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出雲振根命は生きていた! 大根(おおたわ)伝承

『抹殺された古代出雲王朝』(藤原としえ著 三一書房 発行) という本がある。
図書館に置いてあり、何度か借りるものの、なかなか書いてあるところが、頭に入らない。
初めはその題名に釣られて借りたが、書いてある全体像は、原田 常治氏が唱えるような出雲族=物部氏が背景にあり、いわゆる記紀とは違う『上記』(うえつふみ)、『秀真伝』(ほつまのつたえ)、『宮下文書』や『契丹古伝」により様々な藤原としえ説が展開されるので頭の中が混乱する。

その導きだされる結論が、〝須佐之男はペルシャの古都スサからやってきたエラム人〟とか物部氏=須佐之男命の後裔で失われたユダヤの十氏族の末裔説である。
ひとつひとつを吟味すると面白いが、自分は、今の所、腑に落ちるということがない。

この本を読んで一番驚くのが、巻末の出雲振根命の末裔の方の伝承である。
そこだけ読んでも面白い。


出雲振根命は、関東に逃れた。

出雲振根命の妹が、第九代開化天皇と婚姻して生まれた皇子が大根王(おおねおう)であり、大根(おおたわ)氏の姓はここから始まるそうだ。大根王は第三の皇子で、別名「八瓜入日子王」(やついりのいりひこおう)とも言うそうだ。(『古事記』では、息長の水依比売より生まれたことになっているとのこと。)

しかし、『古事記』を読むと大根王は、第九代開化天皇では無く、天皇の第三皇子 「日子坐王」(ひこいますのおう)と息長の水依比売との間に生まれた第三皇子である。つまり丹波道主命の弟である。(なお富家伝承によれば、第9代開化天皇の後に、10代の日子坐王、11代の丹波道主命の大王が続き、磯城王朝が11代で終焉を迎える。)

崇神天皇の時代になり、天災地変が起こり、疫病がまん延しした。その危機を救ったのが振根一族で、ある者は身体調整技法による「息寄せ」(いぶよせ)を行い、死反玉(まるがえしのたま)による治療を行った。やがて、疫病も治まり、人々は振根一族に対して、深い信頼と尊敬の念をいだくようになった。

崇神天皇が、「振根一族を滅ぼさない限り、自分の明日は無い」と思ったとしても不思議では無い。出雲振根命は、弟の飯入根命を殺したわけではなかった。崇神天皇は、ある日大軍を持って出雲を攻撃する。
出雲振根命は、命からがら出雲を脱出し、大根王ともども常陸太田の地に逃れたのだ。日高見人と出雲人は同族であったので、そこで陣を構えたのだった。
しかし、すさまじい戦いとなり、常陸太田の地から、千葉県佐原郡小見川に移動した。この地にも崇神軍が押し寄せ、熾烈を極めた戦いとなり、たくさんの人達が無くなった。常陸太田の台地には、「八剣入彦根大根王」(やつるぎいりひこねおおねおう)を祭神とする「長幡部神社」(おさはたべじんじゃ)が鎮座しているとのことだ。

後でこの場所に、大根塚を作り、大根神社が出来て、死者の霊を祀ったのだった。しかし、この大根塚も撤去され平坦な土地となり、大根塚と刻まれた石碑もどこかへ行ってしまった。大根神社は、後に「切手神社」と名を変えられてしまったそうである。



以上が、『抹殺された古代出雲王朝』に載っていた大根伝承の概要である。
富家伝承では、磯城王朝と対立するのが、物部王朝なので、『抹殺された古代出雲王朝』に書かれていることと矛盾する。大根伝承には物部軍=出雲振根軍のように書かれている。ただ藤原としえ説なのか、もともとの大根伝承なのか不明である。

なお出雲軍が関東に攻め上がったのは、富家伝承でいうと垂仁天皇の頃で、物部王朝確立以降、垂仁天皇の命を受けて宇佐族を追走していった話であった。出雲国から出撃したとする想像をする人が多いが、出雲族は全国に分布しているわけでそれは違うのではないかと思う。






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by yuugurekaka | 2021-10-09 12:54 | 氏族伝承 | Trackback | Comments(0)