■ 祭神
熊野大社の説明板によると、熊野大社の祭神は熊野大神櫛御気野命であり、素戔烏尊の別名とされている。
しかし、祭神は歴史に伴って代わるものである。
あの出雲大社の祭神でさえ、中世には大国主命から素戔嗚命に変わってしまった。だから、熊野大社の祭神も変わっていたとしても不思議はない。
富家伝承(斎木雲州著『出雲と蘇我王国』大元出版)によれば、熊野大社の祭神はサイノカミ三神(クナド大神、佐毘売神、猿田彦大神)と事代主命であったそうである。

出雲国造出雲臣廣島 編纂の『出雲風土記』(733年)の意宇郡の出雲神戸(いずもかんべ)の説明に
伊弉奈枳(いざなぎ)の麻奈子(まなこ)、熊野加武呂乃命(くまのかむろ)」とある。
イザナギの命の愛しい子どもとあり、熊野の「神聖な祖神」と解釈されている。男神なのか女神なのか具体的にはわからない。

さらに、『出雲国造神賀詞』(716年~833年 文献に載っているのは)には(いつの段階の文書かわからないが)
「伊射奈伎乃真名子(いざなぎのひまなこ)加夫呂(かむろぎ)熊野大神櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」(太字は私)とある。「まなこ」の上に「日」が、付いている。イザナギの命の真奈子で日の神は、天照大神である。だったら、女神かと思いきや、」が付いているので男神である。女神の場合、加夫呂美(かむろみ)となるはずだ。そして、具体的な名として、「櫛御気野命とある。霊妙な
食物の神あるいは穀物霊ということだ。出雲国造が奉祭する神なので、初代 天穂日命を想定したものだとわかりやすいが、天穂日命は、天照大御神の子なので、イザナギの子では無く孫に当たる。

クナト大神も、記紀では、イザナギの命が、黄泉の国から逃げかえるときに発生した神であり、『古事記』では、衝立船戸神で、『日本書紀』一書においては、岐神(元の名は来名戸祖神)なっており、イザナギのマナ子とも言えなくもないが、記紀成立以降、朝廷に赴いて出雲国造が、述べるとなると、三貴神を指すと思われる。思われるが、たいへん歯切れが悪い。須佐之男命と断定されるにいたったのは、物部氏の伝承と云われる『先代旧事本紀』~大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前に成立したとみられている~が、影響しているのだろうか。

「御鼻をお洗いに成った神のお名前は、建速素戔烏(たけはやすさのお)尊(みこと)と申し上げる。出雲の国の熊野・杵築の神社(島根県松江市八雲町熊野の熊野大社・出雲市大社町杵築の出雲大社、旧簸川郡)におられる。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社)

ただ、この文章からは、おられるというだけで、熊野大神は素戔嗚尊であるとは書かれていないし、もし主祭神のことを指すのであれば杵築大社がすでに大国主命から素戔嗚尊に変わっていたことになる。
また大きな古い神社は、社家が一つとは限らない。社家ごとに、複数の社が有って、別々の神を祀っていたのであろうか。

■ 『初天地本紀』
平安中期の『長寛勘文』に引用される『初天地本紀』──紀国の熊野信仰について述べられた文章であるが、出雲国の熊野大社についても書かれている→ウィキペディア 長寛勘文  ──によると、

「伊謝那支命(いざなぎのみこと)が恵乃女命(えのめのみこと)を娶(めと)り、大夜乃売命(おおやのめのみこと)、足夜乃女命(たるやのめのみこと)、若夜女命(わかやめのみこと)の三女神を生んだ(このうち大夜乃売命は熊野大神の妃となる。)ところが、陸上に立ち給うとき、左肩を押し撫でたときに加巳川比古命を、また右肩を押し撫でたとき熊野大御神加夫里支久之弥居怒命(かぶりしみけぬのみこと)を、また髻中(もとどり)から須佐乃乎命(すさのおのみこと)を、それぞれ化成した。次に、「此時金国之八熊野之波地降来伊豆(毛)国、到熊野村、柱太知(ふとしり)奉而加夫里支熊野大御神地祇神皇又御児后大夜女命、山狭村宮柱太知奉而、静坐大御神云是也」(松前 健 著作集 第8巻 ㈱おうふう より)(太字は私)

この『初天地本紀』によれば、熊野大神は、素戔嗚命の兄弟であり、素戔嗚命とは別神となっている。そして、同じイザナギの命の娘の大夜乃売命が、熊野大神の妃神であり山佐村に鎮座しているということだ。
記紀とは全く別の筋立てであるが、この熊野山の東側には、「延喜式」の「山狹神社」「同社坐久志美氣濃神社」に比定される、山狭神社二社(上山神社・下山神社)が存在する。熊野山(天狗山)の反対側で、同じ神ークシミケㇴの命を祭っていたわけである。

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山狭神社(上山狭神社)  島根県安来市広瀬町上山佐598   


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山狭神社(上山狭神社) 拝殿 


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この熊野大神の御妃の「大夜乃売命」であるが、松前 健氏の解説だが、
「内遠は、イザナギの禊ぎの際に生まれた大綾津日神の女性形だと考えたが、かなり無理である。重胤は、大屋津姫命の母神でスサノヲの妃神の一人だと考えたが、そんなにまわりくどく考える必要もない。実は端的に大屋津姫の異名にほかならない。オホヤノメもオホヤツヒメも、つまるところは所有格の助詞「ノ」と「ツ」の違いだけで、同じ神に過ぎないのである。」(松前 健 著作集 第8巻 ㈱おうふう)

ちなみに大屋津姫命は、記紀において、五十猛命の妹神となっている。

山狭神社(下山狭神社) 島根県安来市広瀬町下山佐1176


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山狭神社(下山狭神社)境内社  久志美気濃神社  扁額  

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熊野山から流れ出る水が、西には意宇川に、東は山佐川に流れて飯梨川と一つになり、野城の大神の鎮座する飯梨平野に流れていく。

山佐川 

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■ 参考文献 ■ 萩原龍夫・石塚尊俊・中野幡能 著 『仏教文化選書 神々の聖地』 株式会社佼成出版社  

# by yuugurekaka | 2018-04-18 19:28 | 熊野大社 | Trackback

■ 熊野山

『出雲風土記』に載っているカンナビ山は、平野部から概ね山の姿がよくわかる。しかしながら、熊野山(現 天狗山)の山容は麓の熊野大社からも見えない。
どこから見えるのだろうかと、場所を探すがなかなかその場所が見つからない。
地図上で見ると、須賀神社の奥宮がある八雲山がちょうど西側に位置する。そこで、八雲山に登ってみて、写したのが下の写真である。


東出雲地方(旧八束郡・旧松江市)の中では、最も高い山で、610.4メートルある。

麓から仰ぎ見て拝む山ではないように思う。現在は、天狗山というが、過去には天宮山とも云ったという。『出雲風土記』(733年)の時代は、熊野山と云い、熊野大神の社があったと書かれている。


熊野山。郡家の正南一十八里の所にある。〔檜(ひ)・檀(まゆみ)がある。いわゆる熊野大神の社が鎮座していらっしゃる。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


グーグルアースの地図から見る熊野大社と天狗山の位置


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天狗山の登山者用の駐車場に止めて、歩いて行った。始めは、登山道ではなく林道を歩いていく。


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意宇川に流れる熊野山の川を左手に見ながら、道を歩いていく。山の間から、水がしみ出していた。そこでは、平野部では聞いたことのないような、不思議なカエルの声がする。そのカエルの正体を見ていた。黒っぽい痩せっぽちのカエルだった。


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いよいよ登山道の入り口に到達した。


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突然細い登山道となった。傍らに小川が流れていた。


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谷の左手の細い道を登って行ったが、小川の源流というか、

山水が湧き出ているところに来た。「意宇の源」と表示されていた。


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『出雲風土記』にも、意宇川に熊野山が水の源と書かれていた。実際には、ここだけではなく、山のいろいろな場所から水が湧き出て、川になっていると思う。


意宇(おう)川。源は郡家の正南一十八里にある熊野山から出て北に流れ、東に折れ、流れて入海に入る。〔年魚・伊具比がいる。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


■ 元宮 


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笹が生えているところが多くなった。

駐車場から約1時間、『斎場』と書かれている所にきた。その先には、「磐座」(いわくら)が見える。


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説明板によると、熊野大社の斎場跡(祭場跡)で、元宮平(げんぐがなり)と云われている地で、磐座のあるところが熊野大社の元宮だという。『日本書紀』(720年)の斉明天皇五年(659年)に「出雲国造に命じて厳かな神の宮を建てさせた。」との記述があるが、それまでは磐座をご神体として、祭祀のみが行なわれていたのだろうか?

