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国譲り神話と出雲大社創建(8) 多芸志の小浜

『古事記』では、大国主命が、国譲りを決め、その後、多芸志の小浜(たぎしのおばま)に天の御舎(あめのみあらか)を建てて、タケミカヅチを饗応するしたことが書かれている。

 つらいことじゃったろうがのう、こう言うたかと思うと、オホクニヌシは、出雲の国の多芸たぎの小浜に、タケミカヅチを天つ神の使いとして迎えるためのやかたを造っての、ミナトの神の孫、クシヤタマを膳夫かしわでとなして、まつろいのしるしのあえを差し上げて、祝いの言葉を申し上げることにしたのじゃ。

そして、そのために、クシヤタマは海に潜るとなって海の底に潜り入り、海の底の赤土をくわえて来ての、その土で八十やそひらざらを作り、海に生えるワカメの茎を刈り取ってきての、それをひきりの臼に作り、また、ホンダワラの茎を燧のきねに作り、新たな火を鑽り出しての、タケミカヅチにおいしい食べ物を作り供えた上で、オホクニヌシはあらためて誓い の言葉を唱え上げるの   じゃった。”

                         (三浦佑之著 『口語訳 古事記 神代篇』文春文庫発行)



この文面から見ると、天の御舎は、タケミカヅチを接待するために建てた館で、大国主命が幽玄の王として鎮まる杵築の社(出雲大社)とは別物だと思うが、天の御舎=出雲大社と書かれている本も多く、頭の中が混乱する。


現在は東進し宍道湖方面に流れる斐伊川河川敷公園付近の斐伊川 

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この舞台となった多芸志の小浜はどこか?


現在の斐伊川は、斐伊川河川敷公園付近から東に向い宍道湖に流れている。

しかしながら、寛永十六年(一六三九)の大洪水前までは、斐伊川は西に流れていた。

そして、奈良時代には、その先に神門水海があった。つまりは、神門水海に面する浜があったのだ。


しかし、奈良時代の復元地図を見ると現在の「武志」は、斐伊川の北側が面した地域のようである。

現代語の「浜」は、海と陸の境界を言うのであり、川と陸の境界をいうわけではない。それでも、「浜」と言ったのか。


昔の「浜」の言葉の使い方はどうだったのか?古語辞典で調べて見ると、川と陸との境界も「浜」と言ったようだ。

〝③大阪で河岸(かし)のこと。京都では川端(かはばた)という。〟(大野 晋・佐竹昭広・前田金五郎編 『岩波 古語辞典』) 


多芸志の小浜であったとされる武志町に、その場所にふさわしくタケミカヅチを祭神とする鹿島神社が存在するのは、不思議である。

いつからこの神社は、ここに存在していたのだろうか。


鹿島神社 島根県出雲市武志町673


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江戸時代の『雲陽誌』(1717年)によると、


〝 武 志

  【古事記】に曰出雲國多藝志小濱におゐて天の御舎を造、水戸神之孫櫛八玉神膳夫をなし天の御饗と、膳夫の社あり蓋是故なり、

  小濱明神 武甕槌をまつる。本社一間に一間半、拝殿二間三間、寛永六年建立、祭祀正月七日九月廿九日遠近群をなして御供造酒をたてまつる、

  中島明神 櫛八玉神の鎮座なり、九月十九日御供神楽を奏す、舊記曰膳夫明神是なり、



この小濱明神が、現在の鹿島神社かどうかわからないが、そうだとすると、江戸時代の初期の徳川家光時代の建立である。

それ以前は、どうだったか調べようがない。


次に膳夫明神であるが、今は鹿島神社に合祀されているが、この中島明神であると思われる。

斐伊川河川敷公園の、鹿島神社のちょうど東側に膳夫の社跡があった。中島というからには、斐伊川の中に島があったのかもしれない。


膳夫神社跡

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斐伊川河川敷公園をさらに東に歩き、水の流れる斐伊川に向かうと、自転車や人が通れる潜水橋である井上(いあげ)橋に着く。
出雲のカンナビ山であった仏経山が、遠くに見える。

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by yuugurekaka | 2018-12-04 14:44 | 国譲り神話と出雲大社創建 | Trackback | Comments(0)