国譲り神話と出雲大社創建(6) 高層神殿

1)なぜに高く造営しないといけなかったのか
 
現在では、出雲大社が平安時代には、高層神殿であったことを否定する人はいないのではないかと思う。平成12年に、高層神殿を裏づける3本束ねた本殿の巨大柱が発見されたのである。この柱は、宝治2年(1248年)の造営のものと推定されている。おそらく創建時も天高く、そびえ立つ造りであったと想像される。

出雲大社の伝承では、「上古三十二丈(96m)、中古十六丈(48m)、その後は八丈(24m)」だそうであるが、この中古十六丈(48m)は建設学的に可能であると言われているし(詳しくは →季刊大林 古代・出雲大社本殿の復元 、いかに出雲大社が高かったかということが文献でも知ることが出来る。平安時代中期、源為憲の『口遊』の中に「雲太、和二、京三」という言葉が載っている。出雲が太郎、大和が二郎、京都が三郎という意味である。出雲は、杵築大社であり、大和は東大寺の大仏殿であり、京都は大極殿のことだ。平安中期の大仏殿は十五丈(45m)であったので、当時の木造建築物の中で、出雲大社は日本一高いものだったということが出来る。

この上古三十二丈(96m)は、あまりに高く信じがたいが、ともかく天にも届くように高く作らなければならないという使命があったものと思われる。このように高い建築物であったので、必然的に倒壊のリスクがあり、平安中期から鎌倉時代初めまでの200年間に7度も倒壊している。
財政的な負担や労力は、いかばかりだったかと想像する。名誉な話だけではなかったはずである。

平安時代の出雲大社復元模型
【福山敏男監修 大林組プロジェクトチームによる1989年公表の設計案に基づく復元模型】
                   島根県立古代出雲歴史博物館

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なぜ高層神殿でないといけなかったのかと考えてみるに、記紀に書かれたから…と、今は単純に思う。鶏が先か、卵が先かというような話で、鶏が先で、がっかりな気持ちもする。こう書くと、出雲王朝をが無かったように直情的に思う人が多いが、ただ出雲大社の創建が、新しかっただけで、弥生時代の出雲王朝の存在を否定しているわけではない。

〝わが子ども、二柱の神の申し上げたとおりに、われも背くまい。この葦原の中つ国は、お言葉のとおりにことごとく天つ神に奉ることにいたそう。ただ、わが住処だけは、天つ神の御子が、代々に日継ぎし、お住まいになる、ひときわ高くそびえて日に輝く天の大殿のごとくに、土の底なる磐根に届くまで宮柱をしっかりと堀り据え、高天の原に届くほどに高々と氷木を立てて治めたまえば、われは、百に満たない八十の隅の、その一つの隅に籠り鎮まっておりましょうぞ。
 また、わが子ども、百八十にも神たちは、ヤヘコトシロヌシが神がみの先立ちとなってお仕えすれば、背く神などだれも出ますまい。〟(三浦佑之著 『口語訳 古事記 神代篇』文春文庫より)

おそらくこの頃、大宝律令体制における神祇体系の整備で、杵築大社だけではなく、もしや有力な氏族たちが「立派な社殿」として再編造営したのではないかと思う。神社や祭祀場はもともとあったので、なかなか、そういう資料というものは出て来ないと思うのであるが、祭政分離の時代に突入するわけなので、そのままの形だったとは思えない。

改めて考えると、杵築大社と出雲国造家の関係は特殊である。出雲国造家は、天穂日命を祖としている高天原の人間であり、杵築大社の祭神大国主命の子孫ではない。子孫ではないものが祭祀するのは、伊勢神宮(内宮)も同じである。伊勢神宮(内宮)の祭主ー中臣氏は、天照大神の子孫ではない、むしろ出雲国造家の方が、天照大神の子孫である。こう書くと大変違和感を感じる人が多いが、記紀では、天穂日命は天照大神の御子、第二子として位置づけられているわけである。

ともかく、新たな神祇体系の中で、皇祖神(天神)ー伊勢神宮の対極として、大国主命を鎮める(地祇)ー杵築大社が位置づけられ造営されたのではないかと思う。

2)天神地祇を祀る

神々をどうして天神地祇に分けたのであろうかと問えば、時の政府が、中国の律令制に倣ったため、中国の『周礼』によるものだろうという答えが浮かぶ。日本の伝統的な神観念や祭祀制度は、中国とは違うけれど─日本独特の天神地祇であろうが─その区別を必要としたのは、ひとえに中央集権制の強化ー天皇の神格化(陰陽の統合者)にあったものと思う。

