1)なぜにあの場所になったのか

なぜ、出雲国の西方、奈良時代はおそらく辺ぴな所であっただろうという島根半島の南側に建てたのだろうか?
その前に、どうして、出雲国に建てたのだろうか?
がっくりくるが、戦後の歴史家の定説は、〝これに対してまた三谷栄一博士の説である。出雲・大和の関係を位置からみると、出雲は大和の西北隅にあたり、戌亥の方角である。これは戌亥隅に対する祖霊信仰が日本人一般の文化の軸となっていることにより、出雲神話は出雲で誕生したものでもなく、大和朝廷の形成過程のなかから、その内部での祖霊信仰として生み出されたものであるとする。(水野 祐「まぼろしの「神国」出雲王朝は存在したか 『伝説の神国出雲王朝の謎』KKベストセラーズ 発行 より)
と、いうようにたまたま大和の西北隅の方向にあったから、出雲国が選ばれたとする。

出雲大社のある北山と神戸川(かんどがわ)

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また、鳥越憲三郎氏にいたっては、成務紀に「山陽(やまのみなみ)を影面(かげとも)といい、山陰(やまのきた)を背面(そとも)という」とみえているように、中国筋の山陽道は裏方としては不都合であり、これに反し山陰道はもっとも適当なところであった。その山陰道の中で、石見・出雲・伯耆・因幡のいずれを裏方として用いてもさしつかえなかったであろうが、その中で出雲国が選ばれたのに過ぎないのである。〟(鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社文庫)と、言う。

概して、本屋に積み置きされる、「出雲王朝」と名の付く本に、出雲王朝はあったということを肯定的に語った本は、ほとんど無い。ほとんどは、無かったという証拠をこれでもかと書かれている本である。出雲族の本貫地(発祥の地)であったというようには戦後古代史家は、思わないのだ。だから、いつまでも「神話の国 出雲」であって、「史実」だとは思われていない。

荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の発見前の論文だから、そのように思われているのか、仕方のない面もあるが、ヤマト王権の形成以前に、弥生時代に王朝があったとは、いまだに信じられていない。せいぜい筑紫王朝、吉備王朝…という倭国大乱時に出雲「国」にもあったかも…というぐらいな気がする。

2) 辺境の地

なぜに出雲国造家が自分の本拠のところである意宇郡に、出雲大社を造らなかったのかというのが、謎である。この出雲臣の西進を持って、井上光貞説のような、ヤマト王権の力を頼んで、西部を征服したという根拠のひとつにもなっている。しかし、自分にはどうも、やはり律令体制の推進のために、伊勢神宮の対極に位置づけられて地祇の大宮として創立されたのではないかと思う。

対極の伊勢神宮であるが、この上山春平氏の文章である。〝こうした作業は、神統譜の書きかえと言うよりは、むしろ、それまで、地方ごとに、もしくは近縁の氏族グループごとにつくられていた神統譜を、国家的な規模で統一し、体系づける新たな神統譜づくりと言った方が適切かと思うのだが、こうした一種の観念世界の巨大な変革の軸として、新たな価値の源泉として、おそらく七世紀後半のある時期に、口うるさい大和の旧族や官人たちの見聞の世界から隔絶された辺境の聖地に、宮柱太敷き立てて鎮座ましましたというのが、「皇大神宮」の創始の真相に近いのではあるまいか。〟(上山春平著『続・神々の体系』中公新書)

伊勢神宮との対局の杵築大社の地も、出雲国でも未開拓の地であったようである。出雲臣の西進に伴い、斐川平野の新田開拓も進められ、奈良時代には出雲郷と呼ばれるに至ったのではないかと思うが、なぜに出雲国西部の場所でも、出雲郷のカンナビ山ー仏経山を背にして、大宮を建てなかったのだろうか。その出雲郡出雲郷からもっとも外れたカンナビ山とは正反対の北山の麓ー杵築郷に造られたのだ。

神西湖(じんざいこ)  
『出雲国風土記』時代は、「神門水海」と呼ばれたが、現在は周囲約6kmの小さくなった湖である。

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現在は、島根県の中でも非常に開けた大きな平野である。しかしながら、奈良時代にあっては杵築大社の前には、神門水海(かんどのみずうみ)が広がる湿地帯であった。
〝寛永十六年(一六三九)の大洪水によって斐伊川が完全に東流すると、景観的にもこの郷は神門の平坦地と一続きになり、やがて開拓に次ぐ開拓でその間は美田と化す。ここに至ると、この地は美田地帯の奥所に位置する形となり、いかにも神都にふさわしい場所となるが、遡って古代には、むしろ南の地域から沼沢や砂洲で隔てられた僻地であったと思われるのである。〟(石塚尊俊 「出雲大社」~谷川健一編『日本の神々 7』白水社 より)

3) 出雲御埼山の麓

出雲大社の後ろの山ー八雲山や、出雲井神社・阿須伎神社の背後の山ー弥山が連なる山々を出雲風土記時代(733年)には、「 出雲御埼山」と言った。東は平田町の旅伏山までをいうようだ。

杵築大社が、大古からあったとすれば、「出雲杵築山」とかの名前であったと思う。日御碕まで続く山であったからか、あるいはみさき神社(日御碕神社)の鎮座する山であったからか、また、たとえば猿田彦命を御埼神として祭った山(鼻高山も含む)であったからか、定かではない。

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この出雲御碕山の南麓(大社、西・東林木、美談)には、出雲風土記時代、同じ名前の神社が多数見られることで知られる。
漢字の当て字が一つ一つ違うので、カタカナで表わす。

ヤマへ社 3社 (山辺)
キヅキ社 8社 (杵築・企豆伎・支豆支)※杵築大社も含める
アズキ社 40社(阿受伎・阿受枳阿受支)
クサカ社 3社 (久佐加・来坂)
イヌ社  12社(伊努・伊農)
ミタミ社 13社(彌太彌・彌陀彌)
アガタ社 3社 (阿我多・県)

このアズキであるが、現在では、遙堪の阿須伎神社を残すのみである。祭神「阿遲須伎高日子根命」であり、神名とも思えるが、キヅキ・アズキと同じ語呂から考えると、そういう地名でもあったように思う。アズキについては出雲風土記には地名も無いが、キヅキについては、杵築郷の郷名となっており、イヌ(伊努)もミタミ(美談)も郷名になっているので、おそらくは、地名を冠した社であったろうと思う。

この同名の神社がここ出雲御埼山の南麓のみに多数見られることをどうみるかであるが、鳥越憲三郎氏の見立てであるが、概ねそうなのだろうと思う。
“さきに大社・原山・菱根にかけて縄文・弥生の遺跡のあることを述べたが、あるいはそのころ前方は海であったかもしれない。古い遺跡のある地ではあるが、歴史時代に入ってからの開発は、他より遅れたようである。”“同じ地域にたくさんの神社を建てているということは、各地から集まった人がいくつもの小さい集団をつくって、開拓に従事していたことを示すものである。しかも普通であれば、時代の経過とともに村落の構成も整い、それにともなって散在していた神社も合祀統合されていくものである。たとえば最も数の多い阿受伎社にしても、三十八社もあったものが、いまでは大社町遙堪に一社となって残っているだけである。ほとんどはそこの阿式神社と杵築大社に合祀された。こうした事情から考えてみても、これらの地域の開発が新しいものだといえる。”(鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社学術文庫)

平野部は、他の地域より遅れた、新しい地域だと思う。
しかし、祭神から考えると、ここの神社が全て新しいものだとは、到底思えない。

4) いにしえの多久国

■ 伊努(いぬ)郷 ー 赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命(あかふすまいのおおすみひこさわけ)

“伊努郷。郡家の正北八里七十二歩の所にある。国引きをなさった伊美豆努命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命の社が、郷の中に鎮座していらっしゃる。だから、伊農という。〔神亀三年に字を伊努と改めた。〕”(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命の神名を取って、郷名になっている。この神は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)の御子だ。富家伝承によると、八束水臣津野命は、出雲西部の神門臣の系統である。そして妻が「天之甕津日女命(あまのみかつひめのみこと)」だ。
このイヌ郷は、出雲郡だけではなく、もっと東部の現在の出雲市美野町、野郷町あたりに(平成の合併前で言えば、平田と松江の境界付近)、秋鹿郡にイヌ(伊農)郷があった。

伊努神社  島根県出雲市西林木町376

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伊農郷。郡家の正西一十四里二百歩の所にある。出雲郡伊農郷に鎮座していらっしゃる赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の后、天瓺津日女命が国をめぐりなさった時に、ここにいらしておっしゃられたことには、「伊農よ【原文…伊農波夜。」とおっしゃられた。だから、足怒(あしはや)る伊努という。〔神亀三年に字を伊農と改めた。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

この妻神ー天之甕津日女命を祭る社が、松江の佐太神社のさらに東の松江市鹿島町にもある。多久社である。遠く『尾張国風土記(逸文)』にもこの神が登場する。この神を祭ることで、垂仁天皇の御子ホムツワケ皇子がしゃべるという。まるで、ホムツワケ伝承の出雲大神とは、天之甕津日女命であったかのような書き方である。→ 日置氏の足跡 (7)  ホムツワケ伝承

「我は、多具(たく)国の神で、名前を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。我には祭祀してくれる者が未だにいない。もし我のために祭祀者を当てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう」。(『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注 角川ソフィア文庫 )※ 太字は、私。

この多具(たく)国は、どこの場所にあるのか?改めて、『出雲風土記』の中で、天之甕津日女命、天御梶日女命および赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命の伝承地に、「たく」「いぬ」(いの)の名前の付いた地名が随所に出てくる。出雲郡以外では、楯縫郡の「多宮村(たくむら)」「多久川(たくがわ)」「多久社」、秋鹿郡の「伊農川(いのかわ)」「多久川」(楯縫郡の川とは別の川)、島根郡の「多久川」(秋鹿郡と同じ川)「多久社」。
現在の地名で言うと、東は松江市鹿島町の辺りまでである。もしや、島根半島の西部から松江市鹿島町までを「多久の国」と言ったのだろうか?


