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弥山さん

埋められた菱根池や大社町周辺の田を見守っているかのように見える弥山(みせん)です。標高は506メートルの山です。

出雲市大社町付近の社稷神 (3) 弥山(みせん)さん_e0354697_19170348.jpg

子供のころからこの山を見ているけれど、いかにも出雲大社の神山というような雰囲気です。
この山の西の麓に出雲大社が鎮座しています。(ちなみに出雲大社の真後ろの山は、八雲山です。)

『出雲国風土記』(733年)に書かれる神山─出雲御埼山(いづもみさきやま)は、この弥山だけを言うのではなく、日御碕から旅伏山までの北山山系を出雲御埼山と言われていますが、この山こそが、出雲御埼山であるという説もあります。

民俗学者の白石昭臣著『島根の地名考』によれば、

〝みせんのみは御に通じる神聖の意、せんは神霊の宿る山の事。この山も霊山として存在してきた故に山頂には社があり、また出雲市高松からその北方一帯の七十才以上の古老は「死んだら弥山さんにいく」ともいうのであろう。〟ともあり、「菱根池」の項目のところでは、

〝北に出雲大社の元宮とされる御山神社の鎮座する弥山がそびえる。〟とあります。

御山神社(みせんじんじゃ)が出雲大社の元宮?と、びっくりするようなことが書いてありますが、そういう伝承は私は聞いたことがありません。古い神社は、熊野大社のように、天宮山(元 熊野山)の頂上付近に元宮の磐座がありますが、そのような観点からの話なのかもしれません。

弥山の頂上付近の西側には、御山神社がありますが、東側には江戸時代までは、彌山大権現が祀られていました。(現在は、松林寺の境内に祀られています。

御山神社
大社町遥堪(ようかん)の阿須伎(あすき)神社境内には、「神体山出雲御山神社」の遙拝所があります。阿須伎(あすき)神社の西北に、弥山があります。

「神体山出雲御山神社」の遙拝所 島根県出雲市大社町遙堪1473番地

出雲市大社町付近の社稷神 (3) 弥山(みせん)さん_e0354697_19241093.jpg

御山(みせん)神社は、農業信仰では、御利益がある神社として、有名だそうです。
昭和7年2月から昭和8年6月に島根県農会報に連載された文章をまとめた『島根県農会の郷土誌』の『彌山さんの雨乞ひ』(上野久在衛門)の文章を読むと、いかに信仰が盛んだったかがわかります。

〝祭神は大國主命を主神とし素戔嗚命、猿田彦神、軻遇突智神、少彦名命、級都邊命、級津彦神が合祀されている。…中略…当六月晦日の水無月祭を見よ、遠く能義、飯石、八束、仁多、簸川よりの参拝者は踵を按し其数は一万に垂んとする程である。…中略…国家社稷の安寧、一家一郷の幸福を祈って下山するのである。…後略…〟

祭神

ここに書かれている祭神ですが、『神国島根』(昭和56年)では、「素戔嗚命外六座」となっています。

しかし、『神門郡(簸川郡)神社明細帳』によると、

〝伊弉諾尊、伊邪那美尊、田心姫、湍津姫、市杵島姫、大國主神、幸魂奇魂〟となっており、

由緒を見ると
〝御山神社ハ天ノ神伊弉諾尊、伊邪那美尊両神ヲ始メ祭リ寛文六年度田心姫 市杵島姫 市杵島姫三女神 大國主神 幸魂奇魂五座ヲ合セ祭リテ二社トナリ而テ延宝八年八月二社ヲ合セ一社ニ祭リ〟とあります。

明治初期から昭和にかけて祭神が変わったとしか思えません。
この由緒を信じるならば、江戸時代には、国土創世神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊邪那美尊両神(いざなみのみこと)を祀っていたのだと思われます。

となれば、国家神つまりは、社稷神を祀っていたのでしょう。社稷には、「土地と食べ物」という意味の他に、「国家」と言う意味があるのです。

中世の出雲大社(杵築大社)の文書には、「天下社禝の神素戔烏尊」の文言もあります。⇒ 中世には出雲大社の祭神が、大国主命から素戔嗚尊に変えられたのはなぜか?

