“松江の宍道湖はアイヌが命名したシシヂ湖の訛りである。シシヂとは大きい陰門(shish拡
がれる、chi 陰門)。アイヌ語chitの訛りが「膣」で、chi部(恥部)の恥は漢字に
表現したときの当て字である。chiは陰茎をも意味したからである。” 
                   (北村博則著 『歯・口・舌のはなし』 文芸社) 

まず こういう説にも一理あると思うのは、漢字が中国から入ってきたのはかなり後のことであり
奈良時代においては、前からある日本語に、読みが同じ漢字を当てている場合が多いからです。
たとえば神社名や神名です。熊野大社の「熊野」は、動物の熊とは全く関係がないし、猿田彦命も
猿とは本来関係がないことなどです。

縄文時代は、縄文言語なるものがあって、現在の日本語とは違い、その駆逐された縄文言語がアイ
ヌ語に残存しているという説もあるからです。
縄文時代の後期にインドより、ドラヴィダ系の民族が日本に渡来して、ドラヴィダ系の言語(タミ
ル語)が入り、弥生時代の言語として、日本語の起源となったとする大野晋氏の説(かなり異説と
して否定されたらしい)もありますから、奈良時代よりも昔は、また違う言葉をつかって、地名を
つけていたのではないかと思うのです。

つまりは、縄文時代や弥生時代に使われていた地名が、漢字を当てることによって、別の意味に転
化した例は多いのではないかと思うわけです。
そのように考えていくと、「ししぢ」は、「宍道」の漢字が当てられて、本来の意味が変わったの
ではないかと思いが浮かぶのです。

宍道町 宍像岩 (ししかたいわ)
猪の岩というよりは、古代のホト岩信仰の祭祀場に見えます。


ただ、いわゆる言語学の本というのは、なにか語呂合わせのようにも感じますし、膨大な言語の理
解がない私は、本当かしらとつい思ってしまいがちです。
なにか他の著者でそういうような主張をしていないか、様々な本を探してみましたが、ありません。

『アイヌ語古語辞典(平山裕人著 明石書店 2013年12月20日発行)で調べてみました。

アイヌ語自体が、たぶん現代のものと古代のものとは変化しているのではないかと思いました。
中世の文献に残っている言葉だけ載っていました。

それで 「陰門」を調べると 
陰門
ボッキ(ホッキの項)『蝦夷拾遺』(1786年)
ボキ 『蝦夷方言藻汐草』(1792年)

あれれ ありません。
しかし、
チー が、 陰茎 『蝦夷方言藻汐草』(1792年)とありました。

ついでに陰茎で調べると、
ヌキで「陰」、タケリ『蝦夷拾遺』です。
またノキが 陰嚢 『蝦夷方言藻汐草』と書いてありました。
もしかしたら、野城大神の「ノキ」は、これではないかしら。

さて、この宍道郷が、なぜ「ししぢ」と呼ばれるに至ったのでしょうか。
グーグルアースを角度を変えて、加茂岩倉遺跡のある加茂町につながる宍道町の画像です。
この谷あいに国道54号線が走っています。この谷から来ているのでしょうか?

谷には、日本だけではなく、ヨーロッパでも、古代から女性の体が名づけられます。
アイヌ語と言わずとも、谷地(やち)は、明治時代の隠語として残っていたようです。

宍道町 国道54号線を中心に グーグルマップの画像

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宍道町の宍像岩(女夫岩)から、下に降りていくと溜池があります。
もともとの参道は、溜池の方からだったのだと云われています。

夫婦岩溜池 

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谷戸貞彦著 『幸の神と竜』(大元出版)には、こう書かれています。

“ここの地形を地図で見ると妙だ。甫登岩の西に大きな溜池がある。池の両側に足の形の岡が、甫
登岩のある腰の岡に続いている。腰からさらに、胴体が東に伸びる。
 そして、女神の腹の部分は、妊婦のおなかのように、丸く高くなっている。何という、ことだろ
う。古代人は女体そっくりな地形を、発見し選んだことになる。
 そして、彼女の股の所にピッタリ、甫登岩が鎮座している。これは偶然にしては、巧く出来すぎ
ている。私はこの甫登岩は、古代人たちが佐為神社の信仰の熱意で以って、他の所から引っ張って
きたものと考える。”

女岩遺跡を中心に谷間 グーグルマップの画像 
上が東方、下が西方面です。

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by yuugurekaka | 2016-06-23 20:54 | 出雲風土記 | Trackback | Comments(0)