“人間が五穀豊穣や国家の安穏を祈る際にはカミの来臨のために「ヒモロギ」(神籬)や「岩クラ」などと呼ばれる臨時の神の座を作って、そこにカミを招請して、数々の食べ物を捧げ、祈願する。祈願が済むとカミは帰還せられる。そのありかは定かならぬものである。カミはいつも天や山などの高いところなど、人界とは隔絶した場所にいて、人間には見えない存在だった。”(大野晋著『日本人の神』河出文庫)

古代において、より高い山の頂の近くに神は降臨する存在として考えられた。
神は漂い彷徨し移動する存在と考えられ、それゆえ山の麓に依代としての神社そのものが麓に移動してきたとも考えられる。  

 


# by yuugurekaka | 2018-04-03 00:32 | 熊野大社 | Trackback

「謎」と言えば、すべてが謎である。だから、題名にいちいち「謎」というのも考えものかもしれない。ただ、「真実の」とか肩肘はっていうつもりは全くない。
まずは、この「熊野」という名称である。紀伊国の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)も同じく「熊野」で有名であるが、なぜ同じ「熊野」という名のだろう

■ 奥まった所 説

熊野大社拝殿  島根県松江市八雲町熊野2451番

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当然ながら、古い言葉は、漢字の当て字なので、熊、熊野は、動物の熊とは関係なく、「くま」という言葉がどのように使われているかということから考えないといけない。

たとえば、『出雲風土記』(733年)の飯石郡・熊谷郷の記載に 
久志伊奈太美等与麻奴良比売くしいなだみとよまぬらひめいのちが、妊娠にんしんして出産しゅっさんしようとなさるときに、生むうむところお求めおもとめになった。そのときにここにきておっしゃられたことには、「とても奥深い【原文久々麻々志枳くまくましき】谷である。」とおっしゃられた。だから、熊谷くまたにという。”
(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)と、ある。

ここでは、「奥深い」という意味で使われている。

熊野という地名は、全国にあり、丹後国では、「熊野郡」なる郡名(現 京丹後市の久美浜町各町)として使われている
また、紀伊国は大化改新(645)まで、北部は木国、南部は熊野国と呼ばれ、それぞれ国造が置かれていた。(ちなみに熊野国造は、饒速日命の後裔で物部氏である。)
紀伊続風土記』(1839年)には、「熊野は隈(くま)にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱(おううつ)なるを以て名づく」と書かれている。

漢字は違うが、肥後国に「球磨郡」(くまぐん)(現 熊本県 南部)もある。

それぞれ、奥深い谷のようなところにある。


■ 神 に供 え る 米 あるいは神そのも 説 


「くま しね 」(奠稲・糈米) という言葉がある。『大辞林 第三版』によると、


“神仏に捧(ささ)げる洗い清めた白米。洗い米(よね)。お洗米(せんまい)。くま。おくま。” 


「くま」だけで、神に奉る米を意味する。また、「しね」自体が、「米」の古語なので、「くま」自体が、神と同義語なのかもしれない。

神のカミはクマからきたとする説もある。神に供える米はクマシネ(供米)と表記されるが,供米と表現される以前に,クマには隠れるという意味があった。すなわち,奥深く隠れた存在をカミとし,そこから発現してくる力を畏怖したものとみている。“(平凡社 世界大百科事典 第2版 )


『古事記』では、紀伊国の熊野村の起源が、神武天皇の東征神話に出てくる。 “大熊 髣(ほの)かに出で入りてすなはち失せき。

通説的現代語訳では、熊野村についた時に大きな熊が現われ、見えたり見えなかったりして、消えてしまう。すると、神武天皇は病に倒れ、東征軍も皆倒れ伏してしまう。


これも熊という動物と云う必然性も無く、先住の荒ぶる神ー三輪山の大神と同じく、大熊と表現としているともとれる。『日本書紀』では、「大熊」は登場せず、女首長「名草戸畔」や、「丹敷戸畔」の名前が出てくる。丹敷戸畔」が誅されたとき、神が毒気を吐いて東征軍を萎えさせたとある。


■ 稲作の初期段階


今でこそ、田圃は広大な平野にあるが、古代はむしろ奥深い谷間にて稲作が行なわれていた。広大な平野部での稲作は、大規模な治水灌漑事業を必要とする。


“水田稲作農耕は用水路と排水路が整備された水田を必要とする。中世末までは、土木技術や国家的統率力は未熟だったため、水田は、大河川流域にではなく谷戸(谷田)と称する河川支流の小さな谷間の流域につくられるか、小さな溜池の周りにつくられた小規模水田群であったという。実際平安時代から室町時代のなか頃まで、耕地面積はほとんど増加していない。”(伊藤松雄著『里の植物観察記』 春風社)


熊野大社前を流れる意宇川


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参考 

法政大学 『日本古語 と沖縄古語 の 比較研 究 一 熊本 ・ 熊襲 ・八 十隈の 「 くま」 を解 く一 外間 守善』



# by yuugurekaka | 2018-03-22 21:46 | 熊野大社 | Trackback

■もう一つの神戸

なぜに出雲国の県境のところに賀茂神戸があるのかということをテーマに考えてきたが、賀茂神戸とは別にもう一つの神戸が、出雲風土記(733年)から、『新抄格勅符抄』大同元年牒(806年)の間に発生していることに後から気づいた。能義郡にとは、どこにも証拠がないわけだけれども、出雲風土記に書かれている話でゆかりがありそうな場所は、能義郡にしかなさそうに思う。

『新抄格勅符抄』大同元年牒(806年)によれば、

大和神 三百廿七戸 勝宝元-十一月十四日奉レ充三百戸廿七戸不レ見奉レ充年 大和廿戸 十戸 神護元-奉レ充 尾張七戸 常陸百戸 出雲五十戸 武蔵五十戸 安芸百戸 

この大和神がどこの神社かと云うと、
奈良県天理市
新泉町星山にある大和神社(おおやまとじんじゃ)と比定され、祭神が倭大国魂神を祭っている。この倭大国魂神であるが、日本書紀崇神天皇の時代に記載ある有名な神だ。天照大御神が大和にいられなくなり伊勢神宮に鎮座するまで彷徨う羽目になった原因でもある。 

大和神社拝殿 奈良県天理市新泉町星山306
中殿に、日本大国魂大神 左殿に八千戈大神 右殿に御年大神を祭っている。

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                                 By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, Link


これより先、天照大神、倭大国魂の二神を天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鋤入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籬を造った。また日本大国魂神は渟名城入姫命に預けて祀られた。ところが、渟名城入姫命は、髪が落ち、体が痩せてお祀りすることができなかった。〟
                         
〝このとき倭大国魂神が、穂積臣の先祖大水口宿禰にのりうつっていわれるのに、「最初はじまりのときに約束して、『天照大神はすべての天原を治めよう。代々の天皇は葦原中国の諸神を治め、私には自ら地主の神を治めるように』ということであった。…後略…」
       (『全現代語訳 日本書紀 』宇治谷 猛 講談社学術文庫)

ここだけを読むと、この倭大国魂神は、須佐之男命と思える。一説には大国主命の荒魂とも言われている。しかし、後の記述を見ると、どうもそうは思えない。
体が痩せ細ってお祀りすることができなかった渟名城入姫命に代わって、大倭直の祖の、長尾市宿祢(市磯長尾市)に命じて、倭大国魂神を祀らせる。三輪山の大物主命をわざわざ子孫の大田田根子命を探し出し祀らせる話があるが、その時、大田田根子命とセットで記述されているので、おそらく、市磯長尾市は、倭大国魂神の直系の子孫であると思われる。

