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素戔嗚尊の墓

鰐淵寺と素戔嗚尊のことを調べていたら、素戔嗚尊のお墓の伝承地が鰐淵寺近くに2箇所あることがわかりました。
佐田町の須佐神社ではなくて、なんで鰐淵寺なんだろうなと不思議な感じがします

韓竈神社遥拝社 島根県出雲市唐川町207


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唐川町の韓竈神社 遥拝社の裏側の茶畑のところに、素戔嗚尊のお墓がありました。

どこにあったか、私有地なので勝手に入る訳にもいきません。
そばで畑を耕している方に案内してもらって、その墓跡を教えてもらいました。

そこには、脛骨が埋まっていたそうな。身の丈は脛の骨から推し量って、八尺(約242cm)に達しただろうという話です。

今は、墓は無く、その骨は別所の摩多羅神社に納められているとのことです。唐川というのが、摩多羅神の本貫地であったらしい。

摩多羅神は、天台宗のお寺につきものの神であるが、なぜ出雲国では、素戔嗚尊=摩多羅神になったのでしょうか?
摩多羅神も大黒天と習合する場合もあるから、大国主命でも良かったのだと思いますが・・・。

中世の神仏習合した神が、牛頭天皇や新羅明神など素戔嗚尊と同体していく世の中の流行が関係しているのか、あるいは、そもそも杵築大社の祭神が、素戔嗚尊に変わったからそれに合わせて摩多羅神が素戔嗚尊になってしまったかもわかりません。

摩多羅神社  島根県出雲市別所町

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鼻高山(はなたかさん)

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江戸中期の『雲陽誌』には、鼻高山の北側の(写真の向こう側が北)熊成嶽が、葬地だったことが書かれています。

〝飛瀧社の絶頂を熊成の嶽といふ、八葉の其一なり、弥山ともいふ、素戔嗚尊を葬たてまつるといえり、神書に熊成の嶽に神去りますといふもしかなり、故に素戔嗚尊を山上にまつりて摩多羅神と崇敬す〟

※飛瀧社は、おそらく浮浪(ふろう)の滝 蔵王権現を祀る蔵王堂のことだと思われます。
※出雲大社近くの「弥山」とは違います。





# by yuugurekaka | 2025-06-20 18:13 | 神社探訪 | Trackback | Comments(0)

今まで参拝したけれど、その神社の概要がよくわからなくて、記事にしなかったものも多いです。
乙見神社もその一つ。乙見神社の写真は、2015年の12月頃のものです。10年も経ってしまいました。

奈良時代には、出雲大社(杵築大社)の前には、神門水海という大きな湖が横たわっていました。さらに、その北東には、菱根池という大きな池がありました。

島根県立古代出雲歴史博物館の展示物に赤丸を書き入れました。赤丸の所が菱根池です。


乙見神社 島根県出雲市入南と菱根池_e0354697_18233938.jpg

現在は江戸の初期(1616年)から、埋め立てられており菱根池はありません。当時は斐伊川が宍道湖ではなく、菱根池に流れていました。
菱根池の入江の南だから、入南という地名だそうです。

修理免の乙見社(おとみのやしろ)

大穴持御子玉江神社(通称 乙見社) 島根県出雲市大社町修理免920
祭神 下照姫命

乙見神社 島根県出雲市入南と菱根池_e0354697_18470021.jpg

大社町修理免にある大穴持御子玉江神社(通称 乙見社)という出雲大社の摂社であり式内社です。
千家俊信の『式社考』によれば、玉江とは、菱根池のことで、入南にあったけれど、寛文(1661年から1673年)の頃今の地に遷ってきたそうです。

入南(にゅうなん)の乙見社
乙見神社 島根県出雲市大社町入南360
祭神 下照姫命 配祀神 大年神

乙見神社 島根県出雲市入南と菱根池_e0354697_18505784.jpg

修理免の乙見社が、入南から遷ってきたとあるのに、入南にも乙見神社があります。遷った後に建てられたのかしら?


『神国島根』から、由緒を見てみます。

由緒沿革

元当社境内に、乙見神社、大年神社、厳島神社の三社鎮座ありしが、その一社厳島神社が天正三年五月九日八島村の氏神として遷された後、大国主命の御女下照姫命を祀る大歳神社を合祀して、〝乙見神社〟と称し、明治五年三月村社に列せられた。然し、明治八年十月遷宮の際、棟札、古證書等悉く何者かに盗まれ、由緒を詳しくし得ないが雲陽誌に「中井駿河守綱家永禄三年神田寄附せり」とあり、要するに創立年代は、元亀・天正以前の勧請なることは確実である。

修理免の乙見神社との関係は全く書かれていません。

永禄三年は、1560年です。この時代には、修理免の乙見社は、まだ入南にあり、遷っていません。
これは、修理免の乙見社に与えられたものなのか、それとも入南に2つの乙見社があったんでしょうか?

