1)佐太大神=御子神


出雲風土記(733年)によれば

秋鹿郡の神社の項目に「佐太御子社」(現在の佐太神社)の記載があります。佐太神社では、佐

太の大神を祀っているのではないのですか?大神ではなくて、その御子(子ども)なのです。御

子は誰?と、新たな疑問が浮かんできます。


長い間そのことがわかりませんでしたが、

谷戸貞彦著『幸の神と龍』(大元出版)を読んでいて、これが答えかなと、思える箇所がありま

した。

161頁ですが、

“サルタ彦神は久那斗の大神の息子なので、「御子神」とも言われる。山陰民俗学会編集の『年

中行事』に、その記事がある。石塚尊俊(編集代表)の記述は次のとおり。

「ミコ神という名の信仰は出雲から美作・備中・備前・備後のところどころ、それに四国の讃岐

の讃岐・阿波・土佐の一部にある。…『雲陽誌』(1717年、出雲国の地誌)の秋鹿郡西谷の条に、

御子神、天鈿女命をまつる、同郡長江、御子神、天鈿女命なり、と出ている。…祭られている場

所は、裏側のナンドとユルリノマすなわち台所との間のウチオイと称する部屋で、ここが主人夫

婦の寝間になっている」”(赤字表記は、私)


天鈿女命と一緒に祀られるとなると、御子神は猿田彦ということになります。そして猿田彦が御

子神ならば、親が久那戸大神で母親が、幸の神というわけです。



さらに、この御子神というところですが、谷戸貞彦氏によれば、猿田彦命はもともとは、インド

シバ神の御子神ガネーシャであり、

“その神は後には仏教に取り入れられて、「聖天様」になるが、ガネーシャ信仰は、民間には古

代からあった。それを、出雲族が日本に持ってきたと、伝えられる。”

                        (谷戸貞彦著『幸の神と龍』 大元出版)


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2)佐太大神=象頭神

このガネーシャですが、象の頭の神様で、障がい除去の神様と言われております。この神は、役

割が、塞ノ神と同じで、悪霊の侵入を防ぐという障神(さえのかみ)です。


ウィキペディアによれば、

ヴィナーヤカVināyaka、無上)、ヴィグネーシュヴァラ(Vighneśvara、障害除去)、ガ

ネーシャGaeśa、群集の長)、ガナパティ(Gaapati、群集の主)との神名を持つ。元来は

障害神であったのが、あらゆる障害を司る故に障害を除去する善神へと変化した。

                           (ウィキペディア ガネーシャより)

 

頭が象であるがゆえ、鼻が長い。そして、いつしか、猿田彦命の風貌が「鼻長」から天狗の風貌

のように「鼻高」に変わったのかもしれません。


柳田国男氏によれば、岐神(猿田彦命も含めて)は、太古よりいる神で、様々なる神々、そして

象頭神とも習合し、里の守り神として成っていきました。

道祖神、御霊、象頭神、聖神、大将軍、赤口赤下の神など…なかなか習合度が高い神様です。


“例の石神及び岐神は昔より此国におはせし神にして 辺防を職掌とせられしやうなれども 

此上に猶道祖と云ひ御霊と云ひ象頭神と云ひ聖神と云ひ大将軍又は赤口赤舌の神と云ふなど

聞伝へし限、有る限の神を頼みて里の守護を任するやうに相成候か”  

                    (『石神問答』 34 柳田より松岡輝夫氏へ )


伊和神社 拝殿の象頭 兵庫県宍粟市一宮町須行名407    


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また、柳田国男氏は象を古くから「キサ」と云ったことも述べています。

“又遠江敷智郡岐佐神社は象神ならんか 象をキサと云ふことは古けれども 其義及由来を知る

能はず”                (『石神問答』 33 柳田より緒方翁へ 解説 )


現在、静岡市浜松市西区舞阪町舞阪 1973に鎮座している岐佐神社ですが、祭神は現在 蚶貝比売

命(キサガイ姫 佐太大神の母神 支佐加比売命)と蛤貝比売命 です。



加賀神社  島根県松江市島根町加賀1490 
枳佐加比売命を主祭神とし、伊弉諾尊、伊弉冊尊、天照大神、猿田彦命を配神としています。
元々は、加賀の潜戸にあったと伝えられています。


