出雲国出雲郡の大領(長官)をつとめる日置氏であるが、代々長官を務めていた家系であったように思う。そうなると、出雲平野の開拓の初期段階から、つまり出雲臣が意宇郡から移動してくる前から既に住み着いていたのではなのかなあと想像する。それがいつの時代かはっきりしないのだが、我々が思っているよりもはるか昔だったのではないのかとと思い始めた。

■ホムツワケ伝承の跡地


           

垂仁天皇の時代の物言わぬ誉津別皇子(ホムチワケオウジ)の伝承地には、神門氏、日下部氏、日置氏、鳥取部氏、品治部氏が関係しているように思われる。日置氏が中心氏族であった出雲郡出雲郷には(河内郷だったかもしれないが)、白鳥を捕らえた伝承地の求院(ぐい)という地名が存在する。

斐川町の
鵠(くぐい)神社の説明板によると、
鵠が捕らえられる前に飛び越えた川を鳥越川といい、捕らえた地は、「くぐい」が「ぐい」になり、求院という地名になったと言われる。

鵠神社(くぐいじんじゃ) 出雲市斐川町求院 八幡宮境内社    
祭神 誉津別王

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それと、『出雲風土記』に見える神門郡高岸郷、仁多郡三澤郷に見えるアジスキタカヒコの説話━大人になっても髭ぼうぼうで言葉がしゃべれないという記述━は、ホムツワケ皇子とかなり似ている。垂仁天皇の御子=ホムツワケ皇子と大国主命の御子=アジスキタカヒコ命と、どこかで話が習合してしまったかのように見える。

■尾張国の日置氏の起源
ホムツワケ伝承と日置氏との関係は、尾張国風土記(逸文)に見られる。

尾張国 風土記逸文  (『釈日本紀』卷十)
吾縵(あづら)郷
 尾張風土記の中巻にいう。丹羽郡。吾縵郷。巻向の珠城の宮で天下を治める天皇(垂仁天皇)の世、品津別(ほむつわけ)皇子は、七歳になっても言葉を発することが出来なかった。その理由を広く臣下に尋ねたが、はっきりとわかるものがいなかった。その後、皇后の夢に神が現れた。お告げに言う。「我は、多具(たく)国の神で、名前を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。我には祭祀してくれる者が未だにいない。もし我のために祭祀者を当てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう」。
天皇は、霊能者の日置部等が先祖に当たる建岡の君を祭祀者に指名して、(彼が神の求める祭祀者であるか否かを)占うと吉と出た。そこで、神の居場所探しに派遣した。ある時、建岡の君は、美濃国の花鹿山に行き着き、榊の枝を折り取って、縵(かづら)に作って、占いをして言う。「私が作った縵が落ちた所に、必ず探す神がいらっしゃるだろう」。すると縵がひとりでに飛んで行き、この吾縵郷に落ちた。この一件でこの地に阿麻乃弥加都比女の神がいらっしゃることがわかった。そこで社を建てて神を祀った。(「吾が作った縵」という建岡の君の発言によって)社を吾縵(あがかずら)社と名付け、また里の名に付けた。後世の人は訛って、阿豆良(あづら)の里といっている。”
  『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注  (角川ソフィア文庫)※ 下線と太字は、私。

阿豆良神社  愛知県一宮市あずら1-7-19

Azura Jinja-Shrine 20150724.JPG
             By 円周率3パーセント - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link



垂仁天皇の頃の話とは、応神天皇の時代よりはるか昔である。垂仁天皇の御子ホムツワケ皇子が、大人になってもしゃべれない理由が、出雲大神の祟りであったものが、尾張風土記では、(出雲大神の子孫と結婚したと思われる)出雲の多具(たく)の国のアマノミカツヒメの祟りということになっている。記紀に崇神天皇の項で、三輪山の大物主の子孫オオタタネコに祭らせたという話があるので、この日置部等が先祖に当たる建岡の君も、アマノミカツヒメの子孫である可能性もあるのではないか?


