■氏族分布

七三九年の『出雲国大税賑給歴名帳』では、扶養する高年の者および年少者の属す戸主の姓氏だけを記しており、属するすべての氏族名を記してないが、大方の氏族の分布がわかる。

河内郷(百一名中八十五名記載され、十六名欠)
日置部臣 二十三戸
日置部首 四戸日置部 一戸建部臣 二戸、建部 一戸、日下部首 二戸、山長首 一戸、神門臣族 二戸、林臣族 一戸 

河内郷は、日置氏が圧倒的であり、拠点であったろうと思える。

■河内国との関わり


『雲陽誌』(1717年)の「上郷」に「河内」を称する「河内明神」の記載があり、はてな?と思える箇所がある。

河内明神 何の神をまつるや未知、古老傳云河内國より勧請せり、故に俚民河内明神と申なり、社四尺に五尺承応年中建立の棟札あり、祭禮九月廿九日、

河内国から勧請したので河内明神?
河内郷にあるから、河内明神ではないのか。『出雲風土記』(733年)では『斐伊大河がこの郷の中を北へ流れる。だから河内という。』というのが、そもそも由来ではないのだろうかと、疑問に思った。しかし、その片方で、『出雲風土記』は地元の人が考えたので、正しいというように考えがちだが、そもそも「河内国に由来するから河内郷」という説もありうるのではないかと思った。

河内明神が、現在の河内神社であろう。

河内神社 島根県出雲市上島町3495

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『神国島根』によると
〝河内神社 
[主祭神] 木花開耶姫命
[由緒・沿革] 創立不詳といえども文亀年中の社記に当社は風土記にいう河内郷河内神社に座して郷の中土に御座これ有る処、洪水の節、今地に移す、その後を神田という。式外の社とも登載あり、明治五年二月村社に列せられる。
明治四十三年十一月三十日許可を得、明治四十四年十月十九日上郷神社に合併す。昭和二十三年九月一日神社本庁統現の承認を得て、御祭神を今の場所に奉遷、河内神社を再建す。

河内神社と称するがゆえ、もともとは河内郷の中心地、上津の方に合ったと思える。斐伊川は暴れ川であるため、宮が流されるようになって、現在地になったのではあるまいか。
しかし、なぜ、木花開耶姫なのだろう。河内郷であったところには、なぜだか、日向神話にまつわる祭神の神社が多い。


■日置氏の系譜


「新撰姓氏録」(815年)で、日置氏の系譜がないか調べた。

右京 皇別 日置朝臣 朝臣 応神天皇皇子大山守王之後也 

なんだ京都の右京ではないかと、思えるが、この応神天皇は、奈良から河内に都を移した天皇である。
第15代天皇の応神から始まる王朝は、河内国に宮や陵を多く築いていることから「河内王朝」と呼ばれる。当時の「河内国」は、「当時、律令制以前の為、律令制以後の摂津国、河内国、和泉国、全ては河内であった。」(→ウィキペディア 河内王朝 )
これで、日置氏と河内がつながった。

この大山守皇子(おおやまもり の みこ)であるが、高城入姫命を母として、仁徳天皇や菟道稚郎子の異母兄になり、記紀では、跡継ぎ争いで船を転覆させられ、水死した皇子であり、大山守命とも云われる。『日本書紀』応神天皇記では、山川林野を掌る役目としたとある。
『古事記』には後裔氏族として土形の君(ひじかたのきみ)幣岐の君(へきのきみ)榛原君(はりはらのきみ)が、書かれている。ウィキぺディア 大山守皇子 )

また、同母兄に、額田大中彦皇子がいる。『日本書紀』では、游宇宿禰と屯田の帰属をめぐる争う伝承と、闘鶏氷室(つげのひむろ)の起源説話に登場する。出雲の仏経山の周りに斐川町神氷氷室なる地名もあり、もしや何か関係があるのかしらなどと思った。
額田部氏の起源にも関係しているのではないかなというのも浮かぶ。

