■上宮太子の御子 

富家伝承の本を読んでいるが、書いてあることの奇抜さに驚かせられる。それで、本当だろうか?と疑ってしまう。それで、すぐ検証してみたくなり、他の書物を読んでみる。いや「検証」などと言う事は、博学のもののいうことであり、浅学の私にとっては、まず、いろいろな書物を読んで、富家伝承本の登場人物をまず一人一人を調べ、通説を確認していくという基礎知識が必要になってくる。その繰り返しでこの3年間過ぎたような気がする。

「日置氏の足跡」のテーマも、斎木雲州著 『飛鳥文化と宗教争乱』(大元出版)を読んで思いついた。富家伝承本『出雲と蘇我王国』(大元出版)では、日置氏はヤマト王権の実権を握る蘇我王家の命を受けて、蘇我氏の親戚である出雲王家(富家、神門臣家)の古墳造りに派遣されたように書かれていた。

しかし、『飛鳥文化と宗教争乱』(大元出版)では、上宮王家の二人の御子(日置王、財王)が、皇位継承問題の激化を避けるため、推古天皇より上宮王家を分散するために、出雲国に派遣されたという話となっている。ちなみに山背大兄王一族の危機であるが、記紀では、蘇我氏の横暴から山背大兄王一族の滅亡となっているが、富家伝承では、息長氏王家VS石川氏王家の対立(中大兄王VS山背大兄王)の中で、蘇我氏ではなく息長氏王家側の中臣鎌子(後の藤原鎌足)手を下したとしている。

上宮太子は、通説的には聖徳太子の異称とされてるが、『日本書紀』では、聖徳太子として事績が伝説化されており、古代史の世界では聖徳太子不存在説も言われている。富家伝承本でも、上宮太子は実在する人物だが、聖徳太子は、架空の人物であり、“仏教界で「日本仏教の開祖」として作り上げた菩薩の名”としている。

唐本御影(とうほん みえい)より聖徳太子と二王子像。右の人物が山背大兄王とされている。

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■推古天皇の娘ー菟道貝蛸皇女

『上宮聖徳法王帝説』によれば、「日置王」「財王」は山背大兄王と同じく、蘇我馬子の娘ー刀自古郎女を母として山背王・財王置王片岡女王の四人の御子となっている。(→ ウィキペディア 山背大兄王 
ちなみに、妃・橘大郎女には、白髪部王・手島女王の御子、妃・膳大郎女には舂米女王・長谷王(泊瀬仲王)・久波太女王・波止利女王・三枝王・伊止志古王・麻呂古王馬屋古女王がいることになっている。

しかし、『日本書紀』では敏達天皇と推古天皇の皇女ー菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)が、「東宮聖德」に嫁いだとある。富家伝承系図では、日置王」「財王」の母は、この貝蛸皇女で、「山背大兄王」「片岡女王」は、石川刀自古姫の御子となっている。(蘇我氏は、登場せず、石川臣の系譜となっている。)

さて、なぜ「日置王」「財王」という名称なのかという疑問がでてきた。たとえば、「財王」(たからのみこ)であるが、皇極・斉明天皇も宝女王(たからのひめみこ)とも云われる。また、反正天皇や仁賢天皇の皇女にも宝(財)の名が見られる。皇子女の宮の名称で、いわゆる御名代部であったと思われる。付随して、財日奉部(たからひまつりべ)という集団が存在する。財部の中で、太陽祭祀に従事した集団であったのかもしれない。

財部などは、王族によって、継承ー相続されてきた私有民達であり、あるいはそこで養育されてきたのかもしれない。
ウィキペディアによると、部民制は、“職業を軸とした職業部と、所属対象を軸とした豪族部および子代・御名代の2つのグループに分かれる。”
日置部は、一般的には職業部と考えられているが、これもまた皇子宮の御名代部であったのかもしれない。

そして、この子代(こしろ)・御名代(みなしろ)は、ウィキペディアでは、王(宮)名のついた部。舎人(とねり)・靫負(ゆげい)・膳夫(かしわで)などとして奉仕する。刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)などの例がある。御名代には在地の首長の子弟がなる。子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシハデ)にあたった。”と、ある。「改新の詔」で廃止されるまで続いたとされるが、人だけ奉仕しても成り立たぬ気がする。付随して屯倉(みやけ)という直轄地が地方にもたくさんあったのではないか?

