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夕暮れの出雲大社 【祭神が大国主命にもどった時期】

今年初めての出雲大社の参拝です。
出雲御崎山(北山)東部の神社や素戔嗚尊の墓跡を見に行っていたら夕方になってしまいました。
夕方は、参拝客がほとんど少ないのですね。
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夕方になると、本殿の周りをぐるりと回ることはできませんでした。

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拝殿前の4の鳥居である銅門は、毛利輝元の孫である毛利綱広によって寛文6年(1666)に寄進されたものです。
毛利藩の鋳物師(いもじ)により長州阿武郡(あぶぐん 現在の山口県萩市)で造られたものだそうな。

この鳥居には「素戔嗚尊雲陽大社神也」と銘文が刻まれています。

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中世は、出雲大社(杵築大社と云いました。)の祭神は、大国主命ではなく、素戔嗚尊が祭神でした。

ですが、この銅の門には、寛文6年(1666年)との記名がありますので、江戸の初期(中期かもしれないが)です。祭神が大国主命にもどったのは、寛文7年(1667年)の造営遷宮が契機だったと言われています。

となれば、一年遅れて銅門が造られたなら、大国主命と祭神が書かれた「可能性」もあります。

なんで、この時期に神仏分離が行われ、祭神が大国主命にもどったのでしょう。中世の神宮寺の鰐淵寺の力が衰えたのかもしれませんが、江戸国学の流れにあったかも?と頭がよぎりました。

国学の隆盛は、本居宣長をはじめ、江戸中期と言われますが、その勃興、源流は、江戸初期に既にはあったように思います。
寛文6年(1666年)には、水戸藩(水戸光圀)では、神仏分離など社寺改革が行われました。同様に時同じくして、岡山藩、会津藩などでも、寺社の改革が行われたようです。

万葉集や古事記の世界に今一度立ち返るならば、祭神を大国主命に戻すしかありません。



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by yuugurekaka | 2025-05-30 18:53 | 神社探訪 | Trackback | Comments(0)