■倭国造

大倭直の祖(倭国造の祖でもある)というならば、ヤマト王権の中心のようなものである。
しかし、『新撰姓氏録』(815年)では、天神ではなく地祇」となっている。 

大和国 神別 地祇 大和宿祢 出自神知津彦命也

それもそのはず、この長尾市宿祢の祖の「神知津彦命」(別名宇豆彦」「椎根津彦」「倭宿禰」と云う)は、記紀において、イワレヒコ天皇(神武天皇)の東遷に亀に乗ってやってくる大和までの導きの「国津神」として登場してくる。話の筋書上、饒速日命以外天神は大和に先に居てはならない。(ちなみに長尾市宿祢は 宇豆毘古の7世孫)
海部氏本系図(『籠名神社祝部氏係図』)では、始祖天火明命-天香語山命-天村雲命亦名天五十楯(妃-伊加利姫)-倭宿禰 と、海部氏4代目なので本来「天神」のはずだが、対物部氏(神武天皇)との兼ね合いで、「国津神」を名乗るしかなかったのか。
また、『古事記』孝元天皇の段に「木国造之祖宇豆比古」とあるが、紀氏の祖と同じ人物なのだろうか。

富家伝承では、初代天皇は、丹波から南下した天村雲命で、後代の物部氏の東征神話が挿入され、初代が入れ替えられたという。また、富家伝承のように須佐之男命=天火明命(=饒速日命)と考えると、倭大国魂神=須佐之男命となって、たいへんつじつまが合ってくる。

■能義郡の大和神戸


能義郡に大和神戸があったとの記載はどこにもないが、
『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)(931年 - 938年)の郷名に「賀茂郷」と「神戸」が別々にある。『出雲風土記』(733年)の時代には、「神戸」=「賀茂神戸」であった。

能美郡

  舎代 安來 楯縫 口縫 屋代

  山國 母理 野城 賀茂 神戸


私は、初めに賀茂神社のあるところが、安来郷から分解して、賀茂郷になったのかと勘違いしてしまった。要は「飯梨郷」が無くなっているわけで、安来市利弘の賀茂神社の周りが、「賀茂郷」になったか、あるいは、賀茂郷は、大塚町の「賀茂神戸」のままで、飯梨郷に新たに神戸が発生したと考える方が自然である。出雲風土記(733年)の記載に、


飯梨郷(いいなしのさと)

〝郡家の南東三十二里なり。大国魂命、天降りましし時、ここに於て御膳食し給いき。故に飯成(いいなし)と云う。【神亀三年(西暦726年)に字を飯梨と改む。】〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)


と、あるのでこれほど縁のあるところは無いと思う。

意多伎(おたき)神社 本殿 島根県安来市飯生町679

大国魂命を祭る。


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■出雲国の氏族

海部氏の始祖であると思われる大国魂命だが、単に朝廷に押し付けられただけでなく、現地にその海部氏やその後継氏族(紀氏)がいたのではないかと思うその眼で、出雲風土記を見ると、意宇郡(能義郡も含まれる)の郡司(701年に編纂された大宝令により、評が廃止されて郡が置かれ、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備された。)のところで、「主帳 無位海臣」が見える。臣姓だが海部氏ではないだろうか。また、「主政 外少初位上勲十二等林臣」も見られる。これも、紀氏の羽田矢代命の後也の林臣でないだろうか。

そうして考えると出雲国で、須佐之男命を祭神とする神社が、多く分布するのは、海岸の方と、山間部である。いわゆる大国主命・事代主命を祖とする本家の出雲族ではなく、同族となった海部氏や紀氏の氏族の関係から分布の理由があるのではないか。





# by yuugurekaka | 2018-02-21 20:32 | 賀茂 | Trackback

木野山神社と木山神社について、なかなかその由来がわからなかった。
しかし、安田荘の八幡宮の事を調べている際に、『伯太町誌』の中で、それを見つけた。

“木野山神社
  大山祇命
  東母里 才ヶ峠
 明治初年悪病流行の際、これを食い止めるため同十三年四月二四日、岡山県上房郡津川町木野山神社より「家運長久家内安全」を祈願し 大山祇命を勧請したもの”(『伯太町誌』下巻)

明治時代の初めに岡山県の 高梁市の木野山神社から勧請とある。明治の初めの「悪病流行」とは何かと調べたら、それはコレラの流行とわかった。
ウィキぺディアによれば(→ウィキペディア コレラ )、最初の世界的大流行が日本に及んだのは1822年(文政5年)で、幕末から明治の半ばまで大流行し、多数の死者を出したようだ。近代医学の未発達の時代に、当時の人は妖怪「虎狼狸」(→ウィキペディア 虎狼狸  や動物霊の仕業と考えたようだ。

中部・関東では秩父の三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属とし憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆した。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられている。”(ウィキペディア コレラ より

本宮の木野山や木山の地名そのものが紀氏と関係がないとは思わないが、全く的外れの記事を書いたものだ。伯耆や能義郡に分布する木野山神社は、紀氏の足跡とは全く関係が無く、明治時代の初期に建立されたものだった。

■ 木野山神社 

岡山県高梁市津川町今津にある木野山神社は、社伝によれば、伊予国越智郡宮浦村から大山祇命他五大神を勧請したことに始まり天暦9年(955)の創建の古社である。木野山山頂に奥宮、麓に里宮が存在する。正殿に大山祇命、相殿に豊玉彦命・大国主命、末社に高龗神(たかおかみのかみ)・闇龗神(くらおかみのかみ)が、祭られている。神話では、伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとされている。( 高龗神は、京都の貴船神社の祭神である。)

この高龗神・闇龗神が、ここの神社では「狼さま」として信仰されており、コレラを「虎列刺」と書くことから「狼は虎より強い」ということが流布されて、狼を祭る木野山神社の信仰が広まった。明治9年に講社が創設され(木野山講)、コレラの流行とともに、講社は爆発的に増大し、岡山県下のみならず、鳥取県、島根県、広島県、愛媛県、徳島県にまで及んだ。コレラが岡山県下に流行した時も疾病退散祈願のため参詣者が木野山神社に殺到し、県が二次感染を恐れたため、木野山参り禁止の布告が出されたほどだった。

島根県では1879年6月ごろから流行し始めた。

“この爆発的に木野山信仰が拡大した1879年8月に、山陰においても木野山神社の講社に加入する地域が数多くあった。最も多いのが米子市街とその周辺部の会見郡で56講社、次は備中国に隣接する日野郡で22講社、出雲国では能義郡5講社、島根郡3講社、意宇郡1講社、楯縫郡3講社だった。松江市域の講社は、新材木町(島根郡)の三つの拝礼講社と横浜町(意宇郡)の1講社だけだが、記述の通り1879年8月の加入記録の半分しか現存しないことを考えると、松江における同時期の加入講社は他にもあった可能性がある。”
(喜多村理子『明治期における伝染病の大流行と民間信仰』  松江市歴史叢書7 松江市教育委員会発行 より )

■ 木山神社 

『伯太町誌』によれば、安田八幡宮の境内社 木山神社は、文政13年(1830年)に美作国から勧請とある。
伯耆や出雲の神社の境内社に見られる木山神社であるが、木野山神社のような文献が見られず、はっきりしたことがわからないけれども、木野山神社と一緒に祭られているところを考えると、これも岡山県真庭市木山の木山神社を勧請したものなのかなあと想像する。
場所は、同じ岡山県でも木野山神社よりは鳥取県伯耆地方にはるかに近い距離にある。

木山神社は、元は木山寺と共に神仏習合の「木山宮」として祀られてきた。元々は今の奥宮が本宮で、明治になり神仏分離政策により木山神社と木山寺に別れる。( →ウィキペディア 木山寺 

木山寺 岡山県真庭市木山1212番地

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木山寺は、高野山真言宗の別格本山で、平安時代前期の弘仁6年(815年)に弘法大師が開いたとされる。医王山感神院と号す。
この寺は鎮守神として木山牛頭天王と善覚稲荷大明神を祀っており、木山牛頭天王は薬師瑠璃光如来、善覚稲荷大明神は十一面観音の垂迹神となっている。牛頭天王は、素戔嗚尊と習合しており、木山神社は京都祇園の八坂神社の御分霊を祀っている。

この八坂神社の祇園信仰だが、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとした信仰である。
だから、コレラ等の流行にも関係があるのではないかと思う。

