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和邇の王朝 と 因幡の白ウサギ

■ 欠史8代(けっしはちだい)

記紀において、系譜は存在するがその事績が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇、またはその時代を言う

しかし、富家伝承本には、開化天皇の後に、二人の大王(天皇)がさらに欠けているという。

第10代が彦坐王(ひこいますおう)で、第11代が彦美知宇斯王(ひこみちうしおう)だそうである。磯城王朝の最後の大王とのことだ。

大和盆地の和邇の場所に宮があったそうで、それを和邇(わに)王朝と呼ぶ人もあるそうだ。 
詳しくは別サイトの記事 ⇒ 和珥(わに)氏と宗像族

ホムチワケ伝承に登場する「さほ姫」の兄の「さほ彦」と、彦美知宇斯王と異母兄弟である。→ ウィキペディア 彦坐王

ウィキぺディアを見ると、母が息長水依比売命(おきながのみずよりひめのみこと) - 天之御影神の女(むすめ)ということになっている。

ここで、息長氏が関係しているのかあ。

『日本書紀』では、彦美知宇斯王

崇神天皇に派遣された丹波道主命と描かれているが、富家伝承では、物部・豊連合東征軍(垂仁天皇)に追われ、和邇の地から丹波の亀岡に追われたとする。

それで大和の磯城王朝は滅び物部王朝が始まる。

その後、武内宿祢とともに因幡に行き、名を彦多都彦(ひこたつひこ)と名を変え、稲葉国造になったという。

『先代旧事本紀』には、

稲葉国造:彦坐王児彦多都彦命 とある。

ちなみに和邇(和珥)氏が関係がありそうな国造は、

  1. 額田国造:和邇臣祖彦訓服命孫大直侶宇命
  2. 武杜国造(上総国武射郡): 和邇臣祖彦意祁都命孫彦忍人命
  3. 吉備穴国造(備後国阿那郡〕: 和邇臣同祖彦訓服命〔欠文アリ〕八千足尼
  4. 甲斐国造 :狭穂彦王三世孫臣知津彦公此(比)宇(子) 塩海足尼
  5. 淡海国造 :彦坐王三世孫大陀牟夜別
  6. 三野前国造:彦坐王子八瓜命
  7. 但遅麻国造:竹野君同祖彦坐王五世孫船穂足尼
  8. 稲葉国造 :彦坐王児彦多都彦命
  9. 吉備品治国造(備後国品治郡〕: 但遅麻君同祖若角城命三世孫大船足尼

かなりに上る。

■ 因幡の白兎 

和邇に縁の深い、彦多都彦が稲葉国造というところで、因幡の白ウサギがまた私の頭をもたげてくるわけである。

白ウサギの敵役は、ワニである。日本にはワニが生息していないから、鮫であるというのが通説になっている。(本居宣長説は違う。)

あまりに偶然と言うか、そういう経緯から、因幡の白ウサギの話が作られたんではないかなどと思ったりする。

宇佐家(豊国の)の伝承によれば、隠岐に分布していた宇佐族は、ワニ族にだまされ隠岐をとられてしまい、出雲族が治めていた因幡方面に住む場所を得たみたいな話があった。 → 宇佐家の伝承

と、なれば因幡には宇佐族がいたわけである。何か因幡の国でも、和邇氏との間にも戦乱があったという想像がなりたつ。

■ 和邇の線刻

因幡の「青谷上寺地遺跡」で、ワニがトーテムとされたような出土品を何点か見た。

ワニの線刻というのは、珍しく、ここの場所の遺跡ぐらいしか出ていないそうだ。

そして、殺傷痕が見られる人骨110点が発掘されている。「倭国大乱」時代のものではないかともとれる。

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弥生時代中期後葉の出土品なので、彦多都彦が稲葉国造をしていたころよりもまだ前の時代のものなのかもしれないが、たいへん不思議である。

ワニ族というものが、もともと因幡には住みついていて、和邇氏とゆかりがある土地だったのではないかという妄想が浮かぶ。

別サイトにて、ウサギ族とワニ族についてまとめています。






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by yuugurekaka | 2021-03-20 19:18 | 青谷上寺地遺跡 | Trackback | Comments(0)