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美保神社の青柴垣神事

毎年4月7日に行われる美保神社の青柴垣神事(あおふしがきしんじ)を見に行きました。

正面は、美保神社 二の御前(祭神 事代主命)向かって右が一の御前(祭神 三穂津姫命)
二人の巫女さんが舞っている頃


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国譲り神話にまつわる神事

一ノ御船・二ノ御船 
このごろは、港の中央まで出ずに、この場所を動かないそうです。

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青柴垣神事は、古事記の国譲り神話に由来する神事です。

大国主命の使者から国譲りの相談を受けた事代主命は、国譲りを承諾した後に、自分の乗った舟をひっくり返すとともに、青柴垣に向かって逆手の柏手をひとつ打ったかと思うと、返した船の中にお隠れになってしまわれたという話です。

「平成の大合併のように、出雲国が、ヤマトの一部となった話ですか?」
違いますけれど、そう理解している人がたいへん多いようです。

高天原ー葦原の中津国ー黄泉の国 世界縦3層構造の中で、葦原の中津国の統治を大国主命一族から皇孫ーニニギノミコトに譲るお話です。

お隠れになるということは、葦原の中津国の神ではなくて、黄泉の国の神になるということ(そうは書いてないけれど)です。

それで、怨念・祟り神のような話ととらえる学者も多いと思います。

しかし、青柴垣神事は、事代主命がお隠れになった後に、今度は「神として再生する」神事です。


事代主命の複雑な神格

しかし、日向にニニギノミコトが降臨して、何世代も経ってから神武天皇が東遷して、ヤタガラスに導かれてヤマトを治めるに至るという話になっています。

美保の岬でお隠れになったはずの事代主命ですが、事代主命の娘(媛蹈鞴五十鈴媛命)が神武天皇の初代皇后になる話も書かれています。

神様なので、何世代も渡っても不思議はないのですが。

国譲り神話の後は、初期天皇家を支える役割として描かれています。

記紀神話自体が、陰陽の対立と結合という観点から書かれているので、それも不思議はないかもしれないです。

天神同士あるいは地祇同士の結婚は描かれていません。同族同士の結婚はまるで無いかのような筋立てです。

八咫烏(ヤタガラス)の神

事代主命の娘(媛蹈鞴五十鈴媛命)というのも、事代主命が三島溝杭耳命の娘に妻問いして生まれました。(日本書紀)

しかし、古事記では大物主命となっています。ここが混乱のもとです。

大物主命=事代主命ならば、夫婦そろった本殿の姿として自然です。

ですが、大物主命は大国主命で、事代主命とおばさんの三穂津姫命を祀っているということになっています。

三島溝杭耳命は、タカムスビの命の系譜とも、カミムスビの命の系譜とも。また、京都の賀茂御祖神社の賀茂建角身命の別名とも云われています。

その賀茂建角身命は、『姓氏録』(815年)では、八咫烏(ヤタガラス)とも書いてあります。(話は全然関係ないですが、この頃土曜日のNHKでヤタガラスの深夜アニメやっています。面白いです。)

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青柴垣神事では、新品のヤタガラスの日像幢(にちぞうとう)やウサギが餅つく月像幢(がつぞうどう)が飾られていました。

事代主命につながる氏族の関連でそういうお飾りなのかと勝手に思いましたが、即位式などのような祭儀の飾りでは一般的なもののようです。

関連記事              ⇩ 別サイトです。




# by yuugurekaka | 2024-04-26 19:29 | Trackback | Comments(0)

石上神宮から和邇の里へ

石見の国(島根県の西部)の神社を歩くと、平野部にはすこぶる和邇(わに)氏系の神社が多いことがわかりました。

出雲の国の神社はいろいろ回っても、特定の氏族との関連がほとんどわからないのはなぜ?

