『古事記』では、大国主命が、国譲りを決め、その後、多芸志の小浜(たぎしのおばま)に天の御舎(あめのみあらか)を建てて、タケミカヅチを饗応するしたことが書かれている。
 つらいことじゃったろうがのう、こう言うたかと思うと、オホクニヌシは、出雲の国の多芸たぎの小浜に、タケミカヅチを天つ神の使いとして迎えるためのやかたを造っての、ミナトの神の孫、クシヤタマを膳夫かしわでとなして、まつろいのしるしのあえを差し上げて、祝いの言葉を申し上げることにしたのじゃ。そして、そのために、クシヤタマは海に潜るとなって海の底に潜り入り、海の底の赤土をくわえて来ての、その土で八十やそひらざらを作り、海に生えるワカメの茎を刈り取ってきての、それをひきりの臼に作り、また、ホンダワラの茎を燧のきねに作り、新たな火を鑽り出しての、タケミカヅチにおいしい食べ物を作り供えた上で、オホクニヌシはあらためて誓い の言葉を唱え上げるの   じゃった。”

                         (三浦佑之著 『口語訳 古事記 神代篇』文春文庫発行)


この文面から見ると、天の御舎は、タケミカヅチを接待するために建てた館で、大国主命が幽玄の王として鎮まる杵築の社(出雲大社)とは別物だと思うが、天の御舎=出雲大社と書かれている本も多く、頭の中が混乱する。


現在は東進し宍道湖方面に流れる斐伊川河川敷公園付近の斐伊川 

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この舞台となった多芸志の小浜はどこか?

現在の斐伊川は、斐伊川河川敷公園付近から東に向い宍道湖に流れている。しかしながら、寛永十六年(一六三九)の大洪水前までは、斐伊川は西に流れていた。そして、奈良時代には、その先に神門水海があった。つまりは、神門水海に面する浜があったのだ。


しかし、奈良時代の復元地図を見ると現在の「武志」は、斐伊川の北側が面した地域のようである。現代語の「浜」は、海と陸の境界を言うのであり、川と陸の境界をいうわけではない。それでも、「浜」と言ったのか。

昔の「浜」の言葉の使い方はどうだったのか?古語辞典で調べて見ると、川と陸との境界も「浜」と言ったようだ。

〝③大阪で河岸(かし)のこと。京都では川端(かはばた)という。〟(大野 晋・佐竹昭広・前田金五郎編 『岩波 古語辞典』) 


多芸志の小浜であったとされる武志町に、その場所にふさわしくタケミカヅチを祭神とする鹿島神社が存在するのは、不思議である。

いつからこの神社は、ここに存在していたのだろうか。


鹿島神社 島根県出雲市武志町673


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江戸時代の『雲陽誌』(1717年)のよると、


〝 武 志

  【古事記】に曰出雲國多藝志小濱におゐて天の御舎を造、水戸神之孫櫛八玉神膳夫をなし天の御饗

   と、膳夫の社あり蓋是故なり、

  小濱明神 武甕槌をまつる。本社一間に一間半、拝殿二間三間、寛永六年建立、祭祀正月七日九月廿九

       日遠近群をなして御供造酒をたてまつる、

  中島明神 櫛八玉神の鎮座なり、九月十九日御供神楽を奏す、舊記曰膳夫明神是なり、


この小濱明神が、現在の鹿島神社かどうかわからないが、そうだとすると、江戸時代の初期の徳川家光時代の建立である。それ以前は、どうだったか調べようがない。

次に膳夫明神であるが、今は鹿島神社に合祀されているが、この中島明神であると思われる。

斐伊川河川敷公園の、鹿島神社のちょうど東側に膳夫の社跡があった。中島というからには、斐伊川の中に島があったのかもしれない。


膳夫神社跡

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斐伊川河川敷公園をさらに東に歩き、水の流れる斐伊川に向かうと、自転車や人が通れる潜水橋である井上(いあげ)橋に着く。
出雲のカンナビ山であった仏経山が、遠くに見える。

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by yuugurekaka | 2018-12-04 14:44 | 出雲大社 | Trackback | Comments(0)

1)なぜにあの場所になったのか

なぜ、出雲国の西方、奈良時代はおそらく辺ぴな所であっただろうという島根半島の南側に建てたのだろうか?
その前に、どうして、出雲国に建てたのだろうか?
がっくりくるが、戦後の歴史家の定説は、〝これに対してまた三谷栄一博士の説である。出雲・大和の関係を位置からみると、出雲は大和の西北隅にあたり、戌亥の方角である。これは戌亥隅に対する祖霊信仰が日本人一般の文化の軸となっていることにより、出雲神話は出雲で誕生したものでもなく、大和朝廷の形成過程のなかから、その内部での祖霊信仰として生み出されたものであるとする。(水野 祐「まぼろしの「神国」出雲王朝は存在したか 『伝説の神国出雲王朝の謎』KKベストセラーズ 発行 より)
と、いうようにたまたま大和の西北隅の方向にあったから、出雲国が選ばれたとする。

