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宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)の墓 物部神社

物部神社 島根県大田市川合町川合1545

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出雲市多伎町からの仙山峠を越え、大田市の町に入り、三瓶山に向かう途中に、石見国一之宮である物部神社に到達する。
石見の国と出雲の国の界に位置するので、有名な小説家のイマジネーションを掻き立てる。

司馬遼太郎の小説

〝同じ県ながら、石見と出雲は方言はもとより、気性、顔つきまで違っているといわれる。国境いから石見へ入ったとたん、われわれ旅人にさえそれがわかった。石見への目的は、雲石の国境いにある物部神社という古社を見るためであった。
 この神社も、いまでこそ、神社という名がついているが、上古はただの宗教施設とは建てられたものではなく、出雲への監視のために設けられた軍事施設であった。その時代は、前期の天穂日命などのころよりもずっとくだり、崇神朝か、もしくはそれ以後であったか。とにかく、出雲監視のために物部氏の軍勢が大和から派遣され、ここに駐屯した。神社の社伝では、封印された出雲大社の兵器庫のカギをここであずかっていたという。出雲からそのカギをぬすみに来た者があり、物議をかもしたこともあったともいう。〟(司馬遼太郎 『歴史の中の日本 生きている出雲王朝』)

物部神社 本殿 

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しかし、ここに書いてあることは、物部神社の由緒とは相いれない。初めは神体山である背後の八百山を崇めていたけれど、天皇の勅命により継体天皇八年(513年) 社殿を創建したとある。

確実に言える話として、江戸時代の終わりまでは、物部十千根命の末裔とも、大国主命の末裔とも云われる出雲大社社家・別火氏が出雲大社の本殿の鍵を管理していた。(詳しくは→ 古代出雲への道 出雲大社別火氏の謎(5)  

『出雲国風土記』には、「和加布都努志命」なる大国主命の息子が登場する。いかにも物部氏の名前である。
言うなれば、大国主命と物部氏との「混血」。

外国と違い、日本の古代史の特徴として、制圧した相手を奴隷として支配するのではなく、婚姻関係を結んで家族化してしまう。

考えてみれば、ここ物部神社の祭神・宇摩志麻遅命も大和の出雲族─那賀須泥毘古の妹である登美夜須毘売と、饒速日命との息子という話として描かれている。(→ ウィキペディア ウマシマジ 

宇摩志麻遅命の墓

なんで、ここに宇摩志麻遅命の墓が?
大和の方に在るなら、記紀神話との整合性もあるのだけれども。

〝その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。
次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田の起源)〟(物部神社のホームページより)

尾張氏の祖 天香具山命(宇摩志麻遅命の異母兄弟)と一緒に各地を平定し、石見国に移り住んだ話になっている。

拝殿の西側の奥に、お墓へ行く道がある。

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お墓があると知れば、拝まずにはいられない。
しかし、大きな前方後円墳に葬るべきでは?とも思うのだ。
石見国か、出雲国の西側に物部氏の大きな前方後円墳(古墳時代前期の)が、どこかにあっても不思議はないはずだと思っている。(これも自分の妄想かもしれない。)

宇摩志麻遅命の墓


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by yuugurekaka | 2021-08-14 20:28 | 日記 | Trackback | Comments(0)