少しずつ書き足します。

■ 美談郷 ー 和加布都努志命


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# by yuugurekaka | 2018-10-31 11:24 | 出雲大社 | Trackback | Comments(1)

1)なぜに高く造営しないといけなかったのか
 
現在では、出雲大社が平安時代には、高層神殿であったことを否定する人はいないのではないかと思う。平成12年に、高層神殿を裏づける3本束ねた本殿の巨大柱が発見されたのである。この柱は、宝治2年(1248年)の造営のものと推定されている。おそらく創建時も天高く、そびえ立つ造りであったと想像される。

出雲大社の伝承では、「上古三十二丈(96m)、中古十六丈(48m)、その後は八丈(24m)」だそうであるが、この中古十六丈(48m)は建設学的に可能であると言われているし(詳しくは →季刊大林 古代・出雲大社本殿の復元 、いかに出雲大社が高かったかということが文献でも知ることが出来る。平安時代中期、源為憲の『口遊』の中に「雲太、和二、京三」という言葉が載っている。出雲が太郎、大和が二郎、京都が三郎という意味である。出雲は、杵築大社であり、大和は東大寺の大仏殿であり、京都は大極殿のことだ。平安中期の大仏殿は十五丈(45m)であったので、当時の木造建築物の中で、出雲大社は日本一高いものだったということが出来る。

この上古三十二丈(96m)は、あまりに高く信じがたいが、ともかく天にも届くように高く作らなければならないという使命があったものと思われる。このように高い建築物であったので、必然的に倒壊のリスクがあり、平安中期から鎌倉時代初めまでの200年間に7度も倒壊している。
財政的な負担や労力は、いかばかりだったかと想像する。名誉な話だけではなかったはずである。

平安時代の出雲大社復元模型
【福山敏男監修 大林組プロジェクトチームによる1989年公表の設計案に基づく復元模型】
                   島根県立古代出雲歴史博物館

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なぜ高層神殿でないといけなかったのかと考えてみるに、記紀に書かれたから…と、今は単純に思う。鶏が先か、卵が先かというような話で、鶏が先で、がっかりな気持ちもする。こう書くと、出雲王朝をが無かったように直情的に思う人が多いが、ただ出雲大社の創建が、新しかっただけで、弥生時代の出雲王朝の存在を否定しているわけではない。

〝わが子ども、二柱の神の申し上げたとおりに、われも背くまい。この葦原の中つ国は、お言葉のとおりにことごとく天つ神に奉ることにいたそう。ただ、わが住処だけは、天つ神の御子が、代々に日継ぎし、お住まいになる、ひときわ高くそびえて日に輝く天の大殿のごとくに、土の底なる磐根に届くまで宮柱をしっかりと堀り据え、高天の原に届くほどに高々と氷木を立てて治めたまえば、われは、百に満たない八十の隅の、その一つの隅に籠り鎮まっておりましょうぞ。
 また、わが子ども、百八十にも神たちは、ヤヘコトシロヌシが神がみの先立ちとなってお仕えすれば、背く神などだれも出ますまい。〟(三浦佑之著 『口語訳 古事記 神代篇』文春文庫より)

おそらくこの頃、大宝律令体制における神祇体系の整備で、杵築大社だけではなく、もしや有力な氏族たちが「立派な社殿」として再編造営したのではないかと思う。神社や祭祀場はもともとあったので、なかなか、そういう資料というものは出て来ないと思うのであるが、祭政分離の時代に突入するわけなので、そのままの形だったとは思えない。

改めて考えると、杵築大社と出雲国造家の関係は特殊である。出雲国造家は、天穂日命を祖としている高天原の人間であり、杵築大社の祭神大国主命の子孫ではない。子孫ではないものが祭祀するのは、伊勢神宮(内宮)も同じである。伊勢神宮(内宮)の祭主ー中臣氏は、天照大神の子孫ではない、むしろ出雲国造家の方が、天照大神の子孫である。こう書くと大変違和感を感じる人が多いが、記紀では、天穂日命は天照大神の御子、第二子として位置づけられているわけである。

ともかく、新たな神祇体系の中で、皇祖神(天神)ー伊勢神宮の対極として、大国主命を鎮める(地祇)ー杵築大社が位置づけられ造営されたのではないかと思う。

2)天神地祇を祀る

神々をどうして天神地祇に分けたのであろうかと問えば、時の政府が、中国の律令制に倣ったため、中国の『周礼』によるものだろうという答えが浮かぶ。日本の伝統的な神観念や祭祀制度は、中国とは違うけれど─日本独特の天神地祇であろうが─その区別を必要としたのは、ひとえに中央集権制の強化ー天皇の神格化(陰陽の統合者)にあったものと思う。

〝すなわち、旧国土の経営者であった大国主神を、多くの事績によって偉大な神にすればするほど、その偉大な神でさえ国譲りをしなければならなかった皇孫の権威が見事に示されるからであった。〟(鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社文庫)
おそらく、いかに偉大であったかを示すために、天高くそびえ立つものとして造らねばならなかったのではないか。

そういう意味での地祇であるが、天神と地祇は切り放されず双方を祀るものとして、『養老令』の「神祇令」で述べられている。その分類はいつ始まったのであろうか。持統天皇の時代だったのかもしれない。

〝『日本書紀』持統紀に「百官神祇官に改修し天神地祇の事を宣し奉る。」―(持統三年八月壬午(2)条)―とあるのは甚だ興味をひくが、「宣」をどの様に理解するか、聊か難解であるが、諸橋漢和辞典によれば「諡(おくりな)す」と読む場合もあり、それによれば個々の神々の神号或は天神か地祇かの格付差別を行ったと云う意味に解することが出来る。〟(美多 実著『古代文化叢書7 風土記・斐伊川・大社』 島根県古代文化センター発行)

さて、その分類された地祇であるが、『姓氏録』を見る限り、極めて少ない。大神氏・賀茂氏や宗像氏の大国主神系、安曇氏のような綿積神系、倭国造ー椎根津彦系、そして吉野の国栖系、隼人族などである。大半の氏族は、天神の神々の血筋をひくものとして、天津神を選んだのではなかろうか。
天神の引き立て役で、政治から引退し幽玄の世界にいくという地祇を喜んで受けたとはどうも思えない。
地祇になったからといって、実際上の不利益はあったのかどうかわからないが、地祇を引き受ける以上は、先祖の神々を記紀の中で、誇りあるものとして高めてもらうしかない。

そういう観点で『日本書紀』を見ると、三輪高市麻呂が行った持統天皇の伊勢行幸への諫言の話も、三輪氏(大神氏)VS持統天皇ということを言いたいわけではなく(実際大神氏は大国主命のように政治引退などしていない)、大神氏の偉大さを褒めたたえるものであったように思える。

また、下記の『姓氏録』の記載をみれば、天神地祇に一貫性がないことがわかる。ことに事代主命である。下記の例ばかりだけではなく、左京天神の畝傍連「天辞代命子国辞代命之後也」や右京天神の「高媚牟須比命三世孫天辞代主命之後也」とある。(タカムスビの娘三穂津姫と婚姻というのが影響したのかもしれないし、あるいは記紀に初期天皇家の母族[皇后]と書かれたのが影響したのかもしれない。)

天神  飛鳥直     天事代主命之後也  
地祇  大神朝臣   素佐能雄命六世孫大国主之後也
地祇  賀茂朝臣   大国主神之後也

ところで、『出雲国造神賀詞奏上』であるが、あれも、中臣氏の『天神の寿詞』に対応した『地祇の寿詞』が主目的だったのではないか。出雲国造の任命が主目的のように云われているが、国造から国司に既に移っていた時代である。任命というのは単なる儀礼的なものではなかろうか。

その『出雲国造神賀詞』を初めて奏上したとされているのが、出雲臣果安である。文献上では、『続日本紀』霊亀元年(716年)2月10日条に、「出雲国々造外七位上出雲臣果安、斎終り神賀詞を奏す。神祇大副中臣人足、その詞をもって奏聞す。是日、百官斎す。果安より祝部に至る一百十余人に、位を進め禄を賜うこと各々差有り」とある。出雲臣果安が、国造の任にあたったのが、和銅元年(708年)なので、「神賀詞」は、その8年後である。
その後の国造は、文献上は、就任後、三、四年後に行なっており、任命というのが違和感を覚える。

さて、おそらく初めて奏上をおこなったであろうこの出雲臣果安であるが、和銅元年(708年)から養老五年(721年)まで国造の任にあったが、『出雲国造世系譜』には、「伝にいう。始祖天穂日命、大庭に開斎し、ここに至って始めて杵築之地に移る云々」と記されている。本拠地であった意宇郡を離れ、杵築大社の宮司として移ったということだ。

神賀詞を奏上したのが、『古事記』(712年)の4年後である。いつの頃に「国譲り神話」が朝廷でまとめられたのか不明だが、杵築大社(出雲大社)の創建無くしては、奏上できないし、意宇から杵築の地への移転も不可能である。出雲臣果安が国造であった時代に、杵築大社が建てられたというのが通説である。杵築大社の創建が、はるかに古いことだと思いたいが、事実を重ねていけば、残念ながら、概ね奈良時代のできごとであったと思われる。

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# by yuugurekaka | 2018-10-27 18:38 | 出雲大社 | Trackback | Comments(2)

1)尾張氏・物部氏 同祖
 
『海部氏勘注系図』(→ウィキペディア 海部氏系図 )や『先代旧事本紀』に見られる天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命、またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命)、つまり尾張氏の祖である天火明命と物部氏の祖の饒速日尊が同じ神だということであるが、一見異伝のように感じるけれど、『古事記』『日本書紀』や『姓録』の底流に流れているのではないかと思う。

斎木雲州著『お伽話とモデル―変貌する史話 (おおもと新書)』によれば、日向神話の海幸(火照命)・山幸(彦火火出見尊)、仲の悪い兄弟―尾張氏と物部氏を表現したものであるという。神武天皇の、諱は、彦火火出見である。本来尾張氏物部氏同祖で、尾張氏は、天火明命の天神であるが、物部氏(彦火火出見)との対比上、倭国造が地祇に位置づけられてしまったのではないかと自分は思う。

またの名天照国照彦天火明尊は、天神でありながらも地祇の祖という素戔嗚を表わしているものないかと思う。このあおりを受け、出雲族との密接度から紀氏の大元の系譜──、つまり天火明命→天香山命(天香語山命ともいう)という流れが、素戔嗚命→五十猛命という地祇系という別の表現を生じさせたのではないか。(天香山命の別名が、武位起命ータケイタテとなっており、五十猛、イタテ神とも考えられている。)

天香久山    藤原京の東に位置する天香久山(天香具山)。

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実際の所、尾張氏・物部氏同祖というのが本当の話なのか疑いを感じざるを得ないが、氏族間の取り決めというかそういうものがあったと思う。
 さて、出雲国造家の祭る神は天神者。伊勢。山城ノ鴨。住吉。出雲国造斎神等類是也。〟(『令義解』)であり、元々素戔嗚尊であった。出雲大社の祭神も、『先代旧事本紀』に「御鼻をお洗いに成った神のお名前は、建速素戔烏(たけはやすさのお)尊(みこと)と申し上げる。出雲の国の熊野・杵築の神社(島根県松江市八雲町熊野の熊野大社・出雲市大社町杵築の出雲大社、旧簸川郡)におられる。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社)ということを考えると、当時の物部氏や出雲国造家にとっては、元々の構想として、大国主命ではなく素戔嗚尊であったのかもしれない。

ヤマタノオロチを切ったとされる十握剣が、物部氏の石上神宮に祭られており、ヤマタノオロチの体から出てきたとされる天叢雲剣(草薙剣とも言う)が尾張氏の熱田神宮に祭られているということから考えても、素戔嗚尊が、尾張氏と物部氏をつなぐ神として、創出されたのではないかと思う。

2)出雲国造神賀詞

まずは、ウィキペディアから引用する。
〝出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。その性格としては服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。

『延喜式』にその文章が記述され、『貞観儀式』に儀式の内容が記されているが、前者の文章は8世紀中期以後の内容であると推定されている。内容は天穂日命以来の祖先神の活躍と歴代国造の天皇への忠誠の歴史とともに、天皇への献上物の差出と長寿を祈願する言葉が述べられている。〟 

服属儀礼か? 復奏儀礼か?