彌山大権現
代々の出雲国造の御墓がある大社町の松林寺の境内に彌山大権現(みせんだいごんげん)を祀る社があります。

彌山大権現 島根県出雲市大社町杵築東625

出雲市大社町付近の社稷神 (3) 弥山(みせん)さん_e0354697_19245377.jpg

御神体は、御影石に刻まれた阿修羅像と二体の地蔵尊で、元は、弥山大権現として弥山の山頂に祀られていました。
明治の初めの廃仏毀釈によって、境内にあった弥山遥拝所に降ろされました。
その遥拝所の老朽化に伴い、現在の場所に祀られたそうです。

寺伝には「弥山大権現は、天之御中主(あめのみなかぬし)大神、高皇産霊(たかみむすび)大神、神皇産霊(かみむすび)大神、つまるところ大日如来であり、真言宗の宗祖弘法大師がその像を刻まれて弥山山頂に祀られ、土難、水難、火難を断つあらたかな霊験をもって人々の崇敬讃仰を受けてこられた」と伝えられているそうです。

参考文献:『大社の史話 第149号』 馬庭孝司著『出雲御埼山・弥山さん』

天之御中主大神、高皇産霊大神、神皇産霊大神、これまた「造化三神」と呼ばれる根源神が祀られていたということです。
この神々もまた社稷神とも呼べなくもない。

おそらく、弥山さんに見守れた田畑の地域は、弥山さんを社稷神として、社日碑に表したのではないでしょうか。あくまで、私の想像です。

終わり


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# by yuugurekaka | 2025-08-17 21:46 | 菱根池 | Trackback | Comments(0)

遥堪の阿須伎神社

阿須伎(あすき)神社 本殿 島根県出雲市大社町遙堪1473 
祭神 阿遲須伎高日子根命


出雲市大社町付近の社稷神 (2) 社稷神は社日碑なの?_e0354697_16551100.jpg

菱根池の干拓に近接する神社に社稷神(しゃしょくしん)があるかの続きです。遙堪(ようかん)地区は、菱根池の北部でした。

阿須伎神社境内にも「社稷神」がありました!
説明板には、「家と村の発展と農業を守る神  社稷神 (農は國の基なり)」とありますが、
これには、中央に天照皇太神、右から大己貴神・稲倉䰟神(倉稲魂命)・土御祖神・少彦名神と刻まれています。
しかし、これ、社日碑(社日塔)ではないですか。社日神社ともいいます。


出雲市大社町付近の社稷神 (2) 社稷神は社日碑なの?_e0354697_16564224.jpg


一般的な社日碑


社日碑については、こちらのサイトが詳しいです。⇒ ひっそり佇む、謎の五角柱!?
もしかして、出雲市大社町近辺では、社稷神と社日塔は同じものになったのでしょうか。

一説によると、江戸時代に大飢饉が起こったことから、中国の祭祀を日本で農耕向けに取り入れ、その方法を提唱した書籍、天明元年(1781年)『神仙霊章春秋社日醮儀(しんせいれいしょうしゅんじゅうしゃじつしょうぎ)』(天明元年)に書かれたことから普及したそうです。つまり、江戸時代の終末期から明治時代初期に作られたようです。

出雲地方の社日碑は、一般的には五角柱に「天照皇大神、大己貴命、稲倉魂命、埴安媛命、少彦名命」と刻まれる場合が多いです。

温泉神社の社日碑 島根県雲南市木次町湯村1060

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遥堪にもうひとつ道路上に社日碑があります。慶応4年(1868)6月と記されています。
社日碑の起源は、古くは無く、明治維新前後ということになります。

社日碑 島根県出雲市大社町遥堪1246
これも中央に天照皇大神の名前が書かれています。読みづらいですが、他の4柱の名前が書かれています。


出雲市大社町付近の社稷神 (2) 社稷神は社日碑なの?_e0354697_17291842.jpg

次に菱根稲荷神社の境内に行ってみました。
ここの社日碑は、天照皇大神宮 と書かれていました。伊勢神社かも?しれませんが・・・たぶん、社日碑だと思います。

菱根稲荷神社の社日碑
明治14年と彫られていました。

出雲市大社町付近の社稷神 (2) 社稷神は社日碑なの?_e0354697_17440698.jpg

そういえば、前回の訪問した島根県出雲市江田町の恵比寿神社の社稷神ですが、『神門郡(簸川郡)神社明細帳』には、〝社日社…石造 高サ五尺 明治二年建造〟とありました。

そうなんです。そんなに古いものではないんですね。だから、直接菱根池干拓(江戸時代初期)と直接関係するものではないのです。
しかし、なぜ大社町近辺の社日碑には、「社稷神」と彫るのでしょう?