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なんたることか、佐太の大神の母神は、赤貝の神様だということでしたが、象の神様とも関係し

ていたのです。

このように、象と関係しているとなれば、佐太大神は、もう猿田彦命としか思われません。

道祖神とガネーシャ(歓喜天)が近世になって習合したとの説ですが、これはどうも出発点から、

猿田彦命は象頭神だったのかもしれません。 




参考文献  『謎のサルタヒコ』鎌田 東二 (編著) 創元社 
      『境界神としてのサルタヒコ』 張麗山 著 
      『幸の神と龍』谷戸貞彦著 大元出版 
      『新修平田篤胤全集第三巻』名著出版
      『柳田国男全集 第一巻 石神問答』 筑摩書房 
      『解説 出雲風土記』島根県古代文化センター編  今井出版
      『島根町誌 本編』 島根町教育委員会発行
         

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by yuugurekaka | 2016-08-26 07:00 | サルタヒコ | Trackback

マリンパーク多古鼻 展望台から美保関方面を眺める  島根県松江市島根町 多古

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民俗学者 柳田国男は、山中大人との書簡の中で、『古史伝』の「猿田=サダ』を踏まえた上で

さらに「サダ=ミサキ」として述べています。


“(前略)此因に愚見御批判を仰ぎ度は 此神の名猿田と云ふ語は やがて亦ミサキと同じ義なりし

 ならんかと思はるゝことに候 古史伝には猿田はサダにして 出雲の佐陀大神は同じ神なりと論

 ぜられ候 出雲の佐陀は島根半島の中央にて 現今の社地は海角には非ず候へ共 此半島は即ち

 狭田ノ国にて 西にも東にもミサキは有之候”


海角(かいかく)…陸地が海に突き出た細い部分、岬


ナズナ鼻 島根県松江市鹿島町片句
西日本の日本海側には、岬というよりも鼻の名前が多い。鼻というよりも、大きな蛇が横たわっているように見える。

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岬をサダと申候は独此地に止まらず 伊予の御鼻と称する佐田岬 大隅の佐多岬有之候上 土佐
足摺崎も亦蹉岬(さだみさき)にて 船人が大隅のと区別する為に 之をアシズリと唱へたる
外ならざるべく候 かく迄類例ある上はサダミサキの義なること最早疑なく 而してミサキ
は水とは関係なく 始めて此国に入り立ちたまひし御時には嚮導の義なりしと同じく 既に此国
鎮まりたまひて後は 国の境即ち直に外域に対する地方をさしてミサキと申すことゝなり 延い
は一邑落一平原サカ又はソキをもミサキと呼びサダと唱へしかと存じ候 此の如く解するとき
塞の神と猿田の神とを混同するに及びたる次第も稍明かになるやうに存じ候”

          (『柳田国男全集 第一巻 石神問答』 筑摩書房 1999年6月30日発行)

佐田岬 愛媛県伊方町  画像出典 ウィキペディア 佐田岬


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佐多岬 鹿児島県肝属郡南大隅町佐多馬籠  画像出典 ウィキペディア 佐多岬


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足摺岬  高知県南西部土佐清水市 古くは蹉跎岬(さだみさき)と云ったという。

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柳田国男氏のいうように、大きな岬の名前が皆「サダ(サタ)岬」という同じ名前です。柳田国男

氏によれば、岬は、単に半島の先っぽ(崎)ということだけではなく、外域に対する地方、つまり

異界であり、サダの神は境界神のようです。



越鳥鼻と弁天島   島根県松江市島根町大芦 越鳥鼻  
出雲風土記(733年)には、「須須比御埼」の名で見えます。岬を「鼻」と呼ぶようになったのは、後代になって
からなのかもしれません。

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インドを原郷とする神ということなので、もしや、インドにもサダ岬があるのではないかと思い、

インターネットで検索したら、なんとゴア州のヴァスコダガマに「Sada岬」がありました!