この宍道の由来として、出雲風土記にこう記載されています。


宍道郷(ししぢごう)。松江市宍道町宍道・白石・佐々布一帯の地域

郡家の正西三十七里の所にある。所造天下大神命が、狩りで追いかけなさった猪
の像が、南の山に二つある〔一つは長さ二丈七尺、高さ一丈、周り五丈七尺。一
つは長さ二丈五尺、高さ八尺、周り四丈一尺。〕。猪を追う犬の像〔長さ一丈、
高さ四尺、周り一九尺。〕、その形は、石となっているが、猪と犬以外のなに
ものでもない。今でもなお、存在している。だから、宍道という。
       
       (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


その所造天下大神命(あめのしたつくらししおほかみ)(大国主命の尊称)が狩りで追いかけた
猪の二つの石と犬の石が、石宮神社に今もあるようです。

石宮神社 島根県松江市宍道町白石638

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この宍道の由来として、出雲風土記にこう記載されています。鳥居をくぐって右手に見える大きな石がその猪の石の一つのようです。

鳥居をくぐって右手の猪石

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さて、もう1つの猪石はというと、鳥居をくぐって左手の手前の石が猪石のようです。

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拝殿が石垣のぎりぎりのところに建てられています。
どうやら、ご神体の犬石の位置を変えずに拝殿を作るしかなかったという感じがします。


石宮神社 拝殿

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石宮神社の犬石(ご神体)
ここの神社は、本殿はなく、ご神体が拝殿のうしろにあります。

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猪の石が、存在する出雲風土記記載の「宍道社」の論社は、この石宮神社と、女夫岩のある大森神
社です猪石はこの女夫岩でなかったのかとの考えもあります。
詳しくは→ 出雲の祖霊信仰 クナトの神
地元では、「ししいわ」とも呼ばれているようです。



この猪の道ということから、宍道(ししぢ)となり、それが、転じて「しんじ」となったそうな。
「宍」(しし)で検索すると 
 
宍、肉 - 古語で、食肉のこと。またそのために狩猟の対象となる動物のことで、
とりわけ鹿と猪を指す。 ( ウィキペディア 「シシ」

食肉にするための動物を宍(しし)と言い、鹿と猪を区別するときは、それぞれ「かのしし」「ゐ
のしし」といったのです奈良時代は、家畜ではなく鹿と猪を主に食べたんでしょう。

なんの因果か、女夫岩のすぐそばの南側には、島根中央家畜市場 がありました。
まさか、奈良時代からずっと「食肉」で上書きされているわけではないでしょうが


島根中央家畜市場  松江市宍道町白石1720 

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さらに宍道をあれこれ検索していたら、こういう本にヒット。
“アイヌ人は陰部の名称を地名にしたがる。松江の宍道湖はアイヌが命名したシシヂ湖の訛りであ
る。シシヂとは大きい陰門” (北村博則著 『歯・口・舌のはなし』 文芸社) 
えー!?…でも、そういう可能性もあるのではと思い、図書館に行き「アイヌ語古語辞典」やら
ミル語の本やら あれこれ調べてみます。

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by yuugurekaka | 2016-06-12 08:19 | 出雲風土記 | Trackback | Comments(0)

