長々と伯耆国のことを書いてきたが、それも現・大塚町が、奈良時代の官道を通って伯耆国の手間山に近いという理由から、神戸の設定に関係していないだろうかと思うからである。
それと、賀茂神戸=賀茂氏、大神氏と思い込んでしまっていたのであるが、賀茂氏というよりは、古代王族・古代官僚である紀氏が大きく関係したのではないかと思い始めた理由による。

■ 大塚村四社明神

江戸時代の『雲陽誌』(1717年)の安来の所で、

“加茂大明神 別雷命を勧請す、天正年中堀尾山城守忠晴造営の棟札あり、【風土記】【和名鈔】に加茂神戸郷と書すは此處なるへし、古老傳に大塚村四社明神の邊を加茂神戸といふ、”

江戸時代にはすでに賀茂神戸の場所が分からなっており、京都の賀茂神社の荘園との混乱が始まっていると思われる。現在では、「古老伝に大塚村四社明神のあたり」の方が通説になっている。
さて、どこが四社明神のあたりなのか?

現在は、四社明神は、大塚町の八幡宮に合祀されているが、下記の「国福」という大字に大明神という地名があり、そこに四社明神があったのだろうと云われている。

国土地理院地図 赤下線と、大塚八幡宮の字を加工している。
中心の神社の記号の位置が、大塚八幡宮。右手の神社は、秋葉神社。

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実際に大塚の八幡宮に行ってみた。昨年の8月の終わり頃だ。
入り口がなかなかわかりにくかったが、南側の参道から登って行った。

南側の参道と鳥居
島根県安来市大塚町950


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上がってみると境内地が広く、立派な社殿であってびっくりした。祭神は、誉田別尊・気長足姫命・武内宿禰命。
『神国島根』(島根県神社庁発行 昭和56年4月29日発行)によれば、

“創立由緒不詳。社伝によれば鎌倉時代に創立せられたと言い、現存棟札の内、寛文二年のものが最古である。其の時代犬塚孫四郎なる者、大願主と称し専権事を執り当時社殿西面して最大社たりしも其の家勢衰微したるより、寛文四年造營の時遂に南面に改め社殿を縮小したと伝う。” 
犬塚とあるが、「大塚孫四郎」の誤植ではなかろうか。

大塚八幡宮 本殿

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■ 木山稲荷神社

さて、右手の稲荷神社であるが、二社合殿のようだ。

境内社

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普通のお稲荷さんかと思いきや、木山稲荷神社と書いてある。
なぜに?ここでも「木山」。
やはり紀氏の関係だろうかと思ったが、後で調べてわかったことだが、明治時代の初期に建立されたもので、紀氏とは直接は関係が無かった。

木山稲荷神社

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もう一つは「木野山神社」と書いてある。伯耆の上野三島両神社の境内社と少し似たような構成である。ここの二つの境内社は、『神国島根』には載っていない。昭和52年以降に合祀されたものであろうか?

木野山神社

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肝心の四社明神はどこであろうか?
左手の境内社があったが、八社合殿のようである。

左手の境内社 五社合殿。
金屋子社、若宮稲荷社・三穂神社、金刀比羅宮、新宮・近廣社、武内神社・新八幡宮と書いてあった。
厳密にいうと八社合殿のようである。

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そのうちの四社はどの神社であろうか?『神国島根』によると、


“又境内社の内関田社、新宮社、近廣社、客社の四社は往古、四社明神と称し各所に鎮座せしを延實年間当境内地へ奉遷したという。”
ことだ。
祭神としては、①関田社(武内宿禰命)②新宮社(橡日命)③近廣社(羽田矢代命)⓸客社(伊邪那美神)である。この橡日命は、熊野櫲樟日命(クマノクスヒ)ー天照大御神の御子であろうか。

■ 羽田矢代命

羽田矢代命は、武内宿禰の一子であろうと思う。 → ウィキペディア 羽田矢代 
『古事記』では波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部君ら諸氏族の祖とされている。ここで、疑問が生まれてきた。秦氏と波多氏は、漢字が無い時代、どのように識別していたのだろうか。昔は、50音ではなかったようであるが、ウィキペディアを見る限り、識別ができない。(→ウィキペディア 上代特殊仮名遣
安来地方に、秦という苗字の方が多い。知人で「はだ」と読む人がおられるが、もしや、あれはもともと「羽田」で、秦に習合されてしまったのではないか…、また、出雲国東端に「屋代郷」というのがあり、『出雲風土記』では「社印支(やしろのいなぎ)らの遠い祖先神の天津子命(あまつこ)…」ということから由来しているということだったが、それは羽田矢代の「やしろ」から来ているんではないのか…など取り留めも無くいろいろなことが浮かんだ。