 ウィキペディア ヴァスコ・ダ・ガマ (ゴア州)

どういう由来があるのか、どんな意味なのか、インターネットや図書館で調べてみたのですが、

あいにくどこにも載っていませんでした。

そういう名前になったのは、単なる偶然なのかもしれませんが…。



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by yuugurekaka | 2016-08-20 14:18 | サルタヒコ | Trackback

ウィキペディアで佐太大神を祭っている佐太神社のことを調べますと、「近現代」のところに 

“明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、祭神を猿田彦命と明示するように指示

された際、神社側は一旦はそれを拒んだが、後に従った。”

と書かれています。(ウィキペディア 佐太神社


修造中の佐太神社   7月上旬の様子です。今年の9月には正遷座祭があります。  

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加賀の潜戸(3)で述べましたが、佐陀縁起には主祭神が、伊弉諾命・伊弉冉命となっており、

室町から江戸時代までずっとそれできているので たぶん、祭神を猿田彦命と言われても受け入れ

がたかったのだろうなと思います。

国学者平田篤胤が、『古史伝』を著し、佐太大神は猿田彦神であることを述べたことが影響して、
祭神が猿田彦命になったようにも書かれています。

さて、『古史伝』にはどのように書かれているのでしょうか。

他の箇所にも書かれているのかもしれませんが、目についたところは、以下のところです。


『古史伝』二十 巻

佐太の大神。眞龍云、佐太は地名なり。意宇の郡の文に、狭田國とあり。御名は地をもて、稱(たたえ)

申せば、まことの御名は知がたし。熊野大神、能義大神、宇沙都比古、宇沙都比売、など申すがごとし。

○猨田毘古の大神。猨田は佐田と訓べし。猿を古へは佐とのみも云りし故に、借りて書りと見ゆ。猨と

猿は同字なり。(中略)

さて此の神やがて佐太の大神なる由は、ただ比古てふ言の有り無しのみの違いにて、全く同じ御名なり。
其は出雲風土記に、三所に、佐太の大神と記し、神代紀に、猿田彦の大神とみづから名告まし、古語拾
遺も同じ。皇美麻命の御詔に、猨田毘古の大神と詔へり。然れば此は、尋常(このつね)に、大神と申
すとは異(かは)りて、刺国大神(さすくにおおかみ)などの類に、元より大神と申すべき由ありて負
い賜ひけむ。是同神なるべき一鐙(ひとつのあかし)なり。○大土之御祖神と申す御名の意は、既に注
へり。さて、此の大土の神、やがて猿田毘古の大神なる由は、伊勢の國度會の郡宇治山田の地主の神と
稱して祭れるに、此事も、すでに第七十四段の傳に云へり。(中略)猿田毘古の神、後に天照大御神を、
伊勢の狭長田伊須受之川上に到坐むと云ひて、御自は、伊勢の國に鎮坐るに符(かな)ひ、(中略)は
た其御孫大田の命と云を、宇治の土公氏といひ、此の命、垂仁天皇の御世に、天照大御神を、伊勢の宇
治の地に待受奉れるなどを、合わせ考へて知らる。(後略)



猿田彦神社 三重県伊勢市宇治浦田2-1-10    画像出典  ウィキぺディア 猿田彦神社 より


猿田彦神社御殿
By Takawikim - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link


『古史伝』二十八 巻

(前略)猨田毘古大神、やがて佐田大神にて、其の本郷は、出雲の国の佐田なるが、天の八衢に迎へ奉
りて、日向の高千穂に嚮導(みちびか)して、遂に其の本郷ならぬ、伊勢の佐那縣に到留り賜へる事は、
謂ゆる幽契ある事なる由を思ひ落されし故にぞ有ける。(中略) 猿田毘古神の猿田は、出雲の国の地名
なること、本よりにて、この猨は、獣の佐流の義に非ざれども、彼獣を佐とも佐流とも云し故に、猨田
てふ御名の佐を、やがて獣名の、佐流てふ言に翻成して、其の名を負てとは詔るなり。(後略)

                         新修平田篤胤全集第三巻 (名著出版)より


                    