島根県の東部に位置するこの宍道湖。

宍道湖(しんじこ)は、日本の湖沼では六番目の大きさです。

流出河川は、中海につながる東側の大橋川、天神川であり、日本海につながる北東岸の佐陀川(1785年開削)。

汽水湖であり、宍道湖から獲れるシジミは、平成27年度漁獲高島根県全国一位(4,006トン)。


奈良時代は、「入り海」と呼ばれていますが、中海も「入り海」です。

また出雲風土記(733年)では、ばくぜんと「入り海」と呼ぶ以外に、

野代川の河口付近を「野代の海」と呼ばれていました。

万葉集でも、中海の意宇川の河口付近を「飫宇(おう)の海」と呼ばれている

ところを見ると、宍道湖・中海というような固有名詞は当時はなかったように思われます。


宍道湖ふれあいパークから宍道町方面  松江市玉湯町445-2


梅雨前の穏やかな宍道湖でした。

湖面がきらきら光り美しかったのですが、それを写真に収めるのは難しい。


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宍道湖ふれあいパークから松江市街方面 

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その入り海にどうして、宍道湖と名づけられたのでしょう。

出雲市と松江市のちょうど中間どころの宍道町(奈良時代は宍道郷)から

この汽水湖の名前が、宍道湖となったわけですが、その理由がわからない。

例えば「松江湖」や、「秋鹿湖」「玉造湖」でも良かったはずです。

奈良時代の表記から考えると、宍道川の河口付近が宍道の海と呼ばれたんでしょうが。


インターネットの検索では何も出てこなかったので、図書館で調べました。

平凡社発行 『島根県の地名』~日本歴史地名体系33巻~によれば


“近世以降宿場町宍道(現宍道町)の沖を宍道の海と呼んでいたのが定着して宍道湖となったという。

 文献上の初見は承応二年(1653年)成立の「懐橘談」上巻。意宇湖・松江湖とも称され、雅称として

 近世末の文人菅茶山が用いた碧雲湖がある。”


と、あります。

そうですかー。宍道郷が海上交通の要所で、宿場町だったのですね。

江戸時代には、松江藩主が領内視察や出雲大社参拝に向かう途中に休憩する場所である

3つの本陣(小豆沢家・木幡家・葉山家)がありました。

現在は木幡家のものが八雲本陣として(国の重要文化財)残されています。

詳しくは→出雲と松江に挟まれた小さな町の宿駅本陣~八雲本陣~ Travel.jp


現在は、観光遊覧船「白鳥号」とシジミ漁船しか見えませんが

当時は、宍道湖はたくさんの船が行き交う湖で、宍道郷は港町・宿場町として栄えていたのです。



宍道湖大橋から 嫁が島・宍道湖 

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夕日が沈む宍道湖 

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by yuugurekaka | 2016-06-10 13:18 | 出雲風土記 | Trackback | Comments(0)

出雲風土記(733年)に描かれる世界と

記紀に書かれる世界が違うとよく問題にされます。

そして、出雲風土記に描かれる世界の方が地元の人が書いたもので素朴で

記紀の世界が虚構の世界であるとよく聞かれるのですが、自分にはそうは思えません。


私が出雲風土記と記紀を比べて最初に思うことは、

出雲風土記では、なぜ八束水臣津野命が出雲の祖神がごとく何度も登場してくるのだろうか

ということです。


次に思うことは、事代主命が全く登場しないことです。

また播磨風土記では、オオナムチとコンビで何度も登場するスクナヒコが、

飯石郡多禰(たね)郷に一度しか記載されていないことです。

他にもいろいろ感じることはありますが、ここでは八束水臣津野命について書いてみます。


記紀では、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲の祖神となっているのですが、

出雲風土記では素戔嗚尊が登場するものの祖神としての立場は、

八束水臣津野命に奪われています。



意宇杜の比定地 ① 客の森

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まずは総記。出雲国の地名起源について


“出雲と名づけるわけは、八束水臣津野命[やつかみずおみづぬ]がおっしゃった

ことには、「八雲立つ」とおっしゃった。だから、八雲立つ出雲という。” 

      (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


次に出雲国府がある、出雲国造の拠点でもある意宇郡の地名起源について有名な国引神話を述
べた後で、

“「今は国引きを終わった。」とおっしゃられて、意宇杜(おうのもり)に杖
突き立て、「おえ【原文…意恵】」とおっしゃられた。それで、意宇という。
(ここにいう意宇杜は、郡家の東北のほとり、田の中にある小さい丘がそれであ
って、周りが八歩ばかりあり、その上に木が茂っている)”
      
       (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

意宇杜の比定地 ② 面足山  阿太加夜神社の杜です。

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そして、出雲郡杵築郷の地名起源について


“八束水臣津野命[やつかみずおみづぬ]が国引きをなさった後に、所造天下大神[あ

めのしたつくらししおおかみ]の宮をお造り申し上げようとして、諸の神々たちが宮

の場所に集まり築きなさった。だから寸付という。(神亀三年に字を杵築と改めた。)

        

        (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


杵築大社の創建の呼びかける役割となっています。ちなみに楯縫郡で、神魂命が杵築大社の創建を
支援をする話もあります。

意宇杜の比定地 ③ 八幡様  出雲国庁跡地から東方にある。


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さて、この八束水臣津野命ですが、富家伝承 大名持の系図ですが(大名持は、固有名詞ではなく
役職名です。)、6代目で、西部出雲の神門臣家の出身です。