ともかく、武内宿禰にしろ、羽田矢代命にしろ、紀氏とゆかりが強いというように感じがした。
しかし、この賀茂神戸があったのではないかとされている場所は、紀氏を社家とする石清水八幡宮の荘園ー安田荘があったところである。その関係で、紀氏の影響が強いとも言える。


by yuugurekaka | 2018-01-30 21:22 | 賀茂 | Trackback

■ 大寺跡地

手間山から東へ、紀氏の本拠地であったところの会見郷(相見郷)辺りを巡ってみた。巨勢郷との境界がよくわからないので、実際のところ巨勢郷なのかもしれない。ただ、会見郡衙は会見郷にあるのが普通だと思うので、そこが巨勢郷であるという説は、少し釈然としない。

伯耆橋から見える日野川

鳥取県最大の全長約77kmの川である。
支流には、古来より集落が栄え、支流ではたたら製鉄の砂鉄の採取を目的とした「鉄穴流し」が行なわれた。

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伯耆橋を渡ると、大殿という地名に出会う。
うむいかにもと、思ったが、この大殿という地名は、明治10年大寺村と殿河内村が合併して発生した地名のようである。
なぜに大寺というかは、ここに大寺があったからである。

南側の越敷が丘の麓に、 白鳳時代(奈良時代の前)の大寺があった南に金堂 、西に講堂 北に塔 が配置され 、回廊 で囲まれた大寺が確認されている。北の仏塔 の心礎(柱の礎石)を見に行った。

舎利穴を持つ塔跡の心礎     鳥取県西伯郡伯耆町大殿

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大寺というぐらいだし、仏塔 の場所からも、大きなお寺だったとように思う。石製の鴟尾(しび)もかなり大きい。
石製の鴟尾は、群馬県の山王廃寺の二例 とここ大寺の一例のみだそうである。
鴟尾とは、お寺の屋根を飾る火災よけの装飾品のようで、お城のシャチホコの始祖とも言われているようだ。

石製の大寺廃寺の鴟尾    鳥取県西伯郡伯耆町大殿1171 福樹寺敷地内

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■ 上野三島両神社

主祭神は、溝咋姫命、大山祇命。大寺跡地のすぐそばの越敷が丘の麓にある。
三嶋溝樴姫命(みぞくいひめのみこと)(別名 玉櫛媛)を祭った神社は、山陰では珍しい。

三嶋溝樴姫命とは、事代主命が大阪・摂津の三島家に妻問いした事代主命の妃であり、『日本書紀』では、神武天皇の皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)の母である。
つまりは、大和の葛城山の母神のような存在である。→ ウィキペディア 玉櫛媛
それと、ここの大山祇命は、静岡の三島大社や三島神社の祭神で、大山の山の神ークナトの大神なのかもしれないが、三島系で奉祭しているところをみると、玉櫛媛の父神ー溝咋耳命(みぞくいみみのみこと)なのかもしれない。この溝咋耳命だが、或る説では、京都下鴨神社にまつる鴨建角身命と同神とされる。

拝殿

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右手にサイの神さんと思われる石神さまがある。
これは、古代のホト信仰のように思える。
二度目に参拝した時は、しろうとの目には古墳の石室のようにも見えた。
ここら辺は、越敷が丘古墳群がある場所なので、古墳であっても不思議は無い。
山陰では、神社の杜自体が古墳であることが多く、
元々古墳を奉祭していたんではないのかと思ってしまう。

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左手には、境内社。4社複合の社であり、右より荒神宮、木野山神社、日御碕神社、木山神社である。
この神社であるが、由緒はわからないが、元は近くの集落で奉祭していた神社ではないだろうか。
荒神宮は、ある説では、地主神のような神社とも言われるが、屋内荒神→同族荒神→集落荒神と集落が発展していった近世のものとも言われる。

どちらの説にしても、西伯耆には「木山」を祭る神社が集落が多いと感じる。木は、紀氏の「木」である。
木山神社も木野山神社も同じ神を祀っていたのではなかろうか。
想像でしかないが、紀氏系の荒神宮かサイノカミのようなものが、木山神社でないだろうか?
(しかし、後で調べてわかったことであるが、紀氏とは関係が無く、明治時代の初頭に大流行した伝染病の鎮静化を祈祷した神社だということだ。賀茂神戸の謎(9)出雲国③木野山神社・木山神社 