木山神社自体の創建は、社伝によれば、弘仁7年(816年)で、農耕植林・牛馬殖産の神として、伯耆や出雲等からの参詣もあったという。『角川日本地名大辞典』によれば,
“明治以後、美作・備中北部を中心に京阪神、広島県に及ぶ敬神講・木山講が多数組織された。”
と、ある。伯耆や出雲でも木山講はあったかどうかわからないけれども、境内社でよく見られるから、その可能性はあるのではないか。

岡山の木山神社・木野山神社を勧請したものだとして、改めて大塚八幡宮の境内社ー木山稲荷神社を考えてみる。
お稲荷さんー狐だと思っていたが、よく見ると形が狐とは違っている。それに位置が、左側の木野山神社の方に偏っている。
これは、木野山神社の狼様なのだろう。

木山神社の霊験高い「善覚稲荷大明神」と木野山神社の「狼様」の霊験の二重のパワーで、明治時代初期の伝染病を鎮めるために祈祷が行なわれたのではなかろうか。

大塚八幡宮境内社  木山稲荷神社
右手が木山神社で、左手が木野山神社である。

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# by yuugurekaka | 2018-02-17 07:00 | 賀茂 | Trackback

出雲国の賀茂神戸から、伯耆国会見郡まで なんとなくであるが、紀氏の足跡と言うかそういうものを感じるのであるが、
奈良時代の官道という街道や関所は、どの氏族が担っていたのだろうとの疑問が出てきた。
海部(あまべ)・錦織部(にしごりべ)・土師部など、様々な部民制があったが、国土交通省のような部があったかどうか。
もしかしたら、紀氏が、掌握していたのかなと、──ここ伯耆国と出雲国につながる官道だけかもしれないが──、思った。

紀氏の羽田矢代命の後裔に、 道守臣というのがおり、姓氏録に
○左京皇別 道守朝臣 - 波多朝臣同祖。波多矢代宿禰の後。
○河内国皇別 道守朝臣 - 波多朝臣同祖。武内宿禰男の八多八代宿禰の後。
○河内国皇別 道守臣 - 道守朝臣同祖。武内宿禰男の波多八代宿禰の後。
○和泉国皇別 道守朝臣 - 波多朝臣同祖。八多八代宿禰の後。

と、ある。道守臣(ちもりおみ)が、字面から、道路を守るみたいに勝手に想像してしまう。
インターネットで道守臣を検索した。『先代旧事本紀』には、
開化天皇の御子に武歯頬命(たけはづらのみこと)がおり、道守臣(ちもりおみ)らの祖とある。
賀茂神戸の南に母理郷(もりごう)があるが、大国主命がせめて出雲国 を守るということに由来していると『出雲風土記』にあるが、
道守臣に関係していないだろうか。

出雲国と伯耆国の境界は、「手間剗」(てまのせき)という関所で、出雲側の安田関が比定されている。
しかし、手間の剗というなら、手間山の麓にあってこそ、手間剗だろうと思うのでちょっと釈然としない。それとも高速道路の入り口・出口みたいに、出雲国側と伯耆国側に別個にあったのだろうか。

■ 八幡宮の系統

賀茂神戸があったところも平安時代の終わり頃には、京都の石清水八幡宮の荘園に飲みこまれてしまったものと思われる。
さて、その八幡宮であるが、八幡宮にも勧請なり別宮とする本宮にも系統がある。しかしながら、様々な歴史を経て、どこから勧請したかわからなくなっていることも多いようだ。主な八幡宮の系統を示す。

①宇佐神宮 大分県宇佐市にある神社であり、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。(→ ウィキペディア 宇佐神宮 
 朝廷とのかかわりが最も古く、『新抄格勅符抄』延暦17年(798年)には1410戸、比咩神の封戸600戸で合わせて2010戸の日本最大の封戸をもつ神社であった。

②石清水八幡宮 貞観元年(859年)僧である行教(空海の弟子)が宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860年)清和天皇が社殿を造営したのが始まりと云われる初代神主には行教の甥・紀御豊が任じられ、以後も紀氏(田中・善法寺の二家)が社家として、今日に至る。(→ ウィキペディア 石清水八幡宮 

③鶴岡八幡宮 康平6年(1063年)源頼家が石清水八幡宮の分霊を相州由比郷(鎌倉の材木座1丁目)に祭ったのが始まりで、火事により焼失したので、源頼朝が建久2年(1191年)が現在の小林郷北山に造営して、改めて石清水八幡宮から勧請した。大伴忠国が初代の鶴岡八幡宮神主となり、大友氏も社家として今日に至る。 (→ ウィキペディア 鶴岡八幡宮 

出雲国の八幡宮の勧請の有り様だが、本宮は、石塚尊俊著「『雲陽誌』に見る勧請神社の研究」によれば、宇佐系10社、鶴岡系8社、石清水系11社その他3社、不明57社である。だが世の中の移り変わりで、再勧請というのもあるようだ。
いつの時代に勧請してきたかということもあるが、なぜにその神社を勧請するのかは、どこから原因が来るのであろうか。理由として、そこに分布した有力な豪族や氏族の存在なしでは、勧請されないように思う。

突然不連続に武家の社会に変わったわけではないのだろう。

■ 安田荘

八幡宮の保元3年(1158)十二月三日 『石清水文書』 左弁官下文によれば、出雲国には八つの石清水八幡宮の別宮があった。その時点で、八か所以上できていた国は、山城・河内・但馬・出雲の四か国だけだそうだ。出雲国の別宮は以下の通り。

横田別宮 安田別宮 赤穴別宮 枚浜別宮 日蔵別宮 新松別宮 白上別宮 大田別宮

この八宮であるが、一つ一つを調べたら、社家が紀氏であるので、おそらく何らかの足跡なりはあるのだが、荘園になる前から、紀氏の存在を裏づけるものがあるのだろうか?
どのように勧請してきあのであろうか。なんらかのゆかりが必要ではなかろうか。ちなみに、枚浜別宮は、松江の平濱八幡宮・武内神社である。

さて、その安田別宮の荘園であるが、大塚町の「服部」、確たる証拠は無いが賀茂神戸があったと云われている場所を含んだ地域であった。

安田荘要図
郷土出版社発行『松江・安田ふるさと大百科』より、転載。

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石清水八幡宮では、荘官(下司)を派遣し、現地の有力名主を下級荘官(公文)に任せて運営されていた。
しかし、承久の乱後、鎌倉幕府が地頭を江戸四郎太郎重持に任命した後、徐々に八幡宮の荘園が地頭に侵されて、寛元2年(1244)の下地中分によって南方が、石清水八幡宮領家分、北方が地頭分となるに至った。
 北谷(北安田村)・上清瀬村・吉佐村=地頭分
 南谷(安田中村・安田宮内村・未明村・安田関村・安田山形村)・服部村=領家分

■ 安田別宮

安田荘だった地域に八幡宮が二つある。一つは北谷の安田八幡宮(伯太町安田)ともうひとつは南谷の安田宮内八幡宮(伯太町安田宮内)である。

北谷の安田八幡宮の由緒であるが、『神国島根』(島根県神社庁発行 昭和56年4月)によれば
“当社は人皇四十二代文武天皇御宇大宝元年辛丑二月遂奏聞従筑紫宇佐勧請其節神官長妻某矢田某八幡某原某田中某長尾某相添同年八月十五日丑刻に当地へ奉遷座初̪而社殿建立と伝来” 
と、ある。
大宝元年(701年)とは、かなり古い。
安田荘にあったわけであるが、石清水八幡宮の勧請ではなく、宇佐八幡の勧請と述べている。
それと同時に“頼朝卿祈願所として祟敬被為在社として則出雲国八社八幡宮其内の一社也。” と、あり
石清水八幡宮とかの関わりは、なんら書かれていない。     

安田八幡宮鳥居  島根県安来市伯太町安田896  


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南谷の宮内八幡宮の方はどうかというと、
『神国島根』の御由緒を読むと、うってかわって石清水八幡宮の八所八幡の第2位に載せられたことなど石清水八幡宮の緊密な関係が述べられている。『伯太町誌 下巻』によれば“寛徳二年(1045)宝見山麓(要害山)に本宮の分霊を勧請し、石清水八幡宮の別宮となったのが当社の起源とされる。”と、ある。


