■ 紀伊の熊野三社との統合

中世には紀州の熊野信仰の影響が強まり。いつからそうなったのかわからないが、近世には熊野大社は紀伊の熊野三山と統合して、上の宮は事解男・速玉男・伊弉冉の三神を「熊野三社」と云い、下の宮は天照大神・素戔嗚命・五男三女を祭り、「伊勢宮」と呼んだ。だから、古の熊野大社とは全く違う形になってしまったわけである。
しかし、明治の神道再編の中で、上の宮は廃し、下の宮一つにまとめて、熊野神社となった。
国幣中社にされ、その後大正五年に国幣大社に昇格した。そして、昭和52年には社名も熊野大社となり、現在に到っている。

熊野大社 上の宮跡地    熊野大社から約500メートル南のところにある。

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■ 紀伊と同名の神社

『延喜式』神名帳(927年)を見ると、出雲国と同名の式内社が多いことに気づく。
出雲も紀伊国も熊野坐神社」の社格は共に「名神大社」となっているが、須佐神社や伊達神社などが、「名神大社」で紀伊国の方が高い。(出雲国は小社)
そのことから、紀伊国が素戔嗚命や五十猛命の本源地とする説もある。
出雲は単に神話の舞台に利用されたとするがっかりした説も古代史に根強い。

紀伊国の出雲国と同名の神社

名草郡 加太神社    小社
名草郡 伊達神社(
いたてじんじゃ) 名神大社 
在田郡 須佐神社   名神大
牟婁郡 熊野早玉神社  
牟婁郡 熊野坐神社  名神大

加多神社  島根県雲南市大東町大東362  
祭神は、少彦名命 

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紀伊国名草郡にも存在し、出雲国大原郡に存在する「加多神社」の祭神スクナ彦命(記紀では少彦名命)であるが、その登場する場面で、
日本書紀では、「少彦名命、行きて熊野の御崎に至りて、遂に常世郷に適しぬ」とあり、ここでも「熊野」が出てくる。紀伊の熊野ともとれ、和歌山の潮御崎の伝承も存在する。

また、古事記では、「オホクニヌシが、出雲の美保の岬にいました時じゃが、波の穂の上を、アメノカガミ船に乗っての、」(三浦佑之 訳・注釈 口語訳 『古事記』文春文庫 )ということから、熊野の御崎は、出雲の美保関となっている。
「熊野」という言葉が、「神の」という一般的な使い方だったのかもしれない。

美保関と言えば、事代主命である。富家伝承では、スクナ彦は、副王であり、(主王がオオナムチ)、八代目スクナ彦である事代主命のことを云う。単に出雲族の神ではなく、同族化の原理で、紀氏も親戚である。だから、同名の神社が存在しても不思議はないし、どちらかが本物で勧請とかいうものではないのだろう。

■ 事代主命の子孫

物部氏の伝承であると云われる『先代旧事本紀』では、なぜだか事代主命の子孫の系譜が詳しく述べられている。出雲の国ではなくて、大和の国の賀茂氏、大神氏の系譜のようである。しかし、出雲氏、神門氏との婚姻のことも書かれている。

「御孫の都味歯八重事代主神は、大きな熊鰐となって、三嶋の溝杭の娘、活玉依姫のもとに通い、一男一女がお生まれになった。
御子は、天の日方奇日方の命と申し上げる。
この命は、橿原の朝の御世の御命令で食国の政治を掌る大夫となって奉仕された。
妹の姫鞴五十鈴姫の命は橿原の朝の皇后となり、二児がお生まれになった。神渟河耳天皇、次に彦八井耳命と申し上げる。
次の妹五十鈴依姫命は葛城の高丘の朝の皇后となられて、一児がお生まれになった。磯城津彦玉手看の天皇である。