続く


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# by yuugurekaka | 2025-08-15 13:13 | 菱根池 | Trackback | Comments(0)

弥山と一畑電車の踏切  鑓ヶ崎  


出雲市大社町付近の社稷神 (1) 菱根池の干拓に関係していないか_e0354697_21220954.jpg

三木与兵衛が、最初 菱根池の水を抜こうと堀った菱根川(古川)を探していたとき、一畑電鉄浜山公園北口駅で、社稷神(しゃしょくしん)の石碑を発見しました。

一畑電鉄浜山公園北口駅の社稷神の石碑 

出雲市大社町付近の社稷神 (1) 菱根池の干拓に関係していないか_e0354697_21203081.jpg

入南(にゅうなん)の社稷神を見た時は、富家伝承本に書いてある秦族の渡来をイメージする中国由来の神が古来から、この社稷神があったかのように私は考えましたが、浜山公園北口駅の社稷神を発見した時は、これは江戸時代初期の菱根池に関連したものではないかと直感的に考えました。

乙見神社の社稷神

出雲市大社町付近の社稷神 (1) 菱根池の干拓に関係していないか_e0354697_19251290.jpg

〝出雲市入南の乙見神社境内には、ハタ族の子孫たちが拝んだと言われる「社稷神」と彫られた石碑が建っている。それは有史以前とも見なされる古い中国の神であった。すなわち、王の禹(う)が土地の神を「社」と名付けてまつり、周の祖先の后稷が五穀の神をまつった。后稷の名により、「稷の神」と呼ばれた。社稷神は両方を兼ねる神である。〟(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版)

中国由来には間違いがないけれど、菱根池を干拓したことで、土地の神に祈り、五穀豊穣を祈った石碑なのではないでしょうか。
その仮説をもとに、菱根池干拓に関係した神社に、「社稷神」の石碑がないか調べてみました。

まずは、菱根池に関連する場所です。入南、八島、江田、常松という地名があります。
島のように描かれていますが、元は菱根池に浮かぶ小島だったのです。

西北部開拓関係図  石塚尊俊 著『出雲平野とその周辺 生成・発展・変貌』/発行 川上正夫 より

出雲市大社町付近の社稷神 (1) 菱根池の干拓に関係していないか_e0354697_12234275.jpg

まず、八島の「厳島神社」に行ってみます。昔菱根池の中の島だったから、厳島神社が勧請されたのでしょう。

厳島神社 島根県出雲市八島町400番地 

出雲市大社町付近の社稷神 (1) 菱根池の干拓に関係していないか_e0354697_21300246.jpg

境内を見ましたら「社稷神」ありました! 


出雲市大社町付近の社稷神 (1) 菱根池の干拓に関係していないか_e0354697_21340471.jpg


さて、次は、江田町の恵比寿神社です。

恵比寿神社 島根県出雲市江田町161

出雲市大社町付近の社稷神 (1) 菱根池の干拓に関係していないか_e0354697_21565624.jpg

ここにも、やっぱり 「社稷神」ありました!
歩いていたら日が落ちて、少し手ぶれ写真になっています。
※ 『神門郡(簸川郡)神社明細帳』には、〝社日社…石造 高サ五尺 明治二年建造〟とあり。社日社なのですね。


出雲市大社町付近の社稷神 (1) 菱根池の干拓に関係していないか_e0354697_21592384.jpg

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# by yuugurekaka | 2025-08-09 22:09 | 日記 | Trackback | Comments(0)

出雲市大社町の堀川

三木与兵衛が、江戸時代の初期に菱根池の干拓をするために、水抜きのための堀川の開削を行いましたが、現代の堀川をたどっていきます。インターネットや本では、違う固有名詞が記載してあるので、頭が混乱します。その整理のための記事です。

菱根池と古代史との関連は、別サイトで展開しています。⇒ 菱根池と出雲国造

堀川(高浜川)

三木与兵衛翁氏の頌徳(しょうとく)碑のある川は、Google地図では、「堀川」とありますが、固有の川の名前は、高浜川です。

堀川(高浜川)


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ここから、南西から北上する古内藤川(こないとがわ)と一緒になって、大きな堀川を形成します。




古内藤川と遥堪(ようかん)排水機場
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古内藤川に架かっている鑓ヶ崎橋(やりがさきはし)

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さて、ここから、一本の大きな堀川を形成します。上の山が弥山(みせん)です。真ん中に仕切りがあり、山側の川が、高浜川で、手前の川が、古内藤川です。



乙見神社に向かう橋である乙見橋から東の方向の見た堀川です。
なぜに仕切りが真ん中にあるのでしょうか。どこまで、この仕切りは続いているのでしょう。
水量の調整のためにあるのかしら?



