1)尾張氏・物部氏 同祖
 
『海部氏勘注系図』(→ウィキペディア 海部氏系図 )や『先代旧事本紀』に見られる天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命、またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命)、つまり尾張氏の祖である天火明命と物部氏の祖の饒速日尊が同じ神だということであるが、一見異伝のように感じるけれど、『古事記』『日本書紀』や『姓録』の底流に流れているのではないかと思う。

斎木雲州著『お伽話とモデル―変貌する史話 (おおもと新書)』によれば、日向神話の海幸(火照命)・山幸(彦火火出見尊)、仲の悪い兄弟―尾張氏と物部氏を表現したものであるという。神武天皇の、諱は、彦火火出見である。本来尾張氏物部氏同祖で、尾張氏は、天火明命の天神であるが、物部氏(彦火火出見)との対比上、倭国造が地祇に位置づけられてしまったのではないかと自分は思う。

またの名天照国照彦天火明尊は、天神でありながらも地祇の祖という素戔嗚を表わしているものないかと思う。このあおりを受け、出雲族との密接度から紀氏の大元の系譜──、つまり天火明命→天香山命(天香語山命ともいう)という流れが、素戔嗚命→五十猛命という地祇系という別の表現を生じさせたのではないか。(天香山命の別名が、武位起命ータケイタテとなっており、五十猛、イタテ神とも考えられている。)

天香久山    藤原京の東に位置する天香久山(天香具山)。

e0354697_01003530.jpg

実際の所、尾張氏・物部氏同祖というのが本当の話なのか疑いを感じざるを得ないが、氏族間の取り決めというかそういうものがあったと思う。
 さて、出雲国造家の祭る神は天神者。伊勢。山城ノ鴨。住吉。出雲国造斎神等類是也。〟(『令義解』)であり、元々素戔嗚尊であった。出雲大社の祭神も、『先代旧事本紀』に「御鼻をお洗いに成った神のお名前は、建速素戔烏(たけはやすさのお)尊(みこと)と申し上げる。出雲の国の熊野・杵築の神社(島根県松江市八雲町熊野の熊野大社・出雲市大社町杵築の出雲大社、旧簸川郡)におられる。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社)ということを考えると、当時の物部氏や出雲国造家にとっては、元々の構想として、大国主命ではなく素戔嗚尊であったのかもしれない。

ヤマタノオロチを切ったとされる十握剣が、物部氏の石上神宮に祭られており、ヤマタノオロチの体から出てきたとされる天叢雲剣(草薙剣とも言う)が尾張氏の熱田神宮に祭られているということから考えても、素戔嗚尊が、尾張氏と物部氏をつなぐ神として、創出されたのではないかと思う。

2)出雲国造神賀詞

まずは、ウィキペディアから引用する。
〝出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。その性格としては服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。

『延喜式』にその文章が記述され、『貞観儀式』に儀式の内容が記されているが、前者の文章は8世紀中期以後の内容であると推定されている。内容は天穂日命以来の祖先神の活躍と歴代国造の天皇への忠誠の歴史とともに、天皇への献上物の差出と長寿を祈願する言葉が述べられている。〟 

服属儀礼か? 復奏儀礼か?

奈良時代に、なぜに、弥生時代設定の国ゆずりの話を奏上しないといけないのかという、時代錯誤的なというかリアリティーの無いものをしないといけないのかという疑問が自分の中にある。それを服属だの復奏だのという前に、単なる儀礼としても、その時代の、必要性にかられてされたものであると思う。
まずは、前提として、氏族としての天神や地祇の設定を認めないといけない。また、アマテラス大神から派遣されてきた天穂日命の子孫であるところの出雲国造が、出雲族の祖先神を鎮め、都を防衛させますなどということを宣言しないといけない。それが、その当時どういう意味があったのか。

服属儀礼とするならば、天皇家に服属した出雲の国の代表という話になる。この「出雲国造神賀詞」はそういう観点で書かれていない。
まずは出雲国という狭い話ではなくて、葛城の神々も含め、全国の「あらぶる神々」を「鎮め」つまり荒魂を和魂に変えて、出雲の神は天皇の都を守りましょう、それは高天原から派遣された天穂日命の子孫の出雲国造家の功績というストーリーである。

古代史家の中には、出雲国造を大国主命の末裔である出雲国王のように言う人がいるが、出雲国造家自体がそんなことは一言も言っていない。政治的な利益のために天穂日命を祖先にしているという想像も成り立つが、大神氏・賀茂氏のように大国主命を祖先とした方が、出雲国の民を支配するに好都合である。
元々は、素戔嗚尊を祭り、国譲り神話の成立より、ヤマト王権から大国主命を祭るように言われ杵築大社の宮司家となったというのが、実際のところなのだろう。

大宝律令・新たな神祇体制に邁進しなければならない時代にあって、この「出雲国造神賀詞」を奏上する意味は何なのだろう。壬申の乱以後のことを考えると、持統天皇・石上・藤原・中臣体制に反対する豪族(これが荒ぶる神なのだろう)を鎮めて、変革に協力させる仕組みがあったはずで、それを出雲国造家も担い、実際、都の周りに氏族として分布して役割を担ったのではなかろうか。何分 そういう文書など存在しないが、時代が下って平安京の時代になって、京都の都の近くに出雲氏が分布していることがそう考えさせてしまう。(→出雲路幸神社の謎(1)京都の出雲郷 

高天原から派遣されて、都で奏上するので、派遣されてどうやってきたかを報告する復奏儀礼にしか思えない。そもそも、出雲国は出雲族の発祥の地ではない、出雲国には大国主命・事代主命の子孫などいない、いるのは奈良であるという著名な古代史家たちの前提があるので、出雲国造家そのものが出雲族だとする混乱が服属儀礼説にあると思う。

■ 三輪山の「大物主命」

『出雲国造神賀詞』では、三輪山の祭神を倭大物主櫛瓺玉命(やまとおおものぬしくしみかたま の みこと)という。

〝乃(すなわ)ち大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静まり坐さん大倭の国と申して、己命の和魂を八咫鏡に取り託けて、倭大物主櫛瓺玉命と名を称えて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提(うなで)に坐せ、賀夜奈流美(かやなるみ)の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹(やおに)杵築宮に静まりしき。〟(鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社文庫から引用)

倭大物主櫛瓺玉命の櫛瓺玉命は、武蔵国瓺(菱玉)(みか)神社の伝承によると、櫛御気野命は女神、櫛瓺玉命は男神であり夫婦神であり、酒造の神だそうだ。(→ 神々の黄昏 瓺[菱玉](みか)神社と伊努神社 
※杵築宮(出雲大社)の枕詞の八百丹(やおに)は、賀茂真淵『祝詞考』によれば、「多くの土」という意味だそうだ。
賀夜奈流美(かやなるみ)命は、斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、9代目大穴持ー鳥鳴海命(事代主命の長男)だそうだ。(→ 天照らす 高照姫命 (1) 伯耆 蚊屋島神社 

三輪山 大物主命が鎮まる神の山と言われる。神社の伝承では、頂上の磐座に大物主大神、中腹の磐座は大己貴神、麓の磐座には少彦名神が鎮座しているそうだ。

e0354697_14581957.jpg


 さて、ざっとした内容は、大穴持命が出雲の神々を奈良の都に配置し天皇家の守り神にし、自分の分霊というか和魂を三輪山に鎮座させました、その名は、「倭大物主櫛瓺玉命」ですということ。三輪山の祭神は、『古事記』では、美保関で出会ったカミムスビの御子スクナヒコナでかつ大国主命の幸魂奇魂(和魂)、『日本書紀』では、スクナヒコナは、タカムスビの御子となっているが、熊野の御崎に行き、そこから常世郷へいくとなっている、そして、別の説ではと、前置きして、三輪山の祭神は、事代主命であると書かれている。事代主命は、『国譲り神話』では、出雲の三穗之碕で魚釣りをしており、稻背脛命が使者として熊野諸手船に乗ってくることになっている。さらに、この大物主命は、第二の一書には、大国主命がお隠れになった後、タカムスビの娘 三穂津姫と婚姻させるという話で登場する。ともかく、大物主命・スクナヒコナは、美保関や熊野という地名に関係があるつくりとなっており、『先代旧事本紀』の三輪山の祭主オオタネコの系譜を考えても三輪山の祭神は、事代主命であったと思われる。それが、大国主命の和魂となり、別名 大物主命にする意味はなんなのか。