三世の孫、天の日方奇日方の命。またのお名前は阿田都久志尼命と申し上げる。
この命は、日向の賀牟度美良姫を妻として一男一女がお生まれになった。
御子は建飯勝の命で、妹は渟中底姫の命と申し上げる。この命は軽の地の曲峡の宮で天下を治められた天皇の皇后となり、四柱の御子がお生まれになった。大日本根子彦耜友天皇、次に常津彦の命、次に磯城津彦の命、次に研貴彦友背の命と申し上げる。

四世の孫、建飯勝の命は、出雲の臣の娘・沙麻奈姫を妻として一男がお生まれになった。

五世の孫、建甕尻の命またの名は建甕槌命、または建甕之尾命と申し上げる。
この命は伊勢の幡主の娘、賀貝呂姫を妻として一男がお生まれになった。

六世孫、豊御気主命は、またの名前を建甕依命と申し上げる。
この命は紀伊の名草姫を妻として一男がお生まれになった。

七世孫、大御気主命は、大倭国の民磯姫を妻として二男がお生まれになった。

八世の孫、阿田賀田須命は、和迩の君たちの先祖である。次に建飯賀田須命は、鴨部の美良姫を妻として一男がお生まれになった。

九世の孫、大田々祢古の命は、またの名を大直祢古の命と申し上げる。
この命は出雲神門臣の娘、美気姫を妻として一男がお生まれになった。

十世の孫、大御気持の命は、出雲の鞍山祇姫を妻として三男がお生まれになった。

十一世の孫、大鴨積の命は、磯城の瑞垣の朝の時代に賀茂の君の姓を授かった。次に、弟の大友主の命は、同じ朝の時代に大神の君の姓を授かった。次に田々彦の命は、同じ朝の時代に神部の直・大神部の直の姓を授かった。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社より なお解説は省略。) 

事代主命の系譜に国譲りの「建甕槌命」(タケミカヅチノ命)が出てびっくりする。
6世孫の豊御気主の命であるが、紀州の名草姫を妻とするとある。はて、神武東征の熊野村の話に、神武天皇の行く手を阻む女首長「名草戸畔」が登場するが、もしや、この名草姫がモデル?などと思ったりもする。

「熊野」というのが事代主命や紀氏が関係しているのかなとちょこっと思った次第である。

■ 速玉社

出雲国にもある「速玉社」であるが、一般的には、現 熊野大社境内社・伊邪那美神社に合祀されているとされている。
しかし、『出雲神社巡拝記』(1833)には、「大庭村 国造北島舘古屋敷内 速玉大明神 記云 速玉社 式云 速玉神社 祭神 はやたまのをの命」ともある。

出雲風土記や延喜式の云う速玉社・速玉神社は国造北島家の古屋敷内にあるというのだ。
その社跡は、神魂神社に向かう参道脇にあった。
現在は、神魂神社境内社・稲荷神社に合祀されているが、出雲国造家にとっては大変重要な社であったようである。


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この社の祭神、「速玉之男命」はイザナギの命が、黄泉の国に訪問したときに、イザナミの命と離縁を決意しつばを吐いたが、吐かれたつばから生まれた神が、「速玉之男命」である。

海部氏、物部氏伝承によれば、天火明命=饒速日命ともされる。姓氏録をみると、天火明命を祖とする尾張氏、饒速日命を祖とする物部氏というように完全なイコールではない。富家伝承本には更に天火明命=饒速日命=さらに素戔嗚命と書かれている。

自分には、黄泉の国の話を考えると、
イザナミの命の離縁前のイザナギの天火明命で、離縁後のイザナギの命が饒速日命のように思える。それからすると、吐いたつばは離縁を象徴していて、饒速日命の別名のようにも感じる。

さて、「御鼻をお洗いに成った神のお名前は、建速素戔烏(たけはやすさのお)尊(みこと)と申し上げる。出雲の国の熊野・杵築の神社(島根県松江市八雲町熊野の熊野大社・出雲市大社町杵築の出雲大社、旧簸川郡)におられる。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社)という『先代旧事本紀』の祭神の変更だが、出雲国造家の内部からもたされたものかわからないが、自分には壬申の乱から持統天皇以後の中央の豪族の権力関係が大きく影響したのではないかと思っている。