乙見山( 現在名 原山  原山遺跡のあるところです)で、90度に堀川が南に曲がっています。そして南西の方に向います。
三木与兵衛が、乙見山を開削して堀川を通しました。
左の山が乙見山で、対岸にある山が、神光寺山で、ここら辺りの堀川の通称が、神光寺川です。

南に向かう堀川(神光寺川)
 
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出雲大社の大鳥居の近くを流れる堀川(高浜川+古内藤川)です。
いまだ高浜川と古内藤川の仕切りは続いています。

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ここから、吉兆館 道の駅 大社ご縁広場を超え、流下橋附近で仕切りが無くなって合流しています。
そして、杵築灘、つまり日本海に流れていきます。

日本海に流れる堀川

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菱根池干拓と堀川の謎

1616年(元和2年)に三木与兵衛が工事をした川は、この堀川ではなくて、菱根川です。(堀貫川とも記載)
鑓が崎浜から、杵築灘まで、菱根川を掘って、菱根池の水(その頃は沼地が点在する湿地)を日本海まで流したと言われています。
下の図で言うと、古川と記載した場所とされています。

※鑓ヶ崎というのは、浜山(高校野球の浜山球場がある所)に続く丘陵地帯です。古代の浜山は、神門水海(菱根池も含む)に囲まれた湖に囲まれた島であり、鑓ヶ崎という名から想像するに、槍のように先が尖ったような浜だったと思われます。


西北部開拓関係図  石塚尊俊 著『出雲平野とその周辺 生成・発展・変貌』/発行 川上正夫 より

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私は、実際に歩いてみましたが、古川跡は発見できませんでした。
しかし、標高が高いこの場所に、どうやって川を通して水が流れたのかなあと素朴に思いました。そういう疑問に答える本がありました。

〝また、この菱根川は一畑電鉄路線に平行して流れている現在の古川排水路の路線に掘られていたのではないかともいわれていますが、菱根、入南の水田と、古川排水路との標高差は四─五メートルもあり、果たして、ここの鞍(あん)部があったのかどうか疑問です。鑓ヶ崎浜というのは古川排水路のある通称の鑓ヶ崎ではなく、鑓ヶ崎橋の西にある菱根の鑓ヶ崎を指しているのではないでしょうか。菱根川は、現在の古内藤川とほぼ同じところに掘られていたのではないかとも考えられます〟(上野良一『三木与兵衛と菱根池干拓』 立花正夫発行/編集 村上清子 『島根半島散歩 ─ 大社編 ─』より)

出雲大社の慶長十四年(1609年)御造営図

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これが、慶長14年(1609年)に実際書かれたものかどうかわかりませんが、菱根池と堀川のような川が書かれています。
川が途中までしか見えないし、日本海とはつながっていません。

下の図は、右側を拡大した図です。菱根池と川がわかりにくいので赤で印をつけました。
浜山はわかりますが、乙見山や神光山が描いてありません。
あの道路は、現在の国道431号線は当然なく、出雲大社の境内から横に流れているので、社家通り、神魂伊能知奴志神社につながる道なのかもしれません。浜山が、神門通りまで押し寄せて描いてあるので、そもそもが写実的ではありません。


出雲市大社町の堀川_e0354697_12230849.jpg

堀川が完成したのが、正保二年(1645年)だとされていますので、慶長14年(1609年)に堀川が存在するわけはありません。
しかし、池があるのなら、川があるのは当然ですし、もともと西方に流れる川はあったかもしれませんし、菱根池周辺の開拓が、三木与兵衛以前の慶長年間ぐらいにはすでにあったらしいので、堀川のような川が幾つか作られていたのかもしれません。
でも、実効性があがらなくて、三木与兵衛の堀川開削の大事業が始まったとも思えます。