額田部皇女 推古天皇

日本書紀』敏達天皇の項で、「6年(577)2月条に詔して日祀部(ひまつりべ)、私部(きさいべ)を置く」の記事がある。私部とは、皇后の私有部民であって、つまり、ここでの皇后は推古天皇であり、推古天皇が皇后として、日奉部を領有していたことを示しているのだろうか。また、私部は、並立的に日奉部とは別個に皇后の職務をたすける部があったのだろうか。

仏教の伝来と共に習合が進んでいく片方で、太陽祭祀として神道が純化する流れもあったのではないか。
推古女帝というところから、太陽祭祀ー巫女として、天照大御神が皇祖神として体系化される出発点でもあったのか?

推古天皇の諱(いみな)は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)である。御名代部としての額田部で養育されて、またその額田部の屯倉や部民を相続、領有していたのかもしれない。出雲国でも額田部氏の分布があるので、出雲国でも部民や屯倉が設定されていたのか?
ウィキぺディアによると、“額田部のルーツは応神天皇の皇子、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)の名代であるとも、田部の一種であるとも、554年(欽明天皇15年)に誕生した額田部皇女(のちの推古天皇)の資養や王宮の運営の基盤であるとも言われているが、部民制は5世紀後半、雄略天皇の時代に施行されたと言われており、また大和政権と出雲東部の勢力情況からして、5世紀のものとは想定しにくいため、後者が有力な説である。” 

ところで、日置部は何か。日奉部とどういう関係があるか、さっぱりわからない。たとえば、日招きや宮廷の日読(かよみ)をつかさどるものとする説・卜占暦法を主とし太陽祭祀に従事する者という説があるが、『日本書紀』推古天皇 10年10月の記事に「冬10月に、百済の僧 観勒来けり。仍りて暦の本及び天文地理の書、并て遁甲方術の書を貢る。是の時に、書生34人を選びて、観勒に学び習はしむ。陽胡史の祖玉陳、歴法を習ふ。大友村主高聡、天文遁甲を学ぶ。山背臣日立、方術を学ぶ。皆学びて業を成しつ。」(岩波文庫より)とある。暦を作る職務ということなら、何か日置部の関連ありそうなことが書かれていてもよさそうな気がするが、何もない。
なにか特定の職務というより、御名代部として存在していたと考える方が、わかりやすいように思う。

■富家伝承  日置王額田部財王

日御碕神社 上社  島根県出雲市大社町日御碕455

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以下は、斎木雲州著 『飛鳥文化と宗教争乱』(大元出版)の抜粋である。

“皇后は貝蛸皇女を生んだが、後者に額田部と日奉部を与えた。”
“推古女帝は、「寺から夕日を拝めるように、鳥居を建てよ。寺は西向きに造れ」と指定した。夕日を拝むのは、炊屋姫の出身・額田家の信仰であり、その日奉部の仕事でもあった。”(四天王寺の鳥居)
貝蛸皇女から日奉王には日奉部の領地が与えられ、額田部財王には額田部の領地が相続されていた。
“その政所では、欽明帝の指示により、日置氏が神門臣家の古墳を造り続けた。日奉王の時期には、すでに大念寺古墳などが造られていた。”

日置王ではなく、なぜ日奉王?と思ったら、

“日置氏は朝鮮系の氏族であった。日奉部は敏達天皇が設置した。その日奉部を炊屋姫から受け継いで、日奉王となった。しかし都では息長系の勢力が強くなったから、その迫害をさけるため日置氏の名前を継いだ。さらに日置王は祖母の推古女帝の希望に基づき、日御碕神社を建てる仕事に専念した。

