国譲り神話と出雲大社創建(7) 出雲御埼山

1)なぜにあの場所になったのか

なぜ、出雲国の西方、奈良時代はおそらく辺ぴな所であっただろうという島根半島の南側に建てたのだろうか?
その前に、どうして、出雲国に建てたのだろうか?
がっくりくるが、戦後の歴史家の定説は、〝これに対してまた三谷栄一博士の説である。出雲・大和の関係を位置からみると、出雲は大和の西北隅にあたり、戌亥の方角である。これは戌亥隅に対する祖霊信仰が日本人一般の文化の軸となっていることにより、出雲神話は出雲で誕生したものでもなく、大和朝廷の形成過程のなかから、その内部での祖霊信仰として生み出されたものであるとする。(水野 祐「まぼろしの「神国」出雲王朝は存在したか 『伝説の神国出雲王朝の謎』KKベストセラーズ 発行 より)
と、いうようにたまたま大和の西北隅の方向にあったから、出雲国が選ばれたとする。

出雲大社のある北山と神戸川(かんどがわ)

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また、鳥越憲三郎氏にいたっては、成務紀に「山陽(やまのみなみ)を影面(かげとも)といい、山陰(やまのきた)を背面(そとも)という」とみえているように、中国筋の山陽道は裏方としては不都合であり、これに反し山陰道はもっとも適当なところであった。その山陰道の中で、石見・出雲・伯耆・因幡のいずれを裏方として用いてもさしつかえなかったであろうが、その中で出雲国が選ばれたのに過ぎないのである。〟(鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社文庫)と、言う。

概して、本屋に積み置きされる、「出雲王朝」と名の付く本に、出雲王朝はあったということを肯定的に語った本は、ほとんど無い。ほとんどは、無かったという証拠をこれでもかと書かれている本である。出雲族の本貫地(発祥の地)であったというようには戦後古代史家は、思わないのだ。だから、いつまでも「神話の国 出雲」であって、「史実」だとは思われていない。

荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の発見前の論文だから、そのように思われているのか、仕方のない面もあるが、ヤマト王権の形成以前に、弥生時代に王朝があったとは、いまだに信じられていない。せいぜい筑紫王朝、吉備王朝…という倭国大乱時に出雲「国」にもあったかも…というぐらいな気がする。

2) 辺境の地

なぜに出雲国造家が自分の本拠のところである意宇郡に、出雲大社を造らなかったのかというのが、謎である。この出雲臣の西進を持って、井上光貞説のような、ヤマト王権の力を頼んで、西部を征服したという根拠のひとつにもなっている。しかし、自分にはどうも、やはり律令体制の推進のために、伊勢神宮の対極に位置づけられて地祇の大宮として創立されたのではないかと思う。

対極の伊勢神宮であるが、この上山春平氏の文章である。〝こうした作業は、神統譜の書きかえと言うよりは、むしろ、それまで、地方ごとに、もしくは近縁の氏族グループごとにつくられていた神統譜を、国家的な規模で統一し、体系づける新たな神統譜づくりと言った方が適切かと思うのだが、こうした一種の観念世界の巨大な変革の軸として、新たな価値の源泉として、おそらく七世紀後半のある時期に、口うるさい大和の旧族や官人たちの見聞の世界から隔絶された辺境の聖地に、宮柱太敷き立てて鎮座ましましたというのが、「皇大神宮」の創始の真相に近いのではあるまいか。〟(上山春平著『続・神々の体系』中公新書)

伊勢神宮との対局の杵築大社の地も、出雲国でも未開拓の地であったようである。出雲臣の西進に伴い、斐川平野の新田開拓も進められ、奈良時代には出雲郷と呼ばれるに至ったのではないかと思うが、なぜに出雲国西部の場所でも、出雲郷のカンナビ山ー仏経山を背にして、大宮を建てなかったのだろうか。その出雲郡出雲郷からもっとも外れたカンナビ山とは正反対の北山の麓ー杵築郷に造られたのだ。

神西湖(じんざいこ)  
『出雲国風土記』時代は、「神門水海」と呼ばれたが、現在は周囲約6kmの小さくなった湖である。

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現在は、島根県の中でも非常に開けた大きな平野である。しかしながら、奈良時代にあっては杵築大社の前には、神門水海(かんどのみずうみ)が広がる湿地帯であった。
〝寛永十六年(一六三九)の大洪水によって斐伊川が完全に東流すると、景観的にもこの郷は神門の平坦地と一続きになり、やがて開拓に次ぐ開拓でその間は美田と化す。ここに至ると、この地は美田地帯の奥所に位置する形となり、いかにも神都にふさわしい場所となるが、遡って古代には、むしろ南の地域から沼沢や砂洲で隔てられた僻地であったと思われるのである。〟(石塚尊俊 「出雲大社」~谷川健一編『日本の神々 7』白水社 より)