木花開耶姫命の父神は、大山津見神である。応神天皇の御子大山守命と名前が似ている。もしかしたら、習合したんではないだろうか。まあ 大した根拠も無く、想像でしかない。

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by yuugurekaka | 2018-05-24 09:22 | 日置臣 | Trackback

■出雲郡 河内郷
『出雲風土記』(733年)の出雲郡
役所のNO.1 大領は、日置部臣である。出雲郡だから、出雲臣ではないのだ。

斐伊川と赤川が合流する所 島根県出雲市斐川町阿宮 

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河内郷。郡家の正南一十三里一百歩の所にある。斐伊大河がこの郷の中を北へ流れる。だから河内という。ここに(つつみ)がある。長さ一百七十丈五尺。〔うち七十一文の広さは七丈、九十五丈の広さは四丈五尺ある。〕〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

「河内郷」は、この郷の中を斐伊川が流れているので、河内と云うのだそうだ。斐伊川の両側の流域が河内郷である。

阿宮とは反対側の上津の方から見た斐伊川 

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来てみてわかったが、出雲のカンナビ山 仏経山の南の麓に、河内郷が存在する。下記の見える山が、仏経山で下に斐伊川が流れている。上方が、斐伊川町下阿宮で、下方が上島町上津である。

グーグルアース 仏経山の南方付近

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河内郷
新造院

ここでもまた日置氏は、新造院という寺を建てている。中心部の「出雲郷」ではなくて「河内郷」にある。日置氏自体は、もしや河内郷を拠点としていたのだろうか。

〝新造院一所。河内郷の中にある。厳堂(ごんどう)を建立している。郡家の正南一十三里一百歩の所にある。もとの大領の日置部臣布禰(へきべのおみふね)が造った寺である。〔布禰は今の大領佐底麻呂(さてまろ)の祖父である。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)

こんどは臣姓である。大領の祖父ということだから、700年ごろには、もうお寺を建てていたのだろうか。河内新造院の場所は、確定されていないが、比定地の一つが、現在の上乗寺の近辺である。


上乗寺の山門  島根県出雲市上島町49

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「上乗寺」の縁起文には、「出雲風土記二新造院トアルハ当寺の前身二シテ、ソハ当村大谷部落奥ナル高瀬山麓二現在寺床ト称する地アリテ、ソコニ作ラレヰタルモノノ如し、出雲風土記ノ編纂ガ天平五年二月故ソレヨリ十余年後ナル勝寶年中華厳宗ノ僧二ヨリ現地移転セラレルト伝フ」と書かれている。
上乗寺の近くの「西円寺」も縁起文によれば、かつては新造院と号したと伝えている。(『上津郷土史』)

また、斐伊川をはさんで反対側の下阿宮では、1987年、標高200メートルの山頂付近に塔・金堂を持つ「天寺平廃寺」が、発見された。

参考文献  関 和彦著 『出雲風土記』註論 明石書店発行

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by yuugurekaka | 2018-05-20 09:00 | 日置臣 | Trackback

■北新造院


出雲風土記(733年)の意宇郡山代郷の寺院の記載である。
山国郷では、「日置部根緒」今度は、「日置君目烈」、日置氏は、官位に関わりなく、個人名が出ており、新造院を建てているようだ。

〝新造院一所。山代郷の中にある。郡家の西北四里二百歩の所にある。厳堂を建立している。〔僧はいない。〕日置君目烈(へきのきみめづら)が造営した。〔この人は、出雲神戸の日置君 鹿麻呂(かまろ)の父である。〕〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私

北新造院跡(来美廃寺)  復元された参道・石段 


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松江市営来美アパート裏の丘にある。このように石段だけ見ているとさっぱりわからないが、説明板にイメージ図が書いてあって、古代の寺院をおぼろげながら想像できる。