※ aは、向家(富家)、bは、神門臣家

①菅之八耳(a)―②八島士之身(b)―③兄士之身(a)―④布葉之文字巧為

(b)-⑤深渕之水遣花(a)―⑥臣津野(八束水臣津野命)(b)―⑦天之冬衣

(a)―⑧八千矛(大国主命)(b)⑨鳥鳴海(事代主命長男)(a)―⑩国押

富(a)…以下略

                (斎木雲州著『出雲と蘇我王国』大元出版 185頁より)


東出雲地方に、八束水臣津野命を主祭神として祀る神社が私の記憶ではほとんどないように思いま
す。じゃあ西出雲に多いかというと、思いつく神社は、長浜神社、富神社、国村神社(他にもある
かもしれませんが…)で、そう存在感があるようには思えないのです。

大国主命の祖父神なので、出雲の祖神として確かに間違いはないのですが、あえて「八束水臣津野
命」を出雲風土記に持ってくるのがどうもしっくりしないのです。
いわゆる事代命の系譜の東出雲の神が全く登場しないのと(神魂命の系譜がそうなのかもしれませ
んが?うーん、そういうようにはどうも読み取れないのです。)
なんらかの政治的意図があったとしか自分には思えないのです。
日本書紀成立の720年から733年の間の何か政治的な環境の変化が影響しているのでしょうか。

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by yuugurekaka | 2016-05-24 20:38 | 出雲風土記 | Trackback | Comments(0)

奥出雲町の景勝地として名高い「鬼の舌震」(おにのしたぶるい)に行ってきました。
「鬼の舌振」は、島根県奥出雲町にある峡谷。斐伊川支流の大馬木川上流に位置するV字谷で、1927年(昭和2年
)4月8日に国の名勝及び天然記念物に指定された。正式指定名称は鬼舌振(おにのしたぶる)。

地名は『出雲風土記』の一文にある「和仁のしたぶる」が転訛したものと”(ウィキぺディア 「鬼の舌震」より)

言われています。


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写真では今一つですが、巨岩が川底に幾重にも連なり、節理(マグマが急速に冷却してできた割れ目)や長い年月の流水に
よって削り取られた不思議な石の造形に神秘的なものを覚えました。
およそ2.4キロの範囲で、不思議な形の巨石がさまざまな造形を楽しませてくれます。
詳しくは→奥出雲観光文化協会公式サイト 奥出雲ごこち

2013年に完成した高さ45m、長さ160mの“舌震❛恋❜”吊り橋



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自分にとってここが一番難所でありました。実際は車いすでも歩行可能なバリアフリー遊歩道の入り口にあり、
安全ですが、私は高いところが大の苦手なので、恐怖を感じました。


橋に迫りくる巨石群


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さて、「鬼の舌震」の名の起こりですが、出雲風土記(733年)には、こう記してあります。
 

“恋山(したいやま)。郡家の正南二十三里のところにある。古老が伝えて言う
には、和爾(わに)が阿井村にいらっしゃる神、玉日女命(たまひめのみこと)
を恋慕って、川を上ってやってきた。そのとき、玉日女が石で川をふさいでしま
われたので、会うことができないまま慕っていた。だから、恋山(したいやま)
という。”
        解説 出雲風土記 島根県古代文化センター[編 ]今井出版  

ここに登場する鰐ですが、『解説 出雲風土記 島根県古代文化センター[編 ]』には

“意宇郡安来郷条にも登場するシュモクザメで、現在でも中国地方山間部におい
て、ワニザメとして食されている。このような神話が成立する際の歴史的背景
として、シュモクザメが古代においても貴重な食物として出雲山間部で消費さ
れていた可能性を想定できよう。”

と解説されており、現在 ワニは、鮫であるということが半ば通説となっています。

玉日女社

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しかしながら、実は、戦前から和邇は、鰐か鮫かという論争が絶えず、出雲風土記にも鮫と鰐が別々に記載されている
ことなどから、和邇は鰐(ワニ)で鮫ではないという説も、いまだ有力です。
かの、本居宣長は、『古事記伝』で、平安時代中期の辞書『和名類聚抄(和名抄)』(わみょうるいじゅしょう)を引用して
ワニ説をとっていたそうです。詳しくは “ウィキペディア因幡の白兎”の後半に。

姫様にワニが通うという話が、日本書紀にもあります。               
事代主神が八尋鰐と化して、玉櫛媛(たまくしひめ)のもとに通い、結ばれて
生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)が神武天皇の皇后になっ
たという話です。
ウィキペディア 玉櫛媛        
日本書紀では、出雲の神様は、蛇や和邇に化身して上手に妻問うのに、出雲風土記の和邇の神様はなんと哀しい存在なのでしょうか。


