■ 手間天神

地図で、手間山(てまやま)と母塚山、出雲国賀茂神戸の比定地ー大塚町を表わしたものである。平安時代、手間山の北部、北西部を「天万郷」、南西部を「鴨部郷」、東部を「星川郷」と呼ばれていた。大塚町から手間山の北部まで出雲古道が、走っていた。安田関を通って、母塚山(はつかさん)を抜けて、手間山の北部の麓につながる奈良時代の道路であるが、地図上でみると、大塚町と鴨部郷は近いということがわかる。

グーグルアースの地図 
地図に私が、黄色で加工したものである。星印は、大塚町の八幡さま、宮前の賀茂神社、倭の賀茂神社、掛合の賀茂神社の場所を示している。

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この手間山であるが、地図や本に要害山とか、いろいろ書いてあって、混乱したが、大国主命の受難伝説で有名な赤猪岩神社がある北西部部の膳棚山、北東部の峰松山と最も広く高い要害山を合わせて、手間山というのではないかと思う。

天万山とも呼ばれたという。手間山山頂には、赤猪岩神社の元宮がある。


古事記にも、大国主命の受難伝説で「手間」(てま)の地名が出てくる。どういう由来の地名なのか。

〝伯耆誌によると、門脇重綾の説を紹介し、スクナヒコナノミコトはカンムスビノカミの手のまたからこぼれ落ちた小さな神様で、手間天神ともいわれるところから、その神様にちなんだ地名であろうという。〟(『郷土史蹟めぐりー西伯耆編ー 鳥取県立米子図書館編』 米子 今井書店発行)


つまり、手間天神=スクナヒコナノミコト(出雲風土記では、須久奈比古命)である。

JRに載っていると、車窓から見えてくる大橋川の小島に見えるあの神社の祭神だ。

カンムスビノカミの手の間からとなっているのは、古事記で、日本書紀では、タカムスビノカミとなっている。


『日本書紀』の少彦名命の記述であるが、

〝「私は日本国の三諸山に住みたいと思う」と。そこで宮をその所に造って、行き住まわせた。これが大三輪の神である。この神のみ子は賀茂の君たち・大三輪の君たち、また姫蹈鞴五十鈴姫命である。別の説では、事代主神が、大きな鰐になって、三島の溝姫、あるいは玉櫛姫という所に通われた。そしてみ子姫蹈鞴五十鈴姫命を生まれた。これが神日本磐余彦火火出見天皇(神武天皇)の后である。〟

(宇治谷 孟 全現代語訳 『日本書紀』 講談社文庫)


「別の説では」となっているが、スクナヒコナノミコト=事代主命というようにも読める。カンムスビノカミあるいはタカムスビという天神の御子が、出雲の事代主命というのに違和感をもつ人がいるが、出雲の神は、ひたすら国津神で、天津神ではないという図式がそもそも

古代史を見る目を狭くしているのではないか。婚姻関係を通じて、天神になったり、国津神になったりする。


〝事代主命の系等である。同命は父系によって地祇氏となっているが、母系によって高魂裔の天神氏となっていることもある。大和神別の飛鳥直は、「天事代主命之後也」とある。飛鳥直は飛鳥社の神主、その飛鳥社は事代主命を祀る神社である。〟(高群逸枝著『母系制の研究 (下)』 講談社文庫)


京都の賀茂氏が天神で、奈良の賀茂氏が地祇であるのは、こういう事情が影響しているのだろうか。

手間天神から由来して、手間山というのだから、太古は、奈良の三輪山のように、スクナヒコナノミコトを祭るカンナビ山だったのではなかろうか。


■ 麓の賀茂神社


手間山の麓には、奈良に由来しているんではなかろうかと思うような地名に出会う。たとえば、「倭」である。


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明治10年~22年の倭村という村名から現在の集落名として残っているが、様々な地名辞典で調べたが、由来が書いてなかった。

手間山の反対側の、「高姫」である。事代主神の妹神の名前である。

その由来を調べると、鎮守の高野女神社からきているという。今は宮前の賀茂神社に合祀されている。その高野女神社をいろいろ探したが、見つからなかった。


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とうぜん祭神が、高姫(高照姫)命かと思いきや、伊勢神宮の遷宮地を探した倭姫命だった。

記紀に出て来ない神様でないので、祭神が変わったのだろうか。


さて、手間山の麓にある賀茂神社三社であるが、奈良の鴨神、高鴨に関係した神社がないか調べてみた。『鳥取県神社誌』(鳥取県神職会 編 昭和10年)によれば、(太字、下線は私)