奈良時代に、なぜに、弥生時代設定の国ゆずりの話を奏上しないといけないのかという、時代錯誤的なというかリアリティーの無いものをしないといけないのかという疑問が自分の中にある。それを服属だの復奏だのという前に、単なる儀礼としても、その時代の、必要性にかられてされたものであると思う。
まずは、前提として、氏族としての天神や地祇の設定を認めないといけない。また、アマテラス大神から派遣されてきた天穂日命の子孫であるところの出雲国造が、出雲族の祖先神を鎮め、都を防衛させますなどということを宣言しないといけない。それが、その当時どういう意味があったのか。

服属儀礼とするならば、天皇家に服属した出雲の国の代表という話になる。この「出雲国造神賀詞」はそういう観点で書かれていない。
まずは出雲国という狭い話ではなくて、葛城の神々も含め、全国の「あらぶる神々」を「鎮め」つまり荒魂を和魂に変えて、出雲の神は天皇の都を守りましょう、それは高天原から派遣された天穂日命の子孫の出雲国造家の功績というストーリーである。

古代史家の中には、出雲国造を大国主命の末裔である出雲国王のように言う人がいるが、出雲国造家自体がそんなことは一言も言っていない。政治的な利益のために天穂日命を祖先にしているという想像も成り立つが、大神氏・賀茂氏のように大国主命を祖先とした方が、出雲国の民を支配するに好都合である。
元々は、素戔嗚尊を祭り、国譲り神話の成立より、ヤマト王権から大国主命を祭るように言われ杵築大社の宮司家となったというのが、実際のところなのだろう。

大宝律令・新たな神祇体制に邁進しなければならない時代にあって、この「出雲国造神賀詞」を奏上する意味は何なのだろう。壬申の乱以後のことを考えると、持統天皇・石上・藤原・中臣体制に反対する豪族(これが荒ぶる神なのだろう)を鎮めて、変革に協力させる仕組みがあったはずで、それを出雲国造家も担い、実際、都の周りに氏族として分布して役割を担ったのではなかろうか。何分 そういう文書など存在しないが、時代が下って平安京の時代になって、京都の都の近くに出雲氏が分布していることがそう考えさせてしまう。(→出雲路幸神社の謎(1)京都の出雲郷 

高天原から派遣されて、都で奏上するので、派遣されてどうやってきたかを報告する復奏儀礼にしか思えない。そもそも、出雲国は出雲族の発祥の地ではない、出雲国には大国主命・事代主命の子孫などいない、いるのは奈良であるという著名な古代史家たちの前提があるので、出雲国造家そのものが出雲族だとする混乱が服属儀礼説にあると思う。

■ 三輪山の「大物主命」

『出雲国造神賀詞』では、三輪山の祭神を倭大物主櫛瓺玉命(やまとおおものぬしくしみかたま の みこと)という。

〝乃(すなわ)ち大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静まり坐さん大倭の国と申して、己命の和魂を八咫鏡に取り託けて、倭大物主櫛瓺玉命と名を称えて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提(うなで)に坐せ、賀夜奈流美(かやなるみ)の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹(やおに)杵築宮に静まりしき。〟(鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社文庫から引用)

倭大物主櫛瓺玉命の櫛瓺玉命は、武蔵国瓺(菱玉)(みか)神社の伝承によると、櫛御気野命は女神、櫛瓺玉命は男神であり夫婦神であり、酒造の神だそうだ。(→ 神々の黄昏 瓺[菱玉](みか)神社と伊努神社 
※杵築宮(出雲大社)の枕詞の八百丹(やおに)は、賀茂真淵『祝詞考』によれば、「多くの土」という意味だそうだ。
賀夜奈流美(かやなるみ)命は、斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、9代目大穴持ー鳥鳴海命(事代主命の長男)だそうだ。(→ 天照らす 高照姫命 (1) 伯耆 蚊屋島神社 

三輪山 大物主命が鎮まる神の山と言われる。神社の伝承では、頂上の磐座に大物主大神、中腹の磐座は大己貴神、麓の磐座には少彦名神が鎮座しているそうだ。

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 さて、ざっとした内容は、大穴持命が出雲の神々を奈良の都に配置し天皇家の守り神にし、自分の分霊というか和魂を三輪山に鎮座させました、その名は、「倭大物主櫛瓺玉命」ですということ。三輪山の祭神は、『古事記』では、美保関で出会ったカミムスビの御子スクナヒコナでかつ大国主命の幸魂奇魂(和魂)、『日本書紀』では、スクナヒコナは、タカムスビの御子となっているが、熊野の御崎に行き、そこから常世郷へいくとなっている、そして、別の説ではと、前置きして、三輪山の祭神は、事代主命であると書かれている。事代主命は、『国譲り神話』では、出雲の三穗之碕で魚釣りをしており、稻背脛命が使者として熊野諸手船に乗ってくることになっている。さらに、この大物主命は、第二の一書には、大国主命がお隠れになった後、タカムスビの娘 三穂津姫と婚姻させるという話で登場する。ともかく、大物主命・スクナヒコナは、美保関や熊野という地名に関係があるつくりとなっており、『先代旧事本紀』の三輪山の祭主オオタネコの系譜を考えても三輪山の祭神は、事代主命であったと思われる。それが、大国主命の和魂となり、別名 大物主命にする意味はなんなのか。

出雲国造廣嶋が編纂した『出雲風土記』(733年)を見ると、スクナ彦は、飯石郡に1か所出てくるが事代主命は、全く出て来ない。野見宿祢さえ出て来ない。それゆえ、戦後の古代史家が、葛城の事代主命は出雲国の神ではないと言う根拠にもなっている。これは同じ出雲臣の事代主命の系統(富家)の足跡当時の出雲国造家は消そうとしていたのではないかと、私は思う。仁多郡の山のところに出てくる戀山(→ 鰐の恋山 -鬼の舌震 )伝説も、あれは、三輪山の神婚伝説の揶揄なのではないかと、うがち過ぎな見方もしてしまう。
(また『出雲風土記』では葛城のアジスキタカヒコ命は、登場するが、大人になっても髭がぼうぼうで、言葉をしゃべらなかったというまるでホムチワケ皇子のような設定である。これもそういう伝承があったというよりも、何か揶揄のように思える。)

それと、『令義解』に書かれる出雲国造家が斎神と書かれた熊野大社の祭神であるが、『出雲国造神賀詞』では、伊射奈伎乃日真名子(いざなぎのひまなこ)加夫呂伎(かむろぎ)熊野大神櫛御気野命(くしみけぬのみこと)と、どうもわかりにくい。『先代旧事本紀』のように「素戔嗚尊」と書けばわかりがいいが、そうしなかったのは、修辞語をたくさんつけて立派な神名にしていると理解されているが、
実際はそうでなかったから、別の祭神に変更するための作為だったのではないか。

上山春平説では、藤原氏・中臣氏が記紀編纂に関与したということが中心であるが、私は、時の左大臣ー石上麻呂(704年は右大臣)を輩出した物部氏にかなり配慮された神代記になっているように思う。ヤマトでも饒速日命、イズモでも素戔嗚尊というように始原は物部氏だったという書き方である。それゆえ、原田常治氏説(→ ウィキペディア ニギハヤヒ )に見られるような、大物主命は饒速日命であるという説がでてくるのだろう。インターネットで検索すると、それを主張される方が多いのに驚く。大物主命の「物」は、物部氏の「物」なのかもしれない。
当時の出雲国造家が、権力者であった藤原氏だけではなく、物部氏に対しても、おもんばかったとして不思議はない。


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# by yuugurekaka | 2018-10-13 00:45 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(1)

1)壬申の乱 

いわゆる 672年に起こった皇位継承をめぐって起きた内乱である。 天智天皇の御子・大友皇子(弘文天皇)近江朝側)に、皇弟である大海人皇子(後の天武天皇)が反旗をひるがえし、皇族・豪族が二派に分れて戦った。その結果、大友皇子は敗北し自殺し、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。そして、この乱を境に天皇の神格化と律令体制の整備とが急速に進んだ。〟 (株式会社平凡社百科事典マイペディアより)と、されている。

壬申の乱に登場する豪族の主な武将たちであるが、以下に記す。なにぶん、当事者たちが、『日本書紀』の書かれる時代に存在した人たちなので、さしさわりがって、全てが本当ではないのかもしれない。

近江朝側の登場人物
中臣金石上麻呂(物部連麻呂蘇我臣赤兄、蘇我果安、書直薬、智尊、穂積臣百足、穂積五百枝、犬養連五十君、忍坂直大麿呂、谷直塩手、佐伯連男、壹岐史韓国、樟使主磐手、廬井造鯨、大野君果安、田辺小隅、山部王、境合部連薬、秦友足、社戸臣大口、土師連千嶋

大海人皇子側
大伴連吹負、大伴連馬来田、書首根麻呂、大伴連御行、栗隈王、美濃王、小子部連鉏鈎、三野王、秦造綱手、忌部首子人村国連依、土師連真敷、物部連雄君(朴井雄君)、稚桜部五百瀬、三輪君子首、三輪君高知麻呂、田中臣足麻呂、当麻公広嶋、鴨君蝦夷、紀臣阿閇麿、坂本臣財、坂田公雷、紀臣堅麻呂、星川臣麻呂、膳臣麿漏、当麻公広麻呂、布勢朝臣御主人(阿倍御主人尾張宿禰大隈尾張連馬身大分君稚臣、出雲狛

これを見ると、磯城王朝時代からの古い著名な豪族(大伴氏、三輪氏、鴨氏、阿倍氏、尾張氏、紀氏など)の大半が、大海人皇子側についているのがわかる。また、どの系統かわからぬが、出雲姓の出雲狛の名も見える。つまりは出雲姓の豪族が、出雲国ではない近畿にも分布していたのだ。

一番驚くのが、藤原律令体制の時代の一角を担う物部氏(石上氏)・中臣氏が、壬申の乱の負け組であることだ。天武朝で、壬申の乱の功臣の氏族が一時は出世するが、持統天皇時代から没落が始まり、それとは反対に、物部氏(石上氏)・中臣氏(藤原氏)が官僚の要職をしめる流れになっていく。