法勝寺の長田神社の合祀された神社で、句々廼智神(木の精の神と言われる)が2社もあったが、あれも紀氏と関係しているのかもしれない。

境内社

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■ 長者原台地

大殿からさらに西に行くと、長者原台地に着く。かなり広い高地で田畑の広がる場所である。最近では、奈良時代の会見郡の郡衙(郡家)があったとされる場所である。

坂長公民館の近くに、長者屋敷遺跡にあった建築物の柱跡を復元した公園があった。

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長者屋敷遺跡は、江戸時代には紀成盛の屋敷跡と伝えられてきた。
成盛の子孫を称する進 庄兵衛が、宝暦11年(1761年)に記した『紀氏譜記』には、成盛が七宝を帝に献上し、長者号を請け、「進貝録兵衛尉紀成盛長者」を名乗って代々繁栄したという。(『紀氏譜記』は、『日吉津村誌 下巻』に全文載っていた。)
『紀氏譜記』には、孝霊天皇と共に大和から来たとは書いてなかったが、孝霊天皇の朝妻姫への妻問いし、鶯王が誕生した事。鶯王を大将として鬼退治をしたが戦死し、楽楽福大明神の霊として祭られた事等が書かれてあった。

また、福彦右衛門の『伯路紀草稿』(1773年)には
「長者原村に、木の森長者進ノ甲斐六兵衛屋敷という跡あり。一町四方ばかり、四間四方に築地の井戸有り。駒谷石というあり。」
と、書かれてある。 (詳しくは→ 米子市役所ホームページ  キサイさん(別所) 

■ 紀氏の系譜

『紀氏譜記』(1761年)によれば、「孝元天皇の四世の孫 紀の武内宿祢と紀氏を名乗り賜ふ」とある。
また、『日吉津村誌 下巻』によれば伯耆国の紀氏の後裔氏族として、相見氏、進氏、巨勢氏等の名前が見られる。

伯耆の紀氏後裔氏族
『日吉津村 下巻』より
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さて、武内宿祢の後が、紀氏と書かれてあるが、通説的にはどうだったのか。
孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とするという一方、紀国造家は、『紀伊続風土記』(1806年)によれば、、神武天皇の畿内平定後、紀伊の国造に封じられた天道根命(あめのみちねのみこと)(神魂神の5世の孫)の家筋だとされる。

が、高群逸枝『母系制の研究』(上)(講談社文庫)によれば、

〝紀伊は古名を、毛という。…中略…然し、道根命の事蹟は記紀いずれもこれを欠いており、記孝元段に「木国造之祖宇豆比古」、景行紀に「紀直遠祖菟道彦」とあるのが最初の氏人であるが、二文、何れも国造祖或は遠祖としているのは、国造本紀と合わない。…中略…按ずるに、紀伊国造に二系あり、国造本紀記載の道根裔の国造は、式日前国懸二社を奉祭する後代の国造であって、本来の国造は、式名草郡伊太曾神社、大屋都比売神社、都麻都比売神社を奉祭する出雲族であったと思われる。〟(高群逸枝『母系制の研究』(上)より)(太字は私)

〝地神本紀には「五十猛神 亦云大屋彦神、大屋姫神、抓津姫神、巳上三柱并坐紀伊国、即紀伊国造斎祠神也」とある。高群逸枝『母系制の研究』(上)より)

さて、紀氏(進氏)が建造し長らく社務を執り行っていた日吉津村の蚊屋島神社であるが、大昔は、事代主命の妹神 高照姫命を祭っていたと思われる。
『紀氏譜記』によれば、「或書に日吉津天照皇大神宮は往昔は素戔嗚命也」とあるので、元々は、夫神の天照國照彦火明命≒素戔嗚命を一緒に祭っていたのかもしれない。

蚊屋島神社  鳥取県西伯郡日吉津村日吉津354


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ところで、なぜ伯耆の紀氏が出雲族の高照姫命や味鋤高彦根命を奉祭するのかという疑問だが、富家伝承系図を見ると一目瞭然。紀氏は、高照姫命や味鋤高彦根命の子孫でもある。
こういう系図でないと、証明できないとなると、紀氏が奈良時代や平安時代の国司派遣から土着したとする通説がどうなのかなあと思ってしまう。

