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■ 推古天皇の孫

出雲国西部の上塩冶築山古墳と東部の岡田山古墳が、「額田部の馬具」つながりで関連性があるというところに注目したのは、富家伝承本では西部の上塩冶築山古墳と東部の岡田山古墳の被葬者が、同じ推古天皇の孫と書かれていたことからである。(斎木雲州著『飛鳥文化と宗教争乱』大元出版) 前の記事は、⇒ 日置氏の足跡(12) 富家伝承 ー 日置王

通説的には、上宮太子(聖徳太子として脚色された存在のモデル)の后である菟道貝蛸皇女(敏達天皇・推古天皇の皇女)には子が無いとされているが、日置王と財王の二人の王子がいる系図である。通説的には二人の王子は、刀自古郎女(蘇我馬子の娘)の子で、山背大兄王の兄弟である。

下の系図は、『飛鳥文化と宗教争乱』の付録資料である。(推古天皇の後に尾治大王という天皇の記載がある。)



上塩冶築山古墳 (2) 富家伝承系図_e0354697_14422920.jpg
以下 『飛鳥文化と宗教争乱』の抜粋である。

“皇后は貝蛸皇女を生んだが、後者に額田部と日奉部を与えた。”

“推古女帝は、「寺から夕日を拝めるように、鳥居を建てよ。寺は西向きに造れ」と指定した。夕日を拝むのは、炊屋姫の出身・額田家の信仰であり、その日奉部の仕事でもあった。”(四天王寺の鳥居)

貝蛸皇女から日奉王には日奉部の領地が与えられ、額田部財王には額田部の領地が相続されていた。

“その政所では、欽明帝の指示により、日置氏が神門臣家の古墳を造り続けた。日奉王の時期には、すでに大念寺古墳などが造られていた。”

“日置氏は朝鮮系の氏族であった。日奉部は敏達天皇が設置した。その日奉部を炊屋姫から受け継いで、日奉王となった。しかし都では息長系の勢力が強くなったから、その迫害をさけるため日置氏の名前を継いだ。さらに日置王は祖母の推古女帝の希望に基づき、日御碕神社を建てる仕事に専念した。

岡田山1号墳  島根県松江市大草町

上塩冶築山古墳 (2) 富家伝承系図_e0354697_13374492.jpg

それで、古墳の被葬者の記載は、このように書かれている。

〝日置王は自分の寿陵を上塩冶に造り始めた。〟
〝財王は寿陵を、神魂神社の横(風土記の丘)に造った。それは出雲式の方突方墳(岡田山1号墳)であった。そこには円頭大刀などが治められていた。〟


# by yuugurekaka | 2020-10-12 14:39 | 古墳 | Trackback | Comments(0)

■ 心葉十字文透鏡板付轡 額田部氏説

久しぶりに「出雲弥生の森博物館」を訪問したら、『出雲・上塩冶築山古墳とその時代』の企画展をやっていた。築山古墳と似たような出土品のある他県の古墳の出土物もいっしょに展示されていた。

築山古墳は、出雲国西部のナンバー2の首長墓でないかと今まで言われていた。それを、さらに深堀する内容の展示であった。

その中で自分が興味深く見たのが、装飾馬具のひとつである「心葉十字文透鏡板付轡」が、出雲西部の築山古墳にも出土し、額田部氏とも関係が深いというテーマだった。この心葉十字文透鏡板付轡」が、額田部氏に関係したものであり、出雲国東部の「岡田山1号墳」(「各田卩臣」~額田部臣~と書かれた円頭太刀が出土して有名な)にも同様にそれが出土しているとの展示だった。この心葉十字文透鏡板付轡」だが、考古学に詳しくないものにとっていったい何なのか、さっぱりわからない。