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左下に講堂、上段に厳堂(金堂)、金堂(こんどう)の脇には、東西に塔があったと推定されているようだ。
金堂の両脇に塔を作るのが変則的であるそうだ。
出雲風土記が書かれた時代には、全て建てられていたかわからないが、こんな立派な寺院になぜ「僧はいない。」というのがピンとこない。まだ、出雲地方では、仏教が普及する過渡期であったのだろうか。

北新造院跡
(来美廃寺)
  復元された金堂の
石段
 

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金堂の推定されるところには、全国的にも珍しい仏像の台座である須弥壇(しゅみだん)があったようだ。

北新造院跡
(来美廃寺)
  復元された
須弥壇

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中央に蓮華座(れんげざ)、左右に脇侍(きょうじ)の像が安置されていたと推定されている。
また、金堂の東側の塔の上の飾りの相輪(そうりん)は、全国的にも珍しい石製だったそうだ。(一般的には銅製)

■南新造院


南新
造院は、日置氏がたてた寺院ではなく出雲臣が建てた寺院である。


〝新造院一所。山代郷の中にある。郡家の西北二里の所にある。教堂(きょうどう)を建立している。〔住僧が一人いる。〕飯石郡小領の出雲臣弟山(いいしぐんしょうりょうのいずものおみおとやま)が造営した。〟

〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)


実際に行ってみると、北新造院と比べて一見小さい気がするが、中心部に民家が立っていたりして、
見学できるところは、ほんの一部分でしかない。
道路を挟んで向こうの南側に直径約1、2メートルの柱穴5つと、1メートル以上の深さがある溝の跡などあり、南新造院の敷地は、かなり広いものと思われる。

南新造院跡ー
四王寺(しわじ)基壇跡 

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この教堂は、講堂と解されているようだ。なぜ、教堂のみ建てたと書かれているのだろう。少しずつ建てたのだろうか。また、飯石郡役所のNO.2であった出雲臣弟山が、なぜここ意宇郡山代郷に建てたのだろうか。そもそも、ここが出奔の地だったのだろうか。
後に出雲国造となる人物であるが、そもそも出雲国造も何系かあったのだろうか。


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by yuugurekaka | 2018-05-14 00:17 | 日置臣 | Trackback

■舎人郷(とねりごう)


舎人郷正倉推定地 
島根県教育委員会の表示板 

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舎人郷。

郡家の正東二十六里の所にある。志貴島宮御宇天皇(欽明天皇)の御世に、倉舎人君(くらとねりのきみ)たちの先祖、日置臣志毘(へきのおみしび)が大舎人(おおとねり)としてお仕え申し上げた。そしてここは、志毘が住んでいたところである。だから、舎人という。この郷には正倉がある。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)


この舎人郷(とねりごう)の由来の「大舎人(おおとねり)」とは何か?

〝大舎人  おおとねり
令制で,左右大舎人寮に属し,宮中で宿直,供奉 (ぐぶ) などを司った下級官人。四位,五位の子や孫から選ばれ,定員は各 800人 (のち左右合せて 400人) であった。〟(出典 ブリタニカ国際大百科事典 )

令制以後については673年(天武2)5月,仕官する者をまず大舎人(おおどねり)寮に収容し,その才能を試験したのち適当な職務につかせた。これは,天皇に近侍し,宿直や遣使をつとめる間に天皇に忠節をつくす習慣を養わせ,このように養成された大舎人を他の官司の官人に任じ,天皇による支配を官司に浸透させるしくみであったことを物語る。(世界大百科事典 第2版  株式会社平凡社)

ヤマト王権の中央集権を強めるために、天皇の傍で働くことで、教育され、その後適当な職務についたお役人なのだな。

■ 日置氏とは太陽祭祀にかかわりある氏族

日置氏がヤマト王権の中央集権化を強めるそういう職務である大舎人を派遣する豪族だったということなのだと思う。
もともとの出雲族というよりは、ヤマト中央との関係が強い氏族で全国に展開していったのだろう。あるいは、中央での職務を担うことで日置氏という一氏族を形成したのかもしれない。