出雲国造廣嶋が編纂した『出雲風土記』(733年)を見ると、スクナ彦は、飯石郡に1か所出てくるが事代主命は、全く出て来ない。野見宿祢さえ出て来ない。それゆえ、戦後の古代史家が、葛城の事代主命は出雲国の神ではないと言う根拠にもなっている。これは同じ出雲臣の事代主命の系統(富家)の足跡当時の出雲国造家は消そうとしていたのではないかと、私は思う。仁多郡の山のところに出てくる戀山(→ 鰐の恋山 -鬼の舌震 )伝説も、あれは、三輪山の神婚伝説の揶揄なのではないかと、うがち過ぎな見方もしてしまう。
(また『出雲風土記』では葛城のアジスキタカヒコ命は、登場するが、大人になっても髭がぼうぼうで、言葉をしゃべらなかったというまるでホムチワケ皇子のような設定である。これもそういう伝承があったというよりも、何か揶揄のように思える。)

それと、『令義解』に書かれる出雲国造家が斎神と書かれた熊野大社の祭神であるが、『出雲国造神賀詞』では、伊射奈伎乃日真名子(いざなぎのひまなこ)加夫呂伎(かむろぎ)熊野大神櫛御気野命(くしみけぬのみこと)と、どうもわかりにくい。『先代旧事本紀』のように「素戔嗚尊」と書けばわかりがいいが、そうしなかったのは、修辞語をたくさんつけて立派な神名にしていると理解されているが、
実際はそうでなかったから、別の祭神に変更するための作為だったのではないか。

上山春平説では、藤原氏・中臣氏が記紀編纂に関与したということが中心であるが、私は、時の左大臣ー石上麻呂(704年は右大臣)を輩出した物部氏にかなり配慮された神代記になっているように思う。ヤマトでも饒速日命、イズモでも素戔嗚尊というように始原は物部氏だったという書き方である。それゆえ、原田常治氏説(→ ウィキペディア ニギハヤヒ )に見られるような、大物主命は饒速日命であるという説がでてくるのだろう。インターネットで検索すると、それを主張される方が多いのに驚く。大物主命の「物」は、物部氏の「物」なのかもしれない。
当時の出雲国造家が、権力者であった藤原氏だけではなく、物部氏に対しても、おもんばかったとして不思議はない。


[PR]
by yuugurekaka | 2018-10-13 00:45 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(1)

1)壬申の乱 

いわゆる 672年に起こった皇位継承をめぐって起きた内乱である。 天智天皇の御子・大友皇子(弘文天皇)近江朝側)に、皇弟である大海人皇子(後の天武天皇)が反旗をひるがえし、皇族・豪族が二派に分れて戦った。その結果、大友皇子は敗北し自殺し、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。そして、この乱を境に天皇の神格化と律令体制の整備とが急速に進んだ。〟 (株式会社平凡社百科事典マイペディアより)と、されている。

壬申の乱に登場する豪族の主な武将たちであるが、以下に記す。なにぶん、当事者たちが、『日本書紀』の書かれる時代に存在した人たちなので、さしさわりがって、全てが本当ではないのかもしれない。

近江朝側の登場人物
中臣金石上麻呂(物部連麻呂蘇我臣赤兄、蘇我果安、書直薬、智尊、穂積臣百足、穂積五百枝、犬養連五十君、忍坂直大麿呂、谷直塩手、佐伯連男、壹岐史韓国、樟使主磐手、廬井造鯨、大野君果安、田辺小隅、山部王、境合部連薬、秦友足、社戸臣大口、土師連千嶋

大海人皇子側
大伴連吹負、大伴連馬来田、書首根麻呂、大伴連御行、栗隈王、美濃王、小子部連鉏鈎、三野王、秦造綱手、忌部首子人村国連依、土師連真敷、物部連雄君(朴井雄君)、稚桜部五百瀬、三輪君子首、三輪君高知麻呂、田中臣足麻呂、当麻公広嶋、鴨君蝦夷、紀臣阿閇麿、坂本臣財、坂田公雷、紀臣堅麻呂、星川臣麻呂、膳臣麿漏、当麻公広麻呂、布勢朝臣御主人(阿倍御主人尾張宿禰大隈尾張連馬身大分君稚臣、出雲狛

これを見ると、磯城王朝時代からの古い著名な豪族(大伴氏、三輪氏、鴨氏、阿倍氏、尾張氏、紀氏など)の大半が、大海人皇子側についているのがわかる。また、どの系統かわからぬが、出雲姓の出雲狛の名も見える。つまりは出雲姓の豪族が、出雲国ではない近畿にも分布していたのだ。

一番驚くのが、藤原律令体制の時代の一角を担う物部氏(石上氏)・中臣氏が、壬申の乱の負け組であることだ。天武朝で、壬申の乱の功臣の氏族が一時は出世するが、持統天皇時代から没落が始まり、それとは反対に、物部氏(石上氏)・中臣氏(藤原氏)が官僚の要職をしめる流れになっていく。

2)物部氏と中臣氏

改めて、飛鳥時代の物部守屋氏と中臣氏の軌跡を『日本書紀』から見ていくと、このコンビで、戦った内乱がもう一つある。丁未の乱(ていびのらん)である。仏教の礼拝を巡り、廃仏派である物部守屋・中臣勝海と祟仏派の蘇我馬子が対立していており、結果として厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族と蘇我氏を筆頭とする諸豪族が勝利し、物部氏はこれを契機に衰退したと言われる。

時代をさらにさかのぼると、仏教公伝の欽明天皇の時代に既に、物部尾輿(もののべ の おこし)は、中臣鎌子(藤原鎌足とは別人)と共に廃仏を主張し、崇仏派の蘇我稲目と対立している。

さて、丁未の乱における中臣勝海の動きであるが、ウィキペディアによると、次の通り。
排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている)が、その帰路、舎人迹見赤檮が中臣勝海を斬った。

この彦人皇子(→ ウィキペディア 押坂彦人大兄皇子 )であるが、敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・広姫であり、息子である舒明天皇(田村皇子)から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)というように、中臣氏は、息長王家の皇統に寄り添っていく。

3) 天つ神と国つ神の分類

天神・地祇いわゆる、天つ神と国つ神であるが、中臣氏による大宝律令後の神祇革命―神道の国家的再編後に行われたのではないかと、私は思っている。天つ神と国つ神の分類は何によるものであろうか。たとえば、大辞林 』の書かれてある一般的な考え方である。

〝天の神と地の神。天つ神と国つ神。あらゆる神々。 〔日本では、高天原(たかまのはら)に生成または誕生した神々を天神、初めから葦原中国あしはらのなかつくにに誕生した神を地祇とする〕〟(三省堂 『大辞林 第三版』)