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by yuugurekaka | 2018-04-29 16:25 | 熊野大社 | Trackback

■ 祭神
熊野大社の説明板によると、熊野大社の祭神は熊野大神櫛御気野命であり、素戔烏尊の別名とされている。
しかし、祭神は歴史に伴って代わるものである。
あの出雲大社の祭神でさえ、中世には大国主命から素戔嗚命に変わってしまった。だから、熊野大社の祭神も変わっていたとしても不思議はない。
富家伝承(斎木雲州著『出雲と蘇我王国』大元出版)によれば、熊野大社の祭神はサイノカミ三神(クナド大神、佐毘売神、猿田彦大神)と事代主命であったそうである。

出雲国造出雲臣廣島 編纂の『出雲風土記』(733年)の意宇郡の出雲神戸(いずもかんべ)の説明に
伊弉奈枳(いざなぎ)の麻奈子(まなこ)、熊野加武呂乃命(くまのかむろ)」とある。
イザナギの命の愛しい子どもとあり、熊野の「神聖な祖神」と解釈されている。男神なのか女神なのか具体的にはわからない。

さらに、『出雲国造神賀詞』(716年~833年 文献に載っているのは)には(いつの段階の文書かわからないが)
「伊射奈伎乃真名子(いざなぎのひまなこ)加夫呂(かむろぎ)熊野大神櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」(太字は私)とある。「まなこ」の上に「日」が、付いている。イザナギの命の真奈子で日の神は、天照大神である。だったら、女神かと思いきや、」が付いているので男神である。女神の場合、加夫呂美(かむろみ)となるはずだ。そして、具体的な名として、「櫛御気野命とある。霊妙な
食物の神あるいは穀物霊ということだ。出雲国造が奉祭する神なので、初代 天穂日命を想定したものだとわかりやすいが、天穂日命は、天照大御神の子なので、イザナギの子では無く孫に当たる。

クナト大神も、記紀では、イザナギの命が、黄泉の国から逃げかえるときに発生した神であり、『古事記』では、衝立船戸神で、『日本書紀』一書においては、岐神(元の名は来名戸祖神)なっており、イザナギのマナ子とも言えなくもないが、記紀成立以降、朝廷に赴いて出雲国造が、述べるとなると、三貴神を指すと思われる。思われるが、たいへん歯切れが悪い。須佐之男命と断定されるにいたったのは、物部氏の伝承と云われる『先代旧事本紀』~大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前に成立したとみられている~が、影響しているのだろうか。

「御鼻をお洗いに成った神のお名前は、建速素戔烏(たけはやすさのお)尊(みこと)と申し上げる。出雲の国の熊野・杵築の神社(島根県松江市八雲町熊野の熊野大社・出雲市大社町杵築の出雲大社、旧簸川郡)におられる。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社)

ただ、この文章からは、おられるというだけで、熊野大神は素戔嗚尊であるとは書かれていないし、もし主祭神のことを指すのであれば杵築大社がすでに大国主命から素戔嗚尊に変わっていたことになる。
また大きな古い神社は、社家が一つとは限らない。社家ごとに、複数の社が有って、別々の神を祀っていたのであろうか。

■ 『初天地本紀』
平安中期の『長寛勘文』に引用される『初天地本紀』──紀国の熊野信仰について述べられた文章であるが、出雲国の熊野大社についても書かれている→ウィキペディア 長寛勘文  ──によると、

「伊謝那支命(いざなぎのみこと)が恵乃女命(えのめのみこと)を娶(めと)り、大夜乃売命(おおやのめのみこと)、足夜乃女命(たるやのめのみこと)、若夜女命(わかやめのみこと)の三女神を生んだ(このうち大夜乃売命は熊野大神の妃となる。)ところが、陸上に立ち給うとき、左肩を押し撫でたときに加巳川比古命を、また右肩を押し撫でたとき熊野大御神加夫里支久之弥居怒命(かぶりしみけぬのみこと)を、また髻中(もとどり)から須佐乃乎命(すさのおのみこと)を、それぞれ化成した。次に、「此時金国之八熊野之波地降来伊豆(毛)国、到熊野村、柱太知(ふとしり)奉而加夫里支熊野大御神地祇神皇又御児后大夜女命、山狭村宮柱太知奉而、静坐大御神云是也」(松前 健 著作集 第8巻 ㈱おうふう より)(太字は私)