よく言われることだが、日置氏は日神祭祀に関わる職務を担っていたという。いつの時代かわからないが、欽明天皇の頃には、太陽神ー皇祖神として位置づけられ、それを伝播する役割が主なものだったのか。
職務も時代時代によって変わり、ヤマト王権の中央集権化という役割がそもそもの役割だったのかな。

日御碕神社 日沈宮    
島根県出雲市大社町日御碕455

祭神 天照大御神 


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地上の聖火は天上の日神よりもたらされるがゆえに,日置氏は日神祭祀にかかわるようになったらしい。伊勢の斎宮の付近に日置氏が分布し,日置田が置かれていたり,また東の伊勢に対して落日西海の地にあるとして,日沈宮(ひしずみのみや)と称された出雲の日御碕(ひのみさき)神社の神官が日置一族であった。このことは,日置氏が文字どおり太陽祭祀にかかわりある氏族であり,日置部が日祀部(ひまつりべ)とともに古代天皇の日神的権威を奉斎し,全国に鼓吹することを職掌とした宗教的部民であったと考えられる。(世界大百科事典 第2版  株式会社平凡社)


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by yuugurekaka | 2018-05-06 07:00 | 日置臣 | Trackback

■山国郷 新造院


『出雲風土記』(733年)を見る限りでは、日置氏(ひおきうじ、へきうじ)はお寺を出雲国に造りに来たのではないか?仏教の普及ということが職務にあったのではないかと思ってしまう。

【三】 意宇郡の寺院

新造院一所。山国郷の中にある。郡家の東南三十一里一百二十歩の所にある。三重塔が建立されている。山国郷の人、日置部根緒が造営した。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


新造院比定地  安来市上吉田町の釈迦堂跡 


山国郷新造院の比定地である釈迦堂跡であるが、地図を見てもなかなか場所がわからなかった。
車を降りて周辺の道路をあっち行ったりこっち行ったりした。
まずは山国郷の位置を確認する。安来市の南方面、奈良時代は舎人郷の南に隣接している。

教昊寺(きょうこうじ)近くの島根県教育委員会の表示板   

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ちなみに山国郷の地名起源だが、布都努志命(ふつぬし)が登場するところを見ると、奈良時代は物部氏が居たのだろうか。

山国郷(やまくにごう)。郡家の東南三十二里二百三十歩の所にある。布都努志命が国をめぐりなさったとき、ここにおいでになっておっしゃられたことには、「この土地は絶えず【原文…止まなくに。】見ていたい。」とおっしゃった。だから山国という。この郷には正倉がある。島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


別所の松崎神社の近くをうろうろしていた所、表示板を発見。ようやくたどり着いた。
小道をあるいてすぐの平地に、新造院跡地があった。

島根県教育委員会の表示板   島根県安来市上吉田町別所

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新造院比定地  安来市上吉田町の釈迦堂跡

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新造院跡地がある小山の反対側(北側)であるが、こちらからは登り路は無く、入れなかった。

釈迦堂跡がある山


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■日置部とは…


全国に分布する「日置部」であるが、下記は『世界大百科事典 第2版』の引用である。 


〈ひきべ〉〈へきべ〉などとも読む。日置を戸置(へき)の意に解し,民戸をつかさどるものとする説(伴信友,栗田寛),日招きや宮廷の日読(かよみ)をつかさどるものとする説(柳田国男,折口信夫),さらには卜占暦法を主とし太陽祭祀に従事する者という見解も出された。一方,神事や祭祀にかかわり合いながら,それらの手工業生産にも当たる性格も指摘されてきた。もともと日置氏は宮内省主殿寮殿部(とのもり)の負名氏(なおいのうじ)の一つで,本拠は大和国葛上郡日置郷にあり,地縁的にも職掌的にも同じ負名氏の鴨氏と類縁の関係にあったと考えられている。(『世界大百科事典 第2版』  株式会社平凡社)


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by yuugurekaka | 2018-05-01 15:01 | 日置臣 | Trackback