子天狗岩

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鬼の落涙岩

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by yuugurekaka | 2015-12-10 08:00 | 出雲風土記 | Trackback | Comments(0)

出雲大社本殿と筑紫社

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出雲大社は背後に 八雲山、西側に鶴山、東に亀山があります。
古くは古事記に、出雲大社と思われる大国主命の宮の以下の記述。

…前略… おのれが葦原の中つ国を統べ治めてオホクニヌシとなり、またウツクシクニタマとなりて、そこにいるわが娘スセリビメを正妻として、宇迦(うか)の山のふもとに、
土深く掘りさげて底の磐根に届くまで宮柱を府と太々と突き立て、高天の原に届くまでに屋の上のヒギを高々と聳やかして住まうのだ、この奴め。

                   ~三浦佑之 訳・注釈 『口語訳 古事記』(文春文庫)~

この宇迦(うか)の山の麓ということなんですが、現在の八雲山を宇迦の山というのか
宇賀郷から連なる現在の北山山系を宇迦の山というのか
はっきりとしたことはわかりませんが、宇賀郷の「ウカ」と同義語ではないのかと思ったりします。

神戸川(かんどがわ)から見える北山山系の弥山

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「宇迦」と言えば、だれしも宇迦之御魂神(→ウィキペディア ウカノミタマ)を思い浮かべると思います。
宇迦之御魂神というと、『日本書紀』では倉稲魂命・・・そうなるとお稲荷さんとだんだん話がひろがっていきます。

ちなみに初代出雲国造 氏祖命(天穂日命より12代)の別名は、鵜濡渟、宇迦都久怒(ウカツクヌ)と言います。
ウカツクヌの「ウカ」は、「受け継ぐ」・・・出雲大社の祭祀を受け継ぐという意味らしいのですが
他にも意味があるのではないか と穿って考えたりもします。

例えば『出雲風土記』の加賀郷の「加加(カカ)」の由来として「輝き」のことばが意味としてでてくるのですが
輝きのもととなる黄金の矢とは、セグロウミヘビの話のようにしか思えません。
「カカ」は、「輝き」という意味だけではなく、「蛇」の同義語のようです。

               出雲地方で龍蛇様として信仰される セグロウミヘビ 
                           出典 ウィキペディア セグロウミヘビ   
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それと同じように「ウカ」というのは、「海蛇」を表すものらしいです。
そのことが顕著に書かれている書物がないのか調べました。

民俗学者 谷川健一氏の『蛇: 不死と再生の民俗』の本の中にありました!

ところで、『出雲風土記』によると、出雲郡に宇賀の郷がある。ここは「御崎」(日御碕)の海子(あま)の活躍したところで、海子と海蛇(ウカ)との関係が浮かび上がる。出雲の古社は、杵築大社、佐太神社、日御碕神社、美保神社のすべてが、海蛇を神とあがめ、「龍蛇さま」と呼んで祀っており、海蛇と神とのつながりがきわめてふかい。
宇賀神といえば、福を授ける仏教の神の弁天のことで、そのかぶっている宝冠のなかに白い蛇がいるところから、白蛇を神として祀ったものを指すが、音が似ているところから、食物の神である「ウカの御魂」の異称であると辞書には説明されている。 私は、仏教の宇賀神とウカの御魂の習合したものではなく、海蛇のウカ(またはウガ)と食物の神のウカ(またはウガ)の合体したものが、宇賀神の正体であると推考”  

           ~ 谷川健一著 『蛇: 不死と再生の民俗』(冨山房インターナショナル)~

宇賀神といえば、弁天様の頭の上の神様です。老翁や女性が頭となった蛇神です。

                        宇賀神 出典 ウィキペディア 宇賀神
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宇賀神というのは、出雲郡宇賀郷を由来するのではないかと思いました。
そして、その宇賀神を頭に載せている弁才天を考えると、
出雲大社から西に向かう「稲佐の浜」の弁天島が思い浮かびます。

稲佐の浜の弁天島

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この弁天島は、古くは「沖御前」といい、 今のように陸続きではなく沖にあったと言われています。
昔は「弁才天」が 祀られていましたが、明治以降は豊玉毘古命(とよたまひこのみこと) が祀られています。
弁才天と言えば、海上神である市杵嶋姫命が習合したものとされています。(→ウィキペディア 弁才天
これまた、宗像三女神です。

稲佐の浜で行われる神迎えの神事ですが
龍蛇神(セグロウミヘビ)が神の先導役を荷うようです。
もしかしたら、宇迦之御魂=海蛇=カミムスビの神の使いだったのではないか?