アメノヒボコ・神功皇后を祖とする息長王家と石川臣家(『日本書紀』では蘇我氏)の緊張関係の中で、日奉部→日置部に名称変更になったような話である。
日置氏の起源は、神功皇后の御子 応神天皇の御子 大山守命とも、あるいは、姓氏録の「左京 諸蕃 高麗日置造  出自高麗国人伊利須意弥也」に見られる「高麗 伊利須使主 」の系譜なのか、しかし、これは斉明紀2年の伊利之(いりし)を同一人物とすると、大分後代の話だ。

次に日置王の兄、財王の記述である。

“一方の兄・財王は、出雲王国の王(意宇)郡舎人郷(安来市月坂・赤塚・野方方面)に就任した。” “その地の正倉は欽明帝の御代に設置され、日置臣シビが、大舎人として仕事を行ったと風土記に書かれている。その正倉役に財王が就任したことによる。”
“かれの正式の名は、額田部臣財王であった。”
“正倉の元もとの役は、倉米を換金し旧富王家の古墳を造る仕事であった。財王は富古墳群内に、いわゆる山代方墳を造った”

ガイダンス山代の郷の展示物
山代方墳と石舞台古墳の類似性を説明した図。富家伝承によると、石舞台古墳は蘇我馬子ではなく、用明天皇の寿陵となっている。


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“財王は寿陵を神魂神社の横(風土記の丘)に造った。それは出雲式の方突方墳(岡田山1号墳)であった。そこには円頭太刀などが収められていた。”

「額田部臣」の銘文のある円頭太刀   八雲立つ風土記の丘 資料学習館

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“岡田山1号墳の東に、財王の子孫の古墳ができた。それは御崎山古墳、と呼ばれている。その墳頂には日御碕神社の分社が建っている。これは財王の子孫が、日置王の子孫と仲が良かったことを示している。御崎山古墳からは獅嚙環頭大刀が出土した。これは都から手に入れたもので、円頭太刀よりも後に流行した形であることを示している。”(以上 斎木雲州著 『飛鳥文化と宗教争乱』大元出版 より)

御崎山古墳 松江市大草町 
全長約40mの前方後方墳である。

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参考文献  斎木雲州 著 『飛鳥文化と宗教争乱』大元出版 
      遠山美都男 著『古代王権と大化の改新』雄山閣出版
      井上辰雄 著 『太陽祭祀と古代氏族ー日置部を中心としてー』 
                         東アジアの古代文化 第24号 大和書房 
      木本雅康 著 『日置・壬生吉志と氷川神社 一古代の方位信仰を手がかりとして一』
      小川光三 『ヤマト古代祭祀の謎』 学生社
まあ読んだだけで記事にはあまり生かされていない。

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by yuugurekaka | 2018-08-21 19:58 | 日置臣 | Trackback | Comments(2)

■なぜに「十羅刹女社」


日御碕神社は、中世の時代、「十羅刹女(じゅうらせつにょ)社」とも呼ばれていた。

まずは十羅刹女とは何か。ウィキペディア 十羅刹女 によると、“仏教の天部における10人の女性の鬼神。鬼子母神と共に法華経の諸天善神である。” “釈迦から法華経の話を聞いて成仏できることを知り、法華経を所持し伝える者を守護する”神だそうである。

太陽神「天照大御神」であるのなら、本地仏は、「大日如来」がふさわしいと思われるが、どうして十羅刹女なのだろうか。江戸時代の地誌『雲陽誌』(1717年)によると以下の通り。


雲陽誌 巻之十

日沈宮
(前略)
耕雲明魏記曰雲州日御崎の明神はすなはち杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現、荒地山の鎮守也、孝霊天皇六十一年威霊を現とあり、
衆説区々なりしに老祀官の語けるは、上社は素盞嗚尊に田心姫湍津姫市杵嶋姫の三女をあはせ祭、下社は天照大日孁貴に正哉吾勝尊天穂日命天津彦根命活津彦根命熊野櫲樟日命の五男をあはせまつれり、 上の社下の社すへて十神なり、故に十羅刹女といふか、天暦の帝深此宮を崇、日の字を加たまふ、故に日御崎と号す、 古今祭礼不怠霊験惟新なり