この『初天地本紀』によれば、熊野大神は、素戔嗚命の兄弟であり、素戔嗚命とは別神となっている。そして、同じイザナギの命の娘の大夜乃売命が、熊野大神の妃神であり山佐村に鎮座しているということだ。
記紀とは全く別の筋立てであるが、この熊野山の東側には、「延喜式」の「山狹神社」「同社坐久志美氣濃神社」に比定される、山狭神社二社(上山神社・下山神社)が存在する。熊野山(天狗山)の反対側で、同じ神ークシミケㇴの命を祭っていたわけである。

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山狭神社(上山狭神社)  島根県安来市広瀬町上山佐598   


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山狭神社(上山狭神社) 拝殿 


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この熊野大神の御妃の「大夜乃売命」であるが、松前 健氏の解説だが、
「内遠は、イザナギの禊ぎの際に生まれた大綾津日神の女性形だと考えたが、かなり無理である。重胤は、大屋津姫命の母神でスサノヲの妃神の一人だと考えたが、そんなにまわりくどく考える必要もない。実は端的に大屋津姫の異名にほかならない。オホヤノメもオホヤツヒメも、つまるところは所有格の助詞「ノ」と「ツ」の違いだけで、同じ神に過ぎないのである。」(松前 健 著作集 第8巻 ㈱おうふう)

ちなみに大屋津姫命は、記紀において、五十猛命の妹神となっている。

山狭神社(下山狭神社) 島根県安来市広瀬町下山佐1176


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山狭神社(下山狭神社)境内社  久志美気濃神社  扁額  

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熊野山から流れ出る水が、西には意宇川に、東は山佐川に流れて飯梨川と一つになり、野城の大神の鎮座する飯梨平野に流れていく。

山佐川 

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■ 参考文献 ■ 萩原龍夫・石塚尊俊・中野幡能 著 『仏教文化選書 神々の聖地』 株式会社佼成出版社  

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by yuugurekaka | 2018-04-18 19:28 | 熊野大社 | Trackback

■ 熊野山

『出雲風土記』に載っているカンナビ山は、平野部から概ね山の姿がよくわかる。しかしながら、熊野山(現 天狗山)の山容は麓の熊野大社からも見えない。
どこから見えるのだろうかと、場所を探すがなかなかその場所が見つからない。
地図上で見ると、須賀神社の奥宮がある八雲山がちょうど西側に位置する。そこで、八雲山に登ってみて、写したのが下の写真である。


東出雲地方(旧八束郡・旧松江市)の中では、最も高い山で、610.4メートルある。

麓から仰ぎ見て拝む山ではないように思う。現在は、天狗山というが、過去には天宮山とも云ったという。『出雲風土記』(733年)の時代は、熊野山と云い、熊野大神の社があったと書かれている。


熊野山。郡家の正南一十八里の所にある。〔檜(ひ)・檀(まゆみ)がある。いわゆる熊野大神の社が鎮座していらっしゃる。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


グーグルアースの地図から見る熊野大社と天狗山の位置


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天狗山の登山者用の駐車場に止めて、歩いて行った。始めは、登山道ではなく林道を歩いていく。


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意宇川に流れる熊野山の川を左手に見ながら、道を歩いていく。山の間から、水がしみ出していた。そこでは、平野部では聞いたことのないような、不思議なカエルの声がする。そのカエルの正体を見ていた。黒っぽい痩せっぽちのカエルだった。