出雲大社のある北山と神戸川(かんどがわ)

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また、鳥越憲三郎氏にいたっては、成務紀に「山陽(やまのみなみ)を影面(かげとも)といい、山陰(やまのきた)を背面(そとも)という」とみえているように、中国筋の山陽道は裏方としては不都合であり、これに反し山陰道はもっとも適当なところであった。その山陰道の中で、石見・出雲・伯耆・因幡のいずれを裏方として用いてもさしつかえなかったであろうが、その中で出雲国が選ばれたのに過ぎないのである。〟(鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社文庫)と、言う。

概して、本屋に積み置きされる、「出雲王朝」と名の付く本に、出雲王朝はあったということを肯定的に語った本は、ほとんど無い。ほとんどは、無かったという証拠をこれでもかと書かれている本である。出雲族の本貫地(発祥の地)であったというようには戦後古代史家は、思わないのだ。だから、いつまでも「神話の国 出雲」であって、「史実」だとは思われていない。

荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の発見前の論文だから、そのように思われているのか、仕方のない面もあるが、ヤマト王権の形成以前に、弥生時代に王朝があったとは、いまだに信じられていない。せいぜい筑紫王朝、吉備王朝…という倭国大乱時に出雲「国」にもあったかも…というぐらいな気がする。

2) 辺境の地

なぜに出雲国造家が自分の本拠のところである意宇郡に、出雲大社を造らなかったのかというのが、謎である。この出雲臣の西進を持って、井上光貞説のような、ヤマト王権の力を頼んで、西部を征服したという根拠のひとつにもなっている。しかし、自分にはどうも、やはり律令体制の推進のために、伊勢神宮の対極に位置づけられて地祇の大宮として創立されたのではないかと思う。

対極の伊勢神宮であるが、この上山春平氏の文章である。〝こうした作業は、神統譜の書きかえと言うよりは、むしろ、それまで、地方ごとに、もしくは近縁の氏族グループごとにつくられていた神統譜を、国家的な規模で統一し、体系づける新たな神統譜づくりと言った方が適切かと思うのだが、こうした一種の観念世界の巨大な変革の軸として、新たな価値の源泉として、おそらく七世紀後半のある時期に、口うるさい大和の旧族や官人たちの見聞の世界から隔絶された辺境の聖地に、宮柱太敷き立てて鎮座ましましたというのが、「皇大神宮」の創始の真相に近いのではあるまいか。〟(上山春平著『続・神々の体系』中公新書)

伊勢神宮との対局の杵築大社の地も、出雲国でも未開拓の地であったようである。出雲臣の西進に伴い、斐川平野の新田開拓も進められ、奈良時代には出雲郷と呼ばれるに至ったのではないかと思うが、なぜに出雲国西部の場所でも、出雲郷のカンナビ山ー仏経山を背にして、大宮を建てなかったのだろうか。その出雲郡出雲郷からもっとも外れたカンナビ山とは正反対の北山の麓ー杵築郷に造られたのだ。

神西湖(じんざいこ)  
『出雲国風土記』時代は、「神門水海」と呼ばれたが、現在は周囲約6kmの小さくなった湖である。

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現在は、島根県の中でも非常に開けた大きな平野である。しかしながら、奈良時代にあっては杵築大社の前には、神門水海(かんどのみずうみ)が広がる湿地帯であった。
〝寛永十六年(一六三九)の大洪水によって斐伊川が完全に東流すると、景観的にもこの郷は神門の平坦地と一続きになり、やがて開拓に次ぐ開拓でその間は美田と化す。ここに至ると、この地は美田地帯の奥所に位置する形となり、いかにも神都にふさわしい場所となるが、遡って古代には、むしろ南の地域から沼沢や砂洲で隔てられた僻地であったと思われるのである。〟(石塚尊俊 「出雲大社」~谷川健一編『日本の神々 7』白水社 より)

3) 出雲御埼山の麓

出雲大社の後ろの山ー八雲山や、出雲井神社・阿須伎神社の背後の山ー弥山が連なる山々を出雲風土記時代(733年)には、「 出雲御埼山」と言った。東は平田町の旅伏山までをいうようだ。

杵築大社が、大古からあったとすれば、「出雲杵築山」とかの名前であったと思う。日御碕まで続く山であったからか、あるいはみさき神社(日御碕神社)の鎮座する山であったからか、また、たとえば猿田彦命を御埼神として祭った山(鼻高山も含む)であったからか、定かではない。