出雲大社の近辺の島根県立古代出雲歴史博物館の展示物に築山古墳の被葬者像が展示してあったが、馬が加えたあの円盤のように見えるものが、鏡板とよばれるものらしい。

築山古墳の被葬者像 島根県立古代出雲歴史博物館
おしりのところのハート形の飾りは、「心葉形杏葉(ぎょうよう)」というらしい。

上塩冶築山古墳 (1) 額田部の影 _e0354697_14414750.jpg

他のがそもそもどのようなものがあるか知らないが、単純な輪っかや、円盤の物などあるらしい。心葉十字文透鏡板付轡」は特殊なもので、全国で33例しかないそうである。高い位のある者の馬具であるようだ。

心葉十字文透鏡板付轡の分布図
上塩冶築山古墳 (1) 額田部の影 _e0354697_13422089.jpg

心葉十字文透鏡板付轡」という長い名称であるが、鏡板がついた轡(くつわ)で、心葉─ハート形の葉っぱが全体の輪郭であり、十字の文が中心にあって、板で向こう側が見えない構造では無く、透いた構造になっているから、たぶんこういう名前ではないかと思う。インターネットで調べたけれど何も出て来ない。考古学で知らない言葉が出てきて、展示物を見るとき、いつもそこでつまづく。

額田部の金銀装馬具
鳥取県米子市 石州府(せきしょ)5号墳
上塩冶築山古墳 (1) 額田部の影 _e0354697_13424424.jpg


しかし、なぜに額田部氏と関連付けられているのか?出土地の近くで額田部氏の伝承や資料がみつかっているんだそうだ。築山古墳に額田部氏の伝承や記録があるのか。

上塩冶築山古墳 (1) 額田部の影 _e0354697_13403801.jpg

わからないので図書館の本で調べた。

〝ほど近い上塩冶横穴墓群第15支群10号横穴墓の前庭部小横穴は後世の攪乱はなく埋納時の状況をとどめていたが、ここから須恵器蓋杯の頂部内面に「各」をヘラ書きしたものが出土した。鳥谷芳雄氏の検討によれば、松江市岡田山1号墳出土の大刀に刻まれた「額田部臣」銘文のような象嵌・ヘラ書き文字を二次的に写したもので、同横穴墓の被葬者と密接に関わる氏族名額田部の略であるとする(鳥谷芳雄1997)。よって当地に額田部の居住を推定しうる。〟( 桃﨑 祐輔 『額田部の馬具と鈴』─心葉十字文透鏡板付轡と虎頭鈴・多角形鈴をめぐって─ 2019年3月 島根県古代文化センター)


# by yuugurekaka | 2020-10-09 16:41 | 日記 | Trackback | Comments(0)

道教の本

事代主命は、出雲の神であって、かつ、ヤマト王権の祖神という相い矛盾した存在。

古代学者は、科学的考察の持ち主なはずなのに、なぜか「国つの神」の事代主命あるいは、「大和の神」としての事代主命という片方の側面から語っていることが多いと思う。

そもそも「国つ神の事代主命」という存在は、中国の陰陽学からの産物に過ぎないのであって、「国譲り神話」にこだわって、「天津神がヤマト王権の側」などという視点から離れていかねば、何もわからぬのではなかろうか。

陰陽五行の思想で『日本書紀』や『古事記』は書かれていると云われているし、古墳や祭祀にも少なからず影響されているとも云われている。

自分もどこまで、陰陽五行を理解しているかと聞かれると、心もとない。

道教の本_e0354697_10514608.jpg

この程新しく出版された、『道教思想10講』(神塚淑子 著 岩波新書)を注文した。まずは基礎から確実に少しずつ積み上げていきたい。



# by yuugurekaka | 2020-10-06 11:15 | 美保の事代主命 | Trackback | Comments(0)

戦後の専門家たちには、美保神社の祭神 事代主命は、昔からではなく新しい時代になってのことだろうと、書かれてきた。その根拠というのが、『出雲国風土記』(733年)に事代主命の記載が全く無い事と、美保郷の郷名由来が御穂須須美命であることからである。