仮に高天原をヤマトだとすると、三輪山の大神をはじめ、事代主命やアジスキタカヒコ命などを奉祭する氏族が、地祇系とされていて、所在地とは関係がないようだ。また、ヤマトの所在地自体の倭国造の祖が、そもそも地祇となっている。
天皇家に縁がある氏族が、天つ神かというと、そういうわけではない。『日本書紀』では、神武天皇の皇后が、事代主命の娘(媛蹈鞴五十鈴媛命)と書かれており、三代に渡り、事代主命系の皇后とされており、それも理由になっていない。
先住民族が国つ神で、後から来たのが天つ神という説も強いが、宇佐氏とか尾張氏など天つ神なので、これも一貫性がないように思う。
では、壬申の乱の大海人皇子側が、地祇系かというと、(大伴氏や忌部氏は、地祇系でもいいように思うが)、そうなってはいない。
さらに賀茂氏や紀氏においては、天神系と地祇系の二つが発生する事態にいたっている。より古い方が、地祇系であるという見方が、強いのであるが、本当にそうなのだろうか。

ばくぜんと出雲系が地祇であろうと思われている。天照大御神⇔素戔嗚命の陰陽対立から、高天原から追放された素戔嗚命の子孫の神々を地祇ととらえるのが、もっとも正しいような気がする。
素戔嗚命自体が、高天原から地上に降りた時点で、国つ神に転化したのなら話がわかる。
しかし、『令義解』(りょうのぎげ)(833年)の書物(→ウィキペディア 令義解 )には、〝天神者。伊勢。山城ノ鴨。住吉。出雲国造斎神等類是也。地祇者。大神。大倭。葛木ノ鴨。出雲大汝神等類是也。〟とあり、出雲国造斎神(素戔嗚命のこと)は天神出雲大汝神(大国主命のこと)は地祇となっている。それと、大倭であるが、倭国造の関連する社であると思われるが、倭国造の祖(椎根津彦)は、海部氏の系統と思われるが、記紀では、素戔嗚命の子孫だとは書かれていない。

大神神社(おおみわじんじゃ)拝殿    奈良県桜井市三輪1422 

e0354697_16055666.jpg

深堀すると、なぜ地祇なのか明確な基準がわからなくなってくる。
さて、メインテーマの「国譲り神話」に戻るが、視点を変えると、「出雲族の政治の舞台からの名誉ある引退」の話にも見える。──ここでは、出雲族に出雲国造家を入れると、話が見えなくなる。なぜならば、国譲りを迫る側が、『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)では、出雲国造の祖「天夷鳥命(あめのひなどり」と物部氏の祖「布都怒志命(ふつぬし)」になっているからである。

また、この国譲りを迫る側が、『古事記』では、藤原氏の祖ー「建御雷神(たけみかづち)」「天鳥船神(あめのとりふね)」となっている。『日本書紀』では、物部氏の祖「經津主神(ふつぬし)」藤原氏の祖「武甕槌神(たけみかづち)」を加えて、事代主命への使者として熊野諸手船(くまののもろたふね)またの名は天鴿船(あまのはとふね)に使者の稻背脛神(いなせはぎ)ー出雲国造家の祖となっている。

三つの書物で、まとめると、本によってコンビは違うけれど、藤原氏・物部氏・出雲国造家の三者ということができる。戦後古代史家のいうように、作り話と言えば、身も蓋もないが、この氏族の構造から、出雲国造家もヤマト中央につながって、壬申の乱やその後の持統体制に向けて、中臣氏(藤原氏)や石上氏(物部氏)と連携した働きをしたのではないかと想像してしまう。出雲国造家が、中臣氏・石上氏の命を受けて働いたという確たる文書など存在しないが、そう感じてしまう。

地祇の出雲族の名誉ある政治的引退であるが、政治的引退を迫られるのは、国譲りを推し進めた側の天津神も結局は同じことで、国造から国司へとの転換という大宝律令体制の宿命から、出雲国造家自体も政治的実権を失うこととなる。祭政分離政策の一環として、神社の宮司家になっていく、または社家になる、という国家的な再編成が行なわれたのではないかと思われる。

[PR]
by yuugurekaka | 2018-10-05 11:09 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)

『先代旧事本紀』の巻十国造本紀では、出雲国造の起源について以下のように記載されている。

出雲国造
崇神朝の御世に、天穂日命の十一世孫の宇迦都久努を国造に定められた。

それと符合する起源話が、『日本書紀』 崇神紀の60年の記事にある。いわゆる「出雲神宝検校」の話である。その伝承地の一つが出雲市大津町止屋の淵であるが(詳しくは過去記事→ 出雲国造の系譜の謎(2) )、雲南市加茂町神原神社の周りも伝承地の一つであることを、『雲陽誌』(1717年)で、知った。

ここ加茂町の神原は、『出雲風土記』には地名起源として、「所造天下大神(大国主命)の神宝を積み置かれたところ」と、述べられている。

神原かんばらごう
郡家ぐうけ正北九里   りの所にある。古老が伝えて言うには、所造あめのした天下つくらしし大神おおかみが、かみの御財みたからを積み置かれたところである。それでかんたから郷というべきだが、今の人はただ誤って神原郷と言っているだけである。”(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

ここの宝は、昨今、加茂岩倉遺跡の事ではないかという話も多いが、加茂岩倉遺跡は、仮にそこが神原郷であったのならかなり北の方である。


赤川 島根県雲南市加茂町神原 

e0354697_02464357.jpg

1)雲陽誌

『雲陽誌』は、まず『出雲風土記』を抜粋したうえで、神原神社の神寶明神を説明した後、『日本書紀』崇神紀と垂仁紀に見られる「出雲神宝検校」を記載する。矢口大明神などの神社仏閣等を説明した後、神原の地を説明する。ここの地も往古は、八百万の神迎祭をしていたらしく、神々は、佐陀の社へいくことが書かれていた。

川  大東加茂より流て簸の川に入、
土手 上神原より下神原の間千四百間あり、此土手下を昔止屋の淵といふ、松井淵ともいふ、里俗つたふる、
   歌
   八雲路や松井の水の清けれは
     八百萬代の神は御手洗水(みたらし)
兄塚 振根の墓なり、塚頭古木あり、
すくも塚 入根の墓なり、松の老樹あり、
大舎押 神腹の中の高山なり、古振根隠たるところなり、

『雲陽誌』に書かれたこの地の伝承をどうみるかであるが、
①『日本書紀』の「出雲神宝検校」問題につながる元々の伝承が、神原の地にあった。
②『日本書紀』の記事と『出雲風土記』の記事から、後に「出雲神宝検校」伝承地とされた。
③「出雲神宝検校」とは関係ないが、『日本書紀』の記事につながる別の伝承地であった。
の3説が浮かぶ。
①の見方が最も素直な見方であるが、自分は、初め②であった。しかし、いろいろと考察しはじめると、③ではないかと思い始めた。

2)神原神社古墳

古墳とか遺跡から古代史を考えることが、科学的で実証的とされるが、公共工事でたまたま見つかった遺跡だけでストーリーを考えるには、資料が足りないのではないかと自分は思っている。例えば、近年島根県では荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡、田和山古墳、隣県での妻木晩田遺跡、青谷上寺地遺跡など、びっくりするような遺跡が発見されているが、まだまだ、どこかに重要な遺跡が埋まっているのではないかと思う。

神原神社古墳は、赤川左岸の河岸段丘上に立つ神原神社の本殿下にあった。赤川の堤防の拡幅等の河川改修工事が行うために、1972(昭和47)
年に発掘調査され、「景初三年」(239年)の紀年銘を持つ三角縁四神四獣鏡(→ウィキペディア 三角縁神獣鏡 )や鉄製素環頭大刀などが出土した。「景初三年」という魏の年号が記された鏡は、大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳で出土した物の2面しか発見されていない。