倭の賀茂神社 「祭神 別雷命、神武天皇、天照大御神、豊岩窻神、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命、素盞鳴命 由緒 創立年月不詳かならざるも、京都賀茂別雷神社より御分霊」とある。


掛合の賀茂神社 「祭神 別雷神 由緒 創立年月不詳、往古より該村内産土神にして賀茂大明神と稱せしを」


うーん、奈良の鴨神ではなく、京都の上賀茂社の勧請のように書かれてある。


宮前の賀茂神社

「祭神 阿遅鉏高彦根神、大己貴命、少彦名命、別雷神、倭姫命、玉依姫命、天照荒魂命、素盞鳴尊、倉稲魂命、誉田別命、大津見命、栲幡千々姫命、天児屋根命  創立年代不詳、三代実録に貞観九年四月庚午八日伯耆国正六位上賀茂神従五位下とあるは則ち当社にして、棟札にも此年号のもありたり、当社に阿遅鉏高彦根神を奉祀せるは、古事記の故此大国主神、娶坐胸形奥津宮神、多紀理毘売命、生子阿遅鉏高彦根神とありて、西伯郡成実村大字宗像と近きを以てなり、賀茂註進雑記の賀茂別雷社御領荘園の内に伯耆国星河庄、稲積庄とあり当社社帳記する處によれば星河庄十一ヶ村の総社とありて…、」


賀茂神社 鳥取県西伯郡南部町宮前


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この宮前の賀茂神社だが、阿遅鉏高彦根神を祭っており、成実村の宗像神社が近いから…と理由が書かれているが、宗像三女神が祭神だったら、わかるけれども、しっくりこない。元は奈良の鴨神の社だったけれど、京都の上賀茂社(賀茂別雷社)の荘園になるにしたがって、上賀茂社由来の賀茂神社となったのではないか。しかし、これは単なる想像でしかない。





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by yuugurekaka | 2017-12-30 14:19 | 賀茂 | Trackback

『新抄格勅符抄』大同元年牒(806年)によると、

鴨神  八十四戸 大和卅八戸 伯耆十八戸 出雲廿八戸 となっており、伯耆国にも賀茂神戸が存在していた。

この賀茂神戸は、伯耆のいったいどこにあったか定かではないが、
一つの説として、会見郡鴨部郷(その昔は 賀茂郷)のどこかにあったのではないかとも言われている。

会見郡とは、島根県の県境に位置する伯耆国のもっとも西部の地域である。出雲古道をそのまま、鳥取県境を出て、手間関を通って、左手に天万郷、右手に鴨部郷と云われている。そういう位置関係からすると、出雲国賀茂神戸とは近くである。
改めて訪れてみて、天万郷から鴨部郷は、赤猪岩神社など大国主命伝承地だったと思い出した。
古の氏族分布が、古事記の伝承に影響していたのではないかとふと、思い浮かぶのだった。


鴨部郷の中心地だったのではないかとされる鴨部集落であるが、平安時代の古代地名が、今もなお残っている地域である。

国土地理院の地図に見える鴨部集落の地図 

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南北に流れる法勝寺川の流域に開けた集落のようだ。


下鴨部付近の法勝寺川 

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『伯耆誌』(景山粛 著 1858年)の抜粋であるが、(※漢字の写し間違いはあるかもしれない)

和名抄に鴨部と見へたる地なり讃岐國阿野郡伊豫國越智郡土佐國土佐郡に同名あり姓氏録に鴨部祝ありて大國主神之後也と見ゆ(未定の部にも同姓あり)此氏族の采地なりしなるべし汗入郡松波氏か京都穂井田忠友の所蔵と寫せる東大寺古文書の中に左(下記の)の一書あり

  優婆塞舎人事
                  伯耆國會見郡賀茂卿戸口賀馬戸口
貢 賀茂部秋麿年廿
                   神護景雲四年六月廿五日
                持經位法師  惠 雲 少 鎭 實 志
                 七月九日

神護景雲四年は、770年である。その頃、伯耆国賀茂郷の20歳の秋麿という人が、奈良の東大寺に行ってお坊さんになったということだ。
古に「大國主神之後也」の豪族が住んでいたのかもしれない。


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by yuugurekaka | 2017-12-20 23:30 | 賀茂 | Trackback