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この出雲御碕山の南麓(大社、西・東林木、美談)には、出雲風土記時代、同じ名前の神社が多数見られることで知られる。
漢字の当て字が一つ一つ違うので、カタカナで表わす。

ヤマへ社 3社 (山辺)
キヅキ社 8社 (杵築・企豆伎・支豆支)※杵築大社も含める
アズキ社 40社(阿受伎・阿受枳阿受支)
クサカ社 3社 (久佐加・来坂)
イヌ社  12社(伊努・伊農)
ミタミ社 13社(彌太彌・彌陀彌)
アガタ社 3社 (阿我多・県)

このアズキであるが、現在では、遙堪の阿須伎神社を残すのみである。祭神「阿遲須伎高日子根命」であり、神名とも思えるが、キヅキ・アズキと同じ語呂から考えると、そういう地名でもあったように思う。アズキについては出雲風土記には地名も無いが、キヅキについては、杵築郷の郷名となっており、イヌ(伊努)もミタミ(美談)も郷名になっているので、おそらくは、地名を冠した社であったろうと思う。

この同名の神社がここ出雲御埼山の南麓のみに多数見られることをどうみるかであるが、鳥越憲三郎氏の見立てであるが、概ねそうなのだろうと思う。
“さきに大社・原山・菱根にかけて縄文・弥生の遺跡のあることを述べたが、あるいはそのころ前方は海であったかもしれない。古い遺跡のある地ではあるが、歴史時代に入ってからの開発は、他より遅れたようである。”“同じ地域にたくさんの神社を建てているということは、各地から集まった人がいくつもの小さい集団をつくって、開拓に従事していたことを示すものである。しかも普通であれば、時代の経過とともに村落の構成も整い、それにともなって散在していた神社も合祀統合されていくものである。たとえば最も数の多い阿受伎社にしても、三十八社もあったものが、いまでは大社町遙堪に一社となって残っているだけである。ほとんどはそこの阿式神社と杵築大社に合祀された。こうした事情から考えてみても、これらの地域の開発が新しいものだといえる。”(鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社学術文庫)

平野部は、他の地域より遅れた、新しい地域だと思う。
しかし、祭神から考えると、ここの神社が全て新しいものだとは、到底思えない。

4) いにしえの多久国

■ 伊努(いぬ)郷 ー 赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命(あかふすまいのおおすみひこさわけ)

“伊努郷。郡家の正北八里七十二歩の所にある。国引きをなさった伊美豆努命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命の社が、郷の中に鎮座していらっしゃる。だから、伊農という。〔神亀三年に字を伊努と改めた。〕”(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命の神名を取って、郷名になっている。この神は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)の御子だ。富家伝承によると、八束水臣津野命は、出雲西部の神門臣の系統である。そして妻が「天之甕津日女命(あまのみかつひめのみこと)」だ。
このイヌ郷は、出雲郡だけではなく、もっと東部の現在の出雲市美野町、野郷町あたりに(平成の合併前で言えば、平田と松江の境界付近)、秋鹿郡にイヌ(伊農)郷があった。

伊努神社  島根県出雲市西林木町376 

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伊農郷。郡家の正西一十四里二百歩の所にある。出雲郡伊農郷に鎮座していらっしゃる赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の后、天瓺津日女命が国をめぐりなさった時に、ここにいらしておっしゃられたことには、「伊農よ【原文…伊農波夜。」とおっしゃられた。だから、足怒(あしはや)る伊努という。〔神亀三年に字を伊農と改めた。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

この妻神ー天之甕津日女命を祭る社が、松江の佐太神社のさらに東の松江市鹿島町にもある。多久社である。遠く『尾張国風土記(逸文)』にもこの神が登場する。この神を祭ることで、垂仁天皇の御子ホムツワケ皇子がしゃべるという。まるで、ホムツワケ伝承の出雲大神とは、天之甕津日女命であったかのような書き方である。→ 日置氏の足跡 (7)  ホムツワケ伝承

「我は、多具(たく)国の神で、名前を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。我には祭祀してくれる者が未だにいない。もし我のために祭祀者を当てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう」。(『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注 角川ソフィア文庫 )※ 太字は、私。

この多具(たく)国は、どこの場所にあるのか?改めて、『出雲風土記』の中で、天之甕津日女命、天御梶日女命および赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命の伝承地に、「たく」「いぬ」(いの)の名前の付いた地名が随所に出てくる。出雲郡以外では、楯縫郡の「多宮村(たくむら)」「多久川(たくがわ)」「多久社」、秋鹿郡の「伊農川(いのかわ)」「多久川」(楯縫郡の川とは別の川)、島根郡の「多久川」(秋鹿郡と同じ川)「多久社」。
現在の地名で言うと、東は松江市鹿島町の辺りまでである。もしや、島根半島の西部から松江市鹿島町までを「多久の国」と言ったのだろうか?

