2021年 11月 06日
神魂神社 ノート(1) 高天原伝説
■ 神在祭
旧暦の10月を出雲国では、神有月と言う。
それは全国から神々が集まるから神有月で、逆に出雲国以外の国々は「神無月」(かんなづき)となる。
この起源がいつなのか。
「神無月」の初出は、『日本書紀』や『万葉集』なので、奈良時代にはそういう認識であったのかもしれない。
陰陽五行思想からすると
陽の気が尽き果ててしまう純陰の状態を示し、母・従順・狭少・暗闇・空虚・無を示す象なんだそうだ。
佐太神社『祭典記』に
〝古老伝えていわく、出雲州は日域の西北隅にして、陰の極まるところの地なり。
伊邪那美命は、陰霊にして、十月純坤(純陰)の時を掌どる。〟とある。
陰陽学的に出雲は、ただ神々の故郷に仕立て上げられたに過ぎないというのが、戦後古代史の支配的な説であるが、この神有月の説明もまた同じようなものだ。
史実なのか、陰陽学からの創作なのか、入り乱れている。
西部の出雲大社の神在祭とは違い、
東部では伊邪那美命の追慕のために八百万の御子神たちが佐太神社(さだじんじゃ)に参集するという話になっている。
一周忌を毎年行うようなものである。中世の時代の頃からと一般的に言われているが、その起源はわからない。
神在祭を行なう神社は、佐太神社ばかりではない。
佐太神社に神々が集まられる前には、まず、神魂神社に寄っていかれるのだという。
旧暦十月十一日の夕方に、団原の地に全国の神々が集まられ、そこから神魂大神にお会いになるようだ。
昔は神魂神社では十二日より十八日まで神在祭が行なわれていた。その後、神々が佐太神社にお立ちになるのを見送りされていたそうだ。
■ 高天神社(たかまじんじゃ)
全国から参集される団原の地には、神魂神社の境外摂社 高天神社が鎮座していた。
『雲陽誌』に〝高間神社 大鳥居と號す〟とある。
ここで全国から神々が集まられる故事から、高天原伝説というらしい。
その理屈からいうと、高天原系の天神しか集まらないことになる。
しかし、高天神社は、明治39年に神魂神社の境内社 貴布祢社に合祀され廃絶。
その場所はどこかインターネットで調べた。団原公民館の隣の公園に石碑が建っていることを知り、行ってみた。
左が和霊神社で、右手が高天神社跡地を示す石碑
この白い祠が、高天神社?と一瞬思ったが、違った。
白い祠は和霊神社で、右手の石碑が高天神社跡地を示す石碑だった。
説明板
ここの字(あざな)を「高天」と云い、周囲の字を「天場」(てんば)と云ったそうだ。
『おおばの歴史』(大庭公民館 発行)のよると、天場は、「古代意宇の入海の船着場の意味と、それに神々さまご降臨の最初の地の意味が宿されている。」そうだ。
ここら辺りの地形を見渡すと、ここ団原は、意宇平野との境界の台地のような場所だ。
ここが船着場というならば奈良時代とかいう話では無い。
団原のところまで、意宇川が流れていたか、意宇の海(中海)が、茶臼山の麓まで来ていたのかのどちらかだ。
はるか、弥生時代ぐらいの大昔の話なんだろうか?
茶臼山と国庁跡
高天原というのならば、母神伊邪那美神の追慕というよりも、出雲攻略に高天原から兵が押し寄せてきた悪いイメージが頭をもたげてきた。




