2016年 07月 16日
加賀の潜戸 (4) 佐太大神 誕生
出雲風土記(733年)には、佐太大神の誕生神話が記されています。
“加賀神崎。窟がある。高さは一十丈ほど、周りは五百二歩ほどである。東と西
と北とに貫通している。
[いわゆる佐太大神がお生まれになった所である。お産まれになろうとするときに、
弓矢がなくなった。
そのとき御母である神魂命の御子、枳佐加比売命(きさかひめ)が祈願なさった
ことには、「わたしの御子が麻須羅神の御子でいらっしゃるならば、なくなった
弓矢よ出て来なさい。」と祈願なさった。
そのとき、角の弓矢が水のまにまに流れ出た。その時弓を取っておっしゃったこ
とには、「これはあの弓矢ではない。」とおっしゃって投げ捨てられた。また金
の弓矢が流れ出て来た。そこで待ち受けてお取りになり、「暗い窟である。」と
おっしゃって、射通しなさった。
そこで御母の支佐加比売命の杜がここに鎮座していらっしゃる。今の人はこの窟
のあたりを通る時は、必ず大声をとどろかせて行く。もし密かに行こうとすると、
神が現われて突風が起こり、行く船は必ず転覆するのである。] ”
(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)
加賀の潜戸から遠くに見える的島
潜戸を射通した金の矢は、勢いのあまりその先の沖ノ島まで射通し穴があいたという。
成長した猿田彦命が、この穴を的に弓の稽古をして故、「的島」と呼ばれるようになったそうだ。

マスラ神の黄金の矢が、暗い窟屋を、射通し、加賀の潜戸が輝くように穴が開けたとの神話ですが、
三輪山の大物主の丹塗矢型の神婚神話を思い出します。(ホトタタライススキヒメ誕生神話)大物
主の赤く塗られた矢と同じように、マスラ神の黄金の矢は、マスラ神の〝男〟そのものでしょう。
そういう交合や性器そのものが、信仰の対象だった時代から、風土記の時代には、すこし隠喩や具
象化されているように思います。
また、〝黄金の矢〟からもうひとつ頭に浮かぶのは、佐太神社や出雲大社で奉納されるセグロウミ
ヘビのことです。この海蛇は、背中は黒いけれど、腹が黄色で、海を照らして泳いでいるように見
えるそうです。
たいへんな猛毒を持ち、恐ろしい海蛇ですが、南洋から対馬海流に乗って、はるばる島根半島に漂
着してきます。
海を照らして島根半島にやってくる龍蛇様 セグロウミヘビ
このマスラ神ですが、益荒男(ますらお)の益荒(ますら)、立派な男神という一般的な神名でど
ういう神なのかよくわかりません。また、一説には、
猿(古語で〝ましら〟)ということから、猿田彦命は猿と関係があるという誤解につながったのだ
とか…、いろいろな説がありよくわかりません。
それに、この潜戸(くけど)という言葉尻を考えると、久那土(くなど)と名前が似ていて、元々
性的な結合を信仰する縄文時代の信仰の場所だったのかもしれません。
谷川健一氏は、『黒潮の民俗学』(筑摩書房)の中で、加賀の潜戸のことを述べられています。
“加賀の潜戸をつらぬく黄金の矢とは、的島の東から射しこむ太陽の光線に他ならないことを、理
解した。黄金の矢を持つ太陽神が、暗い洞窟に矢をはなつ、とは太陽神と、それをまつる巫女の交
合の儀式を意味するのである。
そうした伝承をもとにした祭式がおそらくここに生まれた。それには、加賀の潜戸と的島の二つの
洞窟の穴が東西に一直線に並んで見透かされるという自然の舞台を必要としたのに違いない。
それは私が沖縄で見た『太陽の洞窟』のひとつにほかならなかった。
かつて、沖縄では、『太陽が穴』の終わりの日に洞窟内の鍾乳石(石筍)に向かって自分の下腹部
をこすりつけ、それで神との交合の儀式をおこなったというが、それは太陽神の子を産むための儀
礼にほかならなかった。こうして誕生した太陽神の子は、東にあるその洞窟から登って、西の洞窟
に沈むと考えられたのある。”

