■ 紀伊の熊野三社との統合

中世には紀州の熊野信仰の影響が強まり。いつからそうなったのかわからないが、近世には熊野大社は紀伊の熊野三山と統合して、上の宮は事解男・速玉男・伊弉冉の三神を「熊野三社」と云い、下の宮は天照大神・素戔嗚命・五男三女を祭り、「伊勢宮」と呼んだ。だから、古の熊野大社とは全く違う形になってしまったわけである。
しかし、明治の神道再編の中で、上の宮は廃し、下の宮一つにまとめて、熊野神社となった。
国幣中社にされ、その後大正五年に国幣大社に昇格した。そして、昭和52年には社名も熊野大社となり、現在に到っている。

熊野大社 上の宮跡地    熊野大社から約500メートル南のところにある。

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■ 紀伊と同名の神社

『延喜式』神名帳(927年)を見ると、出雲国と同名の式内社が多いことに気づく。
出雲も紀伊国も熊野坐神社」の社格は共に「名神大社」となっているが、須佐神社や伊達神社などが、「名神大社」で紀伊国の方が高い。(出雲国は小社)
そのことから、紀伊国が素戔嗚命や五十猛命の本源地とする説もある。
出雲は単に神話の舞台に利用されたとするがっかりした説も古代史に根強い。

紀伊国の出雲国と同名の神社

名草郡 加太神社    小社
名草郡 伊達神社(
いたてじんじゃ) 名神大社 
在田郡 須佐神社   名神大
牟婁郡 熊野早玉神社  
牟婁郡 熊野坐神社  名神大

加多神社  島根県雲南市大東町大東362  
祭神は、少彦名命 

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紀伊国名草郡にも存在し、出雲国大原郡に存在する「加多神社」の祭神スクナ彦命(記紀では少彦名命)であるが、その登場する場面で、
日本書紀では、「少彦名命、行きて熊野の御崎に至りて、遂に常世郷に適しぬ」とあり、ここでも「熊野」が出てくる。紀伊の熊野ともとれ、和歌山の潮御崎の伝承も存在する。

また、古事記では、「オホクニヌシが、出雲の美保の岬にいました時じゃが、波の穂の上を、アメノカガミ船に乗っての、」(三浦佑之 訳・注釈 口語訳 『古事記』文春文庫 )ということから、熊野の御崎は、出雲の美保関となっている。
「熊野」という言葉が、「神の」という一般的な使い方だったのかもしれない。

美保関と言えば、事代主命である。富家伝承では、スクナ彦は、副王であり、(主王がオオナムチ)、八代目スクナ彦である事代主命のことを云う。単に出雲族の神ではなく、同族化の原理で、紀氏も親戚である。だから、同名の神社が存在しても不思議はないし、どちらかが本物で勧請とかいうものではないのだろう。

■ 事代主命の子孫

物部氏の伝承であると云われる『先代旧事本紀』では、なぜだか事代主命の子孫の系譜が詳しく述べられている。出雲の国ではなくて、大和の国の賀茂氏、大神氏の系譜のようである。しかし、出雲氏、神門氏との婚姻のことも書かれている。

「御孫の都味歯八重事代主神は、大きな熊鰐となって、三嶋の溝杭の娘、活玉依姫のもとに通い、一男一女がお生まれになった。
御子は、天の日方奇日方の命と申し上げる。
この命は、橿原の朝の御世の御命令で食国の政治を掌る大夫となって奉仕された。
妹の姫鞴五十鈴姫の命は橿原の朝の皇后となり、二児がお生まれになった。神渟河耳天皇、次に彦八井耳命と申し上げる。
次の妹五十鈴依姫命は葛城の高丘の朝の皇后となられて、一児がお生まれになった。磯城津彦玉手看の天皇である。

三世の孫、天の日方奇日方の命。またのお名前は阿田都久志尼命と申し上げる。
この命は、日向の賀牟度美良姫を妻として一男一女がお生まれになった。
御子は建飯勝の命で、妹は渟中底姫の命と申し上げる。この命は軽の地の曲峡の宮で天下を治められた天皇の皇后となり、四柱の御子がお生まれになった。大日本根子彦耜友天皇、次に常津彦の命、次に磯城津彦の命、次に研貴彦友背の命と申し上げる。