昨年の12月、あまり和邇氏系の神社が多いので、その本源地である奈良県の和邇の発生源の地へ行ってきました。

ついでに、いまだ行ってなかった物部氏の祖神を祀る石上神宮へ参拝しました。

京都からJRで、天理の駅へ。石上神宮まで歩いて2km。20分歩けばつくはずなのに、予想外に遠かった。

道路標識の地名に、やっと来たという感じがしました。

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迷いながら、山の中の細い道を歩いてなんとか到着。

ニワトリがたくさん居ました。
長鳴鶏(ながなきどり)の一種の東天紅(とうてんこう)、烏骨鶏(うこっけい)などのニワトリで天然記念物になっている種らしい。


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石上神宮の楼門

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石上神宮の拝殿と本殿

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ここから、JR天理駅へ行けば、和邇の里は早く行けるけれども、山の麓の道を歩いていきました。

Googleマップのナビがたよりです。和邇下神社まであと15分。そんなわけないです。

自動車で乗った場合の計算です。その時、徒歩の場合の切り替えの仕方がわからなかった。

遠いなあなかなか着きません。約5キロあります。小さな小山にやっとつきました。この小山も古墳だそうな。

和邇下神社拝殿

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和邇下神社の参拝を済ませ、柿本寺跡地の所を歩きました。おっ柿本人麻呂像がここにも。

柿本人麻呂像

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さて次は、和邇坐赤坂比古神社へ、ここから、1.5キロ。そんなに遠くは無かった。

和邇坐赤坂比古神社

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良く歩きました!ここからさらに早歩きしないと。帰りの大阪から出る高速バスになんとしても乗らなければなりません。

JR天理駅⇒2km石上神宮⇒5km和邇下神社⇒1.5㎞和邇坐赤坂比古神社⇒2㎞JR櫟本駅 合計10km以上歩いたことになります。

足は痛くはなりませんでしたが、両足の親指の付け根から内出血して、爪全体が黒くなりました。

ジョギングシューズが合ってなかったようです。

足の長さと幅だけでなく、親指のゆったり度も考えて買うべきでした。

この取材の結果記事にしたものです。  ⇩





# by yuugurekaka | 2024-04-06 10:37 | 日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂 生誕の地


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島根県益田市から山口県方面に向かっていくと、益田市戸田町(ますだし とだちょう)という町があります。

戸田の柿本神社の標識が出ています。

ここが柿本人麻呂の誕生の地との伝承がある場所です。

柿本神社神社近くに止めて、そこから歩いて柿本人麻呂の遺髪が埋められていたというところの人麿御廟所へお参りに行きました。

戸田柿本神社の宮司さん宅の敷地内だったので、おそるおそる、入らせてもらいました。

人麿御廟所

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説明版です。

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〝 綾部家には、人麻呂の遺髪を埋葬したという言い伝えがあります。

享保10年(1725)語家41代綾部左右衛門が綾部家を改築した時、敷地の一部を掘ったところ、1m余りの底に2m四方を石で囲い、その中に60cm四方程小石で囲まれた所がありました。

その中に20㎝余りの壺があり、上の土を取り除いた時壺が割れ、その壺の中には黒い土がありました。

その時、神殿が鳴動し、御神体が転げ落ちたので、そこが人麿さんの御廟所であると判断し、碑を建てたと伝えられています。

このことは、戸田の庄屋利兵衛から寺社奉行に届け出、以来人々は、この地を人丸塚と呼ぶようになり崇敬しています。

語家(かたらや)の綾部氏

語家」ってなんだろう。ある本で調べたら、「語部」(かたりべ)との説明書きがしてありました。

「語部」とは?小学館 『日本大百科全書(ニッポニカ)』からの抜粋です。

〝古代の職業部の一つ。古伝承を語り伝えて宮廷の儀式で奏上した。

『延喜式(えんぎしき)』によると、践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)に、伴宿禰(とものすくね)、佐伯(さえき)宿禰は、美濃(みの)8人、丹波(たんば)2人、丹後(たんご)2人、但馬(たじま)7人、因幡(いなば)3人、出雲(いずも)4人、淡路(あわじ)2人の語部を率いて参加し、語部の古詞(ふるごと)を奏した。