安田宮内八幡宮鳥居  島根県安来市伯太町安田宮内66番


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現在の由緒だけ見ると、宮内の八幡宮が石清水八幡宮の別宮のように思える。
ただ、本題は紀氏の足跡が何かあるのかということである。八幡宮自体が、紀氏の祖-武内宿祢をいっしょに祭っていることも多いのでなんとも言えないところではある。

安田八幡宮には、境内社 木山神社(祭神 須佐之男命)、安田宮内八幡宮には境内社 木野山神社(祭神 大山祇命)があった。
しかし、この「木」の字が付く二社は、紀氏に直接にはどうも関係しない神社のようだと、調べていくうちにわかってきた。


# by yuugurekaka | 2018-02-10 18:57 | 賀茂 | Trackback

長々と伯耆国のことを書いてきたが、それも現・大塚町が、奈良時代の官道を通って伯耆国の手間山に近いという理由から、神戸の設定に関係していないだろうかと思うからである。
それと、賀茂神戸=賀茂氏、大神氏と思い込んでしまっていたのであるが、賀茂氏というよりは、古代王族・古代官僚である紀氏が大きく関係したのではないかと思い始めた理由による。

■ 大塚村四社明神

江戸時代の『雲陽誌』(1717年)の安来の所で、

“加茂大明神 別雷命を勧請す、天正年中堀尾山城守忠晴造営の棟札あり、【風土記】【和名鈔】に加茂神戸郷と書すは此處なるへし、古老傳に大塚村四社明神の邊を加茂神戸といふ、”

江戸時代にはすでに賀茂神戸の場所が分からなっており、京都の賀茂神社の荘園との混乱が始まっていると思われる。現在では、「古老伝に大塚村四社明神のあたり」の方が通説になっている。
さて、どこが四社明神のあたりなのか?

現在は、四社明神は、大塚町の八幡宮に合祀されているが、下記の「国福」という大字に大明神という地名があり、そこに四社明神があったのだろうと云われている。

国土地理院地図 赤下線と、大塚八幡宮の字を加工している。
中心の神社の記号の位置が、大塚八幡宮。右手の神社は、秋葉神社。

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実際に大塚の八幡宮に行ってみた。昨年の8月の終わり頃だ。
入り口がなかなかわかりにくかったが、南側の参道から登って行った。

南側の参道と鳥居
島根県安来市大塚町950


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上がってみると境内地が広く、立派な社殿であってびっくりした。祭神は、誉田別尊・気長足姫命・武内宿禰命。
『神国島根』(島根県神社庁発行 昭和56年4月29日発行)によれば、

“創立由緒不詳。社伝によれば鎌倉時代に創立せられたと言い、現存棟札の内、寛文二年のものが最古である。其の時代犬塚孫四郎なる者、大願主と称し専権事を執り当時社殿西面して最大社たりしも其の家勢衰微したるより、寛文四年造營の時遂に南面に改め社殿を縮小したと伝う。” 
犬塚とあるが、「大塚孫四郎」の誤植ではなかろうか。

大塚八幡宮 本殿

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■ 木山稲荷神社

さて、右手の稲荷神社であるが、二社合殿のようだ。

境内社

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普通のお稲荷さんかと思いきや、木山稲荷神社と書いてある。
なぜに?ここでも「木山」。
やはり紀氏の関係だろうかと思ったが、後で調べてわかったことだが、明治時代の初期に建立されたもので、紀氏とは直接は関係が無かった。

木山稲荷神社

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もう一つは「木野山神社」と書いてある。伯耆の上野三島両神社の境内社と少し似たような構成である。ここの二つの境内社は、『神国島根』には載っていない。昭和52年以降に合祀されたものであろうか?

木野山神社

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肝心の四社明神はどこであろうか?
左手の境内社があったが、八社合殿のようである。

左手の境内社 五社合殿。
金屋子社、若宮稲荷社・三穂神社、金刀比羅宮、新宮・近廣社、武内神社・新八幡宮と書いてあった。
厳密にいうと八社合殿のようである。

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そのうちの四社はどの神社であろうか?『神国島根』によると、


“又境内社の内関田社、新宮社、近廣社、客社の四社は往古、四社明神と称し各所に鎮座せしを延實年間当境内地へ奉遷したという。”
ことだ。
祭神としては、①関田社(武内宿禰命)②新宮社(橡日命)③近廣社(羽田矢代命)⓸客社(伊邪那美神)である。この橡日命は、熊野櫲樟日命(クマノクスヒ)ー天照大御神の御子であろうか。

■ 羽田矢代命

羽田矢代命は、武内宿禰の一子であろうと思う。 → ウィキペディア 羽田矢代 
『古事記』では波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部君ら諸氏族の祖とされている。ここで、疑問が生まれてきた。秦氏と波多氏は、漢字が無い時代、どのように識別していたのだろうか。昔は、50音ではなかったようであるが、ウィキペディアを見る限り、識別ができない。(→ウィキペディア 上代特殊仮名遣
安来地方に、秦という苗字の方が多い。知人で「はだ」と読む人がおられるが、もしや、あれはもともと「羽田」で、秦に習合されてしまったのではないか…、また、出雲国東端に「屋代郷」というのがあり、『出雲風土記』では「社印支(やしろのいなぎ)らの遠い祖先神の天津子命(あまつこ)…」ということから由来しているということだったが、それは羽田矢代の「やしろ」から来ているんではないのか…など取り留めも無くいろいろなことが浮かんだ。

ともかく、武内宿禰にしろ、羽田矢代命にしろ、紀氏とゆかりが強いというように感じがした。
しかし、この賀茂神戸があったのではないかとされている場所は、紀氏を社家とする石清水八幡宮の荘園ー安田荘があったところである。その関係で、紀氏の影響が強いとも言える。


# by yuugurekaka | 2018-01-30 21:22 | 賀茂 | Trackback

■ 大寺跡地

手間山から東へ、紀氏の本拠地であったところの会見郷(相見郷)辺りを巡ってみた。巨勢郷との境界がよくわからないので、実際のところ巨勢郷なのかもしれない。ただ、会見郡衙は会見郷にあるのが普通だと思うので、そこが巨勢郷であるという説は、少し釈然としない。

伯耆橋から見える日野川

鳥取県最大の全長約77kmの川である。
支流には、古来より集落が栄え、支流ではたたら製鉄の砂鉄の採取を目的とした「鉄穴流し」が行なわれた。

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伯耆橋を渡ると、大殿という地名に出会う。
うむいかにもと、思ったが、この大殿という地名は、明治10年大寺村と殿河内村が合併して発生した地名のようである。
なぜに大寺というかは、ここに大寺があったからである。

南側の越敷が丘の麓に、 白鳳時代(奈良時代の前)の大寺があった南に金堂 、西に講堂 北に塔 が配置され 、回廊 で囲まれた大寺が確認されている。北の仏塔 の心礎(柱の礎石)を見に行った。

舎利穴を持つ塔跡の心礎     鳥取県西伯郡伯耆町大殿

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大寺というぐらいだし、仏塔 の場所からも、大きなお寺だったとように思う。石製の鴟尾(しび)もかなり大きい。
石製の鴟尾は、群馬県の山王廃寺の二例 とここ大寺の一例のみだそうである。
鴟尾とは、お寺の屋根を飾る火災よけの装飾品のようで、お城のシャチホコの始祖とも言われているようだ。

石製の大寺廃寺の鴟尾    鳥取県西伯郡伯耆町大殿1171 福樹寺敷地内

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■ 上野三島両神社

主祭神は、溝咋姫命、大山祇命。大寺跡地のすぐそばの越敷が丘の麓にある。
三嶋溝樴姫命(みぞくいひめのみこと)(別名 玉櫛媛)を祭った神社は、山陰では珍しい。

三嶋溝樴姫命とは、事代主命が大阪・摂津の三島家に妻問いした事代主命の妃であり、『日本書紀』では、神武天皇の皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)の母である。
つまりは、大和の葛城山の母神のような存在である。→ ウィキペディア 玉櫛媛
それと、ここの大山祇命は、静岡の三島大社や三島神社の祭神で、大山の山の神ークナトの大神なのかもしれないが、三島系で奉祭しているところをみると、玉櫛媛の父神ー溝咋耳命(みぞくいみみのみこと)なのかもしれない。この溝咋耳命だが、或る説では、京都下鴨神社にまつる鴨建角身命と同神とされる。