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いよいよ登山道の入り口に到達した。


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突然細い登山道となった。傍らに小川が流れていた。


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谷の左手の細い道を登って行ったが、小川の源流というか、

山水が湧き出ているところに来た。「意宇の源」と表示されていた。


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『出雲風土記』にも、意宇川に熊野山が水の源と書かれていた。実際には、ここだけではなく、山のいろいろな場所から水が湧き出て、川になっていると思う。


意宇(おう)川。源は郡家の正南一十八里にある熊野山から出て北に流れ、東に折れ、流れて入海に入る。〔年魚・伊具比がいる。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


■ 元宮 


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笹が生えているところが多くなった。

駐車場から約1時間、『斎場』と書かれている所にきた。その先には、「磐座」(いわくら)が見える。


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説明板によると、熊野大社の斎場跡(祭場跡)で、元宮平(げんぐがなり)と云われている地で、磐座のあるところが熊野大社の元宮だという。『日本書紀』(720年)の斉明天皇五年(659年)に「出雲国造に命じて厳かな神の宮を建てさせた。」との記述があるが、それまでは磐座をご神体として、祭祀のみが行なわれていたのだろうか?

“人間が五穀豊穣や国家の安穏を祈る際にはカミの来臨のために「ヒモロギ」(神籬)や「岩クラ」などと呼ばれる臨時の神の座を作って、そこにカミを招請して、数々の食べ物を捧げ、祈願する。祈願が済むとカミは帰還せられる。そのありかは定かならぬものである。カミはいつも天や山などの高いところなど、人界とは隔絶した場所にいて、人間には見えない存在だった。”(大野晋著『日本人の神』河出文庫)

古代において、より高い山の頂の近くに神は降臨する存在として考えられた。
神は漂い彷徨し移動する存在と考えられ、それゆえ山の麓に依代としての神社そのものが麓に移動してきたとも考えられる。  

 


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by yuugurekaka | 2018-04-03 00:32 | 熊野大社 | Trackback

「謎」と言えば、すべてが謎である。だから、題名にいちいち「謎」というのも考えものかもしれない。ただ、「真実の」とか肩肘はっていうつもりは全くない。
まずは、この「熊野」という名称である。紀伊国の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)も同じく「熊野」で有名であるが、なぜ同じ「熊野」という名のだろう

■ 奥まった所 説

熊野大社拝殿  島根県松江市八雲町熊野2451番

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当然ながら、古い言葉は、漢字の当て字なので、熊、熊野は、動物の熊とは関係なく、「くま」という言葉がどのように使われているかということから考えないといけない。

たとえば、『出雲風土記』(733年)の飯石郡・熊谷郷の記載に 
久志伊奈太美等与麻奴良比売くしいなだみとよまぬらひめいのちが、妊娠にんしんして出産しゅっさんしようとなさるときに、生むうむところお求めおもとめになった。そのときにここにきておっしゃられたことには、「とても奥深い【原文久々麻々志枳くまくましき】谷である。」とおっしゃられた。だから、熊谷くまたにという。”
(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)と、ある。

ここでは、「奥深い」という意味で使われている。

熊野という地名は、全国にあり、丹後国では、「熊野郡」なる郡名(現 京丹後市の久美浜町各町)として使われている
また、紀伊国は大化改新(645)まで、北部は木国、南部は熊野国と呼ばれ、それぞれ国造が置かれていた。(ちなみに熊野国造は、饒速日命の後裔で物部氏である。)
紀伊続風土記』(1839年)には、「熊野は隈(くま)にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱(おううつ)なるを以て名づく」と書かれている。

漢字は違うが、肥後国に「球磨郡」(くまぐん)(現 熊本県 南部)もある。

それぞれ、奥深い谷のようなところにある。


■ 神 に供 え る 米 あるいは神そのも 説 


「くま しね 」(奠稲・糈米) という言葉がある。『大辞林 第三版』によると、


“神仏に捧(ささ)げる洗い清めた白米。洗い米(よね)。お洗米(せんまい)。くま。おくま。” 