「元亀・天正以前の勧請」とあります。元亀は、1570年から1573年です。しかし、修理免の乙見社の後継ならば、奈良時代以前の神社ということになるので、元亀・天正以前の勧請などという必要はありません。寛文(1661年から1673年)に入南から修理免に遷宮したというのが間違いなのか、後から別の神社が、創立されいて、後に同じ「乙見神社」を名乗ったということなのでしょうか。

入南の乙見神社 本殿

乙見神社 島根県出雲市入南と菱根池_e0354697_19241346.jpg


境内の社稷神(しゃしょくしん)

乙見神社 島根県出雲市入南と菱根池_e0354697_19251290.jpg

社稷は、中国の国家祭祀で、社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称とあります。( → Wikipedia 社稷 

大社町の方では、「社日さん」とも呼ばれるらしいですが、中世の千家家文書に「天下社禝の神素戔烏尊これなり」というのがあるので、開拓神として素戔嗚尊を祀ったのではないでしょうか? 私の想像です。





# by yuugurekaka | 2025-06-16 19:36 | 神社探訪 | Trackback | Comments(0)

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出雲大社の本殿の西側には2つの氏社(うじのやしろ)があります。

氏社のひとつ 祭神 天穂日命
記紀神話に、大国主命を祭祀する神様として登場。高天原から派遣された神様です。
しかし、大国主命は、天穂日命の祖先ではありません。
出雲国造家の祖神です。

出雲国造家系譜と出雲臣宮向 _e0354697_18222589.jpg

その隣にもう一つの氏社
祭神 宮向宿禰
出雲国造家の17世らしいです。
出雲臣姓を賜った時の、国造と書かれていました。

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出雲国造家系譜

始  祖 天穂日命
第 2世 武夷鳥命(たけひなどり)
第 3世 伊佐我命
第 4世 津狭命
第 5世 櫛瓺前命(くしみかさき)
第 6世 櫛月命
第 7世 櫛瓺鳥海命(くしみかとりみ)
第 8世 櫛田命
第 9世 知理命
第10世 世毛呂須命
第11世 阿多命  別名 出雲振根
第12世 氏祖命(おほし)—初代出雲国造  別名 鵜濡渟(宇迦都久怒)
第13世 襲髄命(そつね)—野見宿禰・・・相撲の元祖 
第14世 來日田維命(きひたすみ) 別名 岐比佐都美
第15世 三島足奴命(みしまそまぬ)
第16世 意宇足奴命(おうそまぬ) 別命:游宇宿禰
第17世 国造出雲臣宮向  出雲姓を賜わる
第18世 国造出雲臣布奈
第19世 国造出雲臣布禰
第20世 国造出雲臣意波久
第21世 国造出雲臣美許
第22世 国造出雲臣叡屋
第23世 国造出雲臣帯許
第24世 国造出雲臣千国
第25世 国造出雲臣兼連
第26世 国造出雲臣果安  松江市大庭町より杵築の地(出雲大社のある地域)に移る
第27世 国造出雲臣広島  出雲国風土記 編纂責任者 

この出雲国造家家譜については、神門臣系─大国主命、向家(富家)系─事代主命、出雲国造系─天穂日命が混合した系図だと思われます。

通説では、純然たる出雲国造家の家譜で、出雲姓は出雲国造家のもので、出雲臣=出雲国造家であり、神門臣家も富家も出雲国造家の分家と書かれている本をよく見ます。

しかし、富家伝承本によると、出雲臣は出雲国造家が賜ったものではなくて、富家(向家)が賜ったもので、「3世紀以後は、ホヒ家に出雲臣の苗字を使うことを富家が許した」のだそうです。なお、ホヒ家の甘美韓日狭が向家の姫を迎えて親戚になったとのことです。( 斎木雲州著『─大社と向家文書─ 出雲と蘇我王国』大元出版

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# by yuugurekaka | 2025-06-08 19:16 | 富家伝承 | Trackback | Comments(0)

今年初めての出雲大社の参拝です。
出雲御崎山(北山)東部の神社や素戔嗚尊の墓跡を見に行っていたら夕方になってしまいました。
夕方は、参拝客がほとんど少ないのですね。
夕暮れの出雲大社 【祭神が大国主命にもどった時期】_e0354697_17584854.jpg

夕方になると、本殿の周りをぐるりと回ることはできませんでした。

夕暮れの出雲大社 【祭神が大国主命にもどった時期】_e0354697_18023665.jpg

拝殿前の4の鳥居である銅門は、毛利輝元の孫である毛利綱広によって寛文6年(1666)に寄進されたものです。
毛利藩の鋳物師(いもじ)により長州阿武郡(あぶぐん 現在の山口県萩市)で造られたものだそうな。