江戸時代の享保で、41代と書いてあります。仮に一代が30年だとすると、30×41=1230年です。

奈良時代にはすでの存在した家ということです。

世の中には、自分が知らないだけで、古代からずっと続いている家があるのですね。

ここの説明版には書いてなかったですが、柿本人麻呂が生まれた家が綾部家なんですね。


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江戸時代の『石見八重葎』(石田華律 著)によると、

〝人麿は石見国美濃郡戸田郷の語家の綾部氏に生まれ、大化元年十五歳のときに詩歌を志した。十八歳の頃から、戸田郷内の高角村石川の辺りに住み、近隣の村々の子弟に詩歌を教えた。二十三歳の頃、都に上り、柿本朝臣佐留(猨)と改名した。

綾部氏ならば、綾部人麻呂なはずだけれど、なぜ柿本なのかしら。

奈良県の『新庄市史』には、

〝当地における伝承は柿本村に柿本宋人なる人あり、朝廷に仕え石見の国守となる。任国に在る日曾つて国中を、巡視し、同国戸田郷小野邑に至る。綾部氏なる才女あり。歌詠に妙なる故に宋人之を寵し、納れて婢となす。〟

お父さんが柿本の姓で、石見国に赴任したときの綾部氏の女性と結ばれ、生まれた子供が、柿本人麻呂であったと書かれています。


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ここの説明板にはまた別のことが書かれていました。

大和国にいた柿本氏にそもそも綾部氏が仕えていて、いっしょに石見にやってきたことらしい。

〝「綾部氏家系」によると、大和に住んでいた綾部家は、柿本氏に仕えていましたが、後年柿本氏の氏族が石見に下った時、これに従って下向し美濃郡小野に代々語家として住みつきました。

のち柿本某が語家の女を寵愛して、柿本人麿が生まれたといわれています。

戸田の柿本神社

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戸田の柿本神社は、神亀(724)年の人麿没後に創建されたそうで、代々綾部氏が社殿を守ってきたといいます。

現在の本殿は、文政(1822)年に、津和野藩主 亀井玆尚(かめい これなおにより再建されたもので、合わせて人麿童子像が寄進されました。

参考文献】 『平成31年2月 益田市歴史文化基本構想』(益田市・益田市教育委員会)

        池野 誠著 『柿本人麻呂の栄光と悲劇』(山陰文藝協会)





# by yuugurekaka | 2024-03-20 13:29 | 柿本人麻呂 | Trackback | Comments(0)

万葉歌人柿本人麻呂の終焉地を決める題材は、万葉集の3首の歌しかないようです。

キーワードは、「鴨山」と「石川」です。

よくある地名だけに候補地があれこれでてくる理由です。


柿本人麻呂と妻の依羅娘子の歌

柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死(みまか)らむとせし時、自ら傷み作れる歌一首

鴨山の岩根しまけるわれをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ

(現代語訳)鴨山の岩を枕にして死んでいく私を、何も知らないで妻は待っているのであろうか。


柿本朝臣人麻呂の死りし時に、妻の依羅娘子(よさみのをとめ)の作れる歌二首

今日今日とあが待つ君は石川の貝に〔一に云ふ、谷に〕交りてありといはずやも

(現代語訳)今日は今日はと、私がお待ちしたあなたは石川の貝に混じって倒れているというではありませんか。


直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ思はむ

(現代語訳)直(じか)に逢うことはもうできないでしょう。せめて石川に雲よ立ち渡っておくれ。見ながら偲びますから。

※ 現代語訳は、池野 誠著〝柿本人麻呂の栄光と悲劇―『万葉集』の謎を解く〟(山陰文藝協会発行)からの引用。

海中に没した鴨島


島根県西部石見地方だけでも、柿本人麻呂終焉説があちこちにあり、そういうことがわかっていないと頭の中が混乱します。

今回の益田市高津説は、賀茂真淵らが研究を始める江戸の中期までには、益田の高津鴨島説が公式に信じられていたそうです。

しかし、その鴨島がどこにあるのか?