2)物部氏と中臣氏

改めて、飛鳥時代の物部守屋氏と中臣氏の軌跡を『日本書紀』から見ていくと、このコンビで、戦った内乱がもう一つある。丁未の乱(ていびのらん)である。仏教の礼拝を巡り、廃仏派である物部守屋・中臣勝海と祟仏派の蘇我馬子が対立していており、結果として厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族と蘇我氏を筆頭とする諸豪族が勝利し、物部氏はこれを契機に衰退したと言われる。

時代をさらにさかのぼると、仏教公伝の欽明天皇の時代に既に、物部尾輿(もののべ の おこし)は、中臣鎌子(藤原鎌足とは別人)と共に廃仏を主張し、崇仏派の蘇我稲目と対立している。

さて、丁未の乱における中臣勝海の動きであるが、ウィキペディアによると、次の通り。
排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている)が、その帰路、舎人迹見赤檮が中臣勝海を斬った。

この彦人皇子(→ ウィキペディア 押坂彦人大兄皇子 )であるが、敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・広姫であり、息子である舒明天皇(田村皇子)から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)というように、中臣氏は、息長王家の皇統に寄り添っていく。

3) 天つ神と国つ神の分類

天神・地祇いわゆる、天つ神と国つ神であるが、中臣氏による大宝律令後の神祇革命―神道の国家的再編後に行われたのではないかと、私は思っている。天つ神と国つ神の分類は何によるものであろうか。たとえば、大辞林 』の書かれてある一般的な考え方である。

〝天の神と地の神。天つ神と国つ神。あらゆる神々。 〔日本では、高天原(たかまのはら)に生成または誕生した神々を天神、初めから葦原中国あしはらのなかつくにに誕生した神を地祇とする〕〟(三省堂 『大辞林 第三版』)

仮に高天原をヤマトだとすると、三輪山の大神をはじめ、事代主命やアジスキタカヒコ命などを奉祭する氏族が、地祇系とされていて、所在地とは関係がないようだ。また、ヤマトの所在地自体の倭国造の祖が、そもそも地祇となっている。
天皇家に縁がある氏族が、天つ神かというと、そういうわけではない。『日本書紀』では、神武天皇の皇后が、事代主命の娘(媛蹈鞴五十鈴媛命)と書かれており、三代に渡り、事代主命系の皇后とされており、それも理由になっていない。
先住民族が国つ神で、後から来たのが天つ神という説も強いが、宇佐氏とか尾張氏など天つ神なので、これも一貫性がないように思う。
では、壬申の乱の大海人皇子側が、地祇系かというと、(大伴氏や忌部氏は、地祇系でもいいように思うが)、そうなってはいない。
さらに賀茂氏や紀氏においては、天神系と地祇系の二つが発生する事態にいたっている。より古い方が、地祇系であるという見方が、強いのであるが、本当にそうなのだろうか。

ばくぜんと出雲系が地祇であろうと思われている。天照大御神⇔素戔嗚命の陰陽対立から、高天原から追放された素戔嗚命の子孫の神々を地祇ととらえるのが、もっとも正しいような気がする。
素戔嗚命自体が、高天原から地上に降りた時点で、国つ神に転化したのなら話がわかる。
しかし、『令義解』(りょうのぎげ)(833年)の書物(→ウィキペディア 令義解 )には、〝天神者。伊勢。山城ノ鴨。住吉。出雲国造斎神等類是也。地祇者。大神。大倭。葛木ノ鴨。出雲大汝神等類是也。〟とあり、出雲国造斎神(素戔嗚命のこと)は天神出雲大汝神(大国主命のこと)は地祇となっている。それと、大倭であるが、倭国造の関連する社であると思われるが、倭国造の祖(椎根津彦)は、海部氏の系統と思われるが、記紀では、素戔嗚命の子孫だとは書かれていない。

大神神社(おおみわじんじゃ)拝殿    奈良県桜井市三輪1422 

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深堀すると、なぜ地祇なのか明確な基準がわからなくなってくる。
さて、メインテーマの「国譲り神話」に戻るが、視点を変えると、「出雲族の政治の舞台からの名誉ある引退」の話にも見える。──ここでは、出雲族に出雲国造家を入れると、話が見えなくなる。なぜならば、国譲りを迫る側が、『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)では、出雲国造の祖「天夷鳥命(あめのひなどり」と物部氏の祖「布都怒志命(ふつぬし)」になっているからである。

また、この国譲りを迫る側が、『古事記』では、藤原氏の祖ー「建御雷神(たけみかづち)」「天鳥船神(あめのとりふね)」となっている。『日本書紀』では、物部氏の祖「經津主神(ふつぬし)」藤原氏の祖「武甕槌神(たけみかづち)」を加えて、事代主命への使者として熊野諸手船(くまののもろたふね)またの名は天鴿船(あまのはとふね)に使者の稻背脛神(いなせはぎ)ー出雲国造家の祖となっている。

三つの書物で、まとめると、本によってコンビは違うけれど、藤原氏・物部氏・出雲国造家の三者ということができる。戦後古代史家のいうように、作り話と言えば、身も蓋もないが、この氏族の構造から、出雲国造家もヤマト中央につながって、壬申の乱やその後の持統体制に向けて、中臣氏(藤原氏)や石上氏(物部氏)と連携した働きをしたのではないかと想像してしまう。出雲国造家が、中臣氏・石上氏の命を受けて働いたという確たる文書など存在しないが、そう感じてしまう。

地祇の出雲族の名誉ある政治的引退であるが、政治的引退を迫られるのは、国譲りを推し進めた側の天津神も結局は同じことで、国造から国司へとの転換という大宝律令体制の宿命から、出雲国造家自体も政治的実権を失うこととなる。祭政分離政策の一環として、神社の宮司家になっていく、または社家になる、という国家的な再編成が行なわれたのではないかと思われる。

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# by yuugurekaka | 2018-10-05 11:09 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)

『先代旧事本紀』の巻十国造本紀では、出雲国造の起源について以下のように記載されている。

出雲国造
崇神朝の御世に、天穂日命の十一世孫の宇迦都久努を国造に定められた。

それと符合する起源話が、『日本書紀』 崇神紀の60年の記事にある。いわゆる「出雲神宝検校」の話である。その伝承地の一つが出雲市大津町止屋の淵であるが(詳しくは過去記事→ 出雲国造の系譜の謎(2) )、雲南市加茂町神原神社の周りも伝承地の一つであることを、『雲陽誌』(1717年)で、知った。

ここ加茂町の神原は、『出雲風土記』には地名起源として、「所造天下大神(大国主命)の神宝を積み置かれたところ」と、述べられている。

神原かんばらごう
郡家ぐうけ正北九里   りの所にある。古老が伝えて言うには、所造あめのした天下つくらしし大神おおかみが、かみの御財みたからを積み置かれたところである。それでかんたから郷というべきだが、今の人はただ誤って神原郷と言っているだけである。”(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

ここの宝は、昨今、加茂岩倉遺跡の事ではないかという話も多いが、加茂岩倉遺跡は、仮にそこが神原郷であったのならかなり北の方である。


赤川 島根県雲南市加茂町神原 

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1)雲陽誌

『雲陽誌』は、まず『出雲風土記』を抜粋したうえで、神原神社の神寶明神を説明した後、『日本書紀』崇神紀と垂仁紀に見られる「出雲神宝検校」を記載する。矢口大明神などの神社仏閣等を説明した後、神原の地を説明する。ここの地も往古は、八百万の神迎祭をしていたらしく、神々は、佐陀の社へいくことが書かれていた。

川  大東加茂より流て簸の川に入、
土手 上神原より下神原の間千四百間あり、此土手下を昔止屋の淵といふ、松井淵ともいふ、里俗つたふる、
   歌
   八雲路や松井の水の清けれは
     八百萬代の神は御手洗水(みたらし)
兄塚 振根の墓なり、塚頭古木あり、
すくも塚 入根の墓なり、松の老樹あり、
大舎押 神腹の中の高山なり、古振根隠たるところなり、

『雲陽誌』に書かれたこの地の伝承をどうみるかであるが、
①『日本書紀』の「出雲神宝検校」問題につながる元々の伝承が、神原の地にあった。
②『日本書紀』の記事と『出雲風土記』の記事から、後に「出雲神宝検校」伝承地とされた。
③「出雲神宝検校」とは関係ないが、『日本書紀』の記事につながる別の伝承地であった。
の3説が浮かぶ。
①の見方が最も素直な見方であるが、自分は、初め②であった。しかし、いろいろと考察しはじめると、③ではないかと思い始めた。

2)神原神社古墳

古墳とか遺跡から古代史を考えることが、科学的で実証的とされるが、公共工事でたまたま見つかった遺跡だけでストーリーを考えるには、資料が足りないのではないかと自分は思っている。例えば、近年島根県では荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡、田和山古墳、隣県での妻木晩田遺跡、青谷上寺地遺跡など、びっくりするような遺跡が発見されているが、まだまだ、どこかに重要な遺跡が埋まっているのではないかと思う。

神原神社古墳は、赤川左岸の河岸段丘上に立つ神原神社の本殿下にあった。赤川の堤防の拡幅等の河川改修工事が行うために、1972(昭和47)
年に発掘調査され、「景初三年」(239年)の紀年銘を持つ三角縁四神四獣鏡(→ウィキペディア 三角縁神獣鏡 )や鉄製素環頭大刀などが出土した。「景初三年」という魏の年号が記された鏡は、大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳で出土した物の2面しか発見されていない。

折しも、崇神紀の出雲神宝検校の話で強調される「鏡」が発見されたわけである。

「玉菨鎮石(たまものしづし) 出雲人(いづもひとの)祭(いのりまつ)る 真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ) 押し羽振る 甘美御神(うましみかみ)、底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし) 山河(やまがは)の水泳(みくく)る御魂(みたま) 静挂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主」
現代語訳 水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の玉。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の玉。(『日本書記(上)』 宇治谷 孟 訳  講談社学術文庫より)

なんだか、まだ神宝の鏡が、赤川の水底にまだ埋まっているかのような感じのする話だ。
なお、この近くでは、神原正面北遺跡群 (方墳14基以上)、土井・砂遺跡(方墳6基)のように、もっとも古い方墳が多く発見されている。

神原神社古墳  
神原神社の東側に復元されている竪穴式石室。前期古墳で、周溝を加えた 35m× 30mの南北に長い方形墳であった。

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富家伝承(大元出版『出雲と蘇我王国』『古事記の編集室』など)には、神原古墳は、武内宿祢の墓と書かれている。武内宿祢と見て、頭が混乱してしまった。武内宿祢は、記紀では景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の時代に登場、『水鏡』では仁徳天皇55年に280歳で死去などと書かれ、実在性が疑われる人物とされる。