■ 美談郷 ー 和加布都努志命

現在の町名は、美談(みだみ)と濁るようだが、『出雲風土記』(733年)時代は、「みたみ」であった。

“美談(みたみ)郷。郡家の正北九里二百四十歩の所にある。所造天下大神の御子、和加布都努志命、天と地が初めて分かれた後、天御領田(あめのみた)の長としてお仕えなさった。その神が郷の中に鎮座していらっしゃる。だから、御田(みた)を見る神の意で三太三という。〔神亀三年に字を美談と改めた。〕この郷には正倉がある。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)※ 太字は、私。

しかし、この「御田を見る」から、「みたみ」というのは、なんだかこじつけがましい感じがする。隣の宇賀郷も、所造天下大神が「うかがいもとめる」から「うか」というのも現代風な話であやしく思う。その理屈でいうと、築くから「杵築(きづき)」というのも、本当だろうか?と疑ってしまう。天と地が初めて別れた後というのが、どうにもおかしい。そんな時代に「天つ神の御料地」があるはずがない。
だったら、国譲り前に、天つ神が出雲国を支配していたということになる。

ともかく、ここの郷名は大国主命(所造天下大神)の御子、和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)に関連して付けられている。この名前からして、物部氏の祖神ー布都努志命が真っ先に頭に浮かぶ。もしかしたら、神門臣氏と物部氏との間にも婚姻関係が発生したのだろうか、などの思いが浮かぶ。歴史の一断面では敵であっても、同族化するということはよくありうる。そうでなくとも、天御領田というからには、物部氏に関連するのかもしれない。

よくわからぬが、この神もまた、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命、天之甕津日女命と同様に、『出雲風土記』では、かなり東部の秋鹿郡の大野郷の地名起源に登場する。

美談神社    島根県出雲市美談町182  
左手から 境内社・印波神社、縣神社ならび和加布都努志神社、美談神社本殿 

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さらにわからないのが、出雲大社の本殿の中に、この神ー和加布都努志命の席があるらしい。本殿の中には、大国主命の席の前に「御客座五神」(天之御中主神、高御産巣立日神、神産巣立日神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)の席があるだけで、何を言うんだと思われるかもしれないが、平成の大遷宮の本殿特別拝観に参加された方のブログに書かれていた。下段の扉に近い所に、和加布都努志命(牛飼神)の席があるそうだ。江戸時代の絵巻にも赤い衣裳を着た子どもと牛が描いてあるらしい。
出雲大社の本殿の中にあえて席をつくらなければならないほど、重要な神であるのだ。謎である。

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by yuugurekaka | 2018-10-31 11:24 | 出雲大社 | Trackback | Comments(1)

1)なぜに高く造営しないといけなかったのか
 
現在では、出雲大社が平安時代には、高層神殿であったことを否定する人はいないのではないかと思う。平成12年に、高層神殿を裏づける3本束ねた本殿の巨大柱が発見されたのである。この柱は、宝治2年(1248年)の造営のものと推定されている。おそらく創建時も天高く、そびえ立つ造りであったと想像される。

出雲大社の伝承では、「上古三十二丈(96m)、中古十六丈(48m)、その後は八丈(24m)」だそうであるが、この中古十六丈(48m)は建設学的に可能であると言われているし(詳しくは →季刊大林 古代・出雲大社本殿の復元 、いかに出雲大社が高かったかということが文献でも知ることが出来る。平安時代中期、源為憲の『口遊』の中に「雲太、和二、京三」という言葉が載っている。出雲が太郎、大和が二郎、京都が三郎という意味である。出雲は、杵築大社であり、大和は東大寺の大仏殿であり、京都は大極殿のことだ。平安中期の大仏殿は十五丈(45m)であったので、当時の木造建築物の中で、出雲大社は日本一高いものだったということが出来る。

この上古三十二丈(96m)は、あまりに高く信じがたいが、ともかく天にも届くように高く作らなければならないという使命があったものと思われる。このように高い建築物であったので、必然的に倒壊のリスクがあり、平安中期から鎌倉時代初めまでの200年間に7度も倒壊している。
財政的な負担や労力は、いかばかりだったかと想像する。名誉な話だけではなかったはずである。

平安時代の出雲大社復元模型
【福山敏男監修 大林組プロジェクトチームによる1989年公表の設計案に基づく復元模型】
                   島根県立古代出雲歴史博物館