また、『杵築古事記』(1889年)には、〝慶長三年六月三日武志土手切れて、乙見山と神光寺山との中押し切れて堀川出来て流下へ落ちる〟などと書いてあります。慶長三年(1598年)には、斐伊川の大洪水で、既に乙見山と神光寺山の間に、堀川がすでにできあがったかのように書かれています。

真偽のほどはわかりませんが、日本海まで水を流すまでの大規模な堀川は存在したはずはないと思いますが、すでに乙見山に小さな川はあったとしても不思議はありません。

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# by yuugurekaka | 2025-08-06 19:33 | 日記 | Trackback | Comments(0)

三木与兵衛翁頌徳(しょうとく)碑_e0354697_12300304.jpg

江戸時代の初期、出雲大社の前の東南にあった菱根池を大工事して埋め立て、広い水田を生み出した三木与兵衛 氏の頌徳(しょうとく)碑を拝みに行きました。 ※ 頌徳碑・・・偉人や先覚者などの徳をほめたたえる文章を刻んだ碑。(コトバンクより)

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碑文がよく見えず、この暑さも手伝って、読むのを断念。家に帰って文書起こししました。(句読点を付け足しています。)


〝 三木与兵衛翁は、この地方の大恩人である。文禄四年(一五九五)神門郡小山村地頭の名門(宇多源氏を源とする)三木家三十二代として生まれ、寛永二十年(一六四三)十一月九日没した。

 かつて、この付近一帯(遥堪、江田、八島、浜、菱根)は、いわゆる「菱根の池跡」で、慶長十三年(一六〇八)以来、国主堀尾氏がその開拓を行ったが、なかなか実効があがらなかった。翁は鑓ヶ崎から堀川を通じて杵築灘へ水を抜くことを願い出、元和二年(一六一六、数え年二十二才)に着工、莫大な、労力と私財を投入、遂に神光寺川を通した。

 これによって五ヶ村の沼沢地は干拓され広大な良田を得たので、農民が四方から集まるようになった。国主はこれを賞して江田村に上田二反歩、永代米四十俵、更に小山地内に屋敷を与えた。
 
 しかるに寛永十年(一六三三)五月の大洪水によって、出雲大川が決潰し、折角十七年の歳月を費やしてほった掘貫が埋まった。その後、国主の交替もあったりして復旧が、ままならなかったため、見かねた翁は、今度は乙見山を切り開くことを立案し藩に具申、寛永十七年(一六四〇)着工。寝食を忘れて難工事に挑んだ。しかるに完成を目前にした寛永二十年(一六四三)十一月九日、四十九才で没した。

 子息加兵衛が遺志を継ぎ、間もなく大工事を竣工させた。よって悪水落ちも甚だよくなり新田五ケ村で五千五百石を得るに至ったと記録に残されている。

 翁の偉業を礎に、以後三百年、今では水田も二七五ヘクタールに拡大され米収一四〇トン(二万二千俵)を得るほか、生活廃水、山瀬の水も円滑に処理され沿線一万数千人の快適な生活が保証されている。

 このたび、有志相図り、この碑を建立し、翁への敬慕と頌徳を形にあらわすこととした。

昭和五十二年(一九七七)十一月建之 


切り開いた乙見山に行ってみました。地元の人が歩いていましたので、「乙見山の写真を撮りに行く」と言いましたら、「あれは乙見山ではない。乙見神社の所が乙見山だ。」と言われました。ネットや本で調べて現地に住んでいる人に聞くと否定されることがよくあります。
ある神社の説明板には、乙見神社の山も含めて、今は「原山」というのだと書いてありました。

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この川が、神光寺川(堀川)で前に見える山が、「原山」(旧 乙見山)です。
神光寺川は、ここで約90度に曲がっています。ここの山を削って人工の川を造ったのです。

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川沿いに歩いていたら、不思議なものが・・・。説明版がありました。明治45年~昭和20年まで、にここら辺に温泉(乙見温泉)があり、そのつり橋の橋脚の跡なんだそうです。

神光寺 島根県出雲市大社町杵築南736
曹洞宗のお寺

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川の名前になった神光寺にも拝みに行きました。




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# by yuugurekaka | 2025-07-05 13:25 | 日記 | Trackback | Comments(0)