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言向け

高群逸枝氏の『母系制の研究』の一節である。この『母系制の研究』は、『姓氏録』の分析をしたものであり、1938年(昭和13年)6月4日に世に出た、つまり戦前に発表された書物である。

我国には、征服の語に相当する古語がない。征服、征伐、征平等の文字を、わが古語では、コトムケ、コトムケヤハス、ヤハスなどと訓んでいる。コトムケは言向(ことむ)けであり、ヤハスは和(やは)すである。
それは他を征服するのに説得や宣伝が本旨とされたこと、もしくは少くともそうした言挙げ(名目)が必要とされたことを示す証左とはならないだろうか。私は血縁原理の社会は排他的だと考えていたが、古代を研究にするにしたがって、むしろその逆ではないかということに気がつきはじめている。血縁時代では、ふしぎなことに血縁感は却って漠然としており、すべての人間を同祖から出たものと信じる傾向さえある。人間のみではなく、山川草木鳥獣の類さえ同胞視する。
この血縁原理の感情をもととして族制がかためられ、氏族かっら氏族聯合にまで発展したときには、これが宗教的教義とさえなり、征伐行為にまで利用されてくるのではなかろうか。〟(高群逸枝『母系制の研究 (下)』 講談社文庫)

自分も明治大正の血縁原理に対する嗚咽感から、血縁原理は排他的で嫌な物と既定していたが、氏族系譜の勉強するにつれて、そうではなくて、むしろ血縁原理で抱合するような社会が日本の古代国家の作られ方、つまり「家族共同体国家」でなかったのかと思う。

だから、氏族系譜の見方として、血統書付きの動物の如く、「純血度」が重要ではなくて、むしろ、「混血度」の方が重要ではないかと思うようになった。出雲族VS物部族とか、国つ神VS天つ神という原理にこだわっていると、かえって歴史の真実からそれてしまうのではと。

例えば、出雲大社別火家のように、物部氏でありながら大国主の子孫という氏族を考えると、高群逸枝氏の言うような血縁原理で抱合してしまう治め方というのにたいへん納得してしまう。



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by yuugurekaka | 2021-02-26 12:39 | Trackback | Comments(0)