折しも、崇神紀の出雲神宝検校の話で強調される「鏡」が発見されたわけである。

「玉菨鎮石(たまものしづし) 出雲人(いづもひとの)祭(いのりまつ)る 真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ) 押し羽振る 甘美御神(うましみかみ)、底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし) 山河(やまがは)の水泳(みくく)る御魂(みたま) 静挂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主」
現代語訳 水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の玉。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の玉。(『日本書記(上)』 宇治谷 孟 訳  講談社学術文庫より)

なんだか、まだ神宝の鏡が、赤川の水底にまだ埋まっているかのような感じのする話だ。
なお、この近くでは、神原正面北遺跡群 (方墳14基以上)、土井・砂遺跡(方墳6基)のように、もっとも古い方墳が多く発見されている。

神原神社古墳  
神原神社の東側に復元されている竪穴式石室。前期古墳で、周溝を加えた 35m× 30mの南北に長い方形墳であった。

e0354697_02465100.jpg

富家伝承(大元出版『出雲と蘇我王国』『古事記の編集室』など)には、神原古墳は、武内宿祢の墓と書かれている。武内宿祢と見て、頭が混乱してしまった。武内宿祢は、記紀では景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の時代に登場、『水鏡』では仁徳天皇55年に280歳で死去などと書かれ、実在性が疑われる人物とされる。

しかし、富家伝承本によると、武内宿祢とは家柄の名前であり、武内大田根(初代?)武内ソツ彦、武内ツク・・・という代々の武内宿祢の個人名を省いたとしている。武内宿祢の後継する氏族が、古代官僚の名家(紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など)ばかりなので、武内宿祢を伝説化する必要があったのか、あるいはまた別の意図があったのかわからない。

さて、ここに登場する武内大田根であるが、景行天皇の時代の人では無くて、垂仁天皇の時代の人で、九州から大和に攻め上がる物部王家の側についていたが、大和の磯城王家側に寝返った人物として書かれ、物部氏の追撃を逃げて、東出雲王家の富家をたより、因幡を通り、出雲国に逃げて、出雲国で一生を終えたという。『古事記』では、孝元天皇皇子の彦太忍信命と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたとされるので、垂仁天皇時代でちょうど良いのかもしれない。

さらに腹違いの弟、甘美内宿祢(うましうちのすくね)が、山城国宇治から神原の東に移り住んで、ここの地名が「宇治」となったという。
(甘美内宿禰は、内臣の先祖とされ、この「ウチ」とは山城国綴喜郡有智郷とされている。→ ウィキペディア 甘美内宿禰 

この甘美内宿禰との関わりであるが、『日本書紀』では、応神天皇の時代に登場し、またいつの時代の話か混乱する。ただ、『日本書紀』に書かれたことが真実だと疑わない思考だと、富家伝承のストーリーがなかなか頭に入らない。
この『日本書紀』のストーリーであるが、少し、「出雲神宝」の話にちょっと似ている。武内宿祢が、筑紫国に派遣されている間、甘美内宿禰が天皇に讒言する。天皇は武内宿祢の弁明を受けて、磯城(しき)川のほとりで、探湯(くかだち)ー呪術的な裁判法でうけいの一つを行い、勝った武内宿祢が甘美内宿禰を殺そうとする。天皇に許されて甘美内宿禰は死なず、紀直らの隸民になるという話である。

出雲神宝問題にでてくる、丹波の氷香戸辺が話す言葉の歌「真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ)」「甘美御神」に強調される「甘美」(うまし)であるが、当然、出雲臣の「甘美韓日狹(うましからひさ)」を暗にたたえる意味合いのように思えるが、富家伝承と神原神社古墳のことを前提に想像すると、鏡を持ち込んだの武日照命ではなくて、武内宿祢の弟の甘美内宿祢で、そういう伝承が、出雲神宝問題の創作につながったのではないのだろうかとも思える。

3)出雲臣 三系

戦後の古代史家でも、出雲臣家の兄弟の話と考える人は少なかったようで、井上光貞氏のように、東出雲の意宇勢力と西出雲の杵築勢力の二系の話である。
また、水野 祐氏の場合は、出雲神宝の話から、出雲臣家の系譜を三つの系列を見る。『水泳御魂考』(大和書房発行『古代出雲と大和』所収)に、以下のような表が載っていた。(本では、縦書き)

e0354697_15104431.jpg










根拠は、日本書紀の記事と代表人名の漢字のことぐらいしか、記述してなかった。

富家伝承では、以下のようになっている。ちなみに『姓氏録』では、土師氏の系譜(土師氏・菅原氏・秋篠氏・大枝氏)は、全て飯入根を祖としている。

出雲振根      神門臣家    大国主命(八千矛)の系統  西出雲王家 
飯入根       向家(富家)  事代主命の系統       東出雲王家 
甘美韓日狹・鸕濡渟 出雲国造家   天穂日命・武夷鳥命の系統 

改めて、「国譲り神話」を読んでみると、お隠れになる神が三神出てくる。大国主命、事代主命、天若日子である。
考えてみるに、大国主命と事代主命がお隠れになるというのは、出雲臣を始祖天穂日命 一系のみにするという、そういう隠喩ではなかったのかなどと思ったりする。それと、この天若日子であるが、富家伝承本『古事記の編集室』では、武内宿祢をモデルとしたものではないかと書かれてあったが、自分には、天火明命をモデルとしているのではないかと思える。

『先代旧事本紀』『海部氏勘注系図』にあって、記紀神話に無いもの、ー天火明命は、事代主命の妹 高照姫命と婚姻しー、『播磨風土記』『丹後風土記』にあって、記紀神話に無いもの、天火明命はオオナムチの息子ーそういう、天火明命が出雲族と婚姻関係を結び国王になろうとした伝承を記紀では書かなかったという暗号のようなものではなかったのだろうか…。



日本書記  巻五 崇神天皇  抜粋 
 
六十年秋七月十四日、群臣に詔して「武日照命(たけひなてるのみこと)の、天から持ってこられた神宝を、出雲大神の宮に収めてあるのだがこれを見たい」と
いわれた。 矢田部造(ヤタベノミヤツコ)の先祖の武諸隅(たけものろすみ)を遣わして奉らせた。

このとき出雲臣の先祖の出雲振根(いずもふるね)が神宝を管理していた。しかし筑紫国(つくしのくに)に行っていたので会えなかった。
その弟の飯入根(いい入りね)が皇命を承り、弟の甘美韓日狹(うましからひさ)子の鸕濡渟(うかづくぬ)とに持たせて奉った。

出雲振根(いずものふるね)が筑紫から帰ってきて、神宝を朝廷に差し出したということを聞いて、弟の飯入根(いいいりね)を責めて、「数日待つべきであった。
何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」と。
これから 何年か経ったが、なお恨みと怒りは去らず、弟を殺そうと思った。

それで弟を欺いて、「この頃、止屋(やむや)の淵に水草が生い茂っている。一緒に行って見て欲しい」と言った。弟は兄について行った。
これより先、兄は密かに木刀を造っていた。形は本当の太刀に似ていた。
それを自分で差していた。弟は本物の刀を差していた。淵のそばに行って兄が弟にいった。
「淵の水がきれいだ。一緒に水浴しようか」 と。
弟は兄の言葉に従い、それぞれ差していた刀を外して、淵の端におき水にはいった。後からの弟は驚いて兄の木刀を取った。互いに斬り合うことになったが、
弟は木刀抜くことができなかった。兄は弟の 飯入根(いい入りね)を斬り殺した。時の人は歌に詠んで言った。