「くま」だけで、神に奉る米を意味する。また、「しね」自体が、「米」の古語なので、「くま」自体が、神と同義語なのかもしれない。

神のカミはクマからきたとする説もある。神に供える米はクマシネ(供米)と表記されるが,供米と表現される以前に,クマには隠れるという意味があった。すなわち,奥深く隠れた存在をカミとし,そこから発現してくる力を畏怖したものとみている。“(平凡社 世界大百科事典 第2版 )


『古事記』では、紀伊国の熊野村の起源が、神武天皇の東征神話に出てくる。 “大熊 髣(ほの)かに出で入りてすなはち失せき。

通説的現代語訳では、熊野村についた時に大きな熊が現われ、見えたり見えなかったりして、消えてしまう。すると、神武天皇は病に倒れ、東征軍も皆倒れ伏してしまう。


これも熊という動物と云う必然性も無く、先住の荒ぶる神ー三輪山の大神と同じく、大熊と表現としているともとれる。『日本書紀』では、「大熊」は登場せず、女首長「名草戸畔」や、「丹敷戸畔」の名前が出てくる。丹敷戸畔」が誅されたとき、神が毒気を吐いて東征軍を萎えさせたとある。


■ 稲作の初期段階


今でこそ、田圃は広大な平野にあるが、古代はむしろ奥深い谷間にて稲作が行なわれていた。広大な平野部での稲作は、大規模な治水灌漑事業を必要とする。


“水田稲作農耕は用水路と排水路が整備された水田を必要とする。中世末までは、土木技術や国家的統率力は未熟だったため、水田は、大河川流域にではなく谷戸(谷田)と称する河川支流の小さな谷間の流域につくられるか、小さな溜池の周りにつくられた小規模水田群であったという。実際平安時代から室町時代のなか頃まで、耕地面積はほとんど増加していない。”(伊藤松雄著『里の植物観察記』 春風社)


熊野大社前を流れる意宇川


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参考 

法政大学 『日本古語 と沖縄古語 の 比較研 究 一 熊本 ・ 熊襲 ・八 十隈の 「 くま」 を解 く一 外間 守善』



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by yuugurekaka | 2018-03-22 21:46 | 熊野大社 | Trackback

出雲国造の祖先である天穂日命は、熊野大神から燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりぎね)
という古代の発火器を受けたと言われます。神聖な火の発祥地でもある熊野大社は
「日本火出初社」(ひのもとひのでぞめのやしろ)とも言われています。

ここで古事記を振り返りますと−この熊野大社にまつられている
母神イザナミノミコトですが
火の神であるカグツチ(軻遇突智、迦具土神)を産んだために
陰部に火傷を負って亡くなります。
この同じ火をその息子である(厳密に言えば、夫であるイザナギノミコトの
禊ぎにより、アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三神が生まれる)
スサノオノミコトが神聖な火として、伝授するのです。

現代でも、出雲大社の出雲国造は、代替わりになると
国造家に伝わる燧臼・燧杵を持って熊野大社におもむきます。
そして、熊野大社の鑚火殿(さんかでん)で、神火を切り出し
その火で調理した食事を食べることにより、新たな出雲国造となります。

熊野大社 鑚火殿(さんかでん)
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また、熊野大社で毎年10月15日に行われる鑚火祭(さんかさい)では
出雲大社の宮司が、「古伝新嘗祭」(こでんしんじょうさい)に使用する神聖な火を
おこすための燧臼・燧杵をもらいに訪れます。

出雲大社側は、長さ一メートルもある長方形の餅を持ってくるのですが
熊野大社側の下級神官が、この餅の出来栄えについて
「色が黒い」とか「去年より小さい。」とか難癖をつけるのです。
出雲大社側の神官は、ひたすら聞き手にまわり
熊野大社の神官がようやく餅を受け取り
燧臼・燧杵を渡すという神事があります。(亀太夫神事)