しかし、富家伝承本によると、武内宿祢とは家柄の名前であり、武内大田根(初代?)武内ソツ彦、武内ツク・・・という代々の武内宿祢の個人名を省いたとしている。武内宿祢の後継する氏族が、古代官僚の名家(紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など)ばかりなので、武内宿祢を伝説化する必要があったのか、あるいはまた別の意図があったのかわからない。

さて、ここに登場する武内大田根であるが、景行天皇の時代の人では無くて、垂仁天皇の時代の人で、九州から大和に攻め上がる物部王家の側についていたが、大和の磯城王家側に寝返った人物として書かれ、物部氏の追撃を逃げて、東出雲王家の富家をたより、因幡を通り、出雲国に逃げて、出雲国で一生を終えたという。『古事記』では、孝元天皇皇子の彦太忍信命と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたとされるので、垂仁天皇時代でちょうど良いのかもしれない。

さらに腹違いの弟、甘美内宿祢(うましうちのすくね)が、山城国宇治から神原の東に移り住んで、ここの地名が「宇治」となったという。
(甘美内宿禰は、内臣の先祖とされ、この「ウチ」とは山城国綴喜郡有智郷とされている。→ ウィキペディア 甘美内宿禰 

この甘美内宿禰との関わりであるが、『日本書紀』では、応神天皇の時代に登場し、またいつの時代の話か混乱する。ただ、『日本書紀』に書かれたことが真実だと疑わない思考だと、富家伝承のストーリーがなかなか頭に入らない。
この『日本書紀』のストーリーであるが、少し、「出雲神宝」の話にちょっと似ている。武内宿祢が、筑紫国に派遣されている間、甘美内宿禰が天皇に讒言する。天皇は武内宿祢の弁明を受けて、磯城(しき)川のほとりで、探湯(くかだち)ー呪術的な裁判法でうけいの一つを行い、勝った武内宿祢が甘美内宿禰を殺そうとする。天皇に許されて甘美内宿禰は死なず、紀直らの隸民になるという話である。

出雲神宝問題にでてくる、丹波の氷香戸辺が話す言葉の歌「真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ)」「甘美御神」に強調される「甘美」(うまし)であるが、当然、出雲臣の「甘美韓日狹(うましからひさ)」を暗にたたえる意味合いのように思えるが、富家伝承と神原神社古墳のことを前提に想像すると、鏡を持ち込んだの武日照命ではなくて、武内宿祢の弟の甘美内宿祢で、そういう伝承が、出雲神宝問題の創作につながったのではないのだろうかとも思える。

3)出雲臣 三系

戦後の古代史家でも、出雲臣家の兄弟の話と考える人は少なかったようで、井上光貞氏のように、東出雲の意宇勢力と西出雲の杵築勢力の二系の話である。
また、水野 祐氏の場合は、出雲神宝の話から、出雲臣家の系譜を三つの系列を見る。『水泳御魂考』(大和書房発行『古代出雲と大和』所収)に、以下のような表が載っていた。(本では、縦書き)

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根拠は、日本書紀の記事と代表人名の漢字のことぐらいしか、記述してなかった。

富家伝承では、以下のようになっている。ちなみに『姓氏録』では、土師氏の系譜(土師氏・菅原氏・秋篠氏・大枝氏)は、全て飯入根を祖としている。

出雲振根      神門臣家    大国主命(八千矛)の系統  西出雲王家 
飯入根       向家(富家)  事代主命の系統       東出雲王家 
甘美韓日狹・鸕濡渟 出雲国造家   天穂日命・武夷鳥命の系統 

改めて、「国譲り神話」を読んでみると、お隠れになる神が三神出てくる。大国主命、事代主命、天若日子である。
考えてみるに、大国主命と事代主命がお隠れになるというのは、出雲臣を始祖天穂日命 一系のみにするという、そういう隠喩ではなかったのかなどと思ったりする。それと、この天若日子であるが、富家伝承本『古事記の編集室』では、武内宿祢をモデルとしたものではないかと書かれてあったが、自分には、天火明命をモデルとしているのではないかと思える。

『先代旧事本紀』『海部氏勘注系図』にあって、記紀神話に無いもの、ー天火明命は、事代主命の妹 高照姫命と婚姻しー、『播磨風土記』『丹後風土記』にあって、記紀神話に無いもの、天火明命はオオナムチの息子ーそういう、天火明命が出雲族と婚姻関係を結び国王になろうとした伝承を記紀では書かなかったという暗号のようなものではなかったのだろうか…。



日本書記  巻五 崇神天皇  抜粋 
 
六十年秋七月十四日、群臣に詔して「武日照命(たけひなてるのみこと)の、天から持ってこられた神宝を、出雲大神の宮に収めてあるのだがこれを見たい」と
いわれた。 矢田部造(ヤタベノミヤツコ)の先祖の武諸隅(たけものろすみ)を遣わして奉らせた。

このとき出雲臣の先祖の出雲振根(いずもふるね)が神宝を管理していた。しかし筑紫国(つくしのくに)に行っていたので会えなかった。
その弟の飯入根(いい入りね)が皇命を承り、弟の甘美韓日狹(うましからひさ)子の鸕濡渟(うかづくぬ)とに持たせて奉った。

出雲振根(いずものふるね)が筑紫から帰ってきて、神宝を朝廷に差し出したということを聞いて、弟の飯入根(いいいりね)を責めて、「数日待つべきであった。
何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」と。
これから 何年か経ったが、なお恨みと怒りは去らず、弟を殺そうと思った。

それで弟を欺いて、「この頃、止屋(やむや)の淵に水草が生い茂っている。一緒に行って見て欲しい」と言った。弟は兄について行った。
これより先、兄は密かに木刀を造っていた。形は本当の太刀に似ていた。
それを自分で差していた。弟は本物の刀を差していた。淵のそばに行って兄が弟にいった。
「淵の水がきれいだ。一緒に水浴しようか」 と。
弟は兄の言葉に従い、それぞれ差していた刀を外して、淵の端におき水にはいった。後からの弟は驚いて兄の木刀を取った。互いに斬り合うことになったが、
弟は木刀抜くことができなかった。兄は弟の 飯入根(いい入りね)を斬り殺した。時の人は歌に詠んで言った。

ヤクモタツ、イズモタケルガ、ハケルタチ、ツヅラサハマキ、サミナシニ、アハレ。出雲健(いずもたける)が 侃(は)いていた太刀は、 葛(つづら)を沢山巻いて
あったが、中身がなくて気の毒であった。 ここに甘美韓日狹(うましからひさ)・鸕濡渟(うかづくぬ)は朝廷に参って、詳しくその様子を報告した。そこで吉備津彦と武淳河別(たけぬなかはわけ)とを遣わして、出雲振根を殺させた。出雲臣等はこの事を恐れて、しばらく出雲大神を祭らないでいた。丹波の氷上の人で名は氷香戸辺が、皇太子活目尊に申し上げて、
「私のところの小さなこどもが、ひとりで歌っています。水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の玉。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の玉。これはこどもの言葉のようではありません。あるいは神が取り憑いて言うのかもしれません」といった。そこで皇太子は天皇に申し上げられた。天皇は勅して鏡を祭らせなさった。 — 後略 —      
                               日本書記(上)  宇治谷 孟 訳  講談社学術文庫より


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# by yuugurekaka | 2018-09-30 08:28 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)

当然ながら、『古事記』や『日本書紀』がそのまま史実ではない。
様々な氏族伝承史実創作(作り話)が、混じり合った書物であろうかと思う。神話の部分だけが、創作や伝承だけではなく、一見そのようなことがあったと思える新しい時代(天武天皇時代)にも、創作というかなんらかの演出がほどこされているのではないかと感じる。
また、神話については、陰陽学的視点ばかりではなく、なんらかの史実の隠喩が含まれているのではないかという気がする。
「国譲り神話」も、史実では無く、だが、それを国譲り神話が表わす意味が何を示すか、あるいはいつの時代のことを投影しているか、学者によって、さまざまな見立てがある。

1) 井上光貞説

例えば、いまだに古代史界に底流が流れていると思われる井上光貞説である。
『大化改新』(1954年 要書房発行。補訂版1970年 弘文堂書房発行)の抜粋であるが、
“出雲には幾つかの文化地帯があるらしく、特に、上流に熊野神社をもつ意宇川流域一帯と、下流に杵築大社のある簸川流域一帯とは、古墳の分布状態(斎藤忠氏の古墳地名表では前の地帯に三十一、後の地帯に六、また島根半島に十一の古墳をあげている)、古代神社の分布密度(風土記、神明帳)からみて、特にきわだっているのであって”として、
出雲国に「オウ」の勢力と「キヅキ」の勢力が存在するとした上で、
“神代の出雲平定の物語と崇神朝の出雲神宝の物語とは杵築大社の方のキズキの地方を舞台にし、オウとはほとんど関係が無い。”と、国譲り神話の場所がキヅキの場所であり、平定する側の神々が、オウの勢力がであると示す。ただ、“クマノ(熊野)のモロタ船に関係のあるコトシロヌシのあるところあるところは気になるところであるが、”として、熊野に関係のある事代主命は、平定される側の神であるという矛盾も書かれている。

そして、“出雲平定とはキズキの平定のことであることがわかる。これに反しオウの勢力は、大和朝廷の側にたっており、またこの氏が国造となったようである。”となる。ゆえに、日本(和)国の国譲りでは無くて、ヤマト王権の力を借りて出雲国内部のキズキ勢力をオウ勢力が押さえたという話となる。
結論として“大和朝廷による出雲の征服とは出雲一帯を支配した支配したキズキの勢力との戦いで、そのさいオウの出雲氏は朝廷に加担し、その結果、国造に任じられたものであること、その征服は武力を伴なうと共に祭祀権の収奪でもあったこと、征服とは土着社会の秩序を破壊することではなくて、在来の身分関係を保存しつつその秩序のまま部制に再編するものであったことなどである。”

それで、この国譲りの話がいつの時代のことを投影したものかについては、弥生時代などという学者はほとんどいない。井上光貞氏は、“征定の事実を六世紀に近いころとみているのである。” 
まあ、新しい時代の話である。通説ではヤマト王権の成立が、概ね4世紀ごろの話なので、譲るべきヤマト王権が存在しないので、そういう論法になるのかもしれない。

井上氏のこの説は、古墳時代後期の出雲東部と西部の古墳の形状や環頭太刀の違いから、西部は物部氏、東部は蘇我氏と結びつき、物部氏の没落に伴って、東部の出雲氏が出雲国を統一するにいたったというような通説の、バックボーンとして生きているように思われる。


礫島(つぶてじま)
稲佐の浜から、日御碕に向かう途中に見える島。出雲風土記で、「黒島」に比定される島。
稲佐の浜で力比べをした高天原のタケミカズチとタケミナカタ神が、大きな岩をどこまで飛ばせるか力比べをして、大岩が重なり合ったできた島と伝えられている。
中央の大きな岩は、高さが15m近くあり、周りの丸石も、直系5mあるそうだ。
何か祭祀遺跡のようにも見える。