ヤクモタツ、イズモタケルガ、ハケルタチ、ツヅラサハマキ、サミナシニ、アハレ。出雲健(いずもたける)が 侃(は)いていた太刀は、 葛(つづら)を沢山巻いて
あったが、中身がなくて気の毒であった。 ここに甘美韓日狹(うましからひさ)・鸕濡渟(うかづくぬ)は朝廷に参って、詳しくその様子を報告した。そこで吉備津彦と武淳河別(たけぬなかはわけ)とを遣わして、出雲振根を殺させた。出雲臣等はこの事を恐れて、しばらく出雲大神を祭らないでいた。丹波の氷上の人で名は氷香戸辺が、皇太子活目尊に申し上げて、
「私のところの小さなこどもが、ひとりで歌っています。水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の玉。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の玉。これはこどもの言葉のようではありません。あるいは神が取り憑いて言うのかもしれません」といった。そこで皇太子は天皇に申し上げられた。天皇は勅して鏡を祭らせなさった。 — 後略 —      
                               日本書記(上)  宇治谷 孟 訳  講談社学術文庫より


[PR]
by yuugurekaka | 2018-09-30 08:28 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)

当然ながら、『古事記』や『日本書紀』がそのまま史実ではない。
様々な氏族伝承史実創作(作り話)が、混じり合った書物であろうかと思う。神話の部分だけが、創作や伝承だけではなく、一見そのようなことがあったと思える新しい時代(天武天皇時代)にも、創作というかなんらかの演出がほどこされているのではないかと感じる。
また、神話については、陰陽学的視点ばかりではなく、なんらかの史実の隠喩が含まれているのではないかという気がする。
「国譲り神話」も、史実では無く、だが、それを国譲り神話が表わす意味が何を示すか、あるいはいつの時代のことを投影しているか、学者によって、さまざまな見立てがある。

1) 井上光貞説

例えば、いまだに古代史界に底流が流れていると思われる井上光貞説である。
『大化改新』(1954年 要書房発行。補訂版1970年 弘文堂書房発行)の抜粋であるが、
“出雲には幾つかの文化地帯があるらしく、特に、上流に熊野神社をもつ意宇川流域一帯と、下流に杵築大社のある簸川流域一帯とは、古墳の分布状態(斎藤忠氏の古墳地名表では前の地帯に三十一、後の地帯に六、また島根半島に十一の古墳をあげている)、古代神社の分布密度(風土記、神明帳)からみて、特にきわだっているのであって”として、
出雲国に「オウ」の勢力と「キヅキ」の勢力が存在するとした上で、
“神代の出雲平定の物語と崇神朝の出雲神宝の物語とは杵築大社の方のキズキの地方を舞台にし、オウとはほとんど関係が無い。”と、国譲り神話の場所がキヅキの場所であり、平定する側の神々が、オウの勢力がであると示す。ただ、“クマノ(熊野)のモロタ船に関係のあるコトシロヌシのあるところあるところは気になるところであるが、”として、熊野に関係のある事代主命は、平定される側の神であるという矛盾も書かれている。

そして、“出雲平定とはキズキの平定のことであることがわかる。これに反しオウの勢力は、大和朝廷の側にたっており、またこの氏が国造となったようである。”となる。ゆえに、日本(和)国の国譲りでは無くて、ヤマト王権の力を借りて出雲国内部のキズキ勢力をオウ勢力が押さえたという話となる。
結論として“大和朝廷による出雲の征服とは出雲一帯を支配した支配したキズキの勢力との戦いで、そのさいオウの出雲氏は朝廷に加担し、その結果、国造に任じられたものであること、その征服は武力を伴なうと共に祭祀権の収奪でもあったこと、征服とは土着社会の秩序を破壊することではなくて、在来の身分関係を保存しつつその秩序のまま部制に再編するものであったことなどである。”

それで、この国譲りの話がいつの時代のことを投影したものかについては、弥生時代などという学者はほとんどいない。井上光貞氏は、“征定の事実を六世紀に近いころとみているのである。” 
まあ、新しい時代の話である。通説ではヤマト王権の成立が、概ね4世紀ごろの話なので、譲るべきヤマト王権が存在しないので、そういう論法になるのかもしれない。

井上氏のこの説は、古墳時代後期の出雲東部と西部の古墳の形状や環頭太刀の違いから、西部は物部氏、東部は蘇我氏と結びつき、物部氏の没落に伴って、東部の出雲氏が出雲国を統一するにいたったというような通説の、バックボーンとして生きているように思われる。


礫島(つぶてじま)
稲佐の浜から、日御碕に向かう途中に見える島。出雲風土記で、「黒島」に比定される島。
稲佐の浜で力比べをした高天原のタケミカズチとタケミナカタ神が、大きな岩をどこまで飛ばせるか力比べをして、大岩が重なり合ったできた島と伝えられている。
中央の大きな岩は、高さが15m近くあり、周りの丸石も、直系5mあるそうだ。
何か祭祀遺跡のようにも見える。

e0354697_22575596.jpg

2) 上山春平 

『古事記』『日本書紀』に対する藤原不比等加担説は、だれが言い出したのかを調べていくと、上山春平著『神々の体系』(中公新書)に行き着く。時の右大臣 藤原不比等に記紀編纂の主導権があり、藤原氏の政治の武器として、編纂されるのは当然のことと思われる。
──そういう趣旨から考えると、『出雲風土記』も、出雲国造廣島の政治的な意図が反映するのは当然であり、在地の素朴な神話が、中立的に書かれたと考える方が不自然である。

上山春平氏は、古事記の神統譜が、対照的な構成(高天原系と根の国系)(イザナギとイザナミ)(アマテラスとスサノオ)等となっており、さらに両系未分のアメノミナカヌシから出発し、高天原系と根の国系に分かれ、最終的にイワレヒコへの統合される(中つ国の主)(オオクニヌシ→ニニギ→)という論理となっていることを述べている。

その上で、藤原氏の歴史的役割を、“記紀の完成(『古事記』は七一二年、『書紀』は七二○年)にわずかに先行する大宝律令の完成(七○一年)と平城京の完成(七一○年)が、律令国家の本格的活動を展開するために必要な舞台であった。そして、その律令国家の設計にあたった官僚グループの中心にあったのが、藤原鎌足・不比等父子であり、鎌足は大化の改新によって律令国家建設の地ならしをし、大宝律令の実質的な編纂主任の役割をはたすと同時に、平城遷都の主たる推進力となった不比等は、律令国家の運営をはじめて軌道にのせたのである。”(上山春平著『神々の体系』中公新書)と、位置づけると同時に、

“天武・持統”に極まる皇権回復の試みも、天皇家をふくむ旧来の豪族たちの伝統的な富と力の基盤を掘りくずす効果をもつ律令制を確立させる方向に作用し、少なくとも結果的に見れば、鎌足・不比等以来、律令制の推進力となった新興の藤原氏(記紀の記述をそのまま受けいれる立場からみれば、藤原氏の前身たる中臣氏は古来からの名門豪族のようにみえるが、記紀の制作主体として藤原不比等を想定する私の見地からすれば、記紀制作の一つの重要なねらいが、大伴や物部等の名門とは比較にならぬ新興のみすぼらしい家柄にメーキャップをほどこす点にあったのではないか、という疑いが濃厚であり、後にその根拠を示したいと思う)の独占的な実権掌握への動きを促進したかっこうになっており”上山春平著『神々の体系』中公新書)と、結果的な側面を述べる。

記紀を通じて、神祇体系を再編、大宝律令の神祇官ー中臣氏、太政官ー藤原氏の二本立て構想を実現していくになる。


藤原京 694年(持統8年)~710年(和銅3年)の16年間、初めて都城制を敷いた都である。

e0354697_14250661.jpg

さて、問題の「国譲り神話」の見立てであるが、

“天上の神が地上の天皇に化肉する「現神」成立の秘密を解き明かす、持統および元明と不比等との協力体制にとって必要となった女帝から孫へという前例のない皇位継承の祖形を提示する意味を持った。”(上山春平著『続 神々の体系』中公新書)※太字は私。