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なぜ高層神殿でないといけなかったのかと考えてみるに、記紀に書かれたから…と、今は単純に思う。鶏が先か、卵が先かというような話で、鶏が先で、がっかりな気持ちもする。こう書くと、出雲王朝をが無かったように直情的に思う人が多いが、ただ出雲大社の創建が、新しかっただけで、弥生時代の出雲王朝の存在を否定しているわけではない。

〝わが子ども、二柱の神の申し上げたとおりに、われも背くまい。この葦原の中つ国は、お言葉のとおりにことごとく天つ神に奉ることにいたそう。ただ、わが住処だけは、天つ神の御子が、代々に日継ぎし、お住まいになる、ひときわ高くそびえて日に輝く天の大殿のごとくに、土の底なる磐根に届くまで宮柱をしっかりと堀り据え、高天の原に届くほどに高々と氷木を立てて治めたまえば、われは、百に満たない八十の隅の、その一つの隅に籠り鎮まっておりましょうぞ。
 また、わが子ども、百八十にも神たちは、ヤヘコトシロヌシが神がみの先立ちとなってお仕えすれば、背く神などだれも出ますまい。〟(三浦佑之著 『口語訳 古事記 神代篇』文春文庫より)

おそらくこの頃、大宝律令体制における神祇体系の整備で、杵築大社だけではなく、もしや有力な氏族たちが「立派な社殿」として再編造営したのではないかと思う。神社や祭祀場はもともとあったので、なかなか、そういう資料というものは出て来ないと思うのであるが、祭政分離の時代に突入するわけなので、そのままの形だったとは思えない。

改めて考えると、杵築大社と出雲国造家の関係は特殊である。出雲国造家は、天穂日命を祖としている高天原の人間であり、杵築大社の祭神大国主命の子孫ではない。子孫ではないものが祭祀するのは、伊勢神宮(内宮)も同じである。伊勢神宮(内宮)の祭主ー中臣氏は、天照大神の子孫ではない、むしろ出雲国造家の方が、天照大神の子孫である。こう書くと大変違和感を感じる人が多いが、記紀では、天穂日命は天照大神の御子、第二子として位置づけられているわけである。

ともかく、新たな神祇体系の中で、皇祖神(天神)ー伊勢神宮の対極として、大国主命を鎮める(地祇)ー杵築大社が位置づけられ造営されたのではないかと思う。

2)天神地祇を祀る

神々をどうして天神地祇に分けたのであろうかと問えば、時の政府が、中国の律令制に倣ったため、中国の『周礼』によるものだろうという答えが浮かぶ。日本の伝統的な神観念や祭祀制度は、中国とは違うけれど─日本独特の天神地祇であろうが─その区別を必要としたのは、ひとえに中央集権制の強化ー天皇の神格化(陰陽の統合者)にあったものと思う。

〝すなわち、旧国土の経営者であった大国主神を、多くの事績によって偉大な神にすればするほど、その偉大な神でさえ国譲りをしなければならなかった皇孫の権威が見事に示されるからであった。〟(鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社文庫)
おそらく、いかに偉大であったかを示すために、天高くそびえ立つものとして造らねばならなかったのではないか。

そういう意味での地祇であるが、天神と地祇は切り放されず双方を祀るものとして、『養老令』の「神祇令」で述べられている。その分類はいつ始まったのであろうか。持統天皇の時代だったのかもしれない。

〝『日本書紀』持統紀に「百官神祇官に改修し天神地祇の事を宣し奉る。」―(持統三年八月壬午(2)条)―とあるのは甚だ興味をひくが、「宣」をどの様に理解するか、聊か難解であるが、諸橋漢和辞典によれば「諡(おくりな)す」と読む場合もあり、それによれば個々の神々の神号或は天神か地祇かの格付差別を行ったと云う意味に解することが出来る。〟(美多 実著『古代文化叢書7 風土記・斐伊川・大社』 島根県古代文化センター発行)

さて、その分類された地祇であるが、『姓氏録』を見る限り、極めて少ない。大神氏・賀茂氏や宗像氏の大国主神系、安曇氏のような綿積神系、倭国造ー椎根津彦系、そして吉野の国栖系、隼人族などである。大半の氏族は、天神の神々の血筋をひくものとして、天津神を選んだのではなかろうか。
天神の引き立て役で、政治から引退し幽玄の世界にいくという地祇を喜んで受けたとはどうも思えない。
地祇になったからといって、実際上の不利益はあったのかどうかわからないが、地祇を引き受ける以上は、先祖の神々を記紀の中で、誇りあるものとして高めてもらうしかない。