この建岡の君は、美濃国の花鹿山に行き、縵(かづら)に作って、占いをして、アマノミカツヒメの神がいる所を探し、社を建てたという話だ。もしや、日置部氏とは、神社やお寺を建てる場所を占いで、決めるというのが主要な職務であったのかもしれないと、思った。


この尾張国風土記の記事を裏付けるように、出雲風土記天甕津日女命(秋鹿郡)あるいは天御梶日女命(楯縫郡)の記載がある。

なお天甕津日女命は、大国主命の系譜の臣津野命の子の赤衾伊努意保須美比古佐倭気命の妻であり、天御梶日女命は、大国主命の御子のアジスキタカヒコ命の妻である。名前が似ているが、同一神であったかどうかはわからない。


島根県松江市鹿島町南講武602 多久神社 祭神 天甕津日女命


多久神社 島根県出雲市多久町274
御祭神 多伎都彦命・天御梶姫命

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■尾張氏の日置日女命


このアマノミカツヒメであるが、尾張風土記に出てくるくらいだから、尾張氏の系譜の神だったのではないかと思う。

先代旧事本紀 巻五 天孫本紀で尾張氏の系譜を見ると、
始祖 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
子  天香語山命 異腹の妹の穂屋姫を妻として、一男を生む
孫  天村雲命  阿俾良依姫(あひらよりひめ)を妻として、二男一女を生む。
三世 天忍人命  異腹の妹の角屋姫、又の名は葛木の出石姫を妻として、二男を生む。
   次に 天忍男命  葛木の国つ神・剣根命の娘・賀奈良知姫を妻として、二男一女を生む。
   妹に忍日女命。
四世 瀛津世襲命[又は葛木彦命という。尾張連らの祖である]。天忍男命の子。孝昭天皇の時代、大連
   となって仕えた。
   次に建額赤命。葛城の尾治置姫を妻として、一男を生む。
   妹に世襲足姫命[又の名を日置日女命]。腋上池心宮に天下を治められた孝
   昭天皇(観松彦香殖稲天皇)の皇后となり、二人の皇子をお生みになった。すなわち、天足彦国押
人命と、次に孝安天皇(日本足彦国押人天皇)がこれである。
   同じく四世孫・天戸目命。天忍人命の子。葛木の避姫を妻として二男を生む。
   次に天忍男命。大蝮壬生連らの祖である。

五世孫以下 省略。

アマノミカツヒメに似た名前の女神は出て来ない。天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊よりも前の時代の尾張国にいた女神だったのかもしれない。
しかし、5代天皇・孝昭天皇の皇后『日本書紀』本文では)世襲足姫命(よそたらしひめ)の別名が、日置日女命である。
もしや、この時代から、皇后の「御名代部」として日置部が発生して、なんどとなく、再編されてきたのではないかという思いが浮かんだ。また、この世襲足姫命は、ホムチワケ伝承の登場人物、彦坐王の御子たちの関連氏族である和珥氏の祖とされる天足彦国 押人命の母でもある。


富能加神社(ほのかじんじゃ)   島根県出雲市所原町3549

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出雲国神門郡に存在する、ホムチワケ皇子と出雲の肥長比売命を結ばれた檳榔(あじまさ)の長穂の宮跡の伝承がある富能加神社である。「ほのか」というからには、星神信仰とも関係があるように思う。星神と云えば、天津甕星ー天香香背男が浮かぶ。単に名前が似ているだけかもしれないが、「天背男命」という尾張氏の遠祖がいる。なんとなくではあるが、尾張氏も関係しているような気がする。


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by yuugurekaka | 2018-06-24 11:07 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)

Descent of Amitabha over the Mountain

                 絹本著色山越阿弥陀図 (京都・禅林寺(永観堂)所蔵)


日置部が、どういう職務を与えられていた職業部なのか、様々な説がありよくわからないが、日置氏一族は、沈む太陽への信仰を持っており、出雲風土記に書かれるところを見ると、お寺を作っているということだけはわかる。
いつの時代か、また、日置氏がどうなのかをさておいて、考えてみる。