四世の孫、建飯勝の命は、出雲の臣の娘・沙麻奈姫を妻として一男がお生まれになった。

五世の孫、建甕尻の命またの名は建甕槌命、または建甕之尾命と申し上げる。
この命は伊勢の幡主の娘、賀貝呂姫を妻として一男がお生まれになった。

六世孫、豊御気主命は、またの名前を建甕依命と申し上げる。
この命は紀伊の名草姫を妻として一男がお生まれになった。

七世孫、大御気主命は、大倭国の民磯姫を妻として二男がお生まれになった。

八世の孫、阿田賀田須命は、和迩の君たちの先祖である。次に建飯賀田須命は、鴨部の美良姫を妻として一男がお生まれになった。

九世の孫、大田々祢古の命は、またの名を大直祢古の命と申し上げる。
この命は出雲神門臣の娘、美気姫を妻として一男がお生まれになった。

十世の孫、大御気持の命は、出雲の鞍山祇姫を妻として三男がお生まれになった。

十一世の孫、大鴨積の命は、磯城の瑞垣の朝の時代に賀茂の君の姓を授かった。次に、弟の大友主の命は、同じ朝の時代に大神の君の姓を授かった。次に田々彦の命は、同じ朝の時代に神部の直・大神部の直の姓を授かった。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社より なお解説は省略。) 

事代主命の系譜に国譲りの「建甕槌命」(タケミカヅチノ命)が出てびっくりする。
6世孫の豊御気主の命であるが、紀州の名草姫を妻とするとある。はて、神武東征の熊野村の話に、神武天皇の行く手を阻む女首長「名草戸畔」が登場するが、もしや、この名草姫がモデル?などと思ったりもする。

「熊野」というのが事代主命や紀氏が関係しているのかなとちょこっと思った次第である。

■ 速玉社

出雲国にもある「速玉社」であるが、一般的には、現 熊野大社境内社・伊邪那美神社に合祀されているとされている。
しかし、『出雲神社巡拝記』(1833)には、「大庭村 国造北島舘古屋敷内 速玉大明神 記云 速玉社 式云 速玉神社 祭神 はやたまのをの命」ともある。

出雲風土記や延喜式の云う速玉社・速玉神社は国造北島家の古屋敷内にあるというのだ。
その社跡は、神魂神社に向かう参道脇にあった。
現在は、神魂神社境内社・稲荷神社に合祀されているが、出雲国造家にとっては大変重要な社であったようである。


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この社の祭神、「速玉之男命」はイザナギの命が、黄泉の国に訪問したときに、イザナミの命と離縁を決意しつばを吐いたが、吐かれたつばから生まれた神が、「速玉之男命」である。

海部氏、物部氏伝承によれば、天火明命=饒速日命ともされる。姓氏録をみると、天火明命を祖とする尾張氏、饒速日命を祖とする物部氏というように完全なイコールではない。富家伝承本には更に天火明命=饒速日命=さらに素戔嗚命と書かれている。

自分には、黄泉の国の話を考えると、
イザナミの命の離縁前のイザナギの天火明命で、離縁後のイザナギの命が饒速日命のように思える。それからすると、吐いたつばは離縁を象徴していて、饒速日命の別名のようにも感じる。

さて、「御鼻をお洗いに成った神のお名前は、建速素戔烏(たけはやすさのお)尊(みこと)と申し上げる。出雲の国の熊野・杵築の神社(島根県松江市八雲町熊野の熊野大社・出雲市大社町杵築の出雲大社、旧簸川郡)におられる。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社)という『先代旧事本紀』の祭神の変更だが、出雲国造家の内部からもたされたものかわからないが、自分には壬申の乱から持統天皇以後の中央の豪族の権力関係が大きく影響したのではないかと思っている。


by yuugurekaka | 2018-04-29 16:25 | 熊野大社 | Trackback

■ 祭神
熊野大社の説明板によると、熊野大社の祭神は熊野大神櫛御気野命であり、素戔烏尊の別名とされている。
しかし、祭神は歴史に伴って代わるものである。
あの出雲大社の祭神でさえ、中世には大国主命から素戔嗚命に変わってしまった。だから、熊野大社の祭神も変わっていたとしても不思議はない。
富家伝承(斎木雲州著『出雲と蘇我王国』大元出版)によれば、熊野大社の祭神はサイノカミ三神(クナド大神、佐毘売神、猿田彦大神)と事代主命であったそうである。