2016年 07月 10日
加賀の潜戸 (3) 猿田彦命ではなく天照大神だった。

現在、潜戸で誕生した神様は、「猿田彦命」とされていまして、いろいろなパンフレットや説明板
には佐太大神=猿田彦命と説明されています。
しかし、それはあくまで明治以降からだと思われます。
出雲風土記(733年)に書かれる加賀の潜戸は、誕生する神は、佐太大神であり、生んだ母神は神
魂命の子ー支佐加比売命となっています。
だから、「猿田彦命」とはどこにも書かれていません。
ともかくも奈良時代は、母神ー支佐加比売命、誕生神ー佐太大神あったものが、中世以降(どこが
始まりは正確にわかりませんが)には母神ーイザナミのミコト、誕生神ー天照大神、佐太大神ーイ
ザナギノミコト・イザナミノミコトになった模様です。
それも、江戸時代まで続き、明治の国家による神道の再編の中で、現在の支佐加比売命・猿田彦命
に変わったもののようです。
『潜戸縁起』
加賀大津の代官家(よこや)に『潜戸縁起』という本が3冊あるそうです。そのうちの一冊は、年
代がわかりませんが、一冊は宝暦三年(1753年)八月吉日金津真治とあり、もう一冊は宝暦九
年十二月初五日之写 金津八坡と記してあるそうです。
宝暦というのは、江戸幕府第9代将軍徳川 家重の時代です。
なお『潜戸縁起』のことが、雲陽誌(1717年)にも書かれているので、『潜戸縁起』の原本そ
のものはかなり古く書かれていたものと思われます。
その内容ですが、
“伊弉諾尊と伊弉冉尊は、淡路島に天下られてから、一万二千年の間、陰陽のことは、知られなか
ったが、あるとき、川すずめの振舞を見てやっとわかられ、和合されて、十か月目に、お産のひも
を解かれ、そこを潜戸と名付けられた。お生まれになったのが、天照大神で、幼名は、宇宝童子、
その後、皇命と名付けられ、のちに天照大神と申し上げるようになった、と記されています。”
“天照大神がお生まれになったとき、イザナキは、加賀と言われ、お二方とも加賀ばれた。この
地を加賀と名付けられたのは、こんなめでたい意味があり、赤ん坊が生まれると今でも、よろこび
というのは、これからはじまったのだ。と、そして、母のことを、かか、というのもこれがもとだ、
と記されています。”

元々の『潜戸縁起』が、いつの時代かはっきりしませんが、それに先立つ(?)佐陀大社(現在の
佐太神社)の『佐陀大社縁起』(明応四年)にも、『潜戸縁起』と同じような内容が記されていま
す。明応四年は、1495年で室町時代です。
そもそも、南贍部州(なんせんぶしゅう)の大日本国の出雲国島根郡の佐陀太明神とは、 すなわち、
天地開闢の祖である、陰・陽の最初の神である伊弉諾・伊弉冊の尊です。
伊弉冊は伊弉諾尊のお妃となり、妊娠されました。「加賀の潜戸」に別に住まわれました。 この
場所で天照大神が誕生しました。あの岩窟の中には乳房の形をした石があるそうです。
『加賀』は、伊弉冊尊が潜戸にお棲みになり、外にお出にならない時には、天下は暗かったが、
潜戸をお出になると、天下はたちまち明るくなりました。
その時、伊弉諾尊が「赫々(かくかく)たり」(光り輝くさま)と言われました。このため、其
の地を「加賀」と名付けられたのです。
神社の祭神でも長い歴史の中で、神道の変化に伴い、すり替わったりするものですが、加賀の潜
戸の祭神も変わっていたのです。
参考文献 『島根町誌 本編』(島根町教育委員会発行 1987年)
2016年 07月 08日
加賀の潜戸 (2) 古潜戸

旧潜戸(きゅうくけど)こと古潜戸(ふるのくけど)にまず観光船は着きました。
旧潜戸には、「賽の磧」(さいのかわら)がありまして、「仏」の潜戸とも言われています。
船着き場に着きました――。