■ 土佐国に流された高鴨の神

『続日本紀』(797年)に高鴨の神のことが書いてあった。

"天平宝字8年11月庚子(七日)
再び高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。高鴨の神について、円與とその弟の中衛将監・従五位下の賀茂田守らが[つぎのように]言上した。
昔、大泊瀬天皇(雄略天皇)が葛城山で狩をされました。その時に老夫がいて毎度天皇と競争して[獲物の]とりあいをしました。[そこで]天皇はこれを怒り、その[老]人を土左国に流されました。[これは私達の]先祖が[祭祀を]掌っていた神が化身し老夫と成ったもので、この時[天皇によって大和国から土左国へ]追放されたのです。<分注。今、以前の記録を調べたところ、この事件は見当たらない。>
 ここにおいて天皇は、早速[賀茂朝臣]田守を[土左国に]派遣して、高鴨の神を迎えて、本の場所に祠らせた。(『続日本紀』直木孝次郎 他訳注 平凡社)

葛城山と葛城一言主神社

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この高鴨の神との狩りの話であるが、『日本書紀』(720年)には、高鴨の神ではなく、葛城の一言主神との話が書いてある。

〝四年春二月、天皇は葛城山に狩りにおいでになった。突然長身の人が出現し、谷間のところであった。…中略…「自分は一言主神である。といった。そして、一緒に狩りをたのしんで、鹿を追いつめても、矢を放つことを譲り合い、轡を並べて馳せ合った。言葉も恭しく仙人に逢ったかのようであった。日も暮れて狩りも終わり、神は天皇を見送りされて、来目川までお越しになった。このとき、世の人々は、だれもが「天皇は徳のあるお方である」と評した。〟(『日本書紀』全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫)

葛城の一言主命には、まことに友好的な書き方だ。「徳のあるお方」というが、雄略天皇の別の記事を見る限りでは、ほとんどの記事が腹をすぐ立てて殺してしまう残忍な天皇として描かれている。坂合黒彦皇子と眉輪王をかくまった葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)も焼き殺されてしまう。

葛城一言主神社 拝殿  奈良県御所市森脇432 
祭神は、葛城之一言主大神と幼武尊(雄略天皇) 詳しくは、→ ウィキペディア 葛城一言主神社

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また、鴨族の神を神と思わぬ記事もある。

〝七年秋七月三日、天皇は少子部連(ちいさこべのむらじ)スガルに詔りして、「私は三輪山の神の姿を見たいと思う。お前は腕力が人に勝れている。自ら行って捕らえてこい」といわれた。スガルは、「ためしにやってみましょう」とお答えした。三輪山に登って大きな蛇を捕らえてきて天皇にお見せした。天皇は斎戒されなかった。大蛇は雷のような音をたて、目はきらきらと輝かせた。天皇は恐れ入って、目をおおってご覧にならないで、殿中におかくれになった。そして大蛇を岳に放たせられた。あらためてその岳に名を賜い雷とした。(『日本書紀』全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫)

だから、葛城山で共に狩りをした、高鴨の神を土佐国に追放したとは、さもありなんと思うわけである。高鴨の神とは、葛城の一言主神だったのか。
それを裏付けるように、土佐国風土記逸文の記事がある。

〝土左高賀茂大社

  ()(さの)(くに)の風土記に()ふ。土左郡(とさのこほり)郡家(こほりのみやけ)の西に去ること四里に高賀茂(たかかもの)大社(おおやしろ)あり。その神のみ名を一言(ひとこと)(ぬしの)(みこと)と為す。その(みおや)(つまびら)かならず。一説(あるつたへ)()へらく、大穴(おほな)六道(むぢの)(みこと)(みこ)(あぢすき)高彦根(たかひこねの)(みこと)なりといへり。(『釈日本紀』巻十二「一言主神」・十五「土左大神」


土佐神社 高知県高知市一宮しなね2丁目16−1

最初 土佐の「賀茂之地」に祭られ、後に「土佐高賀茂大社」(土佐神社に比定されている。)に祭られたとされている。

祭神は、味鋤高彦根神・一言主神。詳しくは→ ウィキペディア 土佐神社


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                                         By 663highland, CC 表示 2.5, Link

一言主命は、事代主命だと思っていた。「一説」というわけだから、味鋤高彦根命というのは元々異説だったのではなかろうか。
異説が書かれることによって、通説になっていくのだろうか。