出雲国造出雲臣廣島 編纂の『出雲風土記』(733年)の意宇郡の出雲神戸(いずもかんべ)の説明に
伊弉奈枳(いざなぎ)の麻奈子(まなこ)、熊野加武呂乃命(くまのかむろ)」とある。
イザナギの命の愛しい子どもとあり、熊野の「神聖な祖神」と解釈されている。男神なのか女神なのか具体的にはわからない。

さらに、『出雲国造神賀詞』(716年~833年 文献に載っているのは)には(いつの段階の文書かわからないが)
「伊射奈伎乃真名子(いざなぎのひまなこ)加夫呂(かむろぎ)熊野大神櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」(太字は私)とある。「まなこ」の上に「日」が、付いている。イザナギの命の真奈子で日の神は、天照大神である。だったら、女神かと思いきや、」が付いているので男神である。女神の場合、加夫呂美(かむろみ)となるはずだ。そして、具体的な名として、「櫛御気野命とある。霊妙な
食物の神あるいは穀物霊ということだ。出雲国造が奉祭する神なので、初代 天穂日命を想定したものだとわかりやすいが、天穂日命は、天照大御神の子なので、イザナギの子では無く孫に当たる。

クナト大神も、記紀では、イザナギの命が、黄泉の国から逃げかえるときに発生した神であり、『古事記』では、衝立船戸神で、『日本書紀』一書においては、岐神(元の名は来名戸祖神)なっており、イザナギのマナ子とも言えなくもないが、記紀成立以降、朝廷に赴いて出雲国造が、述べるとなると、三貴神を指すと思われる。思われるが、たいへん歯切れが悪い。須佐之男命と断定されるにいたったのは、物部氏の伝承と云われる『先代旧事本紀』~大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前に成立したとみられている~が、影響しているのだろうか。

「御鼻をお洗いに成った神のお名前は、建速素戔烏(たけはやすさのお)尊(みこと)と申し上げる。出雲の国の熊野・杵築の神社(島根県松江市八雲町熊野の熊野大社・出雲市大社町杵築の出雲大社、旧簸川郡)におられる。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社)

ただ、この文章からは、おられるというだけで、熊野大神は素戔嗚尊であるとは書かれていないし、もし主祭神のことを指すのであれば杵築大社がすでに大国主命から素戔嗚尊に変わっていたことになる。
また大きな古い神社は、社家が一つとは限らない。社家ごとに、複数の社が有って、別々の神を祀っていたのであろうか。

■ 『初天地本紀』
平安中期の『長寛勘文』に引用される『初天地本紀』──紀国の熊野信仰について述べられた文章であるが、出雲国の熊野大社についても書かれている→ウィキペディア 長寛勘文  ──によると、

「伊謝那支命(いざなぎのみこと)が恵乃女命(えのめのみこと)を娶(めと)り、大夜乃売命(おおやのめのみこと)、足夜乃女命(たるやのめのみこと)、若夜女命(わかやめのみこと)の三女神を生んだ(このうち大夜乃売命は熊野大神の妃となる。)ところが、陸上に立ち給うとき、左肩を押し撫でたときに加巳川比古命を、また右肩を押し撫でたとき熊野大御神加夫里支久之弥居怒命(かぶりしみけぬのみこと)を、また髻中(もとどり)から須佐乃乎命(すさのおのみこと)を、それぞれ化成した。次に、「此時金国之八熊野之波地降来伊豆(毛)国、到熊野村、柱太知(ふとしり)奉而加夫里支熊野大御神地祇神皇又御児后大夜女命、山狭村宮柱太知奉而、静坐大御神云是也」(松前 健 著作集 第8巻 ㈱おうふう より)(太字は私)

この『初天地本紀』によれば、熊野大神は、素戔嗚命の兄弟であり、素戔嗚命とは別神となっている。そして、同じイザナギの命の娘の大夜乃売命が、熊野大神の妃神であり山佐村に鎮座しているということだ。
記紀とは全く別の筋立てであるが、この熊野山の東側には、「延喜式」の「山狹神社」「同社坐久志美氣濃神社」に比定される、山狭神社二社(上山神社・下山神社)が存在する。熊野山(天狗山)の反対側で、同じ神ークシミケㇴの命を祭っていたわけである。

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山狭神社(上山狭神社)  島根県安来市広瀬町上山佐598   