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2) 上山春平 

『古事記』『日本書紀』に対する藤原不比等加担説は、だれが言い出したのかを調べていくと、上山春平著『神々の体系』(中公新書)に行き着く。時の右大臣 藤原不比等に記紀編纂の主導権があり、藤原氏の政治の武器として、編纂されるのは当然のことと思われる。
──そういう趣旨から考えると、『出雲風土記』も、出雲国造廣島の政治的な意図が反映するのは当然であり、在地の素朴な神話が、中立的に書かれたと考える方が不自然である。

上山春平氏は、古事記の神統譜が、対照的な構成(高天原系と根の国系)(イザナギとイザナミ)(アマテラスとスサノオ)等となっており、さらに両系未分のアメノミナカヌシから出発し、高天原系と根の国系に分かれ、最終的にイワレヒコへの統合される(中つ国の主)(オオクニヌシ→ニニギ→)という論理となっていることを述べている。

その上で、藤原氏の歴史的役割を、“記紀の完成(『古事記』は七一二年、『書紀』は七二○年)にわずかに先行する大宝律令の完成(七○一年)と平城京の完成(七一○年)が、律令国家の本格的活動を展開するために必要な舞台であった。そして、その律令国家の設計にあたった官僚グループの中心にあったのが、藤原鎌足・不比等父子であり、鎌足は大化の改新によって律令国家建設の地ならしをし、大宝律令の実質的な編纂主任の役割をはたすと同時に、平城遷都の主たる推進力となった不比等は、律令国家の運営をはじめて軌道にのせたのである。”(上山春平著『神々の体系』中公新書)と、位置づけると同時に、

“天武・持統”に極まる皇権回復の試みも、天皇家をふくむ旧来の豪族たちの伝統的な富と力の基盤を掘りくずす効果をもつ律令制を確立させる方向に作用し、少なくとも結果的に見れば、鎌足・不比等以来、律令制の推進力となった新興の藤原氏(記紀の記述をそのまま受けいれる立場からみれば、藤原氏の前身たる中臣氏は古来からの名門豪族のようにみえるが、記紀の制作主体として藤原不比等を想定する私の見地からすれば、記紀制作の一つの重要なねらいが、大伴や物部等の名門とは比較にならぬ新興のみすぼらしい家柄にメーキャップをほどこす点にあったのではないか、という疑いが濃厚であり、後にその根拠を示したいと思う)の独占的な実権掌握への動きを促進したかっこうになっており”上山春平著『神々の体系』中公新書)と、結果的な側面を述べる。

記紀を通じて、神祇体系を再編、大宝律令の神祇官ー中臣氏、太政官ー藤原氏の二本立て構想を実現していくになる。


藤原京 694年(持統8年)~710年(和銅3年)の16年間、初めて都城制を敷いた都である。

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さて、問題の「国譲り神話」の見立てであるが、

“天上の神が地上の天皇に化肉する「現神」成立の秘密を解き明かす、持統および元明と不比等との協力体制にとって必要となった女帝から孫へという前例のない皇位継承の祖形を提示する意味を持った。”(上山春平著『続 神々の体系』中公新書)※太字は私。

“「国譲り」の場面で活躍する藤原氏の氏神タケミカヅチ(文献にタケミカヅチが藤原氏の氏神としてあらわれるのは、八世紀後半であるが…省略)は、大化クーデターで活躍した鎌足の投影として、「岩戸がくれ」や「天孫降臨」の場面で神事にゆかりのある神々と共に活躍する中臣氏の祖神アメノコヤネは、神職を本来の氏の職業とする中臣氏の投影としてとらえることができる。”上山春平著『続 神々の体系』中公新書)

“タカマノハラ系の神々にたいするネノクニ系の神々の「国ゆずり」の話に、大化の改新を転機とする神祇体系の根本的な変革の事実が投影されているのではないか、という点である。氏姓制の原理が律令制の原理に置き換えられてゆく過程で、氏姓制のもとで優位にあった神々は、律令制にふさわしい新たな神々に優位を奪われ、自らは劣位に甘んずるほかはなかったに違いない。”上山春平著『続 神々の体系』中公新書)

それで、この氏姓制のもとで優位にあった例として葛城の神々、高鴨のアジスキタカヒコと下鴨のコトシロヌシが述べられ、ネノクニ系のオオクニヌシの子神にされ、ネノクニ系に組み入れられてしまったと述べている。
納得できる面もかなりあるが、その論点からは、私は海部氏ー尾張氏は、微妙な位置にあるのではないかという思いが浮かんだ。葛城の神々と同様、大和の先住氏族であるからである。
籠神社で見た亀に乗った像があったが、神知津彦命は、天火明命の子孫となっているので、天神の系譜だが、やはり地祇となっている。
「大和国 神別 地祇 大和宿祢 出自神知津彦命也」
また、その逆で、
「大和国 神別 天神 飛鳥直 天事代主命之後也」
の系譜も姓氏録に見られる。記紀に国譲り神話と矛盾した記述もあるがゆえ、地祇の位置づけに反対したのかもしれない。

葛城の神々と出雲国との関係については、上山氏は神祇体系の再編で関連付けられたとしている。
“三輪山の神と同様な運命をたどった大和の名神たちのうちで、とくに注目に値するのは、葛城山麓を拠点とする古来の名族たちによって斎き祭られた高鴨のアヂスキタカヒコネと下鴨のコトシロヌシである。この二柱の神々は、オホクニヌシの子神として系譜づけられ、あたかもその本拠が「根の国系」のふるさとである出雲であったごとくに記紀の神代巻きに書かれている。”上山春平著『続 神々の体系』中公新書)※太字は私。

そういう話は、戦後の著名な古代史家に言われ続けているので、あらためて、びっくりしないが、
出雲大社の創建というのが、上山氏の言うような律令体制の構築・神祇体系の根本的な変革と大きく関係していたのではないかと思う。

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# by yuugurekaka | 2018-09-18 23:58 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)

子どもの頃から出雲大社に初詣に行っていたが、
弥生時代に国譲りのような事件があったのだろうなということを長い間信じていた。
仮に作り話であったにせよ、先住民族として出雲族というものが、国造りをしてきたということを表しているんだなあと思っていた。

──その、「出雲族」であるが説明するのが、結構難しい。
出雲国に住んでいる氏族かというと、そうではない。出雲族は京都や奈良や関東や九州にも分布していた。例えば、『新撰姓氏録』(815年)に見られる京都の出雲氏である。全て天孫の天穂日命の子孫と書かれている。

左京  神別 天孫 出雲宿祢  天穂日命天夷鳥命之後也
左京  神別 天孫 出雲     天穂日命五世孫久志和都命之後也
右京  神別 天孫 出雲臣   天穂日命十二世孫鵜濡渟命之後也  
右京  神別 天孫 神門臣   同上
山城国 神別 天孫 出雲臣  同神子天日名鳥命之後也  
山城国 神別 天孫 出雲臣  同天穂日命之後也。

写真は京都の賀茂川。京都の賀茂川の西側には、平安時代出雲臣が分布したであろう。

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出雲の神ー大国主命や事代主命の子孫の氏族として説明するのが一番良いと思えるが、上記のように、出雲国には、天穂日命の子孫はいても大国主命や事代主命の子孫はいないとされている。
だが、大和には居た。『新撰姓氏録』には、大国主命や事代主命の子孫を標榜する氏族が記述されている。

天神  飛鳥直     天事代主命之後也  
地祇  大神朝臣   素佐能雄命六世孫大国主之後也
地祇  賀茂朝臣   大国主神之後也 
地祇  和仁古    大国主六世孫阿太賀田須命之後也  
地祇  長柄首    天乃八重事代主神之後也

長柄神社(ながらじんじゃ)本殿  奈良県御所市名柄271
現在の祭神は、下照姫命 である。

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出雲国に大国主命や事代主命の子孫がいなくて、大和国に子孫がいるとはいかなることか。

『日本書紀』の記載では、国譲りの後の神武天皇の東征の後、事代主命の娘が皇后となり、事代主命の子孫が代々の天皇の皇后となっていく記述がある。こういうことを考えると、出雲VS大和の構図がそもそもどうなのか、疑問が出てくる。

だから、出雲国は大和の北西(黄泉の国)に位置したので、たまたま神話の舞台に選ばれたに過ぎないという説が有力であった。
あんな田舎の場所で、大型の古墳も発見されないような場所に、王朝があるはずがないというのが、戦後の定説である。


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# by yuugurekaka | 2018-09-07 23:53 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(2)

■上宮太子の御子 

富家伝承の本を読んでいるが、書いてあることの奇抜さに驚かせられる。それで、本当だろうか?と疑ってしまう。それで、すぐ検証してみたくなり、他の書物を読んでみる。いや「検証」などと言う事は、博学のもののいうことであり、浅学の私にとっては、まず、いろいろな書物を読んで、富家伝承本の登場人物をまず一人一人を調べ、通説を確認していくという基礎知識が必要になってくる。その繰り返しでこの3年間過ぎたような気がする。

「日置氏の足跡」のテーマも、斎木雲州著 『飛鳥文化と宗教争乱』(大元出版)を読んで思いついた。富家伝承本『出雲と蘇我王国』(大元出版)では、日置氏はヤマト王権の実権を握る蘇我王家の命を受けて、蘇我氏の親戚である出雲王家(富家、神門臣家)の古墳造りに派遣されたように書かれていた。

しかし、『飛鳥文化と宗教争乱』(大元出版)では、上宮王家の二人の御子(日置王、財王)が、皇位継承問題の激化を避けるため、推古天皇より上宮王家を分散するために、出雲国に派遣されたという話となっている。ちなみに山背大兄王一族の危機であるが、記紀では、蘇我氏の横暴から山背大兄王一族の滅亡となっているが、富家伝承では、息長氏王家VS石川氏王家の対立(中大兄王VS山背大兄王)の中で、蘇我氏ではなく息長氏王家側の中臣鎌子(後の藤原鎌足)手を下したとしている。

上宮太子は、通説的には聖徳太子の異称とされてるが、『日本書紀』では、聖徳太子として事績が伝説化されており、古代史の世界では聖徳太子不存在説も言われている。富家伝承本でも、上宮太子は実在する人物だが、聖徳太子は、架空の人物であり、“仏教界で「日本仏教の開祖」として作り上げた菩薩の名”としている。

唐本御影(とうほん みえい)より聖徳太子と二王子像。右の人物が山背大兄王とされている。

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    By 不明 - Japanese Painting Anthlogy, ed.et publ. by SINBI-SHOIN, TOKYO, 1941, パブリック・ドメイン, Link 