拝殿

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右手にサイの神さんと思われる石神さまがある。
これは、古代のホト信仰のように思える。
二度目に参拝した時は、しろうとの目には古墳の石室のようにも見えた。
ここら辺は、越敷が丘古墳群がある場所なので、古墳であっても不思議は無い。
山陰では、神社の杜自体が古墳であることが多く、
元々古墳を奉祭していたんではないのかと思ってしまう。

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左手には、境内社。4社複合の社であり、右より荒神宮、木野山神社、日御碕神社、木山神社である。
この神社であるが、由緒はわからないが、元は近くの集落で奉祭していた神社ではないだろうか。
荒神宮は、ある説では、地主神のような神社とも言われるが、屋内荒神→同族荒神→集落荒神と集落が発展していった近世のものとも言われる。

どちらの説にしても、西伯耆には「木山」を祭る神社が集落が多いと感じる。木は、紀氏の「木」である。
木山神社も木野山神社も同じ神を祀っていたのではなかろうか。
想像でしかないが、紀氏系の荒神宮かサイノカミのようなものが、木山神社でないだろうか?
(しかし、後で調べてわかったことであるが、紀氏とは関係が無く、明治時代の初頭に大流行した伝染病の鎮静化を祈祷した神社だということだ。賀茂神戸の謎(9)出雲国③木野山神社・木山神社 


法勝寺の長田神社の合祀された神社で、句々廼智神(木の精の神と言われる)が2社もあったが、あれも紀氏と関係しているのかもしれない。

境内社

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■ 長者原台地

大殿からさらに西に行くと、長者原台地に着く。かなり広い高地で田畑の広がる場所である。最近では、奈良時代の会見郡の郡衙(郡家)があったとされる場所である。

坂長公民館の近くに、長者屋敷遺跡にあった建築物の柱跡を復元した公園があった。

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長者屋敷遺跡は、江戸時代には紀成盛の屋敷跡と伝えられてきた。
成盛の子孫を称する進 庄兵衛が、宝暦11年(1761年)に記した『紀氏譜記』には、成盛が七宝を帝に献上し、長者号を請け、「進貝録兵衛尉紀成盛長者」を名乗って代々繁栄したという。(『紀氏譜記』は、『日吉津村誌 下巻』に全文載っていた。)
『紀氏譜記』には、孝霊天皇と共に大和から来たとは書いてなかったが、孝霊天皇の朝妻姫への妻問いし、鶯王が誕生した事。鶯王を大将として鬼退治をしたが戦死し、楽楽福大明神の霊として祭られた事等が書かれてあった。

また、福彦右衛門の『伯路紀草稿』(1773年)には
「長者原村に、木の森長者進ノ甲斐六兵衛屋敷という跡あり。一町四方ばかり、四間四方に築地の井戸有り。駒谷石というあり。」
と、書かれてある。 (詳しくは→ 米子市役所ホームページ  キサイさん(別所) 

■ 紀氏の系譜

『紀氏譜記』(1761年)によれば、「孝元天皇の四世の孫 紀の武内宿祢と紀氏を名乗り賜ふ」とある。
また、『日吉津村誌 下巻』によれば伯耆国の紀氏の後裔氏族として、相見氏、進氏、巨勢氏等の名前が見られる。

伯耆の紀氏後裔氏族
『日吉津村 下巻』より
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さて、武内宿祢の後が、紀氏と書かれてあるが、通説的にはどうだったのか。
孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とするという一方、紀国造家は、『紀伊続風土記』(1806年)によれば、、神武天皇の畿内平定後、紀伊の国造に封じられた天道根命(あめのみちねのみこと)(神魂神の5世の孫)の家筋だとされる。

が、高群逸枝『母系制の研究』(上)(講談社文庫)によれば、

〝紀伊は古名を、毛という。…中略…然し、道根命の事蹟は記紀いずれもこれを欠いており、記孝元段に「木国造之祖宇豆比古」、景行紀に「紀直遠祖菟道彦」とあるのが最初の氏人であるが、二文、何れも国造祖或は遠祖としているのは、国造本紀と合わない。…中略…按ずるに、紀伊国造に二系あり、国造本紀記載の道根裔の国造は、式日前国懸二社を奉祭する後代の国造であって、本来の国造は、式名草郡伊太曾神社、大屋都比売神社、都麻都比売神社を奉祭する出雲族であったと思われる。〟(高群逸枝『母系制の研究』(上)より)(太字は私)

〝地神本紀には「五十猛神 亦云大屋彦神、大屋姫神、抓津姫神、巳上三柱并坐紀伊国、即紀伊国造斎祠神也」とある。高群逸枝『母系制の研究』(上)より)

さて、紀氏(進氏)が建造し長らく社務を執り行っていた日吉津村の蚊屋島神社であるが、大昔は、事代主命の妹神 高照姫命を祭っていたと思われる。
『紀氏譜記』によれば、「或書に日吉津天照皇大神宮は往昔は素戔嗚命也」とあるので、元々は、夫神の天照國照彦火明命≒素戔嗚命を一緒に祭っていたのかもしれない。

蚊屋島神社  鳥取県西伯郡日吉津村日吉津354


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ところで、なぜ伯耆の紀氏が出雲族の高照姫命や味鋤高彦根命を奉祭するのかという疑問だが、富家伝承系図を見ると一目瞭然。紀氏は、高照姫命や味鋤高彦根命の子孫でもある。
こういう系図でないと、証明できないとなると、紀氏が奈良時代や平安時代の国司派遣から土着したとする通説がどうなのかなあと思ってしまう。

富家伝承の系譜図簡略抜粋(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版より)
尾張氏の系譜は書いてありませんが、海部家と天村雲命まで系譜が同じです。
なお高照姫は、葛城山の御歳神社の祭神で、八千矛(大国主命)の娘下照姫とは別の神様です。

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# by yuugurekaka | 2018-01-24 15:41 | 賀茂 | Trackback

■ 母塚山より眺望

新年に母塚山(はつかさん)に登って、手間山を眺めた。

母塚山展望台から見える手間山

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母塚山は、伯耆国と出雲国の境にあるイザナミの御陵伝承地である。
展望台から母塚山頂まで歩いて、イザナミ御陵地をお参りした。
イザナミ御陵伝承地が、お墓山(鳥取県日野郡日南町大菅)といい、島根県伯太町や広島県庄原町の比婆山といい、出雲国の国境沿いにある。孝霊天皇の出雲攻め(いわゆる鬼退治)に関係があるのではないか。

母塚山頂の伊邪那美神陵墓

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左手に遠く孝霊山が見える。
展望台にあった地図によれば、孝霊山の左手の高台は妻木晩田遺跡(日本最大の弥生集落遺跡)のようだ。
倭国大乱時代の遺跡だ。

そういえば、手間山のもう一山超えた日野川流域は、孝霊天皇+吉備族の侵攻の伝承地である。
はて、手間山の麓の鴨部氏や大和から来た人たちが、葛城の王である孝霊天皇といっしょに来た人たち(となれば弥生時代末期)ならば、その時代は、出雲国の出雲族の味方であったのか?敵方だった可能性すらある。



母塚山展望台から見える孝霊山

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■ 手間山の東 星川郷・巨勢郷

平安時代中期には、手間山の北部、北西部を「会見郡 天万郷」、南西部を「会見郡 鴨部郷」、東部を「会見郡 星川郷」と云った。『姓氏録』にも 星川朝臣が見られる。
さて、この「星川郷」だが、
〝古くは、武内宿禰の子孫の波多臣(はたのおみ)の一族に星川臣があり、巨勢男柄宿禰(こせのおがらのすくね)の子を星河建日子(たけひこ)と言ったと伝えられる。会見郡内に巨勢郷があることと関連するとも考えられる。〟(徳永職男 著『因伯地名考』 鳥取郷土文化研究会 )(太字は 私)
巨勢郷は、星川郷に隣接しており、北東部にあったであろうと言われている。

『姓氏録』にも 星川朝臣が見られる。

大和国皇別 星川朝臣 朝臣  石川朝臣同祖武内宿祢之後也敏達天皇御世。依居改賜姓星川臣

敏達天皇の御世となると、6世紀の終わりの頃だ。
なお、大和国にも「高市郡巨勢郷」「山辺郡星川郷」がある。
おそらく古代豪族 紀氏(→ウィキペディア 紀氏 )の系統の一族が、かなり古くから手間山の東方面に土着していたと思われる。

