■もう一つの神戸

なぜに出雲国の県境のところに賀茂神戸があるのかということをテーマに考えてきたが、賀茂神戸とは別にもう一つの神戸が、出雲風土記(733年)から、『新抄格勅符抄』大同元年牒(806年)の間に発生していることに後から気づいた。能義郡にとは、どこにも証拠がないわけだけれども、出雲風土記に書かれている話でゆかりがありそうな場所は、能義郡にしかなさそうに思う。

『新抄格勅符抄』大同元年牒(806年)によれば、

大和神 三百廿七戸 勝宝元-十一月十四日奉レ充三百戸廿七戸不レ見奉レ充年 大和廿戸 十戸 神護元-奉レ充 尾張七戸 常陸百戸 出雲五十戸 武蔵五十戸 安芸百戸 

この大和神がどこの神社かと云うと、
奈良県天理市
新泉町星山にある大和神社(おおやまとじんじゃ)と比定され、祭神が倭大国魂神を祭っている。この倭大国魂神であるが、日本書紀崇神天皇の時代に記載ある有名な神だ。天照大御神が大和にいられなくなり伊勢神宮に鎮座するまで彷徨う羽目になった原因でもある。 

大和神社拝殿 奈良県天理市新泉町星山306
中殿に、日本大国魂大神 左殿に八千戈大神 右殿に御年大神を祭っている。

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                                 By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, Link


これより先、天照大神、倭大国魂の二神を天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鋤入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籬を造った。また日本大国魂神は渟名城入姫命に預けて祀られた。ところが、渟名城入姫命は、髪が落ち、体が痩せてお祀りすることができなかった。〟
                         
〝このとき倭大国魂神が、穂積臣の先祖大水口宿禰にのりうつっていわれるのに、「最初はじまりのときに約束して、『天照大神はすべての天原を治めよう。代々の天皇は葦原中国の諸神を治め、私には自ら地主の神を治めるように』ということであった。…後略…」
       (『全現代語訳 日本書紀 』宇治谷 猛 講談社学術文庫)

ここだけを読むと、この倭大国魂神は、須佐之男命と思える。一説には大国主命の荒魂とも言われている。しかし、後の記述を見ると、どうもそうは思えない。
体が痩せ細ってお祀りすることができなかった渟名城入姫命に代わって、大倭直の祖の、長尾市宿祢(市磯長尾市)に命じて、倭大国魂神を祀らせる。三輪山の大物主命をわざわざ子孫の大田田根子命を探し出し祀らせる話があるが、その時、大田田根子命とセットで記述されているので、おそらく、市磯長尾市は、倭大国魂神の直系の子孫であると思われる。

■倭国造

大倭直の祖(倭国造の祖でもある)というならば、ヤマト王権の中心のようなものである。
しかし、『新撰姓氏録』(815年)では、天神ではなく地祇」となっている。 

大和国 神別 地祇 大和宿祢 出自神知津彦命也

それもそのはず、この長尾市宿祢の祖の「神知津彦命」(別名宇豆彦」「椎根津彦」「倭宿禰」と云う)は、記紀において、イワレヒコ天皇(神武天皇)の東遷に亀に乗ってやってくる大和までの導きの「国津神」として登場してくる。話の筋書上、饒速日命以外天神は大和に先に居てはならない。(ちなみに長尾市宿祢は 宇豆毘古の7世孫)
海部氏本系図(『籠名神社祝部氏係図』)では、始祖天火明命-天香語山命-天村雲命亦名天五十楯(妃-伊加利姫)-倭宿禰 と、海部氏4代目なので本来「天神」のはずだが、対物部氏(神武天皇)との兼ね合いで、「国津神」を名乗るしかなかったのか。
また、『古事記』孝元天皇の段に「木国造之祖宇豆比古」とあるが、紀氏の祖と同じ人物なのだろうか。

富家伝承では、初代天皇は、丹波から南下した天村雲命で、後代の物部氏の東征神話が挿入され、初代が入れ替えられたという。また、富家伝承のように須佐之男命=天火明命(=饒速日命)と考えると、倭大国魂神=須佐之男命となって、たいへんつじつまが合ってくる。