そういう観点で『日本書紀』を見ると、三輪高市麻呂が行った持統天皇の伊勢行幸への諫言の話も、三輪氏(大神氏)VS持統天皇ということを言いたいわけではなく(実際大神氏は大国主命のように政治引退などしていない)、大神氏の偉大さを褒めたたえるものであったように思える。

また、下記の『姓氏録』の記載をみれば、天神地祇に一貫性がないことがわかる。ことに事代主命である。下記の例ばかりだけではなく、左京天神の畝傍連「天辞代命子国辞代命之後也」や右京天神の「高媚牟須比命三世孫天辞代主命之後也」とある。(タカムスビの娘三穂津姫と婚姻というのが影響したのかもしれないし、あるいは記紀に初期天皇家の母族[皇后]と書かれたのが影響したのかもしれない。)

天神  飛鳥直     天事代主命之後也  
地祇  大神朝臣   素佐能雄命六世孫大国主之後也
地祇  賀茂朝臣   大国主神之後也

ところで、『出雲国造神賀詞奏上』であるが、あれも、中臣氏の『天神の寿詞』に対応した『地祇の寿詞』が主目的だったのではないか。出雲国造の任命が主目的のように云われているが、国造から国司に既に移っていた時代である。任命というのは単なる儀礼的なものではなかろうか。

その『出雲国造神賀詞』を初めて奏上したとされているのが、出雲臣果安である。文献上では、『続日本紀』霊亀元年(716年)2月10日条に、「出雲国々造外七位上出雲臣果安、斎終り神賀詞を奏す。神祇大副中臣人足、その詞をもって奏聞す。是日、百官斎す。果安より祝部に至る一百十余人に、位を進め禄を賜うこと各々差有り」とある。出雲臣果安が、国造の任にあたったのが、和銅元年(708年)なので、「神賀詞」は、その8年後である。
その後の国造は、文献上は、就任後、三、四年後に行なっており、任命というのが違和感を覚える。

さて、おそらく初めて奏上をおこなったであろうこの出雲臣果安であるが、和銅元年(708年)から養老五年(721年)まで国造の任にあったが、『出雲国造世系譜』には、「伝にいう。始祖天穂日命、大庭に開斎し、ここに至って始めて杵築之地に移る云々」と記されている。本拠地であった意宇郡を離れ、杵築大社の宮司として移ったということだ。

神賀詞を奏上したのが、『古事記』(712年)の4年後である。いつの頃に「国譲り神話」が朝廷でまとめられたのか不明だが、杵築大社(出雲大社)の創建無くしては、奏上できないし、意宇から杵築の地への移転も不可能である。出雲臣果安が国造であった時代に、杵築大社が建てられたというのが通説である。杵築大社の創建が、はるかに古いことだと思いたいが、事実を重ねていけば、残念ながら、概ね奈良時代のできごとであったと思われる。

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by yuugurekaka | 2018-10-27 18:38 | 出雲大社 | Trackback | Comments(2)

出雲井社  後方より写す。
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私は 「猿田彦命」に対して 長い間良いイメージを
持っていませんでした。

それは、古事記や日本書紀で描かれる猿田彦命は、
同じ出雲の神様でありながら、
国譲りという決着後、 天孫族の神様の先導役を担っているからです。

“だから、経津主神は、岐神を先導役として、方々をめぐり歩き
 平定した。従わないものがあると切り殺した。帰順する者には
 褒美を与えた。この時に帰順した首長は、大物主神と事代主神
 である。”   日本書記 一書(第二) 宇治谷猛 訳より

しかしながら、岐神が出雲神族の祖神となれば、
だいぶ意味合いが変わってきます。
反抗する首長を黙らせるには、祖神の御旗が効果絶大です。
もしや、古代から、日本人はこういう性格をもっていたのでは。
出雲からヤマト王権にいかに血ができるだけ流れぬよう
平和的に国譲りをするために
岐神(くなどのかみ)の役割があったのではないのかと
想像しました。

『古事記』でも、黄泉比良坂のイザナギの禊の場面で、
最初に投げた杖から衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)が生まれています。
これが、古事記に描かれる岐の神です。
そして、峠や道が分岐するところに鎮座して
疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神とされています。

岐神  松江市東出雲町 黄泉比良坂 
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さて、出雲井社がなぜ ここに在るのか 想像しました。
島根半島の北山山系をはさんで、
出雲井社のちょうど逆の場所が、猪目海岸です。
ここは、猪目洞窟があり、古代から黄泉の国の入り口があると云われる
ところです。
出雲風土記(733年)には、松江市東出雲町の黄泉比良坂ではなく
ここのことが述べられているのです。
そこには、縄文式土器や弥生時代から古墳時代にかけての人骨が十数体出たそうです。
文化遺産オンライン 猪目洞窟遺物包含層