上記のような火継神事を考えると、古くから、熊野大社の方が
出雲大社より格が上だったと想像できます。
また、大和朝廷の解釈(出雲大社は国津神を祀っているので位が低い)とは別にして
イザナミースサノオを、出雲王朝の祖神として祀り、出雲大社よりも古くから
熊野大社の存在感があったのではないかと、私には思えてなりません。

ちなみに熊野大社の存在する八雲村の入り口に神納山がありますが、
母神イザナミの御墓ではないかと伝えられております。
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〇参考文献 「熊野大社」(熊野大社崇敬会 発行) 
熊野大社社務所で販売していました。




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by yuugurekaka | 2014-01-25 08:55 | 熊野大社 | Trackback

『出雲國風土記』(733)に熊野大社、『延喜式神名帳』(927)に
熊野坐神社と記述されており杵築大社(出雲大社)と並ぶ、出雲の国の
大社です。
所在地は、松江市八雲町熊野2451で、松江駅よりバスで40分の距離
の所にあります。

中海に注ぐ意宇川(おうがわ)の氾濫によって造られた意宇平野(おうへ
いや)は、古代出雲文化の中心地と言われています。
奈良時代から平安時代にかけても、出雲国庁(昔の県庁)が置かれており
いました。大和朝廷の全国統一後、出雲国造(いずもこくそう)として
(その子孫が出雲大社の宮司)出雲地方を収めた一族も、この平野を拠点
として住んでいました。
出雲国造は、松江市東部(意宇平野)からわざわざ、車で1時間半かかる
出雲大社まで祭祀に通っていたことになります。

意宇川の源流に近い山あいに鎮座している熊野大社。
「厳」というか「凛」とした感じのする渋い神社です。
標高610メートルの天狗山の山頂近くには、神が降臨した
巨大な岩(磐座ーいわくら)がいくつか見られ、毎年5月に「元宮祭」が
行われています。この天狗山に祭られていた神をふもとに迎えて祭った
のが熊野大社です。

熊野大神は、「出雲風土記」(733年)の「意宇郡出雲神戸の条」
(おうぐんいずもかんべのじょう)というところに、「熊野大神は
伊弉諾(イザナギ)の愛しい子であるクマノカムロノミコト」と書かれて
います。つまりは、ヤマタノオロチ伝説で有名なスサノオノミコトの別名
であると書かれているのです。
ここから南西方面に上がったところに、スサノオノミコトが稲田姫と夫婦に
なったとされる須賀神社があります。

熊野大社 拝殿
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拝殿の向こうに本殿、向かって左側に「伊邪那美神社」
右側に「稲田神社」があります。
「延喜式」に収められている「出雲国造神賀詞」(いずもくにのみやつこかむよごと)
という文書によると、「熊野大神櫛御気野命」(くまののおおかみくしみけぬのみこと)
とあります。
「みけ」というのは、食物のことで、食物の生産を見守られる神でもあるとのことです。

「出雲一之宮」という「一之宮」というのは、平安初期
から中世にかけて行われていた「社格」の一種です。
「一之宮」は、出雲の国の場合、過去出雲大社ではなく熊野大社でした。
「日本三大実録」(901年)という書物にも
「熊野大神は従二位勲七等、杵築大神(出雲大社の大国主命)は
従二位勲八等」というように
大和朝廷においても熊野大社を第一位、出雲大社を第二位に取り扱っていたのでした。

それはなぜなのでしょう。
承和元年(834年)に成立した「令義解」(りょうのぎげ)
と言う法令の説明書によると「出雲国造がまつる熊野大神は
イザナギノミコトの愛しい御子であり皇室とのつながりのあるアマツカミ(天津神)
であるが、オオクニノカミ(大国主命)は国土を開いた神であっても皇室とは
つながりを持たないクニツカミ(国津神)である」と記されています。

〇参考文献 「熊野大社」(熊野大社崇敬会 発行) 
熊野大社社務所で販売していました。

熊野大社 本殿
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舞殿
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by yuugurekaka | 2014-01-24 00:48 | 熊野大社 | Trackback(1)