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by yuugurekaka | 2015-10-06 09:00 | 出雲風土記 | Trackback(1) | Comments(0)

宇賀郷(うかのさと)の綾門日女命(あやとひめのみこと)は、
神魂命(かみむすびのみこと)の御子です。

出雲風土記では、「神魂命」ですが
古事記では、神産巣日神、日本書紀では神皇産霊尊と表記されます。

古事記では、天地開闢(てんちかいびゃく)のとき,高天原に出現した造化3神の1神で
性別はなく、独身のまま子どもを生まないとなっていますが、
出雲風土記(733年)では、たくさんの御子が登場してきます。

生馬神社(東) 島根県松江市東生馬町235

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生馬神社(東)は、神魂神の御子「八尋鉾長依日子命」(やひろほこながよりひこ)を祀っています。
西方に生馬神社がもう一つあり、なかなかわかりにくい所に鎮座しています。 →生馬の里 ガイドブック

法吉神社 島根県松江市法吉町583

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宇武賀比売命(うむかひめ)を祀っています。古事記では、蛤貝比売となっており、
大国主命を助けた、いわゆるハマグリの女神です。

加賀(かか)神社 松江市島根町加賀1490

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枳佐加比売命(きさかひめ)を祀っています。佐太大神を生んだ女神でもあり
大国主命を助けた 赤貝の神です。

朝山神社 出雲市朝山町1404

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眞玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめ)を祀っています。
大国主命が妻問いした姫神です。

この他の神魂命の御子としては、
天御鳥命(あめのみとり) が、 楯縫郡(たてぬいのさと)で 登場します。
出雲国造の祖とも言われる 天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)と同神説もあります。→ウィキペディア 建比良鳥命

都牟自神社 出雲市斐川町福富133

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祭神は、薦枕志都沼値命ですが、風土記 出雲郡漆沼郷に登場する
神魂命の御子 天津枳値可美高日子命(あまつきちかみたかひこ)と同じ神名とされています。

こうして調べると 出雲の国や古事記の記載(スサノオノミコトや大国主命を助ける)では
ものすごい存在感です。
でも、その割には、神魂命を主祭神として祀っている神社が
出雲の国にも、全国的にも少ないです。それは、なんなのでしょうか。

神魂命を祀っている 出雲大社境外摂社 神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ)

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それと、イザナギノミコト・イザナミノミコトの国生みの神より
はるかに古い神なのに、その娘が、大国主命の奥さんに 二神なりますが
どうも時代のつじつまがあいません。
実際は 神魂命の御子というより、一つの族というか、系統を表しているのでしょう。

修造中の出雲大社 (2015年8月下旬)

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赤い矢印は、宗像三女神の多紀理比売命(たぎりひめのみこと) を祀っている
筑紫社とも呼ばれてる神魂御子神社ですが、
延喜式神名帳(927年)でも、「神魂御子神社」となっているようです。

確か宗像三女神というのは、スサノオノミコトと天照大神の誓約の時
生まれた神です。さらに古代にさかのぼれば神魂命の御子なのかもしれませんが
そうなると、出雲の神々は 全部 神魂命の御子というように表現が可能となります。
決して そういうことではないでしょう。

もしや、神魂命は、海人系の神で、西方より 寄りくる
来訪神ではなかったのか?と 直感的に思いました。

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by yuugurekaka | 2015-09-22 13:10 | 出雲風土記 | Trackback | Comments(2)

宇賀郷(うかのさと)には
出雲風土記(733年)によれば『黄泉の坂・黄泉の穴』があります。

北海の浜に磯がある。名は脳磯(なづきのいそ)。
高さ一丈ばかり。上に生えた松が生い茂り、磯まで届いている。
邑人が朝夕に往来しているかのように、
また木の枝は人が引き寄せたかのようである。
磯から西の方に窟戸(いわやど)がある。
高さ・広さはそれぞれ六尺ばかりである。
窟の中に穴がある。人は入ることができない。
奥行きの深さは不明である。
夢でこの磯の窟のあたりに行くと、必ず死ぬ。
だから、土地の人は古より今にいたるまで、黄泉の坂・黄泉の穴と名づけている。
                  『解説 出雲風土記 』島根県古代文化センター編より