富家伝承の系譜図簡略抜粋(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版より)
尾張氏の系譜は書いてありませんが、海部家と天村雲命まで系譜が同じです。
なお高照姫は、葛城山の御歳神社の祭神で、八千矛(大国主命)の娘下照姫とは別の神様です。

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by yuugurekaka | 2018-01-24 15:41 | 賀茂 | Trackback

■ 母塚山より眺望

新年に母塚山(はつかさん)に登って、手間山を眺めた。

母塚山展望台から見える手間山

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母塚山は、伯耆国と出雲国の境にあるイザナミの御陵伝承地である。
展望台から母塚山頂まで歩いて、イザナミ御陵地をお参りした。
イザナミ御陵伝承地が、お墓山(鳥取県日野郡日南町大菅)といい、島根県伯太町や広島県庄原町の比婆山といい、出雲国の国境沿いにある。孝霊天皇の出雲攻め(いわゆる鬼退治)に関係があるのではないか。

母塚山頂の伊邪那美神陵墓

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左手に遠く孝霊山が見える。
展望台にあった地図によれば、孝霊山の左手の高台は妻木晩田遺跡(日本最大の弥生集落遺跡)のようだ。
倭国大乱時代の遺跡だ。

そういえば、手間山のもう一山超えた日野川流域は、孝霊天皇+吉備族の侵攻の伝承地である。
はて、手間山の麓の鴨部氏や大和から来た人たちが、葛城の王である孝霊天皇といっしょに来た人たち(となれば弥生時代末期)ならば、その時代は、出雲国の出雲族の味方であったのか?敵方だった可能性すらある。



母塚山展望台から見える孝霊山

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■ 手間山の東 星川郷・巨勢郷

平安時代中期には、手間山の北部、北西部を「会見郡 天万郷」、南西部を「会見郡 鴨部郷」、東部を「会見郡 星川郷」と云った。『姓氏録』にも 星川朝臣が見られる。
さて、この「星川郷」だが、
〝古くは、武内宿禰の子孫の波多臣(はたのおみ)の一族に星川臣があり、巨勢男柄宿禰(こせのおがらのすくね)の子を星河建日子(たけひこ)と言ったと伝えられる。会見郡内に巨勢郷があることと関連するとも考えられる。〟(徳永職男 著『因伯地名考』 鳥取郷土文化研究会 )(太字は 私)
巨勢郷は、星川郷に隣接しており、北東部にあったであろうと言われている。

『姓氏録』にも 星川朝臣が見られる。

大和国皇別 星川朝臣 朝臣  石川朝臣同祖武内宿祢之後也敏達天皇御世。依居改賜姓星川臣

敏達天皇の御世となると、6世紀の終わりの頃だ。
なお、大和国にも「高市郡巨勢郷」「山辺郡星川郷」がある。
おそらく古代豪族 紀氏(→ウィキペディア 紀氏 )の系統の一族が、かなり古くから手間山の東方面に土着していたと思われる。

■ 中世の手間山の麓

なぜ京都の賀茂神社に糾合されるにいたったかということが疑問である。なかなか良い文献に見当たらなかったが、『会見町誌』(1973年発行)に公地公民制から荘園への道筋がわかりやすく書かれていた。

〝こうした律令制度の下で貴族や社寺には、公地制に反する多くの土地の領有が認められていた。一方では人口の増加によって口分田が不足してきたこと等、こうした問題の解決として、養老七年(723)の「三世一身法」や、天平十五年(743)には「墾田永代私有令」が出されたので、皇族、貴族、社寺および地方の豪族たちは、競って開墾をすすめ、墾田が増えていった。こうしたいわゆる「墾田によってできた荘園」が、八世紀から九世紀にかけてできたのである。これは要するに律令政治のもととなった公地公民制も律令制そのものの矛盾から次第にくずれていった。
しかしこの結果、田畑はふえ、生産は高まったが、このようにして開墾した土地は永久に私有することはできても、租税を収めなければならなかった。…中略… そこで自分の開墾地を、中央の有力な皇族、貴族や社寺に寄付し、名義上ではそれらの所有であるとして租税の免除や検田の除外をかちとり、そのかわり収穫の一部を毎年おさめ、自分たちはその荘園を管理する荘官となって事実上の所有者となった。こうしてできた荘園を「寄進によってできた荘園」という。…以下 略…〟(『会見町誌』 1973年発行)

それで、荘園が発生し、賀茂神社や法勝寺へとつながるのか。
中世において「天万郷」→「富田庄」など、「鴨部郷」→「長田庄」、「星川郷」→「星川庄」「小松庄」( あくまでも「→」は全て同じ地域を示すものではなく、郷内に荘園が発生したことを示す。)などと呼ばれ方も変わる。

この富田庄、長田庄の名称は、事代主命に由来しているような気もするが、いろいろな本を調べてみたが、何もわからず。
それよりも、だれが、事実上の領主であったか?
 