■能義郡の大和神戸


能義郡に大和神戸があったとの記載はどこにもないが、
『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)(931年 - 938年)の郷名に「賀茂郷」と「神戸」が別々にある。『出雲風土記』(733年)の時代には、「神戸」=「賀茂神戸」であった。

能美郡

  舎代 安來 楯縫 口縫 屋代

  山國 母理 野城 賀茂 神戸


私は、初めに賀茂神社のあるところが、安来郷から分解して、賀茂郷になったのかと勘違いしてしまった。要は「飯梨郷」が無くなっているわけで、安来市利弘の賀茂神社の周りが、「賀茂郷」になったか、あるいは、賀茂郷は、大塚町の「賀茂神戸」のままで、飯梨郷に新たに神戸が発生したと考える方が自然である。出雲風土記(733年)の記載に、


飯梨郷(いいなしのさと)

〝郡家の南東三十二里なり。大国魂命、天降りましし時、ここに於て御膳食し給いき。故に飯成(いいなし)と云う。【神亀三年(西暦726年)に字を飯梨と改む。】〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


と、あるのでこれほど縁のあるところは無いと思う。

意多伎(おたき)神社 本殿 島根県安来市飯生町679

大国魂命を祭る。


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■出雲国の氏族

海部氏の始祖であると思われる大国魂命だが、単に朝廷に押し付けられただけでなく、現地にその海部氏やその後継氏族(紀氏)がいたのではないかと思うその眼で、出雲風土記を見ると、意宇郡(能義郡も含まれる)の郡司(701年に編纂された大宝令により、評が廃止されて郡が置かれ、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備された。)のところで、「主帳 無位海臣」が見える。臣姓だが海部氏ではないだろうか。また、「主政 外少初位上勲十二等林臣」も見られる。これも、紀氏の羽田矢代命の後也の林臣でないだろうか。

そうして考えると出雲国で、須佐之男命を祭神とする神社が、多く分布するのは、海岸の方と、山間部である。いわゆる大国主命・事代主命を祖とする本家の出雲族ではなく、同族となった海部氏や紀氏の氏族の関係から分布の理由があるのではないか。





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by yuugurekaka | 2018-02-21 20:32 | 賀茂 | Trackback | Comments(1)

木野山神社と木山神社について、なかなかその由来がわからなかった。
しかし、安田荘の八幡宮の事を調べている際に、『伯太町誌』の中で、それを見つけた。

“木野山神社
  大山祇命
  東母里 才ヶ峠
 明治初年悪病流行の際、これを食い止めるため同十三年四月二四日、岡山県上房郡津川町木野山神社より「家運長久家内安全」を祈願し 大山祇命を勧請したもの”(『伯太町誌』下巻)

明治時代の初めに岡山県の 高梁市の木野山神社から勧請とある。明治の初めの「悪病流行」とは何かと調べたら、それはコレラの流行とわかった。
ウィキぺディアによれば(→ウィキペディア コレラ )、最初の世界的大流行が日本に及んだのは1822年(文政5年)で、幕末から明治の半ばまで大流行し、多数の死者を出したようだ。近代医学の未発達の時代に、当時の人は妖怪「虎狼狸」(→ウィキペディア 虎狼狸  や動物霊の仕業と考えたようだ。

中部・関東では秩父の三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属とし憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆した。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられている。”(ウィキペディア コレラ より

本宮の木野山や木山の地名そのものが紀氏と関係がないとは思わないが、全く的外れの記事を書いたものだ。伯耆や能義郡に分布する木野山神社は、紀氏の足跡とは全く関係が無く、明治時代の初期に建立されたものだった。

■ 木野山神社 

岡山県高梁市津川町今津にある木野山神社は、社伝によれば、伊予国越智郡宮浦村から大山祇命他五大神を勧請したことに始まり天暦9年(955)の創建の古社である。木野山山頂に奥宮、麓に里宮が存在する。正殿に大山祇命、相殿に豊玉彦命・大国主命、末社に高龗神(たかおかみのかみ)・闇龗神(くらおかみのかみ)が、祭られている。神話では、伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとされている。( 高龗神は、京都の貴船神社の祭神である。)