ここの「黄泉の坂・黄泉の穴」と比定されているのが
猪目町の猪目洞窟です。
しかし、最近は、郷土史家の研究で、この猪の目洞窟ではなく、
鷺浦(さぎうら)と鵜峠(うど)の境界にある洞窟ではないかと言われています。→黄泉の穴考 たいしゃ情報壱番地

猪目湾

猪目洞窟の反対側にも洞窟があるようですね。

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猪目洞窟の近くには、海水浴場があります。
美しい風景です。
小さなお子さん連れの家族が、海水浴を楽しんでいました。

昔初めて、ここへ来るのが怖かったです。
“夢でこの磯の窟のあたりに行くと、必ず死ぬ。”
などと書かれているからです。
でも、そこで住んでおられる人たちがおられるので
そこへ行ったからといって何か起きるわけがありません。

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いよいよ猪目洞窟にたどり着きました。
黄泉の国の入り口になぜ漁船が?と思われる方もおられるかもしれませんが
ここの洞窟は、1948年(昭和23年)10月、漁船の船置き場として拡張工事をした時に、
堆積土を取り除いたときに発見された洞窟です。

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この洞窟は「海蝕洞」で、洞口は東に向き、幅36メートル、
高さ中央部にて約12メートルで、奥に進むにしたがって
狭くなっているそうです。

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縄文時代から古墳時代にかけての埋葬や生活を物語る遺物が
数多く発見されており、土器類、貝釧(かいくしろ)、木製品などのほか、
人骨十数体分も発掘されたそうです。  出典→猪目洞窟遺物包含層 コトバンク 

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洞窟とは、暗くどこにつながっているかわからない、
つまり、黄泉の世界への入り口という発想をしまいがちですが、
大国主命と少彦名命が、仮住まいしていたという伝承の「静之窟(しずのいわや)」も→Wikipedia 静之窟
海蝕洞で、長さが約45mもあります。

長い海蝕洞が一概に 黄泉の世界につながる穴というわけではないのでしょう。
横穴ではなくて、下に降りていく穴の方が、下に落ちて行く恐怖感を抱かせますし、黄泉の穴だったのではないでしょうか。


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by yuugurekaka | 2015-09-04 22:08 | 出雲風土記 | Trackback | Comments(0)

出雲市奥宇賀町に 綾門日女が、隠れた「黄泉の穴」があると知り
行ってみました。この黄泉の穴のことが雲陽誌(1717年)に載っています。

雲陽誌によれば(以下抜粋)
 
 ・・・古老伝に大己貴命と綾門姫 夫婦睦からざるにより
 綾門姫大社を忍出たまひたり。
 大己貴命 籠守(かごもり)明神を伴たまひて
 綾門姫を追たつねたまひ、奥宇賀布施の山に到ぬ、

 山の半腹に穴あるを見て此穴のほとり人の通たるとおほしくて
 草靡(なびき)たり、綾門姫もし此穴に隠居たまふにや、
 籠守明神は、爰(ここ)に守居たまへとて此谷を布施者にたまはりたるによりて、
 今所の名として布施とはいふなり、

 大己貴命口宇賀を窺たまふに綾門姫出たまふに逢たまへり・・・・


出雲風土記当時(733年)は、大国主命が綾門姫に妻問うて 綾門姫に「伺う」=訪問する話であったものが
江戸時代には、結婚して出雲大社で一緒に住んでいたものが、
夫婦仲が悪くなって、綾門姫が里に逃げ帰り、大国主命が隠れた様子を「窺う」=様子を見る 話に
転化しています。

さて、私は、まず十六島湾まで行き、そこから、黄泉の穴がある奥宇賀町布勢に車で登っていきました。

十六島湾(うっぷるいわん) 
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向こうに見える側が 風土記時代(733年) 楯縫郡で、手前が出雲郡宇賀郷(いずもぐんうがごう)になります。
ああ 道路標示がありました! 向こう側が、北方面(海の方向)です。

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この道を歩いて登っていきます。

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鹿のバリケードを開けて入り、 いよいよ黄泉の穴のある谷に到着。

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ここの階段を下って行きます。

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谷に降りたら今度は、登って行きます。あと 130mと書かれていました。