3) 出雲御埼山の麓

出雲大社の後ろの山ー八雲山や、出雲井神社・阿須伎神社の背後の山ー弥山が連なる山々を出雲風土記時代(733年)には、「 出雲御埼山」と言った。東は平田町の旅伏山までをいうようだ。

杵築大社が、大古からあったとすれば、「出雲杵築山」とかの名前であったと思う。日御碕まで続く山であったからか、あるいはみさき神社(日御碕神社)の鎮座する山であったからか、また、たとえば猿田彦命を御埼神として祭った山(鼻高山も含む)であったからか、定かではない。

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この出雲御碕山の南麓(大社、西・東林木、美談)には、出雲風土記時代、同じ名前の神社が多数見られることで知られる。
漢字の当て字が一つ一つ違うので、カタカナで表わす。

ヤマへ社 3社 (山辺)
キヅキ社 8社 (杵築・企豆伎・支豆支)※杵築大社も含める
アズキ社 40社(阿受伎・阿受枳阿受支)
クサカ社 3社 (久佐加・来坂)
イヌ社  12社(伊努・伊農)
ミタミ社 13社(彌太彌・彌陀彌)
アガタ社 3社 (阿我多・県)

このアズキであるが、現在では、遙堪の阿須伎神社を残すのみである。祭神「阿遲須伎高日子根命」であり、神名とも思えるが、キヅキ・アズキと同じ語呂から考えると、そういう地名でもあったように思う。アズキについては出雲風土記には地名も無いが、キヅキについては、杵築郷の郷名となっており、イヌ(伊努)もミタミ(美談)も郷名になっているので、おそらくは、地名を冠した社であったろうと思う。

この同名の神社がここ出雲御埼山の南麓のみに多数見られることをどうみるかであるが、鳥越憲三郎氏の見立てであるが、概ねそうなのだろうと思う。
“さきに大社・原山・菱根にかけて縄文・弥生の遺跡のあることを述べたが、あるいはそのころ前方は海であったかもしれない。古い遺跡のある地ではあるが、歴史時代に入ってからの開発は、他より遅れたようである。”“同じ地域にたくさんの神社を建てているということは、各地から集まった人がいくつもの小さい集団をつくって、開拓に従事していたことを示すものである。しかも普通であれば、時代の経過とともに村落の構成も整い、それにともなって散在していた神社も合祀統合されていくものである。たとえば最も数の多い阿受伎社にしても、三十八社もあったものが、いまでは大社町遙堪に一社となって残っているだけである。ほとんどはそこの阿式神社と杵築大社に合祀された。こうした事情から考えてみても、これらの地域の開発が新しいものだといえる。”(鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社学術文庫)

平野部は、他の地域より遅れた、新しい地域だと思う。
しかし、祭神から考えると、ここの神社が全て新しいものだとは、到底思えない。

4) いにしえの多久国

■ 伊努(いぬ)郷 ー 赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命(あかふすまいのおおすみひこさわけ)

“伊努郷。郡家の正北八里七十二歩の所にある。国引きをなさった伊美豆努命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命の社が、郷の中に鎮座していらっしゃる。だから、伊農という。〔神亀三年に字を伊努と改めた。〕”(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命の神名を取って、郷名になっている。この神は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)の御子だ。富家伝承によると、八束水臣津野命は、出雲西部の神門臣の系統である。そして妻が「天之甕津日女命(あまのみかつひめのみこと)」だ。
このイヌ郷は、出雲郡だけではなく、もっと東部の現在の出雲市美野町、野郷町あたりに(平成の合併前で言えば、平田と松江の境界付近)、秋鹿郡にイヌ(伊農)郷があった。

伊努神社  島根県出雲市西林木町376 

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伊農郷。郡家の正西一十四里二百歩の所にある。出雲郡伊農郷に鎮座していらっしゃる赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の后、天瓺津日女命が国をめぐりなさった時に、ここにいらしておっしゃられたことには、「伊農よ【原文…伊農波夜。」とおっしゃられた。だから、足怒(あしはや)る伊努という。〔神亀三年に字を伊農と改めた。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