“「国譲り」の場面で活躍する藤原氏の氏神タケミカヅチ(文献にタケミカヅチが藤原氏の氏神としてあらわれるのは、八世紀後半であるが…省略)は、大化クーデターで活躍した鎌足の投影として、「岩戸がくれ」や「天孫降臨」の場面で神事にゆかりのある神々と共に活躍する中臣氏の祖神アメノコヤネは、神職を本来の氏の職業とする中臣氏の投影としてとらえることができる。”上山春平著『続 神々の体系』中公新書)

“タカマノハラ系の神々にたいするネノクニ系の神々の「国ゆずり」の話に、大化の改新を転機とする神祇体系の根本的な変革の事実が投影されているのではないか、という点である。氏姓制の原理が律令制の原理に置き換えられてゆく過程で、氏姓制のもとで優位にあった神々は、律令制にふさわしい新たな神々に優位を奪われ、自らは劣位に甘んずるほかはなかったに違いない。”上山春平著『続 神々の体系』中公新書)

それで、この氏姓制のもとで優位にあった例として葛城の神々、高鴨のアジスキタカヒコと下鴨のコトシロヌシが述べられ、ネノクニ系のオオクニヌシの子神にされ、ネノクニ系に組み入れられてしまったと述べている。
納得できる面もかなりあるが、その論点からは、私は海部氏ー尾張氏は、微妙な位置にあるのではないかという思いが浮かんだ。葛城の神々と同様、大和の先住氏族であるからである。
籠神社で見た亀に乗った像があったが、神知津彦命は、天火明命の子孫となっているので、天神の系譜だが、やはり地祇となっている。
「大和国 神別 地祇 大和宿祢 出自神知津彦命也」
また、その逆で、
「大和国 神別 天神 飛鳥直 天事代主命之後也」
の系譜も姓氏録に見られる。記紀に国譲り神話と矛盾した記述もあるがゆえ、地祇の位置づけに反対したのかもしれない。

葛城の神々と出雲国との関係については、上山氏は神祇体系の再編で関連付けられたとしている。
“三輪山の神と同様な運命をたどった大和の名神たちのうちで、とくに注目に値するのは、葛城山麓を拠点とする古来の名族たちによって斎き祭られた高鴨のアヂスキタカヒコネと下鴨のコトシロヌシである。この二柱の神々は、オホクニヌシの子神として系譜づけられ、あたかもその本拠が「根の国系」のふるさとである出雲であったごとくに記紀の神代巻きに書かれている。”上山春平著『続 神々の体系』中公新書)※太字は私。

そういう話は、戦後の著名な古代史家に言われ続けているので、あらためて、びっくりしないが、
出雲大社の創建というのが、上山氏の言うような律令体制の構築・神祇体系の根本的な変革と大きく関係していたのではないかと思う。

[PR]
by yuugurekaka | 2018-09-18 23:58 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)

子どもの頃から出雲大社に初詣に行っていたが、
弥生時代に国譲りのような事件があったのだろうなということを長い間信じていた。
仮に作り話であったにせよ、先住民族として出雲族というものが、国造りをしてきたということを表しているんだなあと思っていた。

──その、「出雲族」であるが説明するのが、結構難しい。
出雲国に住んでいる氏族かというと、そうではない。出雲族は京都や奈良や関東や九州にも分布していた。例えば、『新撰姓氏録』(815年)に見られる京都の出雲氏である。全て天孫の天穂日命の子孫と書かれている。

左京  神別 天孫 出雲宿祢  天穂日命天夷鳥命之後也
左京  神別 天孫 出雲     天穂日命五世孫久志和都命之後也
右京  神別 天孫 出雲臣   天穂日命十二世孫鵜濡渟命之後也  
右京  神別 天孫 神門臣   同上
山城国 神別 天孫 出雲臣  同神子天日名鳥命之後也  
山城国 神別 天孫 出雲臣  同天穂日命之後也。

写真は京都の賀茂川。京都の賀茂川の西側には、平安時代出雲臣が分布したであろう。

e0354697_21344178.jpg


出雲の神ー大国主命や事代主命の子孫の氏族として説明するのが一番良いと思えるが、上記のように、出雲国には、天穂日命の子孫はいても大国主命や事代主命の子孫はいないとされている。
だが、大和には居た。『新撰姓氏録』には、大国主命や事代主命の子孫を標榜する氏族が記述されている。

天神  飛鳥直     天事代主命之後也  
地祇  大神朝臣   素佐能雄命六世孫大国主之後也
地祇  賀茂朝臣   大国主神之後也 
地祇  和仁古    大国主六世孫阿太賀田須命之後也  
地祇  長柄首    天乃八重事代主神之後也

長柄神社(ながらじんじゃ)本殿  奈良県御所市名柄271
現在の祭神は、下照姫命 である。

e0354697_15342718.jpg

出雲国に大国主命や事代主命の子孫がいなくて、大和国に子孫がいるとはいかなることか。

『日本書紀』の記載では、国譲りの後の神武天皇の東征の後、事代主命の娘が皇后となり、事代主命の子孫が代々の天皇の皇后となっていく記述がある。こういうことを考えると、出雲VS大和の構図がそもそもどうなのか、疑問が出てくる。

だから、出雲国は大和の北西(黄泉の国)に位置したので、たまたま神話の舞台に選ばれたに過ぎないという説が有力であった。
あんな田舎の場所で、大型の古墳も発見されないような場所に、王朝があるはずがないというのが、戦後の定説である。


[PR]
by yuugurekaka | 2018-09-07 23:53 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(2)

大和三山と 阿菩大神

■阿菩大神と播磨風土記 


西出雲の王墓群で有名な西谷墳墓群を斐伊川をはさんで、向こう岸の少し南に行った所に、播磨風土

記に出てくる阿菩(あぼ)大神を祀った伊佐賀神社があります。江戸時代は「伊保神社」と云われて

います。下の地図で伊保とある地名の所の神社です。

あれれ、対岸の船津町の下に、漢字は違いますが、九州の豊国の始祖、菟名手と同じ名前の地名が見

ますね。


国土地理院地図より

e0354697_01440871.jpg

現在の神社名は、伊佐賀神社ですが、『出雲国風土記』(733年)では、「加佐伽社」の比定されてい

ます。しかし、延喜式神名帳(927年)では、伊佐賀神社としての名前があります。

神社名自体がなぜ変わったのか、よくわかりませんが、出雲国造家第3世に「伊佐我」の名前もあり

す。


伊佐賀神社 島根県出雲市斐川町出西544
※ 最近写した画像ではありません

e0354697_11433909.jpg

伊佐賀神社の石段
かなり急な石段で、降りる時てすりをもっても不安でした。

e0354697_11475558.jpg


ここの神社の説明板によると、「揖保ふりきりの神」から「いぼふり神」となり、「伊菩→伊保大神」

となったと書かれていました。


私は、耳にしたことはありませんが、谷川健一著『列島縦断地名逍遥』(冨山インターナショナル発

行)によれば、出雲方言で、不服を言う事、不満に思い立腹して立ち去ることを“いぼをふる”と

うらしい。


さて、播磨風土記では、どのように書かれているのでしょうか。

〝播磨風土記 揖保の郡 上岡の里

出雲の国の阿菩大神が大倭の国の畝火・香簗・耳梨の三山が闘い合っているとお聞きになった。そこで
諫め止めようと思われて、上がって来られた時、ここに到って、闘いが止んだとお聞きになって、その
乗っていた船を覆せて鎮座した。だから、神阜と名づけた。丘の形は、船が覆ったのに似ている。〟
     (中村啓信 監修・訳注  橋本雅之 現代語訳 『風土記 上』  角川ソフィア文庫)