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結構 急です。落ちたら、一巻の終わりです。

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ああ やっと 綾門姫を祀っている祠が見えましたー。

夜見神社と黄泉の穴

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黄泉の穴 「めいどさん」
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これが黄泉の穴ですか。地元の人には「冥土(めいど)さん」と呼ばれているそうです。
人が入れそうな大きな穴ではないです。
本居宣長「玉勝間」(1793 年~1801) の「出雲国なる黄泉の穴」の項によれば
言伝えとして、「穴から毒気がのぼることがあり、ふれればたちまち息絶える」
「昔は石が次々と岩に当たって落下する音が響いていたが、ある者が大きな石を落してから
音がしなくなった」のだといいます。

「玉勝間」の話ではないのですが
昔はこの穴が出雲大社方面までとつながっていたという伝承もあるとのことです。

黄泉の穴と言えば、たいへん怖いイメージがありますが
実際行ってみると そんな怖くはありませんでした。
急な段々から、滑って落ちるのではないかと、いう恐怖はありますが…。

そもそも、『出雲国風土記』出雲郡条の宇賀郷の項には黄泉の坂・黄泉の穴と呼ばれる
洞窟の記載があり、そこから派生した話ではなかったのでしょうか。

それとも、島根半島の北西部は、見知らぬ渡来人が来訪する場所で
うかつに近づいてはならぬ、禁足のような場所だったということなのかもしれません。
(これは私の勝手な想像です。)


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by yuugurekaka | 2015-08-29 23:59 | 出雲風土記 | Trackback | Comments(0)

1万年前から6千年前頃にかけて温暖化し、縄文海進が起き
海水面が上昇し、陸地が狭くなりました。
それで、島根半島は、本土と陸続きではありませんでした。
さらに、出雲大社がある島根半島の最も西の部分も
宇加川で切断された、さらに小さな一つの島のようにも 思えます。

つまりは、出雲風土記(733年)に記載されている国引き神話の一番左の部分です。
(下記の地図は、733年当時であり、既に島ではなくて 本土とつながっています。)

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出典 島根県:出雲国の村々

その島のような半島の東側を 出雲郡宇賀郷(いずもぐん うかごう)と言いますが
現在の出雲市国富町の北側、口宇賀町(くちうがちょう)、奥宇賀町(おくうがちょう)、
河下町、猪目町、別所町、唐川町辺りだったそうです。


出雲風土記によりますと、

 所造天下大神命(大国主命)が神魂命の御子である
 綾門日女命(あやとひめのみこと)に求婚された。
 その時 綾門日女命は承諾せずに、逃げ隠れなさった。
 大国主命が、伺い求められたがこの郷である。
 だから、宇加(うか)という。 

宇賀神社社号標  出雲風土記(733年)では、 「宇加社」 と書かれている。

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出雲大社の目と鼻の近くに住むお姫様が、大国主命から
逃げたのか・・・と思ってしまいますが、
求婚された女性が身を隠し、男性の神が探すのは当時の習わしだったようで
播磨風土記の大帯日子命(景行天皇)と印南別嬢(播磨稲日大郎姫)の話にも
姫が逃げ隠れる様子が でてきます。→Wikipedia 播磨国風土記 


現在 宇賀郷の東南方を口宇賀町、西北方を奥宇賀町、となっています。
口宇賀には、大国主命と綾門日女命を祀った宇賀神社があります。
奥宇賀町には、綾門日女命が逃げ隠れた黄泉の穴があります。

宇賀神社 境内

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宇賀神社 本殿

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鳥居をくぐると、まず目に付くのが、人型に彫った道祖神です。
出雲地方では、あまり目にすることがありません。

鳥居入って右側の道祖神

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鳥居入って左側の道祖神

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男女の神を彫った双体道祖神や男神が鳥居近くに集められています。
道祖神は、猿田彦命とアメノウズメノミコトだと、一般的には云われていますが
宇賀郷では、大国主命と綾門日女命にしか思えません。

さて、「雲陽誌」(1717年 享保二年)には、
大国主命と綾門日女命の他の話も載っていました。

 楯縫郡猪目浦と神門郡宇峠浦との界巌(さかひいわお)の上に
 馬と牛との蹄(ひづめ)の跡あり、俚人(さとびと)語けるは綾門姫と大己貴命
 馬と牛とに乗て此所にて行合たまふ時の蹄跡なりとて今にあり

結ばれて 逢い引きをしたという話でしょうか。
そもそも縁結びの神様が 振られるということはないでしょう。

しかし、「伺う」から 「宇加」という地名説話ですが
出雲風土記時代は、そうだったのかもしれませんが、
私は別のことが、いろいろ浮かんできました。


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by yuugurekaka | 2015-08-27 01:00 | 出雲風土記 | Trackback | Comments(0)