この妻神ー天之甕津日女命を祭る社が、松江の佐太神社のさらに東の松江市鹿島町にもある。多久社である。遠く『尾張国風土記(逸文)』にもこの神が登場する。この神を祭ることで、垂仁天皇の御子ホムツワケ皇子がしゃべるという。まるで、ホムツワケ伝承の出雲大神とは、天之甕津日女命であったかのような書き方である。→ 日置氏の足跡 (7)  ホムツワケ伝承

「我は、多具(たく)国の神で、名前を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。我には祭祀してくれる者が未だにいない。もし我のために祭祀者を当てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう」。(『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注 角川ソフィア文庫 )※ 太字は、私。

この多具(たく)国は、どこの場所にあるのか?改めて、『出雲風土記』の中で、天之甕津日女命、天御梶日女命および赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命の伝承地に、「たく」「いぬ」(いの)の名前の付いた地名が随所に出てくる。出雲郡以外では、楯縫郡の「多宮村(たくむら)」「多久川(たくがわ)」「多久社」、秋鹿郡の「伊農川(いのかわ)」「多久川」(楯縫郡の川とは別の川)、島根郡の「多久川」(秋鹿郡と同じ川)「多久社」。
現在の地名で言うと、東は松江市鹿島町の辺りまでである。もしや、島根半島の西部から松江市鹿島町までを「多久の国」と言ったのだろうか?

■ 美談郷 ー 和加布都努志命

現在の町名は、美談(みだみ)と濁るようだが、『出雲風土記』(733年)時代は、「みたみ」であった。

“美談(みたみ)郷。郡家の正北九里二百四十歩の所にある。所造天下大神の御子、和加布都努志命、天と地が初めて分かれた後、天御領田(あめのみた)の長としてお仕えなさった。その神が郷の中に鎮座していらっしゃる。だから、御田(みた)を見る神の意で三太三という。〔神亀三年に字を美談と改めた。〕この郷には正倉がある。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)※ 太字は、私。

しかし、この「御田を見る」から、「みたみ」というのは、なんだかこじつけがましい感じがする。隣の宇賀郷も、所造天下大神が「うかがいもとめる」から「うか」というのも現代風な話であやしく思う。その理屈でいうと、築くから「杵築(きづき)」というのも、本当だろうか?と疑ってしまう。天と地が初めて別れた後というのが、どうにもおかしい。そんな時代に「天つ神の御料地」があるはずがない。
だったら、国譲り前に、天つ神が出雲国を支配していたということになる。

ともかく、ここの郷名は大国主命(所造天下大神)の御子、和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)に関連して付けられている。この名前からして、物部氏の祖神ー布都努志命が真っ先に頭に浮かぶ。もしかしたら、神門臣氏と物部氏との間にも婚姻関係が発生したのだろうか、などの思いが浮かぶ。歴史の一断面では敵であっても、同族化するということはよくありうる。そうでなくとも、天御領田というからには、物部氏に関連するのかもしれない。

よくわからぬが、この神もまた、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命、天之甕津日女命と同様に、『出雲風土記』では、かなり東部の秋鹿郡の大野郷の地名起源に登場する。

美談神社    島根県出雲市美談町182  
左手から 境内社・印波神社、縣神社ならび和加布都努志神社、美談神社本殿 

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さらにわからないのが、出雲大社の本殿の中に、この神ー和加布都努志命の席があるらしい。本殿の中には、大国主命の席の前に「御客座五神」(天之御中主神、高御産巣立日神、神産巣立日神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)の席があるだけで、何を言うんだと思われるかもしれないが、平成の大遷宮の本殿特別拝観に参加された方のブログに書かれていた。下段の扉に近い所に、和加布都努志命(牛飼神)の席があるそうだ。江戸時代の絵巻にも赤い衣裳を着た子どもと牛が描いてあるらしい。
出雲大社の本殿の中にあえて席をつくらなければならないほど、重要な神であるのだ。謎である。

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Commented by たぬき at 2018-11-05 15:35 x
出雲神族(王家)の伝承では、古代出雲は紀元前6世紀頃に出雲(クナト)国から王政に以降して日本列島で初の王国が成立。
その初代出雲王(オオナモチ)が菅之八耳命。正后は稲田媛命。とつたわります。
その二人の御子らがそれぞれ王(意宇)郡の富家/向家とも。と神門郡の神門臣家として独立。
以降、東と西の二つの王家が主王(オオナモチ)と副王(スクナヒコ)を持回りで交代して就任。
17代オオナモチの山崎帯(ヤマサキタラシ/神門臣家)まで約700有余年国を伝えました。
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by yuugurekaka | 2018-10-31 11:24 | 出雲大社 | Trackback | Comments(1)