ここの話から思うに、
ヤマト王権の豪族の争い(山の争いは豪族の争いではなかろうか)に、出雲の王が出向いて、仲裁
だけの力があったのだろうということです。
富家伝承本によると、倭国大乱の時代、出雲族が治めていた播磨国は、アメノヒボコ族に取られ、そ
後、孝霊天皇・吉備津彦がアメノヒボコ族を攻め入って、出雲まで攻められたことになっているの
で、出雲美作道を通って仲裁に行けたのは、かなり、初期の時代のことだと思います。

揖保の地名が、阿菩大神の名前から来ているかと思いきや、葦原志許乎(大国主命)とアメノヒボコ
の逸話から、米粒の落ちた「粒丘(いひぼおか)」から「いぼ」が来ているのだそうな。
でも、阿菩(あぼ)から揖保(いぼ)になったことも考えられるし、もともと、いぼおおかみであり、
付けで揖保→阿菩の可能性もあるのではないかしら。そもそも弥生時代の話を奈良時代の書物で判
断すること自体に無理があるように思います。


■ 中大兄皇子 大和三山の歌

さて、この播磨風土記に出てくる大和三山の争い事と、その調停をしようと出雲からやってくる阿菩
大神の話は、有名な万葉集の中大兄皇子(なかつおほえのみこ)〔近江宮に天の下知らしめしし天皇〕
の三山(みやま)の歌にも出てきます。

一説には、天智天皇と天武天皇が、額田王との三角関係を歌ったものだと云われています。さて、ど
うなのでしょう。

大和三山の詳細については→ ウィキペディア 大和三山

藤原京から見る 天香久山(あまのかぐやま) 標高は152.4メートル
e0354697_11401996.jpg

〝巻1-13
 香具(かぐ)山は畝傍(うねび)を男々(おお)しと 耳梨と相諍(あらそ)ひき。
    神代よりかくなるらし。古(いにしへ)も然(しか)なれこそ、うつそみも、妻を争ふらしき 
 
 昔女山なる香具山が、同じ女山なる耳梨山と、畝傍山を男らしい山だ、と奪い合いをしたというが、
 恋の道にかけては、神代からそうだったのに違いない。(その後、人の世になって、幾千年経ってい
 るが)昔の神々も、そうであった所からして、肉身の人間も、配逑(つれあい)を取りあいするのに
 違いない。(この御製をもって、額田ノ女王を争われた、自己弁護の如く解する古来の学者の考えは、
 おそらくは誤解で、天皇にはそうしたお考えもなく、ただ三山の妻争いの伝説から、一般社会のこと
 を述べられたものと見るがよかろう。)
                    (『万葉集 上 』折口信夫 訳 河出書房新社より)
 
 
 藤原京から見る耳成山(みみなしやま) 標高は139.6メートル

e0354697_11410290.jpg

〝巻1-14
 香具山と耳梨山(みみなしやま)と争(あ)ひし時、
                       立ちて見に来(こ)し印南国原(いなみくにはら)

 香具山と耳梨山とが、夫(つま)争いに対抗しておった時分に、それをわけるために、わざわざ、
 雲から阿菩ノ大神が出て来られたという、ここがその印南の平原である。〟              
                     (『万葉集 上 』折口信夫 訳 河出書房新社より)


藤原京から見る畝傍山(うねびやま) 標高は198.49メートル

e0354697_11403616.jpg

私が、藤原京を訪れたときは、藤原京の中にあるグラウンドで、少年野球大会が開催されておりまし
た。それと、コスモスの撮影会なるものも催されていました。
私は、持統天皇時代の都を想像しつつ、大和三山の争いはいったい何を意味しているのかを考えなが
ら、ゆっくりと歩きまわりました。
以下 単なる私の想像です。

中大兄皇子の時代の神代とは、おそらく、葛城王朝の初期段階の話であったろう。
天香久山は、尾張氏の先祖である天香具山命の名の山でもあり。持統天皇は女帝ではあるが、男の天
皇が初期は多いので、たぶん男山であろう。そうなると、あの耳成山は、どこかの王家を指すので
ないか。
畝傍山だが、大和の出雲族ー磯城登美一族は、もとは、三輪山の前ではなくて畝傍山の背後の葛城山
方面にいたそうなので、磯城登美一族のお姫様をめぐっての争いだったのではないか。


■ 拝殿の前の丸石 

さて、話は伊佐賀神社にもどります。

伊佐賀神社拝殿前の丸石

e0354697_11434743.jpg

拝殿の前に丸石が置かれておりました。ちっちゃな狛犬が丸石を守るように相対しています。
西谷3号墓の「石主」を思い出しました。
案外、ここの神社も古墳の上に神社があるのではないかななどと想像しました。
阿菩大神の霊魂の依代なのかも。


西谷3号墓の石主

e0354697_11423475.jpg

〝第4主体の土器を取り除いていくと、玉砂利が出てきました。さらに掘り下げると、窪みの底から、
水銀朱で赤く塗られた円礫が出土しました。ちょうど遺体の上半身の真上あたりでした。〟
〝これらは、霊が憑依した依代、つまり「石主」だったと考えられます。〟
                         (出雲弥生の森博物館の展示説明板より抜粋)

玉(たま)は、魂(たましい)なんですね。
※西谷三号墓は弥生時代の終わりごろに造られた東西40m、南北30mの大形の四隅突出型墳丘墓
す。


■ 阿菩大神は何代目オオナムチか?

神社の説明板には、「御系統は不詳であるが・古史成文古史系図には焼太刀守大穂日子命として記載
されている。」とあります。この「古史成文」「古史系図」とは、平田篤胤の著書のようです。平田
篤胤 古史系図(1815年)で確認してみた所、「焼太刀守大穂日子命(やきたちひもりおほほびこの
みこと) 出雲国阿菩大神是呼」とあり、鹽冶毘古命(やむやびこ)の御子と記載してありました。
延喜式神名帳(927年)でも、出雲国神門郡に鹽冶日子命御子燒大刀天穗日子命神社とあります。

伊保神社(伊佐賀神社)略記 

e0354697_22490937.jpg


富家伝承本、の系図によれば、味鋤高彦御梶姫(アメノミカジヒメ)の御子である塩冶彦の御子に、
「速甕之建沢谷地乃身」の名前があります。

斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)からの系図抜粋

e0354697_01435327.jpg
この「速甕之建沢谷地乃身」が、「焼太刀守大穂日子命」と同じかわかりませんが、この神は大国
主命から数えて、4代目で、オオナムチ11代目です。その頃はいまだヤマト王権にも、力があった
ように思えます。
となれば、大国主命の「国譲り神話」とは、矛盾したものとなります。

[PR]
by yuugurekaka | 2017-01-07 15:27 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)


富能加神社(ほのかじんじゃ)   島根県出雲市所原町3549

祭神 本牟智和気命(ほむちわけのみこと)

    肥長比売命(ひながひめみこと)

    (配祀)伊弉諾尊・伊弉冉

「出雲風土記」(733年)の神門郡の「保乃加社」として比定されています。

出雲市内から県立自然公園立久恵峡へ向かう途中の所にある神社です。

e0354697_17430945.jpg


古事記の本牟智和気命の話
本牟智和気命は、垂仁天皇と沙本毘売命(さほびめのみこと)との間にできた皇子です。
沙本毘売は、実兄の沙本毘古王(さほびこのみこ)とともに天皇に反乱を起こします。
そして、兄の稲城にこもった沙本毘売命は、その城が火に包まれた中で、本牟智和気命を出産し、亡くなります。

