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乙見神社   島根県大田市仁摩町馬路927


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乙見神社(おとみじんじゃ) 御由緒
   
   祭神 大己貴命
        延喜式内社
   境内社  大元神社
   例大祭  十月

玆に神は人皇五十代桓武天皇の御宇延歴元年九月晦志賀美山(城上山)に天降り神鎮り給いて後つとに沖行く船はこの山を仰いで海上守護神として崇敬篤かったと云う。

経ること幾星霜 寛文六年の頃 山上火災ありて社を山の北麓乙見の地に遷し社殿を奉建して乙見神社と称し奉った。その後、現在の社地に遷座し氏神として奉斎した。なお御祭神は福徳円満長寿の神として住民の信仰も篤く御神威誠にいやちこなるものがある。(説明板より)

※ 玆に…ここに  (つごもり)各月の最終日  幾星霜(いくせいそう)…どのくらいの年月が経っただろうか


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竜蛇さま

〝乙見神社はこの地方で一番古いだろうと言われている。出雲大社や佐太神社のように、南方より季節風にのってくる竜蛇を奉納する信仰がある。ここには今でもたくさんの竜蛇さんが祀られている。石見地方でこの信仰のあるのはこの神社だけで、たいへんめずらしいこととされている。〟(『高山と琴ヶ浜』(琴ヶ浜観光協会・仁摩町 発行 昭和42年8月6日)


大元信仰 

大元神社

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大元神社 説明板

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石見国と出雲国の違いは、大元神社を祀るか荒神社を祀るかの違いである。
大元神があると、石見国の神社だなあと思う。

神木に藁蛇を巻くところも似ているし、奉納神楽をするところも似ている。


高山と式内社

馬路の高山  
写真には見えないが、隣に城上山がある。近くに大江高山がある。


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初めてこの山を見た時、出雲国の出雲郡のカンナビヤマ仏経山を思い出した。形が似ているというより、鉄塔があったからなのかもしれない。(近頃、仏経山に鉄塔が見えない。)

しかし、この山もカンナビヤマであることには間違いない。

さて、ご由緒を見ると、乙見神社は志賀美山(城上山)」が元の神の鎮座地(つまり御神体山)であると書かれている。
しかし、『仁摩町誌』にはまた別のことが書かれている。志賀美山=高山であると。

〝命が船をうかべて四方を巡視された時、海上から遥かに志賀美山(今の高山)を見られて彼の地は可美地(うましところ、後 馬路と改む)といわれて船をこぎよせられた。その場所が今の友ヶ岩でここから上陸されて、志賀美山(高山・打歌山)に鎮まられた。〟(『仁摩町誌』昭和47年6月30日発行)



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国土地理院地図の一番上の赤丸が、乙見神社のあるところだ。


※ グーグルナビでは乙見神社まで到達できません。普通の民家にゴールします。馬路琴ヶ浜郵便局から南下し、JR下のトンネルをくぐって、出たら左の道を進み、さらに2つに道が分かれるので左側を選択し、国道9号線下のトンネルをくぐりそのまま真っすぐ行くと、乙見神社の鳥居が見えてきます。


高山の西側に同じくらいの高さの城上山がある。
式内社とあるが、城上神社だと思われる。一般的には、大森銀山の愛宕山に鎮座する城上神社(島根県大田市大森町イ1477)がその比定社ということになっている。ここの乙見神社も比定社だったのだ。

さて、大森の城上神社の社伝では、元はは石見国東海岸にある馬路の高山に鎮座していたとのこと。永享6年(1434年)に大内氏により、仁摩町馬路から大森町の愛宕山に遷ってきたそうだ。

── 山が御神体の場合(それ自体が神社の古さを証明していると思う。)その山の南北、あるいは東西で、その神体山を仰ぎ見る神社が発生する。松江の熊野大社が良い例で、熊野山(現在は天狗山)の東西で同じ神・熊野大神を祀る。これが山の麓の氏族の違いで、ばくぜんと山の神であったものが、人格神名が変わったりする。あるいは、男神、后神に転化したりする。

この「城上」であるが、大和の城上郡に由来するらしい、この城上郡は、磯城 ( しき )の上という意味。それで、大森の城上神社は大物主命を祀っているのかもしれない。しかし、これもいつの時代か、上書きされたものである。『角鄣経 石見八重葎』1817年)には、具体的に、大和の狭井神社を勧請などと書いてある。