この平田篤胤説の反論として、「佐太大神は出雲東部の土着の神で、猿田彦命は伊勢の国の神で

あって、出雲国の神ではない。」という意見をよく本などで見かけます。

しかし、この「出雲国の神ではない。」というのは、猿田彦命だけではなく、事代主命やアジス

キタカヒコ命にもあてはまります。

さらには、有名な出雲の神というのは全部、奈良の三輪山の麓の神様であって、「出雲国の神様

ではない。」という論が多いです。

確かに「出雲国の」神様ではないでしょう。

正しく言うならば、出雲国の神様ではなくて、「出雲族の神様」です。

司馬遼太郎氏の言葉をかりるならば、

“「出雲国」というのは、明治以前の分国で、今の島根県出雲地方をさす地理的名称だが、しか

し古代にあってはイヅモとは単に地理的名称のみであったかどうかは疑わしい。種族名でもあっ

たに違いない。さらに古代出雲族の活躍の中心が、今の島根県ではなくむしろ大和であったとい

うことも、ほぼ大方の賛同を得るであろう。その大和盆地の政教上の中心が、三輪山である。”

             (司馬遼太郎著『街道を行く 1 』~竹内街道~  朝日文庫)


だから、そもそも出雲族の神様なので、日本の全国いろいろな地域で、呼び名を変えて、奉祭さ

れているのは何の不思議もないことだと思うのです。

また猿田彦命は、クナトの神と同じように縄文時代からつながる原初的な神なので、そういう小

さな共同体の、土着の首長のごとく論ずることになじまないでしょう。


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by yuugurekaka | 2016-08-01 20:21 | サルタヒコ | Trackback

出雲風土記(733年)には、佐太大神の誕神話が記されています。


加賀神崎かかのかんざきいわやがある。高さは一十丈ほど、周りは五百二歩ほどである。東と西

と北とに貫通している。


[いわゆる佐太さだの大神おおかみがお生まれになった所である。お産まれになろうとするときに、

弓矢がなくなった。

そのとき御母である神魂かみむすひ命の御子、枳佐きさ加比かひ命(きさかひめ)が祈願なさった

ことには、「わたしの御子が麻須ます羅神らかみの御子でいらっしゃるならば、なくなった

弓矢よ出て来なさい。」と祈願なさった。


そのとき、角の弓矢が水のまにまに流れ出た。その時弓を取っておっしゃったこ

とには、「これはあの弓矢ではない。」とおっしゃって投げ捨てられた。また金

の弓矢が流れ出て来た。そこで待ち受けてお取りになり、「暗い窟である。」と

おっしゃって、射通しなさった。


そこで御母の支佐加比売命の杜がここに鎮座していらっしゃる。今の人はこの窟

のあたりを通る時は、必ず大声をとどろかせて行く。もし密かに行こうとすると、

神が現われて突風が起こり、行く船は必ず転覆するのである。] ”


       (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)



加賀の潜戸から遠くに見える的島


潜戸を射通した金の矢は、勢いのあまりその先の沖ノ島まで射通し穴があいたという。

成長した猿田彦命が、この穴を的に弓の稽古をして故、「的島」と呼ばれるようになったそうだ。


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マスラ神の黄金の矢が、暗い窟屋を、射通し、加賀の潜戸が輝くように穴が開けたとの神話ですが、

三輪山の大物主の丹塗矢型の神婚神話を思い出します。(ホトタタライススキヒメ誕生神話)大物

主の赤く塗られた矢と同じように、マスラ神の黄金の矢は、マスラ神の〝男〟そのものでしょう。

そういう交合や性器そのものが、信仰の対象だった時代から、風土記の時代には、すこし隠喩や具

象化されているように思います。

また、〝黄金の矢〟からもうひとつ頭に浮かぶのは、佐太神社や出雲大社で奉納されるセグロウミ

ヘビのことです。この海蛇は、背中は黒いけれど、腹が黄色で、海を照らして泳いでいるように見

えるそうです。

たいへんな猛毒を持ち、恐ろしい海蛇ですが、南洋から対馬海流に乗って、はるばる島根半島に漂

着してきます。


海を照らして島根半島にやってくる龍蛇様 セグロウミヘビ 

                                  出典 ウィキペディア セグロウミヘビ 
  

Pelamis platura, Costa Rica.jpg
By Aloaiza - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, Link