美保神社 鳥居
美保の事代主命 (15) 富家伝承_e0354697_15021040.jpg

所造天下大明神命が高志こし国にいらっしゃる神意支おき命の子、命の子、奴奈宣波比売ぬなかわひめ命と結婚してお産みなさった神、御穂須みほす須美すみ命、この神が鎮座していらっしゃる。だから、美保という。〟(島根県古代文化センター編『解説 出雲国風土記』 今井出版)

そのことから美保神社の本来の祭神は、御穂須須美命だったと書かれていることが多い。しかし、『出雲国風土記』に美保神社の祭神の記載など無い。仮に奈良時代にそうだったとしても、「元々 御穂須須美命」だったとは言い切れない。奈良時代に書かれた『出雲国風土記』が古代すべてでは無くて「一時代」でしかないが、戦後の研究家の書物を見るとそれがすべてのような記述である。

富家伝承本には、その真逆の事が書かれていた。

〝コトシロヌシが亡くなられた後、別の后であられたヌナカワ姫(美穂津姫)は淋しさがつのり、古里の姫川や黒姫山の景色ばかりが思い出された。そして越後国糸魚川の実家に、帰ることを決意された。王子・タテミナカタは父君を助け出すことが出来なかった、苦い思いのある出雲を離れたく思い、母君とともに越後国に移った。娘のミホススミは出雲の美保関に残り、父の霊をなぐさめることになった。彼女の住居には美保の社が建てられた。〟(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版)

元々は事代主命の霊を祭るという出発点で、娘の御穂須須美命が住んでいた館が、美保神社の場所になったと言う話である。

■ 市恵比寿社

『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)という本は、絶版になっていて、その後継の本として『出雲王国とヤマト政権』(富士林正樹 著 大元出版発行)が出版された。
概ね同じようなことが書かれているが、更に書き加えられているところや違うことも書かれたりする。

〝娘の娘のミホススミは出雲の美保関に残り、父の霊を祀る祠を建てた。その社は、市恵比寿社と呼ばれている。彼女は死後、美保関東端にある客人山の地主社に祀られた。〟(富士林正樹 著『出雲王国とヤマト政権』大元出版発行)

境外摂社    市恵比寿社 
美保の事代主命 (15) 富家伝承_e0354697_12312099.jpg

ええっ! この市恵比寿社が元々の事代主命の社? 古は美保神社そのものが海岸の方に近かったというから、ここら辺りが、美保神社のちょうど前あたりだったのかもしれないが・・・。

なんで恵比須の前に「市」がついているのか?もしかして、巫女さんのことを「市」と言ったりするから、それで市なのかな。地元のお店の人に聞いた。「市場の恵比寿さんだから、市恵比須」、そう話された。鳥居の近くに、「境外摂社 浜恵比須社」というのがあるから、そことの関係かな。江戸時代末期の絵図を見てみた。

「史実と伝説の 美保関資料館」に展示されていた絵図。慶應2年と書いてある。

美保の事代主命 (15) 富家伝承_e0354697_14562402.jpg

大きな帆船の上あたりに、「蛭子社(えびすしゃ)」が見える。今の配置に近い。鳥居近くにも祠が見えるが、何が書いてあるか読み取れない。



# by yuugurekaka | 2020-09-22 16:23 | 美保の事代主命 | Trackback | Comments(0)

『ゑびす神異考』で、中山太郎氏は、今までの蛭子尊や事代主命に関連する説とは真逆で、民間信仰に過ぎないと言い切る。

〝ゑびす神は神祇には相違ないが、これは決して官憲が認めた神祇ではなくして、ただ、民間の信仰を受けていた神に過ぎないからである。されば、延喜の『神名帳』を見ても此の神の名は記して無い。〟〝ゑびす神は、結局、民間信仰の為に、時代と共に発達進化した神に外ならぬのである。〟