この猪目海岸もそうですが、
出雲地方の日本海沿岸部は、古代、朝鮮や中国からの渡来人が
流入してきたと考えられます。
スサノオノミコトも朝鮮半島から渡来した神だと云われており
近頃有名な韓竈神社(からかまじんじゃ)も猪目海岸の近くに
あります。
そういえば、ヤマタノオロチ伝説も
スサノオノミコトVS出雲神族(大国主命の祖先)の戦い
との説もあります。
つまりは、渡来神と土着神との戦いです。


渡来人は、高度な文化を持ち込むなどの良い面と
渡来人に支配されたりするかもしれないなどの悪い面が 当然あります。
そういう善悪両面ある渡来人の関所というか
空港の検閲みたいなところが 出雲井社の役割としてあったのかな
などという突飛な考えが浮かびました。

縄文時代は、出雲大社のあるところは、島でした。
弥生時代は、出雲市内が隆起しつつも、まだ湿地帯のようなところでは
なかったでしょうか。

弥生時代の出雲国の中心地が、出雲市斐川町のところであったろう
と思えば、島根半島の南側(出雲大社などがある方)で
渡来人の流入を一度止めて置く場所だったのかと…

もしかして、島根半島の東部の佐太神社(祭神 猿田彦)も同じ役割だったかな
などと さらに想像を広げました。斐川町の方から佐太神社は
北東にあたるので 鬼門を封ずるという意味あいがあるのでは
ないかと。

全くもって 特異な考えを思いつくものです。
インターネットでそういう説がないか調べましたが
どうもないようです。



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by yuugurekaka | 2014-11-02 22:16 | 出雲大社 | Trackback | Comments(0)

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出雲大社から、国道431線を東に車を走らせ約10分。
「みせん広場」という駐車場に車を止め、歩いて10分のところに
弥山の麓にこの小さな社があります。
春先に参拝すれば、桜が満開で さぞ美しかったろうと
思います。

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 この神社の説明版にこのように書かれていました。

 出雲大社摂社
  出雲井社いずもいのやしろ (出雲路社 いずもぢのやしろ)
  御祭神 岐の神(くなどのかみ)

 勇武にして地理に明るく、
 大国主神が“国譲り”の際、
 大神の命により経津主神(ふつぬしのかみ)に
 付き添い諸国を平定し
 国土を統一せられた巧神です。


国譲りの後、天津神を連れて 回った神様は
日本書紀では 猿田彦命です。
あと、天孫降臨神話では、ニニギノミコトの道案内をした神としても出てきます。

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この岐の神ですがウィキペディアではどうなっているかというと
「巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)とは、日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。道祖神、塞の神(さえのかみ)とも」→Wikipedia 岐の神
交通の神、道祖神、賽の神… サルタヒコと同神ということになっています。

しかし、多くのブログでは、
『謎の出雲帝国』(吉田大洋氏著、
1980年、徳間書店刊)からの引用で
出雲神族の祖神として この岐神(くなどのかみ)が
クナト大神と されているようです。

また、民俗学者の谷戸貞彦氏によれば (「幸の神と竜: 古代が分る鍵」より)
主神を「久那斗の大神」妻神を「幸姫の命(さいひめのみこと)」で
息子神を「サルタ彦大神」ということであり
双体道祖神は、現在 猿田彦命とアメノウズメノミコトの夫婦神と
されていますが、そうではなくて元は
「久那斗の大神」「幸姫の命」の夫婦神と述べられていました。


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by yuugurekaka | 2014-11-01 15:33 | 出雲大社 | Trackback | Comments(0)

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出雲大社の境内から北島国造館へ出て、東へ約200メートルの所に
命主社(いのちのぬしのやしろ)があります。小さな社です。
左手に鉄棒とか 子供の遊び場がありました。

祭神は、神産霊神(カミムスビノカミ)です。
以下 wikipediaより引用→カミムスビ Wikipedia
“カミムスビ(カミムスヒ、カムムスビ)は、日本神話の神。
『古事記』では神産巣日神、『日本書紀』では神皇産霊尊、
『出雲国風土記』では神魂命と書かれる。
天地開闢(てんちかいびゃく)の時、天御中主神・高皇産霊神の次に高天原に
出現し、造化の三神の一とされる。”

この世界が始まった時から 存在する「造化の三神」の一つであるのに
このような小さな社で良いのか 素朴に疑問を感じます。

大国主命が、異母兄弟に殺された時、蘇させるために尽力する神でもあり
大国主命が、共に国造りする神、少彦名神の親でもあります。
高天原の神とはなっていますが、出雲の神様をサポートする天神です。
出雲風土記に至っては、出雲の国の祖神のように書かれています。
天津神=大和 国津神=出雲 という構図だけで考えると
頭が混乱してきます。