まずは、仏教と日が沈む信仰とは、なんぞや?とインターネットで、検索すると、
「西方浄土」やら、「日想観」という言葉が出てくる。

「日の入り給ふ所は、西方浄土にてあんなり。いつかわれらもかしこに生れて、物を思はですぐさむずらん」(平家物語)
この世の西方、太陽が沈む先の、十万億の仏土を隔てたところに存在する阿弥陀如来が構えられた極楽浄土の世界があるとする。
そして、この信仰は、浄土思想固有のものだけでなく、日本人の「お彼岸」というか、春分の日・秋分の日ということに関係してくるらしい。

〝浄土思想でいう「極楽浄土」(阿弥陀如来が治める浄土の一種、西方浄土)は西方にあり、春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。現在ではこのように仏教行事として説明される場合が多い。それがやがて、祖先供養の行事へと趣旨が変わって定着した。
しかし、彼岸の行事は日本独自のものでインドや中国の仏教にはないことから、民俗学では、元は日本古来の土俗的な祖霊信仰が起源だろうと推定されている。五来重は彼岸という言葉は「日願(ひがん)」から来ており、仏教語の「彼岸」は後から結びついたものであるという。

さらに検索すると、折口信夫の『山越しの阿弥陀像の画因』(→青空文庫 折口信夫 『山越しの阿弥陀像の画因 』)という随筆が、出てきた。
ちなみに、この随筆の発端となった『山越しの阿弥陀像』は、京都・禅林寺のものではなく、東京・大倉集古館にある冷泉為恭の筆によるものである。

原始的な太陽崇拝のなごりと云われる、日の伴(ひのとも)のことが述べられている。

〝昔と言うばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀ひまつりをする風習が行われていて、日の出から日の入りまで、日を迎え、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があったことだけは、確かでもあり又事実でもあった。そうして其なごりが、今も消えきらずにいる。日迎え日送りと言うのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行われている風が、その一つである。而も其間に朝昼夕と三度まで、米を供えて日を拝むとある。(柳田先生、歳時習俗語彙ごい)又おなじ語彙に、丹波中郡で社日参りというのは、此日早天に東方に当る宮や、寺又は、地蔵尊などに参って、日の出を迎え、其から順に南を廻って西の方へ行き、日の入りを送って後、かえって来る。これをともと謂っている。宮津辺では、日天様にってんさま御伴おともと称して、以前は同様の行事があったが、其は、彼岸の中日にすることになっていた。紀伊の那智郡では唯おともと謂う……。こうある。〟(折口信夫 『山越しの阿弥陀像の画因 』より)

また、この度のテーマである日置部(へきべ)や日奉部(ひまつりべ)のことが述べられている。なるほど、名称が違うので、日置部=日奉部ではなくて、「置く」は、「算盤の上で、ある数にあたる珠たまを定置することなのか。また、太陽の運行で、歳時・風雨・豊凶を卜知するということが、具体的には置くという職務で、ばくぜんと暦というよりは、稲作の時期などが関係していないかなどと思ったりもする。

〝宮廷におかせられては、御代みよ御代の尊い御方に、近侍した舎人とねりたちが、その御宇ぎょう御宇の聖蹟を伝え、その御代御代の御威力を現実に示す信仰を、諸方に伝播でんぱした。此が、日奉部ひまつりべ(又、日祀部ひまつりべ)なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。此部曲かきべの事については、既に前年、柳田先生が注意していられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ(又、ひきへき)と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。おくは後代算盤そろばんの上で、ある数にあたるたまを定置することになっているが、大体同じ様な意義に、古くから用いている。折口信夫 『山越しの阿弥陀像の画因 』より)

源為憲の「口遊くゆう」に、「術にはく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し…」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などとある。此は算盤を以てする卜法ぼくほうである。置くが日を計ることに関聯かんれんしていることは、ほぼ疑いはないようである。ただおくなる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によって、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示しているのは明らかである。折口信夫 『山越しの阿弥陀像の画因 』より)


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by yuugurekaka | 2018-06-10 22:05 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)