■推古天皇の娘ー菟道貝蛸皇女

『上宮聖徳法王帝説』によれば、「日置王」「財王」は山背大兄王と同じく、蘇我馬子の娘ー刀自古郎女を母として山背王・財王置王片岡女王の四人の御子となっている。(→ ウィキペディア 山背大兄王 
ちなみに、妃・橘大郎女には、白髪部王・手島女王の御子、妃・膳大郎女には舂米女王・長谷王(泊瀬仲王)・久波太女王・波止利女王・三枝王・伊止志古王・麻呂古王馬屋古女王がいることになっている。

しかし、『日本書紀』では敏達天皇と推古天皇の皇女ー菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)が、「東宮聖德」に嫁いだとある。富家伝承系図では、日置王」「財王」の母は、この貝蛸皇女で、「山背大兄王」「片岡女王」は、石川刀自古姫の御子となっている。(蘇我氏は、登場せず、石川臣の系譜となっている。)

さて、なぜ「日置王」「財王」という名称なのかという疑問がでてきた。たとえば、「財王」(たからのみこ)であるが、皇極・斉明天皇も宝女王(たからのひめみこ)とも云われる。また、反正天皇や仁賢天皇の皇女にも宝(財)の名が見られる。皇子女の宮の名称で、いわゆる御名代部であったと思われる。付随して、財日奉部(たからひまつりべ)という集団が存在する。財部の中で、太陽祭祀に従事した集団であったのかもしれない。

財部などは、王族によって、継承ー相続されてきた私有民達であり、あるいはそこで養育されてきたのかもしれない。
ウィキペディアによると、部民制は、“職業を軸とした職業部と、所属対象を軸とした豪族部および子代・御名代の2つのグループに分かれる。”
日置部は、一般的には職業部と考えられているが、これもまた皇子宮の御名代部であったのかもしれない。

そして、この子代(こしろ)・御名代(みなしろ)は、ウィキペディアでは、王(宮)名のついた部。舎人(とねり)・靫負(ゆげい)・膳夫(かしわで)などとして奉仕する。刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)などの例がある。御名代には在地の首長の子弟がなる。子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシハデ)にあたった。”と、ある。「改新の詔」で廃止されるまで続いたとされるが、人だけ奉仕しても成り立たぬ気がする。付随して屯倉(みやけ)という直轄地が地方にもたくさんあったのではないか?

額田部皇女 推古天皇

日本書紀』敏達天皇の項で、「6年(577)2月条に詔して日祀部(ひまつりべ)、私部(きさいべ)を置く」の記事がある。私部とは、皇后の私有部民であって、つまり、ここでの皇后は推古天皇であり、推古天皇が皇后として、日奉部を領有していたことを示しているのだろうか。また、私部は、並立的に日奉部とは別個に皇后の職務をたすける部があったのだろうか。

仏教の伝来と共に習合が進んでいく片方で、太陽祭祀として神道が純化する流れもあったのではないか。
推古女帝というところから、太陽祭祀ー巫女として、天照大御神が皇祖神として体系化される出発点でもあったのか?

推古天皇の諱(いみな)は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)である。御名代部としての額田部で養育されて、またその額田部の屯倉や部民を相続、領有していたのかもしれない。出雲国でも額田部氏の分布があるので、出雲国でも部民や屯倉が設定されていたのか?
ウィキぺディアによると、“額田部のルーツは応神天皇の皇子、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)の名代であるとも、田部の一種であるとも、554年(欽明天皇15年)に誕生した額田部皇女(のちの推古天皇)の資養や王宮の運営の基盤であるとも言われているが、部民制は5世紀後半、雄略天皇の時代に施行されたと言われており、また大和政権と出雲東部の勢力情況からして、5世紀のものとは想定しにくいため、後者が有力な説である。” 

ところで、日置部は何か。日奉部とどういう関係があるか、さっぱりわからない。たとえば、日招きや宮廷の日読(かよみ)をつかさどるものとする説・卜占暦法を主とし太陽祭祀に従事する者という説があるが、『日本書紀』推古天皇 10年10月の記事に「冬10月に、百済の僧 観勒来けり。仍りて暦の本及び天文地理の書、并て遁甲方術の書を貢る。是の時に、書生34人を選びて、観勒に学び習はしむ。陽胡史の祖玉陳、歴法を習ふ。大友村主高聡、天文遁甲を学ぶ。山背臣日立、方術を学ぶ。皆学びて業を成しつ。」(岩波文庫より)とある。暦を作る職務ということなら、何か日置部の関連ありそうなことが書かれていてもよさそうな気がするが、何もない。
なにか特定の職務というより、御名代部として存在していたと考える方が、わかりやすいように思う。

■富家伝承  日置王額田部財王

日御碕神社 上社  島根県出雲市大社町日御碕455

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以下は、斎木雲州著 『飛鳥文化と宗教争乱』(大元出版)の抜粋である。

“皇后は貝蛸皇女を生んだが、後者に額田部と日奉部を与えた。”
“推古女帝は、「寺から夕日を拝めるように、鳥居を建てよ。寺は西向きに造れ」と指定した。夕日を拝むのは、炊屋姫の出身・額田家の信仰であり、その日奉部の仕事でもあった。”(四天王寺の鳥居)
貝蛸皇女から日奉王には日奉部の領地が与えられ、額田部財王には額田部の領地が相続されていた。
“その政所では、欽明帝の指示により、日置氏が神門臣家の古墳を造り続けた。日奉王の時期には、すでに大念寺古墳などが造られていた。”

日置王ではなく、なぜ日奉王?と思ったら、

“日置氏は朝鮮系の氏族であった。日奉部は敏達天皇が設置した。その日奉部を炊屋姫から受け継いで、日奉王となった。しかし都では息長系の勢力が強くなったから、その迫害をさけるため日置氏の名前を継いだ。さらに日置王は祖母の推古女帝の希望に基づき、日御碕神社を建てる仕事に専念した。

アメノヒボコ・神功皇后を祖とする息長王家と石川臣家(『日本書紀』では蘇我氏)の緊張関係の中で、日奉部→日置部に名称変更になったような話である。
日置氏の起源は、神功皇后の御子 応神天皇の御子 大山守命とも、あるいは、姓氏録の「左京 諸蕃 高麗日置造  出自高麗国人伊利須意弥也」に見られる「高麗 伊利須使主 」の系譜なのか、しかし、これは斉明紀2年の伊利之(いりし)を同一人物とすると、大分後代の話だ。

次に日置王の兄、財王の記述である。

“一方の兄・財王は、出雲王国の王(意宇)郡舎人郷(安来市月坂・赤塚・野方方面)に就任した。” “その地の正倉は欽明帝の御代に設置され、日置臣シビが、大舎人として仕事を行ったと風土記に書かれている。その正倉役に財王が就任したことによる。”
“かれの正式の名は、額田部臣財王であった。”
“正倉の元もとの役は、倉米を換金し旧富王家の古墳を造る仕事であった。財王は富古墳群内に、いわゆる山代方墳を造った”

ガイダンス山代の郷の展示物
山代方墳と石舞台古墳の類似性を説明した図。富家伝承によると、石舞台古墳は蘇我馬子ではなく、用明天皇の寿陵となっている。


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“財王は寿陵を神魂神社の横(風土記の丘)に造った。それは出雲式の方突方墳(岡田山1号墳)であった。そこには円頭太刀などが収められていた。”

「額田部臣」の銘文のある円頭太刀   八雲立つ風土記の丘 資料学習館

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“岡田山1号墳の東に、財王の子孫の古墳ができた。それは御崎山古墳、と呼ばれている。その墳頂には日御碕神社の分社が建っている。これは財王の子孫が、日置王の子孫と仲が良かったことを示している。御崎山古墳からは獅嚙環頭大刀が出土した。これは都から手に入れたもので、円頭太刀よりも後に流行した形であることを示している。”(以上 斎木雲州著 『飛鳥文化と宗教争乱』大元出版 より)

御崎山古墳 松江市大草町 
全長約40mの前方後方墳である。

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参考文献  斎木雲州 著 『飛鳥文化と宗教争乱』大元出版 
      遠山美都男 著『古代王権と大化の改新』雄山閣出版
      井上辰雄 著 『太陽祭祀と古代氏族ー日置部を中心としてー』 
                         東アジアの古代文化 第24号 大和書房 
      木本雅康 著 『日置・壬生吉志と氷川神社 一古代の方位信仰を手がかりとして一』
      小川光三 『ヤマト古代祭祀の謎』 学生社
まあ読んだだけで記事にはあまり生かされていない。

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# by yuugurekaka | 2018-08-21 19:58 | 日置臣 | Trackback | Comments(2)

■なぜに「十羅刹女社」


日御碕神社は、中世の時代、「十羅刹女(じゅうらせつにょ)社」とも呼ばれていた。

まずは十羅刹女とは何か。ウィキペディア 十羅刹女 によると、“仏教の天部における10人の女性の鬼神。鬼子母神と共に法華経の諸天善神である。” “釈迦から法華経の話を聞いて成仏できることを知り、法華経を所持し伝える者を守護する”神だそうである。

太陽神「天照大御神」であるのなら、本地仏は、「大日如来」がふさわしいと思われるが、どうして十羅刹女なのだろうか。江戸時代の地誌『雲陽誌』(1717年)によると以下の通り。


雲陽誌 巻之十

日沈宮
(前略)
耕雲明魏記曰雲州日御崎の明神はすなはち杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現、荒地山の鎮守也、孝霊天皇六十一年威霊を現とあり、
衆説区々なりしに老祀官の語けるは、上社は素盞嗚尊に田心姫湍津姫市杵嶋姫の三女をあはせ祭、下社は天照大日孁貴に正哉吾勝尊天穂日命天津彦根命活津彦根命熊野櫲樟日命の五男をあはせまつれり、 上の社下の社すへて十神なり、故に十羅刹女といふか、天暦の帝深此宮を崇、日の字を加たまふ、故に日御崎と号す、 古今祭礼不怠霊験惟新なり

上社が、素戔嗚尊+宗像三女神、と下社が、天照大御神+正哉吾勝尊・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命の五柱で、合わせて10神、それで、十羅刹女か?などと書かれている。だが女神は4神である。江戸時代の学者もよくわからないのだ。


神宮寺の関係だろうか。日御碕神社の神宮寺は、現在別の所にあり、曹洞宗であるが、曹洞宗島根第二宗務所のサイトによれば、 「天暦2(948)年62代村上天皇の勅願により、日御碕神社の境内に伽藍を創建、神宮寺と号し、別当職を司った。当時は真言宗だったと伝えられる。」とある。法華経の諸天善神を真言宗で祀るのか。


■中世の出雲神話


…と思っていたとき、平安時代の末期、御白河法王の撰である『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)の一節が浮かんだ。

