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伊努神社 島根県出雲市西林木町276

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『出雲国風土記』の奈良時代には、伊努(いぬ)神社の辺りを、出雲郡伊努郷と言いました。

出雲郡だけではなく、松江市に近い秋鹿郡にも伊農(いぬ)郷があります。

奈良時代の漢字は当て字の場合が多いので、どちらも同じ「いぬ」です。『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷の記事です。


伊農郷。郡家の正西一十四里二百歩の所にある。

出雲郡伊農郷に鎮座していらっしゃる赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の后、天瓺津日女命が国をめぐりなさった時に、ここにいらしておっしゃられたことには、「伊農よ【原文…伊農波夜。」とおっしゃられた。

だから、足怒(あしはや)る伊努という。〔神亀三年に字を伊農と改めた。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲国風土記』 今井出版)


赤衾伊農意保須美比古佐和気能命と天瓺津日女命


ここに登場するのは夫婦神です。
国引き神話の、島根半島を引っ張ってきた八束水臣津命の御子(息子)である「赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかふすまいぬおおすみひこさわけのみこと)という長たらしい名前の男の神様と、天瓺津日女命(あめのみかつひめのみこと)です。


伊努神社 本殿  島根県出雲市西林木町276

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ちなみに天瓺津日女命の「あめの」がついているので、高天原系の神と思ってしまうけれど、たぶん、東出雲のカミムスビ系の神ではないかと思います。西出雲の神と、東出雲の神の結合。
『出雲国風土記』もおそらく、陰陽学的な神の位置づけがなされたんではないかと。

天瓺津日女命は、里帰りをしたのか 途中 秋鹿郡伊農郷を通りかかった所、もうすぐ会える出雲の「赤衾伊農意保須美比古佐和気能命」を想って、気持ちがたかぶり、夫の神の名前を呼んだのではないかと思います。(あくまで私の解釈)

名前が長いので、一番のエッセンスが、「いぬ」なのでしょう。

「イヌ」の解釈

当然ながら、「イヌ」は、ワンワンの神ということではない。
写真は、島根県松江市雑賀町1663 賣豆紀(めづき)神社の子宝犬 

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出雲国の神社名のほとんどが、解読不能な名前です。
おそらく、奈良時代の古語よりももっと古い名前なのだろうと思います。

弥生時代はまた別のことばを使っていたのだと想像します。

ちなみに、加藤義成著『校注出雲国風土記』では、〝赤衾はイヌ(寝ぬ)にかかる枕詞。神名は伊農の大洲見日子、狭別の神の意であろう。沖積地の神

しかし、古語辞典に出てくるような言葉は、奈良時代以降の言葉で、私は違うんじゃないかと思います。

寝ぬ(寝る)の他には、

往ぬ(いぬ)・・・消えていなくなる。去る。

というのがあります。

また、現代の出雲弁で、「帰る」の意味で、「いぬる」「いのう」と発音するものもあります。

ドラビダ語でも調べてみましたが、見つからない。

現代のアイヌ語では、 「聞く」というのがあるらしいです。

サイの神は、「耳の神」という面も地域によってはあるらしいので、案外そういうのかもしれませんが、よくわかりません。

伊努神社境内の左はサイの神(双体道祖神) 右はわかりません。

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# by yuugurekaka | 2025-09-29 11:58 | 鼻高山 | Trackback | Comments(0)

鼻高山の東の麓に青木遺跡があります。
2002年(平成14)-2003年(平成15)に発掘された青木遺跡ですが、初期(弥生時代中期後葉の)の四隅突出型墳丘墓が発見されました。
よくわからんと単なる野原に見えます。


鼻高山の神々 (3)青木遺跡 伊佐波神社_e0354697_20050767.jpg

それまでの四隅突出型墳丘墓は、広島県の三次市で誕生し、出雲地方に伝播したものとされました。
しかし、ここの遺跡の発見で、出雲地方でも、初期の四隅突出型墳丘墓が作られていたことがわかりました。