上社が、素戔嗚尊+宗像三女神、と下社が、天照大御神+正哉吾勝尊・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命の五柱で、合わせて10神、それで、十羅刹女か?などと書かれている。だが女神は4神である。江戸時代の学者もよくわからないのだ。


神宮寺の関係だろうか。日御碕神社の神宮寺は、現在別の所にあり、曹洞宗であるが、曹洞宗島根第二宗務所のサイトによれば、 「天暦2(948)年62代村上天皇の勅願により、日御碕神社の境内に伽藍を創建、神宮寺と号し、別当職を司った。当時は真言宗だったと伝えられる。」とある。法華経の諸天善神を真言宗で祀るのか。


■中世の出雲神話


…と思っていたとき、平安時代の末期、御白河法王の撰である『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)の一節が浮かんだ。

「聖の住居ははどこどこぞ、箕面よ勝尾よ播磨成る播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日御碕、南は熊野の那智とかや」である。出雲の鰐淵寺や日御碕は、「聖の住所」ー山岳修験の拠り所として平安貴族の間でも有名なところであった。鰐淵寺は、修験道から天台宗に転じたと云われている。“寺に残る経筒には仁平元年から3年(1151 - 1153年)にかけて書写した法華経を「鰐淵山金剛蔵王窟」に安置したとの銘があり”(ウィキペディア 鰐淵寺 )かなり前から、比叡山延暦寺と関係があったという。


―ウィキペディアの記事を見ていて、このお寺の起源が、いかに古いのかということにびっくりした。あくまで伝承であるが推古天皇といえば、寺の創始段階ではないか。と、同時に出雲風土記になぜ書いてないのか不思議である。お寺にある仏像が、持統天皇時代のものもあるから、出雲風土記の時代には存在したと思われる。それと、日下部氏由来の日下町と、鰐淵寺が地図上では近いということ。彦坐王日下部氏ーつまりは和邇氏、あの鰐(わに)は、和邇氏から来ているんではなかろうか?同じ智春上人が開寺したという万福寺も日下町から近い。


中世には、出雲大社が神仏習合時代、鰐淵寺が別当寺であり、祭神は素戔嗚尊だった。そして、日御碕神社も、中世には杵築大社の末社に取り込まれていた時期もあったということなので、その関係で、法華経の諸天善神である十羅刹女として本地仏が位置づけられたのでは無かろうかとの思いが浮かんだ。

鰐淵寺を中心とした縁起では、釈迦が法華経を初めて説いた場というインドの鷲霊山(りょうじゅせん)の一部が砕け落ちて、海に漂っているのを、素戔嗚尊が引き寄せ打ち固めたのがの島根半島であるとされる。

奈良の出雲風土記時代にある、八束水臣津野命が新羅や高志などの国のあまった土地に綱をかけて引き寄せたという国引き神話が、仏教と習合して、素戔嗚尊がインドの鷲霊山のかけらを打ち固めたというものに変容したと思われる。


十羅刹女の伝説

『雲陽誌』のそもそもの伝説、「耕雲明魏記曰雲州日御崎の明神はすなはち杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現、荒地山の鎮守也、孝霊天皇六十一年威霊を現とあり」というところであるが、「花山院長親耕雲明魏」の「修造勧進状」(1422年)の文書には、「杵築大明神の季女である十羅刹女」は無い。
孝霊天皇六十一年十一月、月国の悪神が、荒地山(あらちやま)の旧土を復さんと欲して攻めてきた。日御碕霊神が、防いだというものだ。

日御碕神社の社伝では、
孝霊天皇六十一年(神話時代)十一月十五日、月支国王彦波瓊が、兵船数百艘をひきつれてわが出雲の日御碕に攻めて来た。なぜ攻めて来たかというと、むかし、日本の八束水臣津野命が、出雲の国を大きくしようというので、新羅の御崎から国の余りをひっぱって来て、今の杵築の御崎をつくりあげられたが、あれをとりかえすために来たのであった。さあ大変というので、日御碕では小野検校家の先祖・天之葺根命十一世の孫の明速祇命(あけはやずみのみこと)が防戦これつとめられた。また遠祖須佐之男命も天から大風を吹かせてこれを助けられた。そのために彦波瓊の大軍はことごとく海のもくずと化した。このとき彦波瓊の兵船がその艫綱を結びつけていたのが、今も沖合に見える艫島であるという”(石塚尊俊 編著『出雲隠岐の伝説』 第一法規発行)

