2016年 09月 22日
荒神さま(3) 吉野裕子 荒神=アラハバキ神説
2か月ぐらい前の事だったか?うちの家の後ろから、突然にょろにょろした黄金色に近い蛇が
現れました。私は突然のことでもあり、蛇が大の苦手で驚きました。蛇も驚いたようで、すぐ
庭のつつじの下に隠れました。どういう種類の蛇だったか、それも確認もできず、後からイ
ンターネットで調べたところ、たぶんアオダイショウだったんではなかろうかと思います。
自分には恐怖の対象である蛇が、どうして、出雲族の神となったのでしょうか。
蛇は出雲族だけではなく、祖霊とみなされ世界中で広がっていったとされてい
ます。
それがなぜなのか。
民俗学者吉野裕子氏によれば、その基本要因として
“(1)外形が男根相似 (2)脱皮による生命の更新 (3)一撃にして敵を倒す毒の強さ”
の3点であるとされます。
また“ 次のようにも表現することができる。つまり、

爾佐神社(にさじんじゃ) 島根県松江市美保関町千酌1061
にさは「幣(ぬさ)」(御幣)ではないかと説があるという。

2016年 09月 15日
荒神さま(2) 柳田国男 先住民地主神説
私は小さい頃から、荒神さんは、海の神様だと思っていました。
けれども、本を調べた所、どうも海の神ではなくて、「もともと」は山の神だということがわ
かってきました。
また、「荒神さんは、素戔嗚命」そう聞いて育ってきました。
今でも神社の宮司さんに聞けば、そういう答えが返ってきます。
それと、「荒神さま」なので、「荒ぶる神」で祀らないとたたる恐ろしい神様さまだと、思っ
ていました。
この考えは、私だけが思っているのではなく、出雲地方ではよく聞く説のようだと思います。
武内神社の裏山の荒神社 松江市八幡町303
かなりの確率で、神社の杜に荒神さんが存在する気がします。

しかしながら、ヤマタのオロチを退治した素戔嗚命に藁蛇を奉納するという矛盾点が、子ども
心にも釈然としませんでした。出雲族は、古事記・日本書紀を見る限りで奈良の三輪山の大神
とか、神は蛇体です。だから、蛇が、いけにえであるはずがありません。
いや、考えを変えるならば、出雲族を高天原出身の素戔嗚命に献上するというそういう隠喩が
あるのかしらとも思ったりもしていました。
しかし、よくわかりません。
武内神社の裏山 荒神社の藁蛇 頭が藁ではなくて、龍の像なのが珍しい。
松江市八幡町303

柳田国男氏の『石神問答』の中にも、ちょこっと荒神様の事が書いてあります。
“駿河国風土記には、荒神は他の大社の末社ですなわち、その神の荒魂(註:神の荒々しい
側面、荒ぶる神)であるとの説が記録されておりますが、末社ではない独立した荒神が極め
て多い以上は、成立しない説であり、社寺の境内に荒神を祀るのは、地主神の思想に基づく
ものであるのは、疑いが無いと思います。雲陽誌(註:享保二年=1717年に松江藩士、
黒澤長尚が編纂した島根の地誌)や東作志(註:正木輝雄が編纂した美作国=今の岡山県、
東部の地誌)を見れば荒神は、正しくは山野の神であり、その数の多い事はなお東国の山神
と同じでございます。特に注意すべきは出雲の美作に限った事ではなく、多くの荒神にはま
ったく社殿が無い事です。~中略~
さて、荒神の字の意味は単に荒野の神と言う事かとも思われますが、やはり「荒ぶる神」と
いう古称に基づくものと再考致しました。
現に日本書紀の景行天皇四十年の膽吹山(註:滋賀県と岐阜県にまたがる山)の章には、荒
神および山神、との文字が見られます。
思うにこの島の先住民の首領で歸順和熟(註:敵対するのを止めて服従し、仲良く親しみあ
うこと)した者が、すなわち国津神(地神)と呼ばれ、新住民に抵抗する者が、つまりこれ
を荒神と呼ぶ様になりまして、これに向かって土地を願う者は、常に地主を恭敬しないわけ
にはいかなくなったのだと思われます。 ~ 中略 ~ ※ 下線は私
磯近荒神 揖屋神社近くの国道9号線 意東のバス停前 松江市東出雲町
神社の境内社ではなく、単独で荒神さまも見ることがあります。

後世の武人などの霊を祀って荒神と呼んだ例もあるようでございます。
菅公(註:菅原道真のこと)を神に祀ったのも現人神、または荒神の思想に基づいたもので
はないかと推測しております。”
(『箋注:石神問答・上巻』柳田國男著 ~白鳥博士への手紙~ 大和青史訳 Kindle版)
三輪山でも、伊吹山でも、山の神は蛇ですね。
崇神天皇でも、日本武尊でも山の神を丁重にしないといけなかったというわけですね。
2016年 09月 11日
荒神さま (1) 志多備神社
昨年の今頃だったか、生前の漫画家水木しげるさんと、作家の荒俣宏さんが、出雲を旅する番組が
山陰放送で放送されました。(「水木しげる 93歳の探検記」山陰放送 TBS系)
その中では、水木さんが幼少の頃 妖怪の話を聞かせた「のんのんばばあ」の美保関町の生地、美
保神社、島根町の加賀の潜戸、平田の一畑薬師、立石神社、そして、ここの志多備(したび)神社を
訪問してまわられました。
幼いころの水木少年は、ここの神社の神木を見て「八岐大蛇だ。」とおっしゃったそうです。
樹齢はわかっていないけれどが、テレビ番組では、たぶん500年は経っているような話がありました。
樹幹は9本に分かれているが、一本は枯れており、文字通り八つの大蛇が空に向かってクワッと泳い
でいるようにも見えます。
(ちなみに八というのは、実数の八ではなく聖なる数字であったようだ。)

さらには、巨大な藁蛇(わらへび)が、くちを大きく開けて、神木に巻き付いています。


出雲地方の神社というのは、大半が創建の時期がわからない。出雲風土記(733年)には記載されて
いるので、少なくとも 奈良時代にはここの神社が存在したということです。
また神社の名前が、「したび」とか「うるふ」とか、不思議な名前で意味がわかりません。縄文時代から
の言葉なのか、はたまた渡来のことばなのか、納得ある説明を聞いたことがありません。

参道にも スダジイの巨木がありました。


さて、この荒神(こうじん)さまであるが、その起源は古く、また出雲地方だけではなく、全
国に荒神信仰が存在します。
歴史が長いだけに、仏教などと習合した、三法荒神がありますが、ここでは、地荒神(屋敷荒
神や竈荒神を除く)と言われる山陰地方の荒神信仰について書きます。
山陰地方では、出雲地方(ここでは島根県東部)や鳥取伯耆地方の荒神祭り(伯耆ではモウシ
アゲとも呼ばれる)は、国の無形民俗文化財に指定されています。