このマスラ神ですが、益荒男(ますらお)の益荒(ますら)、立派な男神という一般的な神名でど

ういう神なのかよくわかりません。また、一説には、

猿(古語でましら)ということから、猿田彦命は猿と関係があるという誤解につながったのだ

とか…、いろいろな説がありよくわかりません。

それに、この潜戸(くけど)という言葉尻を考えると、久那土(くなど)と名前が似ていて、元々

性的な結合を信仰する縄文時代の信仰の場所だったのかもしれません。


谷川健一氏は、『黒潮の民俗学』(筑摩書房)の中で、加賀の潜戸のことを述べられています


“加賀の潜戸をつらぬく黄金の矢とは、的島の東から射しこむ太陽の光線に他ならないことを、理

解した。黄金の矢を持つ太陽神が、暗い洞窟に矢をはなつ、とは太陽神と、それをまつる巫女の交

合の儀式を意味するのである。


そうした伝承をもとにした祭式がおそらくここに生まれた。それには、加賀の潜戸と的島の二つの

洞窟の穴が東西に一直線に並んで見透かされるという自然の舞台を必要としたのに違いない。

それは私が沖縄で見た『太陽の洞窟』のひとつにほかならなかった。


かつて、沖縄では、『太陽(てだ)(あな』の終わりの日に洞窟内の鍾乳石(石筍)に向かって自分の下腹部

をこすりつけ、それで神との交合の儀式をおこなったというが、それは太陽神の子を産むための儀

礼にほかならなかった。こうして誕生した太陽神の子は、東にあるその洞窟から登って、西の洞窟

に沈むと考えられたのある。”


加賀の潜戸の中から見える的島   中から見ると小さく見える

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by yuugurekaka | 2016-07-16 15:37 | サルタヒコ | Trackback

新潜戸

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現在、潜戸で誕生した神様は、「猿田彦命」とされていまして、いろいろなパンフレットや説明板

には佐太大神=猿田彦命と説明されています。

しかし、それはあくまで明治以降からだと思われます。


出雲風土記(733年)に書かれる加賀の潜戸は、誕生する神は、佐太大神であり、生んだ母神は神

魂命の子ー支佐加比売命となっています。

だから、「猿田彦命」とはどこにも書かれていません。


ともかくも奈良時代は、母神ー支佐加比売命、誕生神ー佐太大神あったものが、中世以降(どこが

始まりは正確にわかりませんが)には母神ーイザナミのミコト、誕生神ー天照大神、佐太大神ーイ

ザナギノミコト・イザナミノミコトになった模様です。


それも、江戸時代まで続き、明治の国家による神道の再編の中で、現在の支佐加比売命・猿田彦命

に変わったもののようです。


『潜戸縁起』

加賀大津の代官家(よこや)に『潜戸縁起』という本が3冊あるそうです。そのうちの一冊は、

代がわかりませんが、一冊は宝暦三年(1753年)八月吉日金津真治とあり、もう一冊は宝暦九

年十二月初五日之写 金津八坡と記してあるそうです。

宝暦というのは、江戸幕府第9代将軍徳川 家重の時代です。


なお『潜戸縁起』のことが、雲陽誌(1717年)にも書かれているので、『潜戸縁起』の原本そ

のものはかなり古く書かれていたものと思われます。


その内容ですが、

“伊弉諾尊と伊弉冉尊は、淡路島に天下られてから、一万二千年の間、陰陽のことは、知られなか

ったが、あるとき、川すずめの振舞を見てやっとわかられ、和合されて、十か月目に、お産のひも

を解かれ、そこを潜戸と名付けられた。お生まれになったのが、天照大神で、幼名は、宇宝童子どうじ

その後、すめらみことと名付けられ、のちに天照大神と申し上げるようになった、と記されています。”


“天照大神がお生まれになったとき、イザナキは、加賀よしよしと言われ、お二方とも加賀よろびよろこばれた。この

地を加賀かかと名付けられたのは、こんなめでたい意味があり、赤ん坊が生まれると今でも、よろこび

というのは、これからはじまったのだ。と、そして、母のことを、かか、というのもこれがもとだ、

と記されています。” 

