種です。
「一之宮」は、出雲の国の場合、昔は出雲大社ではなく熊野大社でした。
「日本三大実録」(901年)という書物にも「熊野大神は従二位勲七等、杵築大神(出雲大社の大国主命)は従二位勲八等」というように大和朝廷においても熊野大社を第一位、出雲大社を第二位に取り扱っていたのでした。
それはなぜなのでしょう。
承和元年(834年)に成立した『令義解』(りょうのぎげ)と言う法令の説明書によると「出雲国造がまつる熊野大神は、イザナギノミコトの愛しい御子であり皇室とのつながりのあるアマツカミ(天津神)であるが、オオクニノカミ(大国主命)は国土を開いた神であっても皇室とはつながりを持たないクニツカミ(国津神)である」と記されています。
〇参考文献 「熊野大社」(熊野大社崇敬会 発行)