この鳥居には「素戔嗚尊雲陽大社神也」と銘文が刻まれています。

夕暮れの出雲大社 【祭神が大国主命にもどった時期】_e0354697_18091832.jpg

中世は、出雲大社(杵築大社と云いました。)の祭神は、大国主命ではなく、素戔嗚尊が祭神でした。

ですが、この銅の門には、寛文6年(1666年)との記名がありますので、江戸の初期(中期かもしれないが)です。祭神が大国主命にもどったのは、寛文7年(1667年)の造営遷宮が契機だったと言われています。

となれば、一年遅れて銅門が造られたなら、大国主命と祭神が書かれた「可能性」もあります。

なんで、この時期に神仏分離が行われ、祭神が大国主命にもどったのでしょう。中世の神宮寺の鰐淵寺の力が衰えたのかもしれませんが、江戸国学の流れにあったかも?と頭がよぎりました。

国学の隆盛は、本居宣長をはじめ、江戸中期と言われますが、その勃興、源流は、江戸初期に既にはあったように思います。
寛文6年(1666年)には、水戸藩(水戸光圀)では、神仏分離など社寺改革が行われました。同様に時同じくして、岡山藩、会津藩などでも、寺社の改革が行われたようです。

万葉集や古事記の世界に今一度立ち返るならば、祭神を大国主命に戻すしかありません。



# by yuugurekaka | 2025-05-30 18:53 | 神社探訪 | Trackback | Comments(0)

有名な韓竈(からかま)神社を参拝したところが、唐川町の中心集落と思っていましたが、ここではありません。
唐川町の中心集落には、素戔嗚命のお墓跡もありますし、斐代(ひしろ)神社という式内社の比定社もあります。

斐代神社に行ってみました。Googleマップに表示があれば、Googleの道案内で正しくたどり着けるようになりました。
ご親切に、表示板が出ていました。赤い目印の所を登って行けばいいんだな。(土手の上)


斐代神社 島根県出雲市唐川町158_e0354697_17181526.jpg

私は、ここで間違えて真っすぐ行ってしまいました。民家の前に行ってしまいます。右側を登って行かないとなりません。


斐代神社 島根県出雲市唐川町158_e0354697_17194178.jpg

害獣侵入防止の柵に出合いました。山間部の神社には良くあります。カギを開けさせてもらって入ります。


斐代神社 島根県出雲市唐川町158_e0354697_17234505.jpg

鳥居が見えました。おじぎをして入っていきます。


斐代神社 島根県出雲市唐川町158_e0354697_17251890.jpg

ありました!想像していたよりも、登ってすぐのところでした。山の中を深く入り込むものだと思い込んでいました。


斐代神社 島根県出雲市唐川町158_e0354697_17274131.jpg

そばに小さな滝があります。八王子滝というらしいです。


斐代神社 島根県出雲市唐川町158_e0354697_17284910.jpg

拝殿の前で、柏手を打って拝みました。瀧とか磐座とか、古代の人はそこで神を感じたのですね。


斐代神社 島根県出雲市唐川町158_e0354697_17295224.jpg


登り口に表示してあった由緒記です。

〝斐代神社(ひしろじんじゃ)由緒記 

鎮座地 出雲市唐川町丹田1012~3
    八王子滝の横に鎮座

御祭神 味鋤高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)

祭日 例祭日4月16日

由緒・沿革
出雲国風土記(733)に、斐提の社と記されているのは当社のことである。
平安時代の延喜式(927)には、斐代神社と記されている。
江戸時代の雲陽誌(1717)には、八王子権現と記載され、「社二尺五寸四方、東向き、古は祭日も定めてありつれども、中古より絶えて今は祭祀の規式もなし」と記載されている。
祭神の味鋤高彦根命の「あじすき」とは、切れ味の良い鋤の意味で農耕の守り神である。明治42年3月韓竃神社に合祀、されど昭和13年4月韓竃神社の境内社として旧来の現在地に移転した。

八王子権現だということは、鰐淵寺の影響でそれが上書きされたんだろうか。というか他の神社も、ほとんど、江戸時代の神社は、権現さん。


〝八王子権現(はちおうじごんげん)は近江国牛尾山(八王子山)の山岳信仰と天台宗・山王神道が融合した神仏習合の神であり、日吉山王権現もしくは牛頭天王(ごずてんのう)の眷属である8人の王子を祀った。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の八王子社で祀られた。三十番神の1神。

八王子とは、〝日吉山王権現、あるいは牛頭天王の8人の眷属神(相光・魔王・俱魔良・徳達神・良侍・達尼漢・侍神相・宅相神のこと。〟ともあります。「あるいは」わかりにくいです。

それが、なぜ現在の味鋤高彦根命なのでしょう。出雲御埼山(現在の北山)の南側の(斐代神社は北側)都我利神社も八王子権現と呼ばれ、現在味鋤高彦根命を祀っています。

滝のすぐそばだから、多岐津彦命(味鋤高彦根命の御子)もありかなと思いました。






# by yuugurekaka | 2025-05-22 17:57 | 神社探訪 | Trackback | Comments(0)