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高津川の近くかと思いきや、少し離れた益田川の東側にその場所がありました。

しかしながら、鴨島は今はありません。

伝承では、万寿三年(1026年)の地震と大津波で海中に没したということになっていました。

『高津町誌』 高津町尋常高等小学校 編 発行(昭和13年)  199ページの挿絵


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鴨島が没したのは本当なのか科学的に調査されました。

以下、展望地の説明板からです。

〝昭和48年、梅原猛氏が「水底の歌」で人麻呂水刑死説を発表し、全国に一大センセーションが巻き起こり、昭和52年には梅原氏を団長とする調査団が鴨島跡の海底調査を実施、地震と津波により水没したことが科学的に認められたため、ほぼ史実であると明らかになった。

しかしこの史実と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承のなかにあり、県内諸処の説も複雑に絡み合い、伝説の域を出るものではない。〟

鴨島の位置は、益田川河口より約1㎞沖合にある「大瀬」と呼ばれる浅瀬であるとされています。


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鴨島の西の方には、古の高角(たかつの)山が、もうひとつあったように挿絵に書かれていました。

益田川河口から高津沖を見る

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高津の柿本神社

高津・松崎の碑文では、聖武天皇の治世の時、朝廷が大僧正の行基に柿本神社の建立を命じたと書かれています。

しかしながら、万寿三年(1026年)の地震と大津波に鴨山が海に没した後、御神体の人麻呂像が漂着した高津・松崎に新たに人丸社が再建されます。

さらには江戸時代の二代津和野藩主の亀井 茲政(かめい これまさ)が、1681年高津山(高角山)に遷宮し、楼門・拝殿・本殿を建立しました。これが現在の高津・柿本神社です。

楼門
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拝殿



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享保八年(1723年)には、朝廷の公認で、盛大に千年忌を挙行し、「柿本大明神・正一位」の最高神位が贈位されています。

人麻呂像

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参考文献】 池野 誠著 〝柿本人麻呂の栄光と悲劇―『万葉集』の謎を解く(山陰文藝協会発行)





# by yuugurekaka | 2024-02-20 18:22 | 柿本人麻呂 | Trackback | Comments(0)


島根県石見地方だけでも、柿本人麻呂の終焉説は、諸説あるようです。

  1. 益田市の鴨島説
  2. 江津市の都野津説
  3. 邑知郡の山中の湯抱説 
  4. 浜田市の亀山説    

というように4つもあります。

浜田市の亀山説ですが、今のその亀山とは、浜田城の城山のところです。

ちなみに松江城の山も亀田山と言います。

浜田川と城山の麓(右側)


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浜田城麓の人丸社




浜田城の亀山は、昔・・・(いつのころかわかりませんが)、鴨山と言ったそうです。

※ 柿本人麻呂の終焉歌に「鴨山」と「石川」が登場しますが、その二つがキーワードとなっています。

昔は城山の麓に、柿本人麻呂を祀る「人丸社」があったようです。(現在は、秋葉社に合祀)


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浜田城跡

天守閣は、長州藩軍に攻められた際に、城を捨てて藩兵が火を放って燃えてしまったそうです。

誰が城を造ったのでしょう。羽柴秀吉の家臣である古田重則の三男の古田 重治(ふるた しげはる)です。

大坂の陣では、徳川軍側につき、その功績が認められ浜田に5万4千石を与えられ、浜田城を築城し、城下町を開拓しました。



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天守閣は現存していないので、浜田城と言われてもピンときませんが、CGで復元されている画像が表示されていました。


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石垣が結構複雑な組み立てになっています。
登っていきました。


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本丸に着きました。


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北は日本海が見えます。

松原浦

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# by yuugurekaka | 2024-01-26 17:09 | 柿本人麻呂 | Trackback | Comments(0)