そして、そのゑびす神の起原を鯨神信仰に起源したものであるとする。
その目鼻となった事例を、民俗学の先輩たちの文章の中にまず見つける。

〝志摩国磯部大明神は、今も船夫漁師に重く崇められる。鮫を使者とし厚く信ずる者、海に溺れんとするとき、鮫来り負ひて陸に達すると云ふ。〟〝神使の鮫は、長さ四五間、頭細長く体に斑紋あり。『ゑびす』と名づくる種に限る。〟〝古老の漁人の話に、海浜にゑびすの祠多きは、実は、此の『ゑびす鮫』を斎き祀れるなりと云々〟(南方熊楠『本邦に於ける動物崇拝』)

〝出羽の飛島見物に往きし内地の船が、島の付近で、五頭の鯨の、並んで浮いて居るのを見て、「ゑびす様、どうぞ其処を退って、通して下され」と云ったと記してあ云々。ゑびすと云ふ神も、以前は漁村のみの神であったらしいが、或はそれが鯨ではなかったと思ふ仔細がある。〟(柳田国男『巫女考』)

鯨を漁業神としてゑびすと呼び崇拝する地域を調査して、そういう地域が多いことがわかる。

葛飾北斎 「千絵の海 五島鯨突」

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<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/ja:%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E" class="extiw" title="w:ja:葛飾北斎">葛飾北斎</a> - 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる


ウィキペディア えびすには、⇒ wiki えびす

〝日本各地の漁村ではイルカやクジラやジンベエザメなど(これらをまとめてクジラの意味である「いさな」と呼ぶ)を「えびす」とも呼んで、現在でも漁業神として祀る地域が多数ある。クジラやジンベイザメなどの海洋生物が出現すると豊漁をもたらすという考えからえびすと呼ばれ、漁業神とされる。実際にクジラなどが出現するとカツオなどの漁獲対象魚も一緒に出現する相関関係がある。〟

また、ウィキペディア 捕鯨文化には⇒ wiki 捕鯨文化

〝えびす(蛭子、戎、恵比寿など)は外来の神としての性格を持ち、外洋から訪れる鯨にえびすの神格が重ねられる。
日本において「寄り鯨」「流れ鯨」と呼ばれた漂着鯨が高い頻度で発生する。それらのクジラを「えびす」と呼んで神格視しながら受動捕鯨として盛んに資源利用し、これが「寄り神信仰」の起源となった。特に三浦半島や能登半島や佐渡島などに顕著に残り、伝承されている。
寄り鯨の到来は「七浦が潤う」ともいわれ、えびす神が身を挺して住民に恵みをもたらしてくれたものという理解もされていた。土地によって逆の解釈もあり、えびす神である寄り鯨を食べると不漁になるという伝承も存在した。〟

えびすさんが歩けなかったり異形の神であるというのも、鯨神であれば整合性がある。
さらに、耳も聞こえないと言う伝承もある。

〝大阪今宮のゑびす神は聾だと云ふので、参詣する者は祠後の板を叩いて、「おゑびすさん頼みます」と唱ふるのが習ひである(『日本風俗史』)。此の習はしは、如何にも道化じみていて、誰がゑびすの聾者なることを確かめたのか、誠に埒も無い事のやうに思はれるが、併し民俗学の方面から考へると、此の埒も無い道化ている習はしの中に、古くて然も純なる民間信仰が含まれているのである。〟(中山太郎『ゑびす神異考』)

確かに鯨には耳介がない。耳の穴もふさがっている。しかし、聴覚は骨伝導により行なっていて音が聞こえないわけではないらしい。
片や、美保神社のえびすさん(事代主命)は、鳴り物好きで、歌舞音曲の神さまと云われ、さまざまな地域からたくさんの楽器が奉納されている。

参考文献 大江時雄 『ゑびすの旅』 海鳴社発行



# by yuugurekaka | 2020-09-18 19:35 | 美保の事代主命 | Trackback | Comments(0)