出雲にも大和とは別に天神がいるという風に理解した方が、話がわかりやすい
と思います。

出雲風土記 楯縫郡の条で
「楯縫と名づけるわけは、神魂命がおっしゃられたことには、
『わたしの十分に足り整っている天日栖宮の縦横の規模が
千尋もある長い栲縄を使い…所造天下大神の住む宮を
造ってさしあげなさい。』とおっしゃられて、
御子の天御鳥命を楯部として天から下しなさった。」
(「解説 出雲風土記 」 島根県古代文化センター編 より引用)

※ 天日栖宮(あめのひすみのみや)…出雲大社のこと
※ 所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)…風土記では
  大国主命のことを言います。

※ 天御鳥命(あめのみとりのみこと)…アメノホヒの子
  アメノヒナトリと同一視する説もあるらしいです。

ここの神魂命を、出雲国造の祖神 アメノホヒと読み替えても
つじつまが合います。
勝手な想像ですが、松江市大庭町の神魂神社の神魂とは
出雲風土記のうえでのカミムスビー神魂命だったのでは
ないか、などと思ってしまいます。

命主社境内に生えている樹齢1000年とも云われる
ムクノキのこの根っこにまず 圧倒されます。

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命主社の後ろに真名井遺跡?と思われる祠。
私が行ったときには、表示板が抜き取られていました。
木にわらのへびが巻き付いています。荒神さんなのでしょうか。
ここの遺跡から、弥生時代の銅戈と硬玉(ヒスイ)勾玉が発見されています。

銅戈は北部九州から、ヒスイ製の勾玉は北陸地方からのものと考えられており、
弥生時代から、出雲大社の場所が重要な祭祀の場所だったということらしいです。


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by yuugurekaka | 2014-08-02 10:33 | 出雲大社 | Trackback | Comments(4)

昨日は、たくさん歩きました。良い運動になります。
出雲大社神楽殿の後ろの神社もお参りしました。観光客の方は、ほとんど知りません。私は、裏に天満宮があるのを知っていましたが、他の神社については、あまり知っていませんでした。

奥にある三社です。左から稲荷社、真ん中が 天夷鳥命社(祭神 二代目出雲国造)、天穂日命社(祭神 初代出雲国造、天照大神の第二子)です。ちなみに、今の出雲大社の宮司が、八十四代目です。
 
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稲荷社です。ここのキツネ様は寝ています。あまり寝ているキツネ様は見たことがありません。

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狛犬です。いわゆる獅子という感じではありません。ばくか、犬みたいな狛犬です。

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by yuugurekaka | 2014-01-03 23:00 | 出雲大社 | Trackback | Comments(0)

出雲大社に初詣

昨年、本殿の大遷宮が行われた出雲大社に、初詣に行きました。「平成の大遷宮」が行われたせいか、初詣の人出が多かったように思います。摂社・末社の改修工事は平成28年まで続けられるそうで、「素鵞社」(祭神スサノオノミコト)は、釜社を仮殿にしていました。
60年ぶりの出雲大社「平成の大遷宮」とは?

拝殿の前で、スマホで参拝の仕方を調べている20歳前後の女性が友達に「二拝四拍手一拝だって。」という声が聞こえました。今は、検索すれば、すぐ答えが出る便利な世の中になったものです。他の神社では、「二杯二拍手一拝」ですが
出雲大社では「二拝四拍手一拝」です。なぜそうなのか諸説ありよくわかりません。
今日は、特別に本殿の八足門が開放され、中の楼門前まで入ることができました。本殿の敷地内では、カメラ禁止でした。

出雲大社拝殿
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現在の本殿は1744年(延享元年)の建てられているが、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられており、日本一の巨大建築物であったようです。なぜ作られたのでしょうか。
「古事記」(712年)によれば、大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べて、造られたとのこと。そして、創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担って来られました。(ウィキペデイア 出雲大社より)
つまりは、出雲王朝を滅ぼしたヤマト王権に建てられ、ヤマト王権に祭祀を担われてきたことになります。古事記を読んだ限りでは、大国主命が幽閉されたように自分は感じます。

美しい、今でも大きな神社です。
出雲大社 本殿 東方向から
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出雲大社 本殿 北方向から
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出雲大社 本殿 北西の方から
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稲佐の浜と弁天島
古事記では、「伊那佐の小濱」として書かれており、国譲りの交渉の舞台となっています。 出雲大社から、歩いて15分のところにあります。
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by yuugurekaka | 2014-01-02 23:01 | 出雲大社 | Trackback | Comments(3)