「聖の住居ははどこどこぞ、箕面よ勝尾よ播磨成る播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日御碕、南は熊野の那智とかや」である。出雲の鰐淵寺や日御碕は、「聖の住所」ー山岳修験の拠り所として平安貴族の間でも有名なところであった。鰐淵寺は、修験道から天台宗に転じたと云われている。“寺に残る経筒には仁平元年から3年(1151 - 1153年)にかけて書写した法華経を「鰐淵山金剛蔵王窟」に安置したとの銘があり”(ウィキペディア 鰐淵寺 )かなり前から、比叡山延暦寺と関係があったという。


―ウィキペディアの記事を見ていて、このお寺の起源が、いかに古いのかということにびっくりした。あくまで伝承であるが推古天皇といえば、寺の創始段階ではないか。と、同時に出雲風土記になぜ書いてないのか不思議である。お寺にある仏像が、持統天皇時代のものもあるから、出雲風土記の時代には存在したと思われる。それと、日下部氏由来の日下町と、鰐淵寺が地図上では近いということ。彦坐王日下部氏ーつまりは和邇氏、あの鰐(わに)は、和邇氏から来ているんではなかろうか?同じ智春上人が開寺したという万福寺も日下町から近い。


中世には、出雲大社が神仏習合時代、鰐淵寺が別当寺であり、祭神は素戔嗚尊だった。そして、日御碕神社も、中世には杵築大社の末社に取り込まれていた時期もあったということなので、その関係で、法華経の諸天善神である十羅刹女として本地仏が位置づけられたのでは無かろうかとの思いが浮かんだ。

鰐淵寺を中心とした縁起では、釈迦が法華経を初めて説いた場というインドの鷲霊山(りょうじゅせん)の一部が砕け落ちて、海に漂っているのを、素戔嗚尊が引き寄せ打ち固めたのがの島根半島であるとされる。

奈良の出雲風土記時代にある、八束水臣津野命が新羅や高志などの国のあまった土地に綱をかけて引き寄せたという国引き神話が、仏教と習合して、素戔嗚尊がインドの鷲霊山のかけらを打ち固めたというものに変容したと思われる。


十羅刹女の伝説

『雲陽誌』のそもそもの伝説、「耕雲明魏記曰雲州日御崎の明神はすなはち杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現、荒地山の鎮守也、孝霊天皇六十一年威霊を現とあり」というところであるが、「花山院長親耕雲明魏」の「修造勧進状」(1422年)の文書には、「杵築大明神の季女である十羅刹女」は無い。
孝霊天皇六十一年十一月、月国の悪神が、荒地山(あらちやま)の旧土を復さんと欲して攻めてきた。日御碕霊神が、防いだというものだ。

日御碕神社の社伝では、
孝霊天皇六十一年(神話時代)十一月十五日、月支国王彦波瓊が、兵船数百艘をひきつれてわが出雲の日御碕に攻めて来た。なぜ攻めて来たかというと、むかし、日本の八束水臣津野命が、出雲の国を大きくしようというので、新羅の御崎から国の余りをひっぱって来て、今の杵築の御崎をつくりあげられたが、あれをとりかえすために来たのであった。さあ大変というので、日御碕では小野検校家の先祖・天之葺根命十一世の孫の明速祇命(あけはやずみのみこと)が防戦これつとめられた。また遠祖須佐之男命も天から大風を吹かせてこれを助けられた。そのために彦波瓊の大軍はことごとく海のもくずと化した。このとき彦波瓊の兵船がその艫綱を結びつけていたのが、今も沖合に見える艫島であるという”(石塚尊俊 編著『出雲隠岐の伝説』 第一法規発行)

社伝においては、日御碕神社の宮司家の祖先である明速祇命となっているが、石見地方での伝説では、それが胸鉏比売(むなすきひめ)であったり、田心姫(十羅の賊を滅ぼし、十羅刹女の名を賜わう)となっている。 詳しくは→ ウィキペディア 胸すき姫 

石見神楽での演目「十羅」では、彦羽根という鬼神と戦うのが、素戔嗚尊の末女である十羅刹女となっており、「雲陽誌」の「杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現」と合致する。




■素戔嗚尊の末娘はだれか

石見地方での伝説から考えると、素戔嗚命の末娘は宗像三女神の田心姫であると思う。しかし、記紀では、確か田心姫は長女であるはず。しかし、日本書紀の本書では最初に生まれた女神であるが、『日本書紀』第一の一書(別の説)では、3番目に化生し、名は「田心姫」で、辺津宮に祀られる。とある。『日本書紀』第三の一書でも、3番目に化生し、名は「田霧姫」で、辺津宮に祀られるとある。
『古事記』では、田心姫が大国主神との間に阿遅鉏高日子根神と下照姫(したてるひめ)を生むとしているが、富家伝承では、天之冬衣神の妻神である。

日御碕神社境内社 宗像神社

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日御碕神社の境内社 宗像神社であるが、自分が調べる限りでは。宗像三女神を祀っているのではなく、田心姫命を祀っているようだ。
もしや太古、太陽の巫女神として田心姫命を祭っていたのではないか。
また、本地仏として十羅刹女になったいきさつは、全く不明であるが、女傑の宗像族が日本海を行きかっていたということから来ているのではなかろうか。しかし、九州の宗像大社の奥津宮の本地仏は、大日如来となっていて十羅刹女ではないが。
あくまで、私の想像である。

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# by yuugurekaka | 2018-08-13 18:09 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)

1)経

経島(ふみしま)は、お経の本を載せる机のように見えるから、その名が付いたそうだ。「文島」又は「日置島」とも云う。出雲風土記時代、日御碕神社の下社ー日沉宮(ひしずみのみや)の元宮であるの「百枝槐社(ももええにす)」があったと云われている。
日御碕神社の神域として一般の上陸は禁じられている。8月7日の例祭(「夕日の祭り」)、神官が経島に上陸し、現在の経島神社において神事が行われる。

沈む太陽と経島

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日沈宮の御由緒は、次の通り。

日沈宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(ふみじま)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦二年(約一千年前)に勅命によって現社地に御遷座致されたのである。経島に御鎮座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞鳴尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮まりて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり。命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎祀り給うたと伝う。
 又『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沈宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』と天平七年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。かように日御碕は古来夕日を銭け鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇敬せられたのである。
 そして、安寧天皇十三年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇二年勅命により島上に紳殿が造営された(出雲国風土記に見える百枝槐社なり)が、村上天皇天暦二年前記の如く現社地に御遷座せられ、後「神の宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。


現在の日御碕神社は、寛永21年(1644年)徳川三代将軍家光の命によって造営されたもので、権現造りである。日光東照宮建立の翌年寛永14年より建立着工し、7年の歳月をかけて完成した。

当時は、現在の上社・下社、楼門・廻廊等に加えて、薬師堂・多宝塔・護摩堂・大師堂・三重塔・鐘楼などが建立されていた。(明治の神仏分離により、仏塔の類は解体されてしまった。)だから、現在の日御碕神社が、江戸時代そのままというわけではない。

日御碕神社  島根県出雲市大社町日御碕455
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日御碕神社楼門   島根県出雲市大社町日御碕455


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江戸期の地誌『懐橘談』を見ると、

『懐橘談 下』(前編1653,後編1661)
“耕雲明魏記に云 雲州日御崎大明神と即杵築大明神の季女に而十羅刹女の化現也 荒地山の鎮守也 孝霊天皇六十一年現霊異云々
一説には伊弉冊尊(ママ)軻遇突智を斬て剣の鐔より垂血激越て神となる 甕速日神次に熯速日神と申奉るこれ御崎の明神ともいへり
衆説まちまちなりしに詞官の語りけるは 上の三社は田心姫湍津姫市杵嶋姫の三女に素盞烏を合祭せり 下の五社は正哉吾勝尊天穂日命天津彦根命活津彦根命熊野櫲樟日命五男に天照太神を合祭りて 上の社下の社で都て十羅刹女と崇奉りし故に杵築より先此宮にまいり下向して大社は参り侍る古法なり

となっている。造営の時点の祭神は、上社ー素戔嗚尊と宗像三女神、下社ー天照大御神と正哉吾勝尊(アメノオシホミミ)・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命、(いわゆる「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」神話の構成になっている)となっていることがわかる。しかし、「衆説まちまちなりし」ということで、昔からそうだったかといわれると怪しい。
中世には「杵築大明神の季女(末娘)に而十羅刹女」というように「十羅刹女が祭神」の社のようにもなっていた。大国主命の末娘は、だれかとすぐ思いがちだが、中世の杵築大明神とは素戔嗚尊であった。

2)日の出日の入りの角度

日置というからには、夏至(太陽が一番強い日)、冬至(太陽が一番弱い日)の日没の方向が関係があるのではないかという説に基づいて、自分も考えてみた。自分は、その説には腑に落ちた感じはしない。でも、いろいろと線を引っ張って、一応やってみる。
便利なサイトがあった。→ 日の出日の入り時刻方角マップ

そのサイトを利用して日御碕神社の周辺に地図に線を引いてみた。赤い線が、夏至の日の出・日の入りで、黄色い線が冬至の日の出・日の入りである。上社の元宮ー隠ヶ丘に中心に置くと、冬至の日の入り線上に、経島がある。

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次に宗像神社を中心に置くと、夏至の日の入り方向に経島神社がある。
ちなみに、現在の日御碕神社を見ると、上社は夏至の日の出方向の角度に沿って建っているが、下社の方は、夏至の日の入り方向とは、少し角度がずれていた。

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実際に宗像神社の前に立ってみたが、経島の方向は見えなかった。
残念ながら、経島に沈む太陽を奉拝する場所でも無いようである。まあ よくわからない。
しかし、これは現在の祭祀場を踏まえての考察である。

3)日御碕神社 海底遺跡

『大社史話 第167号』(平成23年6月23日発行 大社史話会)の岡本哲夫さんの文章を見て、大変驚いた。
海面上昇や地殻変動に伴い、いままで地上にあったものが、海底に沈んでしまったという祭祀遺跡が、日御碕の海底で発見されていたというのだ。
インターネットで検索したら、いろいろと出てきた。



参道、石段や岩屋だとか、写真やYOUTUBEの動画を見る限り、祭祀場のように見える。

いつの時代、海底に沈んだのかわからないが、一つの説として、880年の出雲地震が考えられている。(「三代實録」に 「二七日丁未、出雲國言、今月十四日、地大震動、境内神社佛寺官舎、及百姓居廬、或顛倒或傾倚、損傷者衆、其後迄干二十二日、晝一二度、夜三四度、微震動、猶未休止、」と、ある。)ただ、海底に沈むような大きな地震ならば、当然出雲大社が倒壊しても不思議はないが、そういう記事はない。全くもって謎である。

日御碕神社の宮司さんから、経島で行われている夕日の神事が、昔は沖にある「タイワ」の瀬で行われていたという言い伝えを聞いたそうである。もし、経島ではなく、その海底遺跡で神事が行われていたのなら、夏至の沈む方位線もまた別のところに向かって引かれることになる。

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# by yuugurekaka | 2018-08-06 09:08 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)