本牟智和気命は、垂仁天皇に鍾愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することは無かったのです。
天皇は皇子をしゃべらせようと、いろいろ手を尽くしていたが、ある晩 夢を見ます。
何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう。」と述べました。
夢で現れたものは何かと占わせると、物言わぬは出雲大神の祟りとわかりました。

天皇は、皇子を曙立王、菟上王とともに出雲に遣わし、大神を拝させました。
その帰り、肥川の中州の仮の宮で休んでいると、出雲国造の祖先 岐比佐都美が来て
青葉の山を飾りてその河下に立てて神に食事を捧げようとしていた。
それを見て皇子は、「この河下の青葉の山のようなのは山のようで山ではない。
もしや石くまの祖宮に鎮座されている葦原色許男大神(あしはらしこおのおおかみ)を祭るために仕えている神官の祭場ではないのか」と問われました。

言葉を初めて話されたのです。御伴は喜び、皇子は檳榔(あぢまき)の長穂宮で泊まることになります。
そこで、出雲の肥長比売(ひながひめ)と一夜の契りを結びます。覗いてみると蛇だったので驚いて逃げます。
肥長比売は、船を輝かせて追って来たので、船を山に引き上げて、倭に逃げ帰りました。

皇子がしゃべれるようになったことを天皇は大いに喜び、菟上王を出雲に再び送り、神宮を造らせます。
また、この御子のために、鳥取部(ととりべ)・鳥甘部(とりかいべ)・品遅部・大湯坐(おおゆえ)・若湯坐(わかゆえ)を定めました。

                       100段以上ある富能加神社の石段
e0354697_17415951.jpg


ここの神社が「檳榔(あぢまき)の長穂宮」だったという言伝えもあるようです。
でも、ここは斐伊川の上流ではなく、神戸川の上流に位置します。

この古事記に述べられている話が、興味深いです。
ヤマト王権が出雲大社を造ったものの、その後 遷宮は行なわれず
出雲大神の祟りを招いたということです。

それと、いつも出雲の神様は、対 ヤマトの話では
蛇神として登場してきます。
ここでも 覗くと蛇だったというオチです。

きちんと祀っておれば
ヤマト王権の守り神になるが、
おろそかにしていると祟るという そういう展開です。

それと、古事記の中には
コノハナサクヤヒメの誓約(うけい)の火中出産の話があります。
妻問い婚の時代、生まれてくる子どもが
天皇の子どもであるということを証明するのに
産屋に火をつけるというのが、もしや慣例化されていたんでしょうか。


富能加神社拝殿 
e0354697_17433283.jpg

神社参道にあった由緒書

創立年代は不詳であるが、永久二年二月再建の棟札の ある処から見れば、
鳥羽天皇以前に斎祀された事は明 らかである。社伝によれば延喜の御世には
社殿も壮厳 にして朝廷の崇敬の篤かったのであるが、
後兵乱の為 衰微し何時の頃からか安谷の星神山の中腹の厳窟に鎮め奉り、
麓に拝殿を設けて祭事を執行した。
明治四年 十二月小野神社に代って所原、見々久の産土神社に指 定された
(見々久は明治十七年六月御崎神社を産土神 社に定められ分離)
又明治四十四年十二月、現在の小野 山麓に移転し小野神社を合祀することになった。


富能加神社 本殿
                          
e0354697_17433876.jpg

星神山ということで、安来の清水寺の前の星神神社を思い出しました。
安来の星神神社は「ほのか姫」を祀っていたと思います。
このほのか姫は、「出雲神社巡拝記」(1833年)で
「星宮大明神は保能加神社で祭神はほのかひめの命」だと書かれています。

星神さんは、ここの地方では、
日本書記に登場する天香香背男(あめのかがせお)ではありません。

星は、「ほのかに光る」ということで、「ほのか」なのでしょうか。
火中出産で「火(ほ)のなか」で ほのか説もあるようですが
よくわかりません。


富能加神社 石段 下り 
e0354697_17434231.jpg

急な石段です。
行きはよいよい 帰りは恐い。


[PR]
by yuugurekaka | 2015-08-01 21:06 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)

建国記念の日に 思う

「建国記念の日」。
そもそもが、『日本書紀』の神武天皇の即位日として、
1873(明治6)に、2月11日と定められた紀元節です。

神武天皇の即位とは、紀元前660年2月11日と、
されています。神話の世界ともいうべき話なのです。→Wikipedia 建国記念の日
こうなってくると 日本書紀に書かれている
その建国神話を信じるか信じないかが、重要な要素なのです。

諸外国は、どのような日を建国記念日と定めているか
調べて見ると →Wikipedia 諸外国の建国記念日
「植民地であった国が独立した日」とか「君主制から共和制を樹立した日」が結構多いです。

1) 日本は 建国記念の日からして、特殊です。
始まりから、日本は「国民国家」ではないのです。
また 戦争に負けたからと言って、自動的に「国民国家」になるとも思えないのです。

だから、ナショナリズムを持ち出されると、いつも私は微妙な感情が湧き上がってきます。
私は、ナショナリズムに対し、否定的な立場ではないですが
世の中では、戦前型のナショナリズムしか聞かれなくて
「日本には国民国家のナショナリズムの型がないのか?」
と思うぐらいに テレビの討論番組には がっかりします。

e0354697_15061193.jpg


2)最近 関 裕二さんの「古代史の秘密を握る人たち」を読んでいるのですが
2001年の発行で、この時点で 特別 出雲王朝存在説を主張されている方ではないようですが
結構 この人の着目点が面白いです。

「実在した?しない?大国主命の正体」の項で 紀元節のことが書かれていますが
その紀元節の中で
「天皇は、平安時代から、園神(そのかみ)・韓神(からかみ)祭りというものを
行なっていた。それぞれの祭神は、園神が大物主神で、韓神が大己貴神(大国主神)と
少彦名神、どれも出雲にかかわる神だ。」(238ページ)

そもそも、その紀元節の起源が、出雲の神を祭ることとは どういうことなのでしょうか。
インターネットで いろいろ調べて見ました。
この方のブログが 詳しい。→建国記念日の本当の真相を知ったら・・・

私は、子どもの頃、病弱だったため、
体育の時間に休んで 図書室で古事記をよく読んでいました。
しかし、ヤマト王権の前に 出雲王朝があったなどと人に言うと
たいへん「罰当たり」みたいなことを言われることが多かったように思います。

しかし、古事記や日本書紀に書かれているでしょうと
思うのですが、なぜ?

大人になったらなったで また 逆の立場からの批判。
「皇国史観」の材料になったこととして 
古事記・日本書記は、当時の政権の作った創作でしかなく
史実ではないということ。

当然、古事記や日本書紀は 創作したものや言伝えのもので 
史実ではありません。
私は、古事記や日本書紀を神聖視する者でもありません。

しかし、歴史的な書物というのは
書いた人の都合の良い創作というものはつきものです。
どのような歪曲的な形であれ、
なんらかの史実が「反映」 したものです。

明治政府や近代の政府が 上書きしたものだけを
日本古来の伝統であるかのように言うのは
日本の将来のためにも 良くはないと思います。

懐かしの洋楽ポップスシリーズ
ポール・サイモン 「アメリカの歌」



ポール・サイモンは好きですが
正直な所、和訳された詩を 読んでも 今一つ よくわかりません。
私がアメリカ国民でないのはもちろんです。
ベトナム戦争に介入して 敗北した当時の 憂国の情を
どのようにとらえたら良いのか わかりません。

そういう理由もありますが、今も ひたすら 国というものが遠い
と感じるからです。
戦前は 国とは 命ずる存在だったかもしれませんが、
じゃあ 戦後はどうなのかです。
税金払って富を分配されるだけの存在なのでしょうか。


[PR]
by yuugurekaka | 2015-02-11 18:55 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(4)