※ 角鄣経 石見八重葎(つぬさはう いわみやえむぐら)は、江戸時代の石見の地誌。

さて、乙見神社がもともと鎮座していた志賀美山は城上山なのか、馬路の高山なのか、いったいどちらなのだろう?と思ってインターネットで検索していたら、「石見銀山通信」のブログ( 石見銀山通信 まだまだわからん石見銀山 第107話 城上神社の謎(二)に、「城上神社が馬路の高山に鎮座していたときには、その高山は城上山といわれていました」とあった。

高山と城上山の名前が入れ替わったのだ。
これでひとつ謎が解けた。


乙見神社の名前

出雲大社の近くに2つの乙見神社の名前が見える。ひとつは、出雲大社の境外摂社で、式内社「大穴持御子玉江神社」の比定社であり、下照姫命を祀っている。元は、菱根池の入江の南、入南村(にゅうなんむら)にあったらしい。玉江=菱根池のようだ。大社ワイナリーがある辺りだ。
もうひとつは、そこの菱根池にあった場所の神社である。つまりは元はひとつの神社から発生していることになる。

また、物部神社の境内社で、乙見神社がある。祭神は、出雲醜大臣(いずもしこおおおみの)命と真鳥姫との間に生まれた三男、三見宿禰命である。しかし、これは乙=弟の「見」の神を祀っているのではないだろうか。(隣に兄の六見宿禰命を須賀見神社に祭っている。)


どういう意味があるか、古語辞典で調べるが、載っていない。地名で言うと、愛知県の額田郡の村名などや京都や大分に出てくる。

大田市の乙見神社は、現在の社地が乙見山の麓だから乙見神社であるが、もしかすると、元は高照姫命であったかも。
高照姫命の高から高山なんじゃなかろうか?(単なる空想です。)

高照姫命 なんじゃそら?とお思いの方はこちらの記事を → 高照姫命と出雲族

高照姫命であれば、大和の磯城 ( しき )族とも関連性はあると思う。 → 初期ヤマト王権と出雲族
だが、これにしたところで、いつの時代に上書きされた話なのかわからない。
元は、志賀美山なのだから。

祭神は時代によってコロコロ変わるので、祭神から古代を考察すると真実から遠くなると思う。


『角鄣経 石見八重葎』の記事

『角鄣経 石見八重葎』(1817年)には、ここの乙見神社についても書かれていた。


〝乙見大明神 (除地壹石五斗)
   大和国乙見郡之神社天大玉神社鎮座仕玉フ〟

なんと大和国の「乙見郡」の天太玉命神社に由来するとは。天太玉命神社といえば、忌部氏。
しかし、天太玉命神社が鎮座するのは、「高市郡」であり、乙見郡」という地名は大和のいつの時代も調べても出てこない。

乙見神社になったのは、深い意味などなく、単純に乙見山に移って鎮座したからだと思われる。

関連記事 ⇩ 馬路の伝承をまとめています。






# by yuugurekaka | 2023-10-05 12:20 | 石見国 | Trackback | Comments(0)

鬼村と五十猛命


鬼岩 島根県大田市大屋町鬼村

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何年か前に訪れたけれど、
ここの鬼岩の場所がわからなかった。

今は、グーグルマップのナビがあるので間違わず行けた。

この鬼岩だけど、形が鬼を彷彿させるから鬼だと思い込んでいたけれど間違いだった。鬼が朝までに城を造らせてほしいと、観音さまから許しが出てとりかかるのだけれど、夜が明けてしまったので、途中で放棄した岩が鬼岩なんだそうだ。鬼の指を入れた5個の穴が、鬼の指を入れた跡だとか。 詳しくは⇒ 日本遺産 『鬼岩』