『新抄格勅符抄』(806年)の神戸とも照合する。

高鴨神 五十三戸 大和二戸 伊与卅戸 天平神護二年符 土佐廿戸 天平神護元年符

なぜ、土佐国だったのだろうか。
土佐国造は、『先代旧事本紀』によれば、

都佐国造

成務朝の御代に、長阿比(ながのあび)()と同祖・三嶋(みしまの)(みぞ)(くいの)(みこと)の九世孫の小立(おたちの)(すく)( とある。

また、『賀茂朝臣本系』という新撰姓氏録逸文の伊予国、土佐国に関係する賀茂氏の抜粋であるが、

伊予国鴨部首  神魂命の譜で御多弖足尼(みたてのすくね)が祖。
土佐国賀茂宿禰。同国鴨部 神魂命の譜で小忍瓶足尼(おおしみかのすくね)が祖。
伊予国賀茂朝臣。同国賀茂首 神魂命の譜で小乙中勝痲呂(おとなかのすぐりまろ)が祖。

と、ある。葛城の賀茂氏が、伊予国や土佐国に分布しているのがわかる。 

この土佐国造の祖三島溝杭命」であるが、事代主神の妃ー活玉依姫の父親である。(→ ウィキペディア 玉櫛媛 )
葛城の賀茂族の始まりは、そもそも摂津の三島家に出雲の事代主命が妻問いし発生したこととなっている。
そのような縁で、土佐国が追放された一言主命を受けることとなったのだろうか。

しかし、『日本三大実録』(859年)には、「高鴨阿治須岐宅比古尼神」(従二位勲八等より従一位)、「高鴨神」(正三位より従一位)とは、別個に「葛城一言主神」(正三位勲二等より従二位)とある。
「高鴨神」=「葛城一言主神」ではないようである。再編されて、高鴨神が、高鴨神・葛城一言主神に分離されたのか、元々別の神だったのか、定かではない。

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by yuugurekaka | 2017-12-13 22:00 | 賀茂 | Trackback

■ 賀茂神戸の葛城の賀茂社はどこか?

『出雲風土記』(733年)の意宇郡には、「賀茂神戸」の記載がある。

"賀茂(かも)神戸。郡家の東南三十四里の所にある。所造(あめのした)天下(つくらしし)大神(おおかみ)の御子、阿遅須枳(あじすき)高日子(たかひこ)葛城(かづらき)賀茂(かも)社に鎮座していらっしゃる。この神の神戸である。だから、鴨という。〔神亀三年に字を賀茂と改めた。〕この郷には正倉がある。"(『解説 出雲風土記』島根県古代文化センター[]


この文面だけから読むと、葛城の賀茂社とは、大国主命の御子アジスキタカヒコノミコトを祭った高鴨神社のことでないかと思ってしまう。


金剛山・葛城山

この山の麓に、大和の出雲族ー鴨族の神社は、多く存在する。

御所駅から、鴨都波神社~長柄神社~葛城一言主神社~葛木御歳神社~高鴨神社へと歩いて行った。


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高鴨神社 鳥居  奈良県御所市鴨神1110 

現在の祭神は、阿遅志貴高日子根命(迦毛之大御神)が主祭神で、下照比売命・天稚彦命を配祀している。


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■『新抄格勅符抄』(806年)

『新抄格勅符抄』大同元年牒(806年)によれば、

高鴨神
 五十三戸 大和二戸 伊与卅戸 天平神護二年符 土佐廿戸 天平神護元年符
鴨神  八十四戸 大和卅八戸 伯耆十八戸 出雲廿八戸
 
鴨神は、出雲国28戸とある。
ちなみに京都左京区の賀茂御祖神社(下鴨社)、賀茂別雷神社(上鴨社)は、

鴨御祖神 廿戸 山城十戸 丹波十戸 天平神護元年九月七日  
若雷神 廿四戸 山城十四戸 丹波十戸              

とある。
806年の時点で、賀茂神戸として出雲と関係があるのは、奈良の「鴨神」である。
この高鴨神が、高鴨神社と考えるのは早合点で、鴨神が、高鴨神社の祭神だったのかもしれない。
鴨神を鴨都波神社 ( 鴨都味波八重事代主命神社)、高鴨神を高鴨神社に比定する説もあるが、どちらがどうなのかよくわからない。
その逆なのかもしれない。

鴨都波神社  奈良県御所市宮前町51
現在の祭神は、積羽八重事代主命・下照姫命で、建御名方命を配祀する。

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『日本三代実録』(901)によれば、高鴨阿治須岐宅比古尼神 従二位勳八等より従一位、高鴨神 正三位より従一位とあり、「高鴨」とは鴨族の祖神の総称をいうもので、『日本三代実録』の時点での神階から察するに、高鴨神社が高鴨阿治須岐宅比古尼神を奉祭する社だったのかもしれない。
鴨神が、事代主命で、アジスキタカヒコ命に代わったのかもしれないし、もともとアジスキタカヒコ命だったのかもしれない。