■ 藤原氏と紀氏 

鴨部郷がほとんど長田庄となったが、どこの貴族の監督下にあり、だれが実権を握っていたのか。

〝しかしおそらく七・八代の藤原氏はあったであろうが、氏名は勿論、業績一切不明、ただ古代以来の村々を継続していたのであろう。ただし藤原氏はその領家として、九条家をいただき、長田庄の名目上の領主は九条兼実であったことも推定できる。〟(『西伯町誌1975)
(※ 太字は私)

それゆえ、ここ長田庄の氏神の長田八幡宮であるが、『西伯町誌よれば、藤原泰豊(右衛門尉泰豊)康永二年(1343年)に建立したということだ。

長田庄の産土神 長田神社の位置
手間山の西麓の神社をピックアップしてみた。






しかし、『吾妻鏡』には、建久元年(1191年)十一月六日の条に「大舎人允藤原泰頼お迎えのため参向、且つ愁申す伯耆国長田庄得替の事」とある。つまり、源頼朝の上洛の折に、奪われた長田庄を取り返したいと申しでたということだ。
もともと平安時代の終わりに藤原氏のものであったが、とられてしまったということだ。だれがとったかなかなかわからなかったが、
『西伯町誌』(1975)によれば、

〝奪ったものはだれか、それは平家方の有力武士紀成盛であろう。成盛は建久元年から六年前寿永三年の一の谷戦に平家方として参加し敗れて帰国している。それより十二年前の承安二年には大山寺を再建している。その大山寺の本尊地蔵菩薩の厨子銘に「会東郡の地主」とかいてある。会東は会見郡の東ということ、そのことは彼とその一族が西伯耆全域を支配したことを誇示したものである。また大山寺縁起によると、平安中期富田庄司が大山寺に強い勢力をもっている。富田庄は今の会見町である。伝承によると富田庄司も紀海六兵衛成盛であったという。又、成盛の本拠は岸本町長者原であり、成盛の塔という古廃寺が岸本町坂中にある。紀氏は成盛一代ではなく古代末から近世までこの地方にきこえた豪族である。『西伯町誌)(太字は私)

紀氏であったのか。紀成盛をウィキペディアで調べると、→ウィキペディア 紀成盛
〝紀成盛の一族、紀氏は元々中央の官人であったが伯耆守として赴任後、土着して在地領主となった。

ここで言う伯耆守という国司が、
延暦4年(785年) 正月15日に兼伯耆守 紀 白麻呂 のことのように思う。

紀氏自体、奈良時代の貴族である以前は、葛城の王族の一族である。そのような奈良時代の終わりではなく、もしや、もっと古く孝霊天皇とともに伯耆に来ていたのではなかろうか。奈良時代の郷名に紀氏の分家の名があるからである
紀氏であれば、アジスキタカヒコ命や高照姫命を祭神にしていても不自然ではない。

■ 長田神社の祭神 

手間山西麓の神社は、賀茂神社や八幡宮よりも、前の時代はどのような神を奉祭していたのだろう。なぜに西麓かというと、奈良の三輪山と大神神社の関係のようなそういうものの足跡のようなものはないかと思う次第である。
まずは、倭の賀茂神社である。

『鳥取県神社誌』によると
祭神は、別雷命、神武天皇、天照大御神、豊岩窻神、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命、素盞鳴命である。
賀茂神社を勧請したのだから、「別雷命、神武天皇」をはずす。そして、大正五年、六年に合祀された祭神をはずすと「天照大御神」のみ残る。もとは、手間山に登る太陽信仰の社だったかもしれない。