ここの現在の地名が、大田市大屋町鬼村。大屋町の「大家郷」は、平安時代の和名類聚抄に載っている古代地名であり、大屋姫命に由来する。

ちなみに西には、平安時代大国郷であった大国という地名が現存する。

北に隣接しているのが、五十猛町(いそたけちょう)。そう、素戔嗚尊の御子である五十猛命の名前である。

鬼と思うと、五十猛命が思い浮かぶ。

奥出雲の横田町に、鬼神神社があり、なぜだか、五十猛命のお墓があるのだ。⇒ 鬼神神社の謎


鬼が五十猛命なのか、それとも鬼を退治した軍神イタテ神として五十猛命を祀っているか定かではないけれど、鬼と関係していると思われる。

富家伝承本を読んでいたら、大屋町の大歳神社のことが書いてあった。

〝大屋姫は、イソタケにサイノカミ信仰を教えた。

サイノカミは、「正月祭りの神・大年神」でもあったから、イソタケルは「大年神」の信者になった。

イソタケルは成長すると、大屋の東部に屋敷を建てて移り住み大年彦と名のった。

それでそこに住むハタ族たちも、サイノカミの教えに従うようになった。

のちにそこには、大歳神社(大屋町鬼村)が建てられた。〟(富士林雅樹 著 『出雲王国とヤマト王権』大元出版 122ページ) 


※なお、同書では、大屋姫命は五十猛命の妹ではなく、后であり、味鋤高彦根命の娘となっている。

大年神社 島根県大田市大屋町鬼村681

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また、小椋一葉著『消された覇王』が引用されていた。


〝地名鬼村が示すように、この地は昔、荒振る者の巣窟だった。それをオオトシが平定し開化の里としたので、この里の開祖神として祀った。〟( 小椋一葉著『消された覇王』 河出文庫 )







# by yuugurekaka | 2023-09-29 16:29 | 石見国 | Trackback | Comments(0)

朝ドラの南方熊楠氏 



あいみょんの主題歌ですが、最初はちょっと変わった曲だなあと思っていた。
違和感を感じつつも、主題歌も半年も聞くと、これは名曲だと思えてきた。


朝ドラを毎朝観ている。

半年でも、なかなか見続けるというのは大変である。
主人公に肩入れして観る気にさせるのも、脚本家次第なのかもしれない。

あくまでも、牧野富太郎氏をモデルとした創作で史実とはちょっと違うようである。
牧野富太郎氏の業績もさることながら、スエちゃんの働きには驚く。
史実では、スエちゃんは13人子供を産んで、9人育てたらしい。
私の祖母も9人育てたから、そういう時代と言えばそうなのかもしれないが。


さて、朝ドラも終盤だけれど、今、南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の神社合祀反対運動のことをやっている。
ドラマで南方熊楠は登場するかわからないが、史実では、牧野富太郎とはすれ違いで会ってはいないそうだ。

南方熊楠氏の神社合祀反対運動であるが、自然保護という観点だけではなくいろいろな主張がある。

文体が明治時代のものなので、読みづらい。
Wikipediaに観点がまとめてあった。

〝①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅する

図書館に南方熊楠全集があって、読むと、いつもため息がでそうになる。文体のせいだと思っていたが、それ以上に、知識が充満して、話があっちゃこっちゃして、自分の無知度が増幅してしまい、頭がショートしてしまうのだと今日気づいた。「博識」の度を超えている。


さて、その神社合祀であるが、明治政府は初期から、神社の再編をしている。今回の神社合祀の再編は明治の終わり(明治39年の第一次西園寺内閣)頃の話だ。10年足らずの間に、約20万社あった神社の約3分の1が消滅したそうである。

我々は、その明治に再編された神社を見ているのであり、自分も古代の足跡を見ている気になっているのを戒めないといけない。



# by yuugurekaka | 2023-09-17 22:37 | 日記 | Trackback | Comments(0)

高瀬川の最上流

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高瀬川の水の取り口である来原岩樋である。土木遺産となっている。
ここから斐伊川の水を取り入れて出雲市内へと高瀬川が伸びている。

つまり高瀬川は、人口の水路である。


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ここの説明版によると、来原岩樋をつくるのあたって、慶長18年(1613年)に本田久兵衛さんが岩樋を敷設して、初代大梶七兵衛さんが貞享4年(1687年)に高瀬川の取り口として、汗入樋(木樋)を作ったが、長くはもたず、三代目の大梶さん(忠左衛門麻朝則さん)が元禄13年(1700年)に岩樋を開削を完工したという。何代にもわたる大事業だなあ。