■ 中世の手間山の麓

なぜ京都の賀茂神社に糾合されるにいたったかということが疑問である。なかなか良い文献に見当たらなかったが、『会見町誌』(1973年発行)に公地公民制から荘園への道筋がわかりやすく書かれていた。

〝こうした律令制度の下で貴族や社寺には、公地制に反する多くの土地の領有が認められていた。一方では人口の増加によって口分田が不足してきたこと等、こうした問題の解決として、養老七年(723)の「三世一身法」や、天平十五年(743)には「墾田永代私有令」が出されたので、皇族、貴族、社寺および地方の豪族たちは、競って開墾をすすめ、墾田が増えていった。こうしたいわゆる「墾田によってできた荘園」が、八世紀から九世紀にかけてできたのである。これは要するに律令政治のもととなった公地公民制も律令制そのものの矛盾から次第にくずれていった。
しかしこの結果、田畑はふえ、生産は高まったが、このようにして開墾した土地は永久に私有することはできても、租税を収めなければならなかった。…中略… そこで自分の開墾地を、中央の有力な皇族、貴族や社寺に寄付し、名義上ではそれらの所有であるとして租税の免除や検田の除外をかちとり、そのかわり収穫の一部を毎年おさめ、自分たちはその荘園を管理する荘官となって事実上の所有者となった。こうしてできた荘園を「寄進によってできた荘園」という。…以下 略…〟(『会見町誌』 1973年発行)

それで、荘園が発生し、賀茂神社や法勝寺へとつながるのか。
中世において「天万郷」→「富田庄」など、「鴨部郷」→「長田庄」、「星川郷」→「星川庄」「小松庄」( あくまでも「→」は全て同じ地域を示すものではなく、郷内に荘園が発生したことを示す。)などと呼ばれ方も変わる。

この富田庄、長田庄の名称は、事代主命に由来しているような気もするが、いろいろな本を調べてみたが、何もわからず。
それよりも、だれが、事実上の領主であったか?
 
■ 藤原氏と紀氏 

鴨部郷がほとんど長田庄となったが、どこの貴族の監督下にあり、だれが実権を握っていたのか。

〝しかしおそらく七・八代の藤原氏はあったであろうが、氏名は勿論、業績一切不明、ただ古代以来の村々を継続していたのであろう。ただし藤原氏はその領家として、九条家をいただき、長田庄の名目上の領主は九条兼実であったことも推定できる。〟(『西伯町誌1975)
(※ 太字は私)

それゆえ、ここ長田庄の氏神の長田八幡宮であるが、『西伯町誌よれば、藤原泰豊(右衛門尉泰豊)康永二年(1343年)に建立したということだ。

長田庄の産土神 長田神社の位置
手間山の西麓の神社をピックアップしてみた。






しかし、『吾妻鏡』には、建久元年(1191年)十一月六日の条に「大舎人允藤原泰頼お迎えのため参向、且つ愁申す伯耆国長田庄得替の事」とある。つまり、源頼朝の上洛の折に、奪われた長田庄を取り返したいと申しでたということだ。
もともと平安時代の終わりに藤原氏のものであったが、とられてしまったということだ。だれがとったかなかなかわからなかったが、
『西伯町誌』(1975)によれば、

〝奪ったものはだれか、それは平家方の有力武士紀成盛であろう。成盛は建久元年から六年前寿永三年の一の谷戦に平家方として参加し敗れて帰国している。それより十二年前の承安二年には大山寺を再建している。その大山寺の本尊地蔵菩薩の厨子銘に「会東郡の地主」とかいてある。会東は会見郡の東ということ、そのことは彼とその一族が西伯耆全域を支配したことを誇示したものである。また大山寺縁起によると、平安中期富田庄司が大山寺に強い勢力をもっている。富田庄は今の会見町である。伝承によると富田庄司も紀海六兵衛成盛であったという。又、成盛の本拠は岸本町長者原であり、成盛の塔という古廃寺が岸本町坂中にある。紀氏は成盛一代ではなく古代末から近世までこの地方にきこえた豪族である。『西伯町誌)(太字は私)

紀氏であったのか。紀成盛をウィキペディアで調べると、→ウィキペディア 紀成盛
〝紀成盛の一族、紀氏は元々中央の官人であったが伯耆守として赴任後、土着して在地領主となった。

ここで言う伯耆守という国司が、
延暦4年(785年) 正月15日に兼伯耆守 紀 白麻呂 のことのように思う。

紀氏自体、奈良時代の貴族である以前は、葛城の王族の一族である。そのような奈良時代の終わりではなく、もしや、もっと古く孝霊天皇とともに伯耆に来ていたのではなかろうか。奈良時代の郷名に紀氏の分家の名があるからである
紀氏であれば、アジスキタカヒコ命や高照姫命を祭神にしていても不自然ではない。

■ 長田神社の祭神 

手間山西麓の神社は、賀茂神社や八幡宮よりも、前の時代はどのような神を奉祭していたのだろう。なぜに西麓かというと、奈良の三輪山と大神神社の関係のようなそういうものの足跡のようなものはないかと思う次第である。
まずは、倭の賀茂神社である。

『鳥取県神社誌』によると
祭神は、別雷命、神武天皇、天照大御神、豊岩窻神、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命、素盞鳴命である。
賀茂神社を勧請したのだから、「別雷命、神武天皇」をはずす。そして、大正五年、六年に合祀された祭神をはずすと「天照大御神」のみ残る。もとは、手間山に登る太陽信仰の社だったかもしれない。

でも、祭神は時代によって消されたり、後付けされたりするものだから根拠としては弱いものである。ただ頭をよぎる程度の話である。

しかし、なぜ大和の天照大御神は、大和に居ることができなかったのか。富家伝承本では、太陽神(出雲族)VS月神(宇佐族)ということだったが、孝霊天皇の出雲攻めが影響しているのではなかろうかと、ふと思った。母系(イザナミ・天照大御神・高照姫命)の側につくか、父系(イザナギ、素戔嗚尊、天火明命)の側につくか…ということもあるのかなという思いがめぐった。

長田神社 石段
かなり急で長い石段であった。こういう石段は、登るのに険しいので、よく何段あるか数える。
が、数えている最中、訳がわからなくなってくる。
177段あったような気がするが、ある方のサイトでは176段と記載してあった。

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さて、賀茂郷(鴨部郷)であったところの長田庄の長田神社である。もともとは八幡宮であったものだ。
『鳥取県神社誌』によると
当社氏子の範囲は延長三里に亘り大小部落34、現今四ヶ村に跨り此一帯の地方を古来長田庄と称せり。
 明治維新の際、八幡宮の称を廃し庄名に因りて今の社号に改めらる

氏子の範囲が広く祭神も多く 23もの祭神だ。

多古理比売命、田岐津比売命、市杵島比売命、誉田別命、気長足姫命、素盞鳴男命、足仲彦命、句々廼智神、稚日女命、保倉神、大日孁貴尊、倉稲魂尊、五十猛命、伊弉諾命、伊弉冉命、大山祇命、月読尊、武内宿禰、大鷦鷯命、菅原道真、事代主命、瀬織津比売命、岩猛命

社歴である。当神社は往古より八幡宮と称し奉り。 其創立年月不詳かならざるも、所蔵の棟札に徴するに康永二年卯月日造立記文のもの最も古く、天正13年(1585)雲三沢城主佐々木三澤少輔八郎為虎御隠居為清公社殿造営あり万治2年及延宝9年(1681)、因伯太守源朝臣光仲公再建せられ、当時社領七石九斗其他麻地幕提灯(御紋附)を寄進せらる。領主及武門の帰依又厚かりしを見るべし。

大正5年12月
法勝寺村大字馬場字ヨメコロシ鎮座無格社大﨏神社(祭神 素盞鳴命)
同村大字同字家ノ上鎮座無格社稲荷神社(祭神 倉稲魂尊 )
大国村大字與一谷字大林鎮座無格社大林神社(祭神 須佐之男命)
同村大字鍋倉字荒神谷鎮座無格社前田神社(祭神 誉田別命、気長足姫命、素盞鳴男命、足仲彦命、稚日女命、保倉神)
同村大字絹屋字宮ノ前鎮座無格社森脇神社(祭神 句々廼智神)を合併す。