でも、祭神は時代によって消されたり、後付けされたりするものだから根拠としては弱いものである。ただ頭をよぎる程度の話である。

しかし、なぜ大和の天照大御神は、大和に居ることができなかったのか。富家伝承本では、太陽神(出雲族)VS月神(宇佐族)ということだったが、孝霊天皇の出雲攻めが影響しているのではなかろうかと、ふと思った。母系(イザナミ・天照大御神・高照姫命)の側につくか、父系(イザナギ、素戔嗚尊、天火明命)の側につくか…ということもあるのかなという思いがめぐった。

長田神社 石段
かなり急で長い石段であった。こういう石段は、登るのに険しいので、よく何段あるか数える。
が、数えている最中、訳がわからなくなってくる。
177段あったような気がするが、ある方のサイトでは176段と記載してあった。

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さて、賀茂郷(鴨部郷)であったところの長田庄の長田神社である。もともとは八幡宮であったものだ。
『鳥取県神社誌』によると
当社氏子の範囲は延長三里に亘り大小部落34、現今四ヶ村に跨り此一帯の地方を古来長田庄と称せり。
 明治維新の際、八幡宮の称を廃し庄名に因りて今の社号に改めらる

氏子の範囲が広く祭神も多く 23もの祭神だ。

多古理比売命、田岐津比売命、市杵島比売命、誉田別命、気長足姫命、素盞鳴男命、足仲彦命、句々廼智神、稚日女命、保倉神、大日孁貴尊、倉稲魂尊、五十猛命、伊弉諾命、伊弉冉命、大山祇命、月読尊、武内宿禰、大鷦鷯命、菅原道真、事代主命、瀬織津比売命、岩猛命

社歴である。当神社は往古より八幡宮と称し奉り。 其創立年月不詳かならざるも、所蔵の棟札に徴するに康永二年卯月日造立記文のもの最も古く、天正13年(1585)雲三沢城主佐々木三澤少輔八郎為虎御隠居為清公社殿造営あり万治2年及延宝9年(1681)、因伯太守源朝臣光仲公再建せられ、当時社領七石九斗其他麻地幕提灯(御紋附)を寄進せらる。領主及武門の帰依又厚かりしを見るべし。

大正5年12月
法勝寺村大字馬場字ヨメコロシ鎮座無格社大﨏神社(祭神 素盞鳴命)
同村大字同字家ノ上鎮座無格社稲荷神社(祭神 倉稲魂尊 )
大国村大字與一谷字大林鎮座無格社大林神社(祭神 須佐之男命)
同村大字鍋倉字荒神谷鎮座無格社前田神社(祭神 誉田別命、気長足姫命、素盞鳴男命、足仲彦命、稚日女命、保倉神)
同村大字絹屋字宮ノ前鎮座無格社森脇神社(祭神 句々廼智神)を合併す。

同6年4月8日
法勝寺村大字法勝寺字五反田鎮座無格社机田神社(祭神 句々廼智神)
同村大字同字杉﨏山鎮座無格社杉﨏神社(祭神大日孁貴尊、岩猛命)
同村大字武信字ナシノ木下鎮座無格社武信神社(祭神 伊弉諾命)
同村大字徳長字権現谷鎮座無格社熊野神社(祭神 伊弉諾命、伊弉冉命) を合併。〟 

八幡宮の祭神と考えられる「誉田別命、気長足姫命、足仲彦命、宗形三女神、武内宿禰」をはずし、大正5,6年に合祀された祭神をはずすと、「五十猛命、大鷦鷯命、菅原道真、事代主命、瀬織津比売命」が残る。
当然ながら菅原道真公は、後付けされたもので、大鷦鷯命(仁徳天皇)も、佐々木源氏の由縁かもしれぬが後で祭神に加えられたのではないか。(浅学のため、なぜ出雲の三澤氏の頭に佐々木がついているのかよくわからない。)
大正時代に合祀された祭神をはずすと、「五十猛命・事代主命・瀬織津比売命」が残る。

もともと、鴨部郷だったから、事代主命が祭神で不思議はない。五十猛命は、紀氏の祖神であるが、紀氏の勢力は長く続いているのでいつの時代の話かわからない。
残る瀬織津比売命であるが、どの氏族が奉祭しているかよくわからないが、長田神社の周りは南北に法勝寺川、東に東長田川、西に山田谷川が流れており、ちょうど結節する場所である祓いの神とされて、穢れを川から海へ流すとされているから、禊払いの祭祀が行なわれていたかもしれないし、治水神として祭ったのかもしれない。

向こうに見えるは手間山、長田神社の前を流れる山田谷川

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by yuugurekaka | 2018-01-13 15:18 | 賀茂 | Trackback