高瀬川を掘った大梶七兵衛さんの像
高瀬川の上に像が建てられていた。

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江戸時代の話が延々とつづき何?と思われるだろうが、
来原岩樋の場所が、出雲神宝事件の舞台地、止屋の淵の伝承地だから。

ここに伝承地の阿世利池があった。その池の西側には、杓子山があり、式内社 阿須理社が鎮座していたようだ。

ある本によると、斐伊川の砂が流れ込んで、止屋の淵であるところの阿世利池が埋まって消滅したそうだ。

水神様と荒神さんの祠がある止屋の淵伝承地


西出雲王国の滅亡は、もしや斐伊川の氾濫?_e0354697_12393346.jpg


出雲王の墓と言われる西谷墳墓群がすこぶる近いということに、3度目の訪問で初めて気づいた。なんで気づかなかったのだろう。

西谷墳墓群の前の弥生の森博物館へ行ってみた。
「出雲平野の開発を始めた弥生人」の特設展示(10月23日まで)をやっていた。

鉄製の農具とか木彫りの脚付合子(ごうず)とか弥生時代の村の技術力に驚いた。
ああいう展示品はいっぺん見てもさっぱり。その意味するところがなかなかわからない。

西谷墳墓群を支えた出雲市内の弥生の村は古墳時代前期には消滅したともある本には書かれていた。
前期古墳は、西出雲では全く作られなくなった。

ある歴史家の説では、このころ、西出雲の王国(原出雲王国というらしい)、物部氏に滅亡されたという。
だったら、物部氏の巨大な前方後円墳が出雲市内にあってもいいだろうと思うが無い。(1基ぐらいあっても良い気がする。)

斐伊川・神門川の氾濫で、弥生時代に村が消滅して、拠点を移したとは考えられないだろうか。

東出雲がヤマト王権と結びついて西出雲を滅ぼした(井上光貞説)というが、
東出雲の墳墓のある場所も、飯梨川流域(弥生時代・前期古墳)⇒大橋川流域⇒意宇川流域(山代・大庭)と移動していると言われている。

斐伊川の川上へと拠点を移動させた(三刀屋の松本古墳群など)とも、考えられないだろうか。
日本書紀の記事がどこまで現実を反映しているのだろう。

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# by yuugurekaka | 2023-09-16 13:51 | 日記 | Trackback | Comments(0)

高麻山 【 青幡佐久佐日古命 】_e0354697_11343683.jpg

加茂町と大東町の間の山 高麻山(たかさやま)です。195mあります。


『高麻山。古老の伝へていへらく、神須佐能蓑命の御子、青幡佐久佐日子命、是の山の上に麻蒔き殖ほしたまひき。故、高麻山という。即ち、此の山の峯に坐せるは、其の御魂なり』

つまりカンナビヤマです。

吉野裕子氏の説によれば、カンナビヤマは、蛇がとぐろをまいた姿の山がなりやすいとのこと。
確かにこの山も、その条件に合致しています。


高麻山は安山岩の岩石でできてお り、噴出地形だそうな。

高麻山の麓には、風土記の時代の郡家よりも前の時代の郡家があったのではないかとも言われています。

青幡佐久佐日子命は、八重垣神社の宮司家や出雲大社の上官家のご先祖です。

風土記には、スサノオのミコトの御子となっていますが、江戸時代の出雲国造家文書や、雲陽誌では、そうは言っておらず、稲田姫命の末裔と名乗っています。
なんでだろう?
元々住んでいた母族の末裔とする意味はなんででしょう。


高麻山の麓というべきか、馬鞍山 (まくらやま)の麓というべきか、幡屋神社のご由緒を見ると、阿波忌部が関係しているのではないか?と思わせる内容が書いてあります。

そうかあ、麻で機をおるから、青「幡」佐久佐日古命なのか。

幡というとすぐ秦氏を思い浮かべて、すぐ「渡来人」にむすびつける本が膨大にあるけれど、それも違うのではないか。
阿波忌部という部民の中に、渡来人も採用されていたのかもしれないが、すべて渡来人みたいに言うのはどうなのでしょう。

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# by yuugurekaka | 2023-09-15 12:14 | 出雲国風土記 | Trackback | Comments(0)