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山狭神社(上山狭神社) 拝殿 


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この熊野大神の御妃の「大夜乃売命」であるが、松前 健氏の解説だが、
「内遠は、イザナギの禊ぎの際に生まれた大綾津日神の女性形だと考えたが、かなり無理である。重胤は、大屋津姫命の母神でスサノヲの妃神の一人だと考えたが、そんなにまわりくどく考える必要もない。実は端的に大屋津姫の異名にほかならない。オホヤノメもオホヤツヒメも、つまるところは所有格の助詞「ノ」と「ツ」の違いだけで、同じ神に過ぎないのである。」(松前 健 著作集 第8巻 ㈱おうふう)

ちなみに大屋津姫命は、記紀において、五十猛命の妹神となっている。

山狭神社(下山狭神社) 島根県安来市広瀬町下山佐1176


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山狭神社(下山狭神社)境内社  久志美気濃神社  扁額  

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熊野山から流れ出る水が、西には意宇川に、東は山佐川に流れて飯梨川と一つになり、野城の大神の鎮座する飯梨平野に流れていく。

山佐川 

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■ 参考文献 ■ 萩原龍夫・石塚尊俊・中野幡能 著 『仏教文化選書 神々の聖地』 株式会社佼成出版社  

by yuugurekaka | 2018-04-18 19:28 | 熊野大社 | Trackback

■ 熊野山

『出雲風土記』に載っているカンナビ山は、平野部から概ね山の姿がよくわかる。しかしながら、熊野山(現 天狗山)の山容は麓の熊野大社からも見えない。
どこから見えるのだろうかと、場所を探すがなかなかその場所が見つからない。
地図上で見ると、須賀神社の奥宮がある八雲山がちょうど西側に位置する。そこで、八雲山に登ってみて、写したのが下の写真である。


東出雲地方(旧八束郡・旧松江市)の中では、最も高い山で、610.4メートルある。

麓から仰ぎ見て拝む山ではないように思う。現在は、天狗山というが、過去には天宮山とも云ったという。『出雲風土記』(733年)の時代は、熊野山と云い、熊野大神の社があったと書かれている。


熊野山。郡家の正南一十八里の所にある。〔檜(ひ)・檀(まゆみ)がある。いわゆる熊野大神の社が鎮座していらっしゃる。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


グーグルアースの地図から見る熊野大社と天狗山の位置


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天狗山の登山者用の駐車場に止めて、歩いて行った。始めは、登山道ではなく林道を歩いていく。


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意宇川に流れる熊野山の川を左手に見ながら、道を歩いていく。山の間から、水がしみ出していた。そこでは、平野部では聞いたことのないような、不思議なカエルの声がする。そのカエルの正体を見ていた。黒っぽい痩せっぽちのカエルだった。


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いよいよ登山道の入り口に到達した。


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突然細い登山道となった。傍らに小川が流れていた。


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谷の左手の細い道を登って行ったが、小川の源流というか、

山水が湧き出ているところに来た。「意宇の源」と表示されていた。


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『出雲風土記』にも、意宇川に熊野山が水の源と書かれていた。実際には、ここだけではなく、山のいろいろな場所から水が湧き出て、川になっていると思う。


意宇(おう)川。源は郡家の正南一十八里にある熊野山から出て北に流れ、東に折れ、流れて入海に入る。〔年魚・伊具比がいる。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


■ 元宮 


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笹が生えているところが多くなった。

駐車場から約1時間、『斎場』と書かれている所にきた。その先には、「磐座」(いわくら)が見える。


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説明板によると、熊野大社の斎場跡(祭場跡)で、元宮平(げんぐがなり)と云われている地で、磐座のあるところが熊野大社の元宮だという。『日本書紀』(720年)の斉明天皇五年(659年)に「出雲国造に命じて厳かな神の宮を建てさせた。」との記述があるが、それまでは磐座をご神体として、祭祀のみが行なわれていたのだろうか?

“人間が五穀豊穣や国家の安穏を祈る際にはカミの来臨のために「ヒモロギ」(神籬)や「岩クラ」などと呼ばれる臨時の神の座を作って、そこにカミを招請して、数々の食べ物を捧げ、祈願する。祈願が済むとカミは帰還せられる。そのありかは定かならぬものである。カミはいつも天や山などの高いところなど、人界とは隔絶した場所にいて、人間には見えない存在だった。”(大野晋著『日本人の神』河出文庫)

古代において、より高い山の頂の近くに神は降臨する存在として考えられた。
神は漂い彷徨し移動する存在と考えられ、それゆえ山の麓に依代としての神社そのものが麓に移動してきたとも考えられる。  

 


by yuugurekaka | 2018-04-03 00:32 | 熊野大社 | Trackback