詳しくは、





2021‎年‎4‎月‎撮影 
復元された四隅突出型墳丘墓 青木4号墓
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四隅突出型墳丘墓の他には、県内初の近畿式銅鐸や全国最古級の神像、国内初の売田券木簡などが出土しました。

また、奈良時代の神社跡とも思われる9本柱の遺跡も発見されました。9本柱というと、出雲大社を始めとする大社造りの神社です。

復元された神社跡と思われる9本柱の遺跡

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奈良時代では、樹木や滝、岩のような自然物を神社と呼んでいたのではないかとされていましたが、建築物としての神社が奈良時代には大社造りの神社が既にあったのではないかと思わせてくれます。

神社跡と聞けば、なんという神社か気がかりになります。

この青木遺跡には、伊佐波神社跡がもともとありました。私の想像ですが、元々あったのだから、伊佐波神社だったのかもしれません。


『国道431号道路改築事業(東林木バイパス)に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 青木遺跡中近世編編』島根県埋蔵文化財調査センター よりお借りしました。

鼻高山の神々 (3)青木遺跡 伊佐波神社_e0354697_20403306.jpg

この神社跡がどこか、歩いていろいろ想像しました。
この伊佐波神社ですが、出雲国造家の系図にも出てくる伊佐我命ではないかと思われます。
そして、関東の国造(伊勢津彦裔)の系図にもみられるように、この神は、伊勢国の名前の起源になった伊勢津彦命の同じ神だったと思います。

詳しくは、



出雲国造の系図になぜ?
伊勢津彦命は大国主命の息子と播磨国風土記には書いてあります、なのになぜ、出雲国造家の祖の天穂日命の系譜に登場するのでしょう。

古事記には、大国主命と事代主命が、お隠れになることが書かれています。
もしかすると、系図から、大国主命と事代主命、その系譜を抹消するということだったのではないか?などと思ったりします。

偉い古代史家に、岡山県のように大きな古墳もでないところに、出雲の神の故郷のはずがない!
出雲の神とされているのは、本当は大和の神だ!と書かれていますが、

出雲の神々は、故郷がこの出雲であってほしい・・・と思います。

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# by yuugurekaka | 2025-09-21 21:01 | 鼻高山 | Trackback | Comments(2)

神門谷(ごうどだに)から登り、鼻高山の中腹に来阪(くるさか)神社が鎮座しています。


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来阪神社(くるさかじんじゃ) 島根県出雲市矢尾町787 

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御祭神 素盞鳴尊 稲田姫尊 大己貴尊 少彦名尊

配祀
天之御中主神 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命 天津日子根尊 活津日子根尊 熊野久須毘尊
多紀理毘賣尊 市杵嶋毘賣尊 田寸津比賣尊

大穴持海代日古神社 海代日古尊
大穴持海代日女神社 海代日女尊 

来阪天王社に合祀された来坂神社  

来坂神社(くさかじんじゃ)は、『出雲国風土記』(733年)に記載された古社です。
また、延喜式では、
大穴持海代日古神社と大穴持海代日女神社だったということになっています。

麓の久佐加神社もですが、来坂(くさか)の名称から、元は、日下部氏の奉斎した神社と考えられます。
もしかすると、大穴持海代日古命と大穴持海代日女命は、日下部氏の祖神だったかもしれません。

〝当地に京都八坂神社の分霊を奉る来成天王社があった。天文年間(1532~54)に「来坂社」が焼失した。その後約50m西にあったその来成天王社に合祀された。〟(『高浜探訪』高浜歴史研究会)

だから、来阪神社の事を広く、「天王さん」と呼ばれます。

その来成天王(きなしてんのう)社は、八坂神社の分霊を奉っていると言うことだから、牛頭天王(ごずてんのう)ということになります。神仏習合時代、牛頭天王は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)と同一視されました。それゆえ、主祭神が素戔嗚尊であり、神社の南側の巨石が、「スサノオの腰掛岩」と呼ばれるのでしょう。

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また、鼻高山の北側には、鰐淵寺の守護神が素戔嗚尊とされ伝承地が濃厚な伝承地となりました。だから、鼻高山付近の素戔嗚尊信仰は中世以降のことだと思われます。