外から見えた大きな洞門を内側から見ると、こうなっていました。
昔はここが船着き場だったようです。

幼くして亡くなった子供の霊が集まるところで、親よりも先だって亡くなった子どもたちが親不孝
の報いで、来る日も来る日もここで石積みをして塔を作ります。そして、せっかく石塔ができあが
ると大きな鬼が出てきて塔を無茶苦茶にこわしてしまいます。子どもたちは、泣きながら、また一
から石を積むという続きます。
果てのない永遠の苦行に、地蔵菩薩が現われて、子どもたちが救われるという話があります。

地蔵菩薩というと仏経と深い関係があるように思われるのですが、民間信仰で、仏教の地蔵信仰と
民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説だそうです。

ここの賽の河原の説明版がありました。
海部人族といえば、宗像氏でしょうか。

ここで生み育てたとありますが、
こうして賽のかわらがあるところを見ると、猪の目洞窟のように、そもそもお墓があった所ではな
いのだろうかと思いました。洞窟というのは、出雲風土記の宇賀郷にある「黄泉の穴」のように黄
泉の世界につながっているところだし、「賽の」というからには、元々はお地蔵さんではなくて、
死の世界(黄泉の国)と生の世界の境界神としての「賽の神」だったのではないのでしょうか。
江戸時代まで神仏習合の時代でした。そもそもが、賽の神、道祖神自体が、神道のなかであえて体
系づけられているわけでもないですし、神道の神様そのものが「権現さん」と言われ、仏様の仮の
姿と言われていた時代が長いのです。
仏の潜戸といいますが、もともとは神仏習合したところだったのではないかしら。
昔は「古(ふる)の潜戸」と呼ばれたようですが、もしかしたら、仏教とは最も遠い物部氏の「布
留」(ふる)だったのではないかしら。何の証明もできませんが…。
「布瑠の言(ふるのこと)」とは、「死者蘇生の言霊」といわれます。幼くして亡くなった子供で
すが、できれば生き返ってほしいと願っても不思議はありません。
それから、加賀の潜戸は、遠く離れた松江市の比津神社の西側にある「瀑戸の池」(滝戸池)とつ
ながっていて、潜戸から大鯛がおよいでくることがあるとの言い伝えがあります。
「音に聞こえし 瀑戸の池は 加賀の潜戸の潮がさす」という俗謡が残っているそうです。
滝戸池

2016年 07月 04日
加賀の潜戸 (1) 新潜戸・旧潜戸
松江市島根町の日本海に面した潜戸鼻には、「加賀の潜戸」(かかのくけど)という景勝地があり
ます。 ➡ウィキペディア 加賀の潜戸
その潜戸には、出雲風土記(733年)に載っている、佐太大神(さだおおかみ)の誕生の地である
新潜戸と賽の河原がある旧潜戸の二つがあります。
行った時には気づきませんでしたが、地図で見ると、新潜戸は、なんだか象の口みたいなところに
ありますね。
新潜戸と旧潜戸の位置

出雲風土記に載っているような潜戸なのに、「新」潜戸とはこれいかに?
旧潜戸が「仏の潜戸」とも言われており、新潜戸は神が誕生したので「神潜戸」で、音読みの「シ
ン」で神→新になったという語呂合わせのような気もしますが、さて、どうなのでしょう。
寛政4年(1792年)の「島根郡西組万差出帳」には、「潜戸一か所、古潜戸一か所」と
記載があるところを見ると、新潜戸は「潜戸」、旧潜戸は元々は、「古潜戸」と言われていたようで、
それが「古→旧」に転化したのではないかと思えます。
また、旧潜戸は、「ふうくけど」とも呼ばれていたそうなので、「ふう」とか「ふる」に当て字で
「古」が当てられたんではないか?などとも思ったりします。
ところで、新潜戸と旧潜戸の違いは、構造的にはどういう違いがあるのでしょうか。
コトバンクの地名辞典による説明では
“ 島根県の島根半島北岸、島根町潜戸鼻にある景勝海岸。海食を受けた洞門の新潜戸と洞窟(どう
くつ)の旧潜戸からなる。 国指定の名勝・天然記念物。大山隠岐(だいせんおき)国立公園に属し、遊
覧船で探訪できる。加賀(かか)の潜戸ともいう。”
どちらも海食を受けた洞窟なのですが、新潜戸は、海中の向こう側は明るく見える「洞門」であるの
に対して、旧潜戸は奥が見えない黄泉の世界の境界線のような「洞窟」なのです。