                 『島根町誌 本編』(島根町教育委員会発行 1987年)より

 
新潜戸の鳥居
           
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元々の『潜戸縁起』が、いつの時代かはっきりしませんが、それに先立つ(?)佐陀大社(現在の

佐太神社)の『佐陀大社縁起』(明応四年)にも、『潜戸縁起』と同じような内容が記されていま

す。明応四年は、1495年で室町時代です。


『佐陀大社縁起』

抑南瞻部州大日本国出雲州嶋根郡佐陀大明神者、即天地開闢曩祖、陰陽最初元神、
伊弉諾・伊弉冊尊也

そもそも、南贍部州(なんせんぶしゅう)の大日本国の出雲国島根郡の佐陀太明神とは、 すなわち、

天地開闢の祖である、陰・陽の最初の神である伊弉諾・伊弉冊の尊です。


一 伊弉冊者為伊弉諾尊妃。妃有妊、別居於加賀潜戸。 於是天照太神誕生。 是故
彼岩窟中有御乳房形作石。 于今其露滴不断故海中草依受此乳味潤其味皆甘矣。

伊弉冊は伊弉諾尊のお妃となり、妊娠されました。「加賀の潜戸」に別に住まわれました。 この

場所で天照大神が誕生しました。あの岩窟の中には乳房の形をした石があるそうです。

今も、その露の滴は途切れていないので、海草はこの乳味の潤を享受し、皆甘いのです。 

一 加賀者伊弉冊尊棲潜戸而未出時天下暗、出潜戸時天下忽明。于時伊弉諾言赫々、
是故其地名加賀也。

『加賀』は、伊弉冊尊が潜戸にお棲みになり、外にお出にならない時には、天下は暗かったが、

潜戸をお出になると、天下はたちまち明るくなりました。

その時、伊弉諾尊が「赫々(かくかく)たり」(光り輝くさま)と言われました。このため、其

の地を「加賀」と名付けられたのです。



神社の祭神でも長い歴史の中で、神道の変化に伴い、すり替わったりするものですが、加賀の潜

戸の祭神も変わっていたのです。


             参考文献 『島根町誌 本編』(島根町教育委員会発行 1987年)


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by yuugurekaka | 2016-07-10 14:20 | サルタヒコ | Trackback

旧潜戸

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旧潜戸(きゅうくけど)こと古潜戸(ふるのくけど)にまず観光船は着きました。

旧潜戸には、「賽の磧」(さいのかわら)がありまして、「仏」の潜戸とも言われています。

船着き場に着きました――。


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まずは、水子のお地蔵さまに拝みました。

水子地蔵  

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造られたトンネルの中を通って、賽の磧へ向かいます。


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外から見えた大きな洞門を内側から見ると、こうなっていました。

昔はここが船着き場だったようです。



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賽の磧(さいのかわら)

幼くして亡くなった子供の霊が集まるところで、親よりも先だって亡くなった子どもたちが親不孝

の報いで、来る日も来る日もここで石積みをして塔を作ります。そして、せっかく石塔ができあが

ると大きな鬼が出てきて塔を無茶苦茶にこわしてしまいます。子どもたちは、泣きながら、また一

から石を積むという続きます。

果てのない永遠の苦行に、地蔵菩薩が現われて、子どもたちが救われるという話があります。


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地蔵菩薩というと仏経と深い関係があるように思われるのですが、民間信仰で、仏教の地蔵信仰と

