「謎」と言えば、すべてが謎である。だから、題名にいちいち「謎」というのも考えものかもしれない。ただ、「真実の」とか肩肘はっていうつもりは全くない。
まずは、この「熊野」という名称である。紀伊国の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)も同じく「熊野」で有名であるが、なぜ同じ「熊野」という名のだろう

■ 奥まった所 説

熊野大社拝殿  島根県松江市八雲町熊野2451番

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当然ながら、古い言葉は、漢字の当て字なので、熊、熊野は、動物の熊とは関係なく、「くま」という言葉がどのように使われているかということから考えないといけない。

たとえば、『出雲風土記』(733年)の飯石郡・熊谷郷の記載に 
久志伊奈太美等与麻奴良比売くしいなだみとよまぬらひめいのちが、妊娠にんしんして出産しゅっさんしようとなさるときに、生むうむところお求めおもとめになった。そのときにここにきておっしゃられたことには、「とても奥深い【原文久々麻々志枳くまくましき】谷である。」とおっしゃられた。だから、熊谷くまたにという。”
(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)と、ある。

ここでは、「奥深い」という意味で使われている。

熊野という地名は、全国にあり、丹後国では、「熊野郡」なる郡名(現 京丹後市の久美浜町各町)として使われている
また、紀伊国は大化改新(645)まで、北部は木国、南部は熊野国と呼ばれ、それぞれ国造が置かれていた。(ちなみに熊野国造は、饒速日命の後裔で物部氏である。)
紀伊続風土記』(1839年)には、「熊野は隈(くま)にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱(おううつ)なるを以て名づく」と書かれている。

漢字は違うが、肥後国に「球磨郡」(くまぐん)(現 熊本県 南部)もある。

それぞれ、奥深い谷のようなところにある。


■ 神 に供 え る 米 あるいは神そのも 説 


「くま しね 」(奠稲・糈米) という言葉がある。『大辞林 第三版』によると、


“神仏に捧(ささ)げる洗い清めた白米。洗い米(よね)。お洗米(せんまい)。くま。おくま。” 


「くま」だけで、神に奉る米を意味する。また、「しね」自体が、「米」の古語なので、「くま」自体が、神と同義語なのかもしれない。

神のカミはクマからきたとする説もある。神に供える米はクマシネ(供米)と表記されるが,供米と表現される以前に,クマには隠れるという意味があった。すなわち,奥深く隠れた存在をカミとし,そこから発現してくる力を畏怖したものとみている。“(平凡社 世界大百科事典 第2版 )


『古事記』では、紀伊国の熊野村の起源が、神武天皇の東征神話に出てくる。 “大熊 髣(ほの)かに出で入りてすなはち失せき。

通説的現代語訳では、熊野村についた時に大きな熊が現われ、見えたり見えなかったりして、消えてしまう。すると、神武天皇は病に倒れ、東征軍も皆倒れ伏してしまう。


これも熊という動物と云う必然性も無く、先住の荒ぶる神ー三輪山の大神と同じく、大熊と表現としているともとれる。『日本書紀』では、「大熊」は登場せず、女首長「名草戸畔」や、「丹敷戸畔」の名前が出てくる。丹敷戸畔」が誅されたとき、神が毒気を吐いて東征軍を萎えさせたとある。


■ 稲作の初期段階


今でこそ、田圃は広大な平野にあるが、古代はむしろ奥深い谷間にて稲作が行なわれていた。広大な平野部での稲作は、大規模な治水灌漑事業を必要とする。


“水田稲作農耕は用水路と排水路が整備された水田を必要とする。中世末までは、土木技術や国家的統率力は未熟だったため、水田は、大河川流域にではなく谷戸(谷田)と称する河川支流の小さな谷間の流域につくられるか、小さな溜池の周りにつくられた小規模水田群であったという。実際平安時代から室町時代のなか頃まで、耕地面積はほとんど増加していない。”(伊藤松雄著『里の植物観察記』 春風社)


熊野大社前を流れる意宇川


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参考 

法政大学 『日本古語 と沖縄古語 の 比較研 究 一 熊本 ・ 熊襲 ・八 十隈の 「 くま」 を解 く一 外間 守善』



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by yuugurekaka | 2018-03-22 21:46 | 熊野大社 | Trackback | Comments(0)