『出雲風土記』は、事代主命、野見宿禰については全くふれもしていない。しかし、賀茂神戸が、奥出雲でもなく、西出雲でもなく出雲国東部であると考えると、事代主命の方が鴨神として縁があるように思う。

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by yuugurekaka | 2017-12-06 17:53 | 賀茂 | Trackback

■ 延喜式神名帳の記載

式内社とよく言い、いかにここの神社が古くから格式がある神社であるかを示す言葉があるが、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十に記載されている官社である。
ここの神社の記載がさらに頭を混乱させる。和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)能義郡にあるはずの野城神社や意多伎神社が意宇郡に記載され、能義郡にある神社は、天穂日命神社だけ載っている。

能義神社 鳥居 島根県安来市能義町366 

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意宇郡 48座(大1座・小47座)の式内社抜粋 
社名           比定社 
野城神社        能義神社  島根県安来市能義町366
同社坐大穴持神社    合祀:能義神社同上
同社坐大穴持御子神社  合祀:能義神社同上
意多伎神社       意多伎神社  島根県安来市飯生町679
         (論)愛宕神社   島根県松江市外中原町54阿羅波比神社境外末社
同社坐御訳神社     意多伎神社  島根県安来市飯生町679

能義郡  1座(小)
社名           比定社 
天穂日命神社      支布佐神社  島根県安来市吉佐町365


和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、承平年間(931年 - 938年)に成立したと言われる。と、なれば①現在の能義神社辺りは、
延喜式神名帳の時代は、意宇郡であり、927年から4年間の間に、能義郡が地域として拡大したと思える。
あるいは②延喜式神名帳に載っている野城神社や意多伎神社は、意宇郡にあり、現在の比定される能義神社や意多伎神社は、能義郡に存在し、意宇郡に現在の比定社とは別の神社があったと思われる。
また、あるいは、③神社の存在する地域は、能義郡であるが、過渡期であり、神社そのものは、意宇郡の管理下にあった。そういう①②③の3説が思い浮かぶ。
こういう経緯を踏まえると、能義郡が、野城大神の名前から由来するという説が怪しくなってくる。

それゆえ「天穂日命神社」の比定を巡って、能義神社は、吉佐村の国津大明神(現 支布佐神社)との間に正徳年間と明治初期の2回にわたり論社争いがあった模様である。(→ ウィキペディア 能義神社 

支布佐神社(きふさじんじゃ)拝殿  島根県安来市吉佐町365  
『日本文徳天皇實録』によれば、仁寿元年(851年)九月丁亥【十八】
青幡佐草壯丁命。御譯命。阿遲須伎高彦根命。與都彦命。速飄別命。天穗日命神等並授從五位下とある。

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■ 『日本三代実録』 「能義神」の記載

『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、延喜元年(901年)に成立した歴史書である。

《卷十四貞觀九年五月二日庚子》○二日庚子。出雲國從五位下能義神。屋神並授從五位上。

《卷二十貞觀十三年十一月十日壬午》○十日壬午。雷電。』授武藏國正五位上勳七等秩神從四位下。從五位下椋神從五位上。飛騨國正五位下水無神正五位上。出雲國正五位上湯神。佐往神並從四位下。五位上能義神。佐草神。揖屋神。女月神。御譯神。阿式神並正五位下。從五位下斐伊神。智伊神。温沼神。越中國從五位下楯桙神並從五位上。(太字は 私)(八六七)

貞觀9年(867年)に「五位下能義神」、貞觀13年(871年)に「五位上能義神」とある。この「能義神」が、能義神社の「野城大神」か、支布佐神社の「天穂日命」を表わしたものか、あるいは、切川神社の「野見宿禰」なのか、定かではない。


能義神社の境内社に「野美社」がある。「野見社」とは書かずに「野美社」と書かれてある。
これは、「能美」→「野美」ではなかろうか?ちょっと悩ましい表記だ。
        
祭神は、時代によって変わるものである。現実の祭神をもって、歴史を語ることはできない。
ただ、能義郡の地域も、出雲臣の勢力が強かった地域であることは間違いない。
出雲臣といっても、おそらく一系ではなく、何系もあったと思われる。

能義神社 境内社  野美社 

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by yuugurekaka | 2017-12-03 16:02 | 野城大神 | Trackback