この高龗神・闇龗神が、ここの神社では「狼さま」として信仰されており、コレラを「虎列刺」と書くことから「狼は虎より強い」ということが流布されて、狼を祭る木野山神社の信仰が広まった。明治9年に講社が創設され(木野山講)、コレラの流行とともに、講社は爆発的に増大し、岡山県下のみならず、鳥取県、島根県、広島県、愛媛県、徳島県にまで及んだ。コレラが岡山県下に流行した時も疾病退散祈願のため参詣者が木野山神社に殺到し、県が二次感染を恐れたため、木野山参り禁止の布告が出されたほどだった。

島根県では1879年6月ごろから流行し始めた。

“この爆発的に木野山信仰が拡大した1879年8月に、山陰においても木野山神社の講社に加入する地域が数多くあった。最も多いのが米子市街とその周辺部の会見郡で56講社、次は備中国に隣接する日野郡で22講社、出雲国では能義郡5講社、島根郡3講社、意宇郡1講社、楯縫郡3講社だった。松江市域の講社は、新材木町(島根郡)の三つの拝礼講社と横浜町(意宇郡)の1講社だけだが、記述の通り1879年8月の加入記録の半分しか現存しないことを考えると、松江における同時期の加入講社は他にもあった可能性がある。”
(喜多村理子『明治期における伝染病の大流行と民間信仰』  松江市歴史叢書7 松江市教育委員会発行 より )

■ 木山神社 

『伯太町誌』によれば、安田八幡宮の境内社 木山神社は、文政13年(1830年)に美作国から勧請とある。
伯耆や出雲の神社の境内社に見られる木山神社であるが、木野山神社のような文献が見られず、はっきりしたことがわからないけれども、木野山神社と一緒に祭られているところを考えると、これも岡山県真庭市木山の木山神社を勧請したものなのかなあと想像する。
場所は、同じ岡山県でも木野山神社よりは鳥取県伯耆地方にはるかに近い距離にある。

木山神社は、元は木山寺と共に神仏習合の「木山宮」として祀られてきた。元々は今の奥宮が本宮で、明治になり神仏分離政策により木山神社と木山寺に別れる。( →ウィキペディア 木山寺 

木山寺 岡山県真庭市木山1212番地

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By Reggaeman - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link


木山寺は、高野山真言宗の別格本山で、平安時代前期の弘仁6年(815年)に弘法大師が開いたとされる。医王山感神院と号す。
この寺は鎮守神として木山牛頭天王と善覚稲荷大明神を祀っており、木山牛頭天王は薬師瑠璃光如来、善覚稲荷大明神は十一面観音の垂迹神となっている。牛頭天王は、素戔嗚尊と習合しており、木山神社は京都祇園の八坂神社の御分霊を祀っている。

この八坂神社の祇園信仰だが、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとした信仰である。
だから、コレラ等の流行にも関係があるのではないかと思う。

木山神社自体の創建は、社伝によれば、弘仁7年(816年)で、農耕植林・牛馬殖産の神として、伯耆や出雲等からの参詣もあったという。『角川日本地名大辞典』によれば,
“明治以後、美作・備中北部を中心に京阪神、広島県に及ぶ敬神講・木山講が多数組織された。”
と、ある。伯耆や出雲でも木山講はあったかどうかわからないけれども、境内社でよく見られるから、その可能性はあるのではないか。

岡山の木山神社・木野山神社を勧請したものだとして、改めて大塚八幡宮の境内社ー木山稲荷神社を考えてみる。
お稲荷さんー狐だと思っていたが、よく見ると形が狐とは違っている。それに位置が、左側の木野山神社の方に偏っている。
これは、木野山神社の狼様なのだろう。

木山神社の霊験高い「善覚稲荷大明神」と木野山神社の「狼様」の霊験の二重のパワーで、明治時代初期の伝染病を鎮めるために祈祷が行なわれたのではなかろうか。

大塚八幡宮境内社  木山稲荷神社
右手が木山神社で、左手が木野山神社である。

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by yuugurekaka | 2018-02-17 07:00 | 賀茂 | Trackback | Comments(0)