社伝においては、日御碕神社の宮司家の祖先である明速祇命となっているが、石見地方での伝説では、それが胸鉏比売(むなすきひめ)であったり、田心姫(十羅の賊を滅ぼし、十羅刹女の名を賜わう)となっている。 詳しくは→ ウィキペディア 胸すき姫 

石見神楽での演目「十羅」では、彦羽根という鬼神と戦うのが、素戔嗚尊の末女である十羅刹女となっており、「雲陽誌」の「杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現」と合致する。




■素戔嗚尊の末娘はだれか

石見地方での伝説から考えると、素戔嗚命の末娘は宗像三女神の田心姫であると思う。しかし、記紀では、確か田心姫は長女であるはず。しかし、日本書紀の本書では最初に生まれた女神であるが、『日本書紀』第一の一書(別の説)では、3番目に化生し、名は「田心姫」で、辺津宮に祀られる。とある。『日本書紀』第三の一書でも、3番目に化生し、名は「田霧姫」で、辺津宮に祀られるとある。
『古事記』では、田心姫が大国主神との間に阿遅鉏高日子根神と下照姫(したてるひめ)を生むとしているが、富家伝承では、天之冬衣神の妻神である。

日御碕神社境内社 宗像神社

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日御碕神社の境内社 宗像神社であるが、自分が調べる限りでは。宗像三女神を祀っているのではなく、田心姫命を祀っているようだ。
もしや太古、太陽の巫女神として田心姫命を祭っていたのではないか。
また、本地仏として十羅刹女になったいきさつは、全く不明であるが、女傑の宗像族が日本海を行きかっていたということから来ているのではなかろうか。しかし、九州の宗像大社の奥津宮の本地仏は、大日如来となっていて十羅刹女ではないが。
あくまで、私の想像である。

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by yuugurekaka | 2018-08-13 18:09 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)

1)経

経島(ふみしま)は、お経の本を載せる机のように見えるから、その名が付いたそうだ。「文島」又は「日置島」とも云う。出雲風土記時代、日御碕神社の下社ー日沉宮(ひしずみのみや)の元宮であるの「百枝槐社(ももええにす)」があったと云われている。
日御碕神社の神域として一般の上陸は禁じられている。8月7日の例祭(「夕日の祭り」)、神官が経島に上陸し、現在の経島神社において神事が行われる。

沈む太陽と経島

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日沈宮の御由緒は、次の通り。

日沈宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(ふみじま)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦二年(約一千年前)に勅命によって現社地に御遷座致されたのである。経島に御鎮座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞鳴尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮まりて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり。命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎祀り給うたと伝う。
 又『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沈宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』と天平七年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。かように日御碕は古来夕日を銭け鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇敬せられたのである。
 そして、安寧天皇十三年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇二年勅命により島上に紳殿が造営された(出雲国風土記に見える百枝槐社なり)が、村上天皇天暦二年前記の如く現社地に御遷座せられ、後「神の宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。


現在の日御碕神社は、寛永21年(1644年)徳川三代将軍家光の命によって造営されたもので、権現造りである。日光東照宮建立の翌年寛永14年より建立着工し、7年の歳月をかけて完成した。

当時は、現在の上社・下社、楼門・廻廊等に加えて、薬師堂・多宝塔・護摩堂・大師堂・三重塔・鐘楼などが建立されていた。(明治の神仏分離により、仏塔の類は解体されてしまった。)だから、現在の日御碕神社が、江戸時代そのままというわけではない。

日御碕神社  島根県出雲市大社町日御碕455
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日御碕神社楼門   島根県出雲市大社町日御碕455