境内社  社日様


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弥山の麓の社日様が、圧倒的に「社稷神」と書かれた石碑を祭るのに対して、出雲地方ではオーソドックスな5角形の社日様です。
江戸時代の終わりから明治の初めの信仰です。古代とは関係ありません。


祓戸之宮

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前に参拝した時は、「お祓いの神様」で、さほど不思議に思いませんでした。しかし、奈良時代以前は、来坂神社の麓の南西は、神門の水海の一部の菱根池があり、斐伊川が流れていました。

河口は、ミソギ場となる場合が多いです。
近くの伊努神社に式内社「同社神魂伊豆乃売神社」というミソギの神様が祭ってあるけれど、このこととここの祓戸之宮は何か関係があるのかもしれません。

なぜ日下部氏の神社が、鼻高山の麓に2つもあるのか?

出雲口伝にも触れられているので、別サイトで記事にしました。

⇒ 【出雲口伝】ホムチワケ伝承と沙穂彦一族をかくまった神門臣

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# by yuugurekaka | 2025-09-13 19:51 | 鼻高山 | Trackback | Comments(0)

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鼻高山の神々と書きましたが、鼻高山に連なる山々をひっくるめて鼻高山と書きます。
鼻高山の西麓には、日下部氏の神社もありますが、麓に「神門谷」(ごうどだに)の地名があったり、神門臣系(大国主系)の神社がいくつかあります。

神門臣系の系譜は富家伝承によると、


八束水臣津野命-赤衾伊努意保須美比古佐倭気命-八千矛(大国主命)─伊佐波。 


さて、先日、式内社 比古佐和氣神社と言われる、「朝村権現」を探しに山に登りました。

朝村権現というのは、現在 麓の伊努神社に合祀されていますが、上記の朝村山の頂上付近に宮跡があります。

一つ一つの山の名前や位置関係がわからないと、登山もできませんね。(反省)

朝村山とは

〝八束水臣津野命が国引きの時、御祭神が先導して諸神を毎朝ここに集めて国土経営のお手伝いをされたので、朝村山〟(多根令己著『道を訪ねて』)というそうです。

写真の中で、先が尖った急峻な山が朝村山です。

朝村権現には、夫婦岩(赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命と天之甕津日女命か)、天津彦根命岩、親神岩などの磐座があります。


登山開始

里から、朝村山に登る「朝村さん正参道」は、急な坂で、登山初心者レベルには危険なので、

自動車で来阪神社がある鼻高山の中腹まで行って、そこからの登山道⇒ふるさとの森Ⅱから右折⇒コーノ巣⇒かがち山⇒朝村山のコースを選択しました。


計画はいいんですが、途中で迷ってしまいました。

鼻高山登山口

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鹿よけゲートをくぐる

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かがち山から北進し、朝村山を目指しましたが、鼻高山の東稜主峰に着いてしまいました。木々に貼ってある赤いテープを頼りに来ましたが、いろいろなコースに赤いテープが貼ってあるので、それだけ手がかりにするのは危険です。
休み休み来たので、2時間近くかかってしまいました。これじゃあ、帰るのが遅くなってしまうので、朝村権現をあきらめて来た道を戻ることにしました。


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来た道をもどったつもりでしたが、実は朝村山の方向に向かっていたのです。

朝村権現よりも上にある四角い祭祀遺跡を見つけました。
後に調べたら、「山ノ神社旧跡」らしい。


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なにか意味深に並んでいる丸石


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来た道と違うことに気づきました。
なんかすごい岩があるなあ。


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来た道と違うようなので、また戻って、尾根の坂を降りて行きました。
かがちやまの坂を、降りているつもりでしたが、そこは朝村山の坂でした。
坂の角度と長さが全然違います。崖の下に真っ逆さまになりそうでした。