出雲国の賀茂神戸から、伯耆国会見郡まで なんとなくであるが、紀氏の足跡と言うかそういうものを感じるのであるが、
奈良時代の官道という街道や関所は、どの氏族が担っていたのだろうとの疑問が出てきた。
海部(あまべ)・錦織部(にしごりべ)・土師部など、様々な部民制があったが、国土交通省のような部があったかどうか。
もしかしたら、紀氏が、掌握していたのかなと、──ここ伯耆国と出雲国につながる官道だけかもしれないが──、思った。

紀氏の羽田矢代命の後裔に、 道守臣というのがおり、姓氏録に
○左京皇別 道守朝臣 - 波多朝臣同祖。波多矢代宿禰の後。
○河内国皇別 道守朝臣 - 波多朝臣同祖。武内宿禰男の八多八代宿禰の後。
○河内国皇別 道守臣 - 道守朝臣同祖。武内宿禰男の波多八代宿禰の後。
○和泉国皇別 道守朝臣 - 波多朝臣同祖。八多八代宿禰の後。

と、ある。道守臣(ちもりおみ)が、字面から、道路を守るみたいに勝手に想像してしまう。
インターネットで道守臣を検索した。『先代旧事本紀』には、
開化天皇の御子に武歯頬命(たけはづらのみこと)がおり、道守臣(ちもりおみ)らの祖とある。
賀茂神戸の南に母理郷(もりごう)があるが、大国主命がせめて出雲国 を守るということに由来していると『出雲風土記』にあるが、
道守臣に関係していないだろうか。

出雲国と伯耆国の境界は、「手間剗」(てまのせき)という関所で、出雲側の安田関が比定されている。
しかし、手間の剗というなら、手間山の麓にあってこそ、手間剗だろうと思うのでちょっと釈然としない。それとも高速道路の入り口・出口みたいに、出雲国側と伯耆国側に別個にあったのだろうか。

■ 八幡宮の系統

賀茂神戸があったところも平安時代の終わり頃には、京都の石清水八幡宮の荘園に飲みこまれてしまったものと思われる。
さて、その八幡宮であるが、八幡宮にも勧請なり別宮とする本宮にも系統がある。しかしながら、様々な歴史を経て、どこから勧請したかわからなくなっていることも多いようだ。主な八幡宮の系統を示す。

①宇佐神宮 大分県宇佐市にある神社であり、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。(→ ウィキペディア 宇佐神宮 
 朝廷とのかかわりが最も古く、『新抄格勅符抄』延暦17年(798年)には1410戸、比咩神の封戸600戸で合わせて2010戸の日本最大の封戸をもつ神社であった。

②石清水八幡宮 貞観元年(859年)僧である行教(空海の弟子)が宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860年)清和天皇が社殿を造営したのが始まりと云われる初代神主には行教の甥・紀御豊が任じられ、以後も紀氏(田中・善法寺の二家)が社家として、今日に至る。(→ ウィキペディア 石清水八幡宮 

③鶴岡八幡宮 康平6年(1063年)源頼家が石清水八幡宮の分霊を相州由比郷(鎌倉の材木座1丁目)に祭ったのが始まりで、火事により焼失したので、源頼朝が建久2年(1191年)が現在の小林郷北山に造営して、改めて石清水八幡宮から勧請した。大伴忠国が初代の鶴岡八幡宮神主となり、大友氏も社家として今日に至る。 (→ ウィキペディア 鶴岡八幡宮 

出雲国の八幡宮の勧請の有り様だが、本宮は、石塚尊俊著「『雲陽誌』に見る勧請神社の研究」によれば、宇佐系10社、鶴岡系8社、石清水系11社その他3社、不明57社である。だが世の中の移り変わりで、再勧請というのもあるようだ。
いつの時代に勧請してきたかということもあるが、なぜにその神社を勧請するのかは、どこから原因が来るのであろうか。理由として、そこに分布した有力な豪族や氏族の存在なしでは、勧請されないように思う。