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江戸期の地誌『懐橘談』を見ると、

『懐橘談 下』(前編1653,後編1661)
“耕雲明魏記に云 雲州日御崎大明神と即杵築大明神の季女に而十羅刹女の化現也 荒地山の鎮守也 孝霊天皇六十一年現霊異云々
一説には伊弉冊尊(ママ)軻遇突智を斬て剣の鐔より垂血激越て神となる 甕速日神次に熯速日神と申奉るこれ御崎の明神ともいへり
衆説まちまちなりしに詞官の語りけるは 上の三社は田心姫湍津姫市杵嶋姫の三女に素盞烏を合祭せり 下の五社は正哉吾勝尊天穂日命天津彦根命活津彦根命熊野櫲樟日命五男に天照太神を合祭りて 上の社下の社で都て十羅刹女と崇奉りし故に杵築より先此宮にまいり下向して大社は参り侍る古法なり

となっている。造営の時点の祭神は、上社ー素戔嗚尊と宗像三女神、下社ー天照大御神と正哉吾勝尊(アメノオシホミミ)・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命、(いわゆる「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」神話の構成になっている)となっていることがわかる。しかし、「衆説まちまちなりし」ということで、昔からそうだったかといわれると怪しい。
中世には「杵築大明神の季女(末娘)に而十羅刹女」というように「十羅刹女が祭神」の社のようにもなっていた。大国主命の末娘は、だれかとすぐ思いがちだが、中世の杵築大明神とは素戔嗚尊であった。

2)日の出日の入りの角度

日置というからには、夏至(太陽が一番強い日)、冬至(太陽が一番弱い日)の日没の方向が関係があるのではないかという説に基づいて、自分も考えてみた。自分は、その説には腑に落ちた感じはしない。でも、いろいろと線を引っ張って、一応やってみる。
便利なサイトがあった。→ 日の出日の入り時刻方角マップ

そのサイトを利用して日御碕神社の周辺に地図に線を引いてみた。赤い線が、夏至の日の出・日の入りで、黄色い線が冬至の日の出・日の入りである。上社の元宮ー隠ヶ丘に中心に置くと、冬至の日の入り線上に、経島がある。

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次に宗像神社を中心に置くと、夏至の日の入り方向に経島神社がある。
ちなみに、現在の日御碕神社を見ると、上社は夏至の日の出方向の角度に沿って建っているが、下社の方は、夏至の日の入り方向とは、少し角度がずれていた。

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実際に宗像神社の前に立ってみたが、経島の方向は見えなかった。
残念ながら、経島に沈む太陽を奉拝する場所でも無いようである。まあ よくわからない。
しかし、これは現在の祭祀場を踏まえての考察である。

3)日御碕神社 海底遺跡

『大社史話 第167号』(平成23年6月23日発行 大社史話会)の岡本哲夫さんの文章を見て、大変驚いた。
海面上昇や地殻変動に伴い、いままで地上にあったものが、海底に沈んでしまったという祭祀遺跡が、日御碕の海底で発見されていたというのだ。
インターネットで検索したら、いろいろと出てきた。



参道、石段や岩屋だとか、写真やYOUTUBEの動画を見る限り、祭祀場のように見える。

いつの時代、海底に沈んだのかわからないが、一つの説として、880年の出雲地震が考えられている。(「三代實録」に 「二七日丁未、出雲國言、今月十四日、地大震動、境内神社佛寺官舎、及百姓居廬、或顛倒或傾倚、損傷者衆、其後迄干二十二日、晝一二度、夜三四度、微震動、猶未休止、」と、ある。)ただ、海底に沈むような大きな地震ならば、当然出雲大社が倒壊しても不思議はないが、そういう記事はない。全くもって謎である。

日御碕神社の宮司さんから、経島で行われている夕日の神事が、昔は沖にある「タイワ」の瀬で行われていたという言い伝えを聞いたそうである。もし、経島ではなく、その海底遺跡で神事が行われていたのなら、夏至の沈む方位線もまた別のところに向かって引かれることになる。

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by yuugurekaka | 2018-08-06 09:08 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)