民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説だそうです

 ウィキペディア 三途川


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ここの賽の河原の説明版がありました。

海部人族といえば、宗像氏でしょうか。


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ここで生み育てたとありますが、

こうして賽のかわらがあるところを見ると、猪の目洞窟のように、そもそもお墓があった所ではな

いのだろうかと思いました。洞窟というのは、出雲風土記の宇賀郷にある「黄泉の穴」のように黄

泉の世界につながっているところだし、「賽の」というからには、元々はお地蔵さんではなくて、

死の世界(黄泉の国)と生の世界の境界神としての「賽の神」だったのではないのでしょうか。


江戸時代まで神仏習合の時代でした。そもそもが、賽の神、道祖神自体が、神道のなかであえて体

系づけられているわけでもないですし、神道の神様そのものが「権現さん」と言われ、仏様の仮の

姿と言われていた時代が長いのです。

仏の潜戸といいますが、もともとは神仏習合したところだったのではないかしら。


昔は「古(ふる)の潜戸」と呼ばれたようですが、もしかしたら、仏教とは最も遠い物部氏の「布

留」(ふる)だったのではないかしら。何の証明もできませんが…。

「布瑠の言(ふるのこと)」とは、「死者蘇生の言霊」といわれます。幼くして亡くなった子供で

すが、できれば生き返ってほしいと願っても不思議はありません。



それから、加賀の潜戸は、遠く離れた松江市の比津神社の西側にある瀑戸(たきど)の池」(滝戸池)とつ

ながっていて、潜戸から大鯛がおよいでくることがあるとの言い伝えがあります。

「音に聞こえし 瀑戸の池は 加賀の潜戸の潮がさす」という俗謡が残っているそうです。


滝戸池

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by yuugurekaka | 2016-07-08 07:00 | サルタヒコ | Trackback

松江市島根町の日本海に面した潜戸鼻には、「加賀の潜戸」(かかのくけど)という景勝地があり

ます。ウィキペディア 加賀の潜戸  

その潜戸には、出雲風土記(733年)に載っている、佐太大神(さだおおかみ)の誕生の地である

新潜戸と賽の河原がある旧潜戸の二つがあります。


行った時には気づきませんでしたが、地図で見ると、新潜戸は、なんだか象の口みたいなところに

ありますね。


新潜戸と旧潜戸の位置


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出雲風土記に載っているような潜戸なのに、「新」潜戸とはこれいかに?

旧潜戸が「仏の潜戸」とも言われており、新潜戸は神が誕生したので「神潜戸」で、音読みの「シ

ン」で神→新になったという語呂合わせのような気もしますが、さて、どうなのでしょう。


寛政4年(1792年)の「島根(しまね)郡西組(ごおり     )(よろず)差出帳(さしだしちょう」には、「潜戸一か所、古潜戸ふるくけど一か所」と

記載があるところを見ると、新潜戸は「潜戸」、旧潜戸は元々は、「古潜戸」と言われていたようで、

それが「古→旧」に転化したのではないかと思えます。


また、旧潜戸は、「ふうくけど」とも呼ばれていたそうなので、「ふう」とか「ふる」に当て字で

「古」が当てられたんではないか?などとも思ったりします。


ところで、新潜戸と旧潜戸の違いは、構造的にはどういう違いがあるのでしょうか。


コトバンクの地名辞典による説明では 

“ 島根県の島根半島北岸、島根町潜戸鼻にある景勝海岸。海食を受けた洞門の新潜戸と洞窟(どう

くつ)の旧潜戸からなる。 国指定の名勝・天然記念物。大山隠岐(だいせんおき)国立公園に属し、遊

覧船で探訪できる。加賀(かか)の潜戸ともいう。”


どちらも海食を受けた洞窟なのですが、新潜戸は、海中の向こう側は明るく見える「洞門」であるの

に対して、旧潜戸は奥が見えない黄泉の世界の境界線のような「洞窟」なのです。


加賀の潜戸  新潜戸

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出雲風土記では、このように書かれています。

“郡家の北西二十四里一百六十歩の所にある。佐太大神のお生まれになった所であ
る。御母である神魂命(かみむすび)の御子、支佐加比売命(きさかひめ)が「暗
い岩穴である。」とおっしゃって、金の弓をもって射られた時に、光りかがやいた。
【原文…光加加明きき】から、加加という。〔神亀三年に字を加賀(かか)と改
 めた。〕” 
        (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


加賀の潜戸  旧潜戸(きゅうくけど)

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参考文献  『島根町誌 本編』(島根町教育委員会発行 1987年)

続く     

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by yuugurekaka | 2016-07-04 10:21 | サルタヒコ | Trackback