突然不連続に武家の社会に変わったわけではないのだろう。

■ 安田荘

八幡宮の保元3年(1158)十二月三日 『石清水文書』 左弁官下文によれば、出雲国には八つの石清水八幡宮の別宮があった。その時点で、八か所以上できていた国は、山城・河内・但馬・出雲の四か国だけだそうだ。出雲国の別宮は以下の通り。

横田別宮 安田別宮 赤穴別宮 枚浜別宮 日蔵別宮 新松別宮 白上別宮 大田別宮

この八宮であるが、一つ一つを調べたら、社家が紀氏であるので、おそらく何らかの足跡なりはあるのだが、荘園になる前から、紀氏の存在を裏づけるものがあるのだろうか?
どのように勧請してきあのであろうか。なんらかのゆかりが必要ではなかろうか。ちなみに、枚浜別宮は、松江の平濱八幡宮・武内神社である。

さて、その安田別宮の荘園であるが、大塚町の「服部」、確たる証拠は無いが賀茂神戸があったと云われている場所を含んだ地域であった。

安田荘要図
郷土出版社発行『松江・安田ふるさと大百科』より、転載。

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石清水八幡宮では、荘官(下司)を派遣し、現地の有力名主を下級荘官(公文)に任せて運営されていた。
しかし、承久の乱後、鎌倉幕府が地頭を江戸四郎太郎重持に任命した後、徐々に八幡宮の荘園が地頭に侵されて、寛元2年(1244)の下地中分によって南方が、石清水八幡宮領家分、北方が地頭分となるに至った。
 北谷(北安田村)・上清瀬村・吉佐村=地頭分
 南谷(安田中村・安田宮内村・未明村・安田関村・安田山形村)・服部村=領家分

■ 安田別宮

安田荘だった地域に八幡宮が二つある。一つは北谷の安田八幡宮(伯太町安田)ともうひとつは南谷の安田宮内八幡宮(伯太町安田宮内)である。

北谷の安田八幡宮の由緒であるが、『神国島根』(島根県神社庁発行 昭和56年4月)によれば
“当社は人皇四十二代文武天皇御宇大宝元年辛丑二月遂奏聞従筑紫宇佐勧請其節神官長妻某矢田某八幡某原某田中某長尾某相添同年八月十五日丑刻に当地へ奉遷座初̪而社殿建立と伝来” 
と、ある。
大宝元年(701年)とは、かなり古い。
安田荘にあったわけであるが、石清水八幡宮の勧請ではなく、宇佐八幡の勧請と述べている。
それと同時に“頼朝卿祈願所として祟敬被為在社として則出雲国八社八幡宮其内の一社也。” と、あり
石清水八幡宮とかの関わりは、なんら書かれていない。     

安田八幡宮鳥居  島根県安来市伯太町安田896  


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南谷の宮内八幡宮の方はどうかというと、
『神国島根』の御由緒を読むと、うってかわって石清水八幡宮の八所八幡の第2位に載せられたことなど石清水八幡宮の緊密な関係が述べられている。『伯太町誌 下巻』によれば“寛徳二年(1045)宝見山麓(要害山)に本宮の分霊を勧請し、石清水八幡宮の別宮となったのが当社の起源とされる。”と、ある。


安田宮内八幡宮鳥居  島根県安来市伯太町安田宮内66番


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現在の由緒だけ見ると、宮内の八幡宮が石清水八幡宮の別宮のように思える。
ただ、本題は紀氏の足跡が何かあるのかということである。八幡宮自体が、紀氏の祖-武内宿祢をいっしょに祭っていることも多いのでなんとも言えないところではある。

安田八幡宮には、境内社 木山神社(祭神 須佐之男命)、安田宮内八幡宮には境内社 木野山神社(祭神 大山祇命)があった。
しかし、この「木」の字が付く二社は、紀氏に直接にはどうも関係しない神社のようだと、調べていくうちにわかってきた。


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by yuugurekaka | 2018-02-10 18:57 | 賀茂 | Trackback | Comments(0)