急な坂を降りている途中に大きな自然石の石灯籠が!朝村権現です。


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しかし、もはや、御神体の磐座を探す時間のゆとりはありません。
そして、もどって、来た道を探すより、もう朝村さん正参道を降りていくことにしました。
確実に里まで降りれるからです。
しかし、むちゃくちゃ急な坂です。木々をつかんで滑り止めにし、ゆっくり降りて行きました。足がつったり、足の親指の爪が内出血したり大変でした。
途中、初めて野生の鹿に出くわしました。初めての経験です。一匹なので、私にびっくりして、ものすごい速さで逃げていきました。

歩いている途中、正参道がわからなくなりました。
そんな時、近くに谷川を発見したので、谷川の中を歩いて下って行きました。
それで、なんとか里に出ました。

鍛冶屋谷というところでした。(昔の武士の太刀や小刀の鍛冶のあった場所と言われています。)

命からがら里に下りてほっとしました。

また入念な準備をして再チャレンジしたいと思います。



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# by yuugurekaka | 2025-09-04 18:59 | 鼻高山 | Trackback | Comments(4)

菱根池の干拓の関連で、神光寺山の墓地の中に、出雲大社の社家さんの御墓がいくつかあり、びっくりしました。

※出雲大社の社家さんは、千家さん、北島さん以外にもおられます。それも古代史や中世史の本では全部千家さんや北島さんの分家みたいによく書いてありますが、千家さんや北島さんと先祖を異にする古代豪族の末裔の方もおられるようです。

神職なのに、なぜお寺の墓地に?

ここが自分の知識不足のところです。神職の弔いが神式にされる以前は、お寺で供養されていたのです。というか、そもそも江戸時代までは、神仏混淆の時代であったわけです。

我々は、明治以降から始まったことを、なんとなく昔からある伝統だと思いがちです。参拝する神社の姿も、明治以降の神仏分離で再編された姿に過ぎません。
そう考えると、神社から古代史を考察するというのも、甚だ無理があるなあと思う今日この頃です。


出雲国造(いづもこくそう)の御墓を訪ねてみました。松林寺というお寺にあります。

松林寺 島根県出雲市大社町杵築東625


出雲国造の御墓 なぜお寺の墓地に?_e0354697_14425197.jpg

なんで、お寺に出雲国造のあるのか?という疑問が生まれます。
松林寺の縁起にそのことが書いてあります。


出雲国造の御墓 なぜお寺の墓地に?_e0354697_14421455.jpg

〝古書に依ると当寺は、真言宗醍醐派の古刹、千家、北島両国造家墳墓の菩提寺であった〟

〝同書(『杵築古事記』)に依ると、当寺は弘仁(八一〇~八二三)の頃、空海唐より帰朝して開願のため大社造営、別当寺を建立した。神仏混交とし大社別当寺の松林寺が守札を出していた。〟

ひときわ大きい中心の御墓が、第八十代出雲国造 千家尊福(たかとみ)公の御墓 


出雲国造の御墓 なぜお寺の墓地に?_e0354697_14414522.jpg

北島家と千家家、双方の国造の墓がありました。
普通の家の御墓と大きく違うのは、出雲国造おひとりおひとりの御墓であるところです。
御婦人、ご家族の墓地は、別の場所にあるということです。出雲国造は、亡くなられても家族と一緒ではなく寂しいですね。


千家家の御墓は、第65代からありました。

『大社町総合年表』(1970年)には、こう書いてありました。

〝国造家には上代国造の霊碑もなく(国造は火(霊)継ぎにより不死となす思想あり)又古記には祖先祭の記事もない。
これらがあるようになったのは、仏教の影響をうけた後柏原・永正以後のことである。
以前は葬送の際、黄褐色牛に引かせて牛諸共に菱根池に押し落し水葬する古例であった。〟(大社町発行『大社町総合年表』)

写真の前側は、立石がありませんが、第74代出雲国造 千家豊實公の御墓でした。

〝国造に死はなく「神去り給う」というが、この池の記載は水─海波他界を示すもので、国造墓地に置かれている平石とともに南方文化とのかかわり、海彼から神迎えをする大社の信仰とのつながりを思わせる。〟(白石昭臣『島根の地名考』 菱根池より抜粋)

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# by yuugurekaka | 2025-08-27 15:58 | 菱根池 | Trackback | Comments(0)