同6年4月8日
法勝寺村大字法勝寺字五反田鎮座無格社机田神社(祭神 句々廼智神)
同村大字同字杉﨏山鎮座無格社杉﨏神社(祭神大日孁貴尊、岩猛命)
同村大字武信字ナシノ木下鎮座無格社武信神社(祭神 伊弉諾命)
同村大字徳長字権現谷鎮座無格社熊野神社(祭神 伊弉諾命、伊弉冉命) を合併。〟 

八幡宮の祭神と考えられる「誉田別命、気長足姫命、足仲彦命、宗形三女神、武内宿禰」をはずし、大正5,6年に合祀された祭神をはずすと、「五十猛命、大鷦鷯命、菅原道真、事代主命、瀬織津比売命」が残る。
当然ながら菅原道真公は、後付けされたもので、大鷦鷯命(仁徳天皇)も、佐々木源氏の由縁かもしれぬが後で祭神に加えられたのではないか。(浅学のため、なぜ出雲の三澤氏の頭に佐々木がついているのかよくわからない。)
大正時代に合祀された祭神をはずすと、「五十猛命・事代主命・瀬織津比売命」が残る。

もともと、鴨部郷だったから、事代主命が祭神で不思議はない。五十猛命は、紀氏の祖神であるが、紀氏の勢力は長く続いているのでいつの時代の話かわからない。
残る瀬織津比売命であるが、どの氏族が奉祭しているかよくわからないが、長田神社の周りは南北に法勝寺川、東に東長田川、西に山田谷川が流れており、ちょうど結節する場所である祓いの神とされて、穢れを川から海へ流すとされているから、禊払いの祭祀が行なわれていたかもしれないし、治水神として祭ったのかもしれない。

向こうに見えるは手間山、長田神社の前を流れる山田谷川

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# by yuugurekaka | 2018-01-13 15:18 | 賀茂 | Trackback

■ 手間天神

地図で、手間山(てまやま)と母塚山、出雲国賀茂神戸の比定地ー大塚町を表わしたものである。平安時代、手間山の北部、北西部を「天万郷」、南西部を「鴨部郷」、東部を「星川郷」と呼ばれていた。大塚町から手間山の北部まで出雲古道が、走っていた。安田関を通って、母塚山(はつかさん)を抜けて、手間山の北部の麓につながる奈良時代の道路であるが、地図上でみると、大塚町と鴨部郷は近いということがわかる。

グーグルアースの地図 
地図に私が、黄色で加工したものである。星印は、大塚町の八幡さま、宮前の賀茂神社、倭の賀茂神社、掛合の賀茂神社の場所を示している。

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この手間山であるが、地図や本に要害山とか、いろいろ書いてあって、混乱したが、大国主命の受難伝説で有名な赤猪岩神社がある北西部部の膳棚山、北東部の峰松山と最も広く高い要害山を合わせて、手間山というのではないかと思う。

天万山とも呼ばれたという。手間山山頂には、赤猪岩神社の元宮がある。


古事記にも、大国主命の受難伝説で「手間」(てま)の地名が出てくる。どういう由来の地名なのか。

〝伯耆誌によると、門脇重綾の説を紹介し、スクナヒコナノミコトはカンムスビノカミの手のまたからこぼれ落ちた小さな神様で、手間天神ともいわれるところから、その神様にちなんだ地名であろうという。〟(『郷土史蹟めぐりー西伯耆編ー 鳥取県立米子図書館編』 米子 今井書店発行)


つまり、手間天神=スクナヒコナノミコト(出雲風土記では、須久奈比古命)である。

JRに載っていると、車窓から見えてくる大橋川の小島に見えるあの神社の祭神だ。

カンムスビノカミの手の間からとなっているのは、古事記で、日本書紀では、タカムスビノカミとなっている。


『日本書紀』の少彦名命の記述であるが、

〝「私は日本国の三諸山に住みたいと思う」と。そこで宮をその所に造って、行き住まわせた。これが大三輪の神である。この神のみ子は賀茂の君たち・大三輪の君たち、また姫蹈鞴五十鈴姫命である。別の説では、事代主神が、大きな鰐になって、三島の溝姫、あるいは玉櫛姫という所に通われた。そしてみ子姫蹈鞴五十鈴姫命を生まれた。これが神日本磐余彦火火出見天皇(神武天皇)の后である。〟

(宇治谷 孟 全現代語訳 『日本書紀』 講談社文庫)


「別の説では」となっているが、スクナヒコナノミコト=事代主命というようにも読める。カンムスビノカミあるいはタカムスビという天神の御子が、出雲の事代主命というのに違和感をもつ人がいるが、出雲の神は、ひたすら国津神で、天津神ではないという図式がそもそも

古代史を見る目を狭くしているのではないか。婚姻関係を通じて、天神になったり、国津神になったりする。


〝事代主命の系等である。同命は父系によって地祇氏となっているが、母系によって高魂裔の天神氏となっていることもある。大和神別の飛鳥直は、「天事代主命之後也」とある。飛鳥直は飛鳥社の神主、その飛鳥社は事代主命を祀る神社である。〟(高群逸枝著『母系制の研究 (下)』 講談社文庫)


京都の賀茂氏が天神で、奈良の賀茂氏が地祇であるのは、こういう事情が影響しているのだろうか。

手間天神から由来して、手間山というのだから、太古は、奈良の三輪山のように、スクナヒコナノミコトを祭るカンナビ山だったのではなかろうか。


■ 麓の賀茂神社


手間山の麓には、奈良に由来しているんではなかろうかと思うような地名に出会う。たとえば、「倭」である。


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明治10年~22年の倭村という村名から現在の集落名として残っているが、様々な地名辞典で調べたが、由来が書いてなかった。

手間山の反対側の、「高姫」である。事代主神の妹神の名前である。

その由来を調べると、鎮守の高野女神社からきているという。今は宮前の賀茂神社に合祀されている。その高野女神社をいろいろ探したが、見つからなかった。


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とうぜん祭神が、高姫(高照姫)命かと思いきや、伊勢神宮の遷宮地を探した倭姫命だった。

記紀に出て来ない神様でないので、祭神が変わったのだろうか。


さて、手間山の麓にある賀茂神社三社であるが、奈良の鴨神、高鴨に関係した神社がないか調べてみた。『鳥取県神社誌』(鳥取県神職会 編 昭和10年)によれば、(太字、下線は私)


倭の賀茂神社 「祭神 別雷命、神武天皇、天照大御神、豊岩窻神、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命、素盞鳴命 由緒 創立年月不詳かならざるも、京都賀茂別雷神社より御分霊」とある。


掛合の賀茂神社 「祭神 別雷神 由緒 創立年月不詳、往古より該村内産土神にして賀茂大明神と稱せしを」


うーん、奈良の鴨神ではなく、京都の上賀茂社の勧請のように書かれてある。


宮前の賀茂神社

「祭神 阿遅鉏高彦根神、大己貴命、少彦名命、別雷神、倭姫命、玉依姫命、天照荒魂命、素盞鳴尊、倉稲魂命、誉田別命、大津見命、栲幡千々姫命、天児屋根命  創立年代不詳、三代実録に貞観九年四月庚午八日伯耆国正六位上賀茂神従五位下とあるは則ち当社にして、棟札にも此年号のもありたり、当社に阿遅鉏高彦根神を奉祀せるは、古事記の故此大国主神、娶坐胸形奥津宮神、多紀理毘売命、生子阿遅鉏高彦根神とありて、西伯郡成実村大字宗像と近きを以てなり、賀茂註進雑記の賀茂別雷社御領荘園の内に伯耆国星河庄、稲積庄とあり当社社帳記する處によれば星河庄十一ヶ村の総社とありて…、」


賀茂神社 鳥取県西伯郡南部町宮前


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この宮前の賀茂神社だが、阿遅鉏高彦根神を祭っており、成実村の宗像神社が近いから…と理由が書かれているが、宗像三女神が祭神だったら、わかるけれども、しっくりこない。元は奈良の鴨神の社だったけれど、京都の上賀茂社(賀茂別雷社)の荘園になるにしたがって、上賀茂社由来の賀茂神社となったのではないか。しかし、これは単なる想像でしかない。





# by yuugurekaka | 2017-12-30 14:19 | 賀茂 | Trackback