〝すなわち、旧国土の経営者であった大国主神を、多くの事績によって偉大な神にすればするほど、その偉大な神でさえ国譲りをしなければならなかった皇孫の権威が見事に示されるからであった。〟(鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社文庫)
おそらく、いかに偉大であったかを示すために、天高くそびえ立つものとして造らねばならなかったのではないか。

そういう意味での地祇であるが、天神と地祇は切り放されず双方を祀るものとして、『養老令』の「神祇令」で述べられている。その分類はいつ始まったのであろうか。持統天皇の時代だったのかもしれない。

〝『日本書紀』持統紀に「百官神祇官に改修し天神地祇の事を宣し奉る。」―(持統三年八月壬午(2)条)―とあるのは甚だ興味をひくが、「宣」をどの様に理解するか、聊か難解であるが、諸橋漢和辞典によれば「諡(おくりな)す」と読む場合もあり、それによれば個々の神々の神号或は天神か地祇かの格付差別を行ったと云う意味に解することが出来る。〟(美多 実著『古代文化叢書7 風土記・斐伊川・大社』 島根県古代文化センター発行)

さて、その分類された地祇であるが、『姓氏録』を見る限り、極めて少ない。大神氏・賀茂氏や宗像氏の大国主神系、安曇氏のような綿積神系、倭国造ー椎根津彦系、そして吉野の国栖系、隼人族などである。大半の氏族は、天神の神々の血筋をひくものとして、天津神を選んだのではなかろうか。
天神の引き立て役で、政治から引退し幽玄の世界にいくという地祇を喜んで受けたとはどうも思えない。
地祇になったからといって、実際上の不利益はあったのかどうかわからないが、地祇を引き受ける以上は、先祖の神々を記紀の中で、誇りあるものとして高めてもらうしかない。

そういう観点で『日本書紀』を見ると、三輪高市麻呂が行った持統天皇の伊勢行幸への諫言の話も、三輪氏(大神氏)VS持統天皇ということを言いたいわけではなく(実際大神氏は大国主命のように政治引退などしていない)、大神氏の偉大さを褒めたたえるものであったように思える。

また、下記の『姓氏録』の記載をみれば、天神地祇に一貫性がないことがわかる。ことに事代主命である。下記の例ばかりだけではなく、左京天神の畝傍連「天辞代命子国辞代命之後也」や右京天神の「高媚牟須比命三世孫天辞代主命之後也」とある。(タカムスビの娘三穂津姫と婚姻というのが影響したのかもしれないし、あるいは記紀に初期天皇家の母族[皇后]と書かれたのが影響したのかもしれない。)

天神  飛鳥直     天事代主命之後也  
地祇  大神朝臣   素佐能雄命六世孫大国主之後也
地祇  賀茂朝臣   大国主神之後也

ところで、『出雲国造神賀詞奏上』であるが、あれも、中臣氏の『天神の寿詞』に対応した『地祇の寿詞』が主目的だったのではないか。出雲国造の任命が主目的のように云われているが、国造から国司に既に移っていた時代である。任命というのは単なる儀礼的なものではなかろうか。

その『出雲国造神賀詞』を初めて奏上したとされているのが、出雲臣果安である。文献上では、『続日本紀』霊亀元年(716年)2月10日条に、「出雲国々造外七位上出雲臣果安、斎終り神賀詞を奏す。神祇大副中臣人足、その詞をもって奏聞す。是日、百官斎す。果安より祝部に至る一百十余人に、位を進め禄を賜うこと各々差有り」とある。出雲臣果安が、国造の任にあたったのが、和銅元年(708年)なので、「神賀詞」は、その8年後である。
その後の国造は、文献上は、就任後、三、四年後に行なっており、任命というのが違和感を覚える。

さて、おそらく初めて奏上をおこなったであろうこの出雲臣果安であるが、和銅元年(708年)から養老五年(721年)まで国造の任にあったが、『出雲国造世系譜』には、「伝にいう。始祖天穂日命、大庭に開斎し、ここに至って始めて杵築之地に移る云々」と記されている。本拠地であった意宇郡を離れ、杵築大社の宮司として移ったということだ。

神賀詞を奏上したのが、『古事記』(712年)の4年後である。いつの頃に「国譲り神話」が朝廷でまとめられたのか不明だが、杵築大社(出雲大社)の創建無くしては、奏上できないし、意宇から杵築の地への移転も不可能である。出雲臣果安が国造であった時代に、杵築大社が建てられたというのが通説である。杵築大社の創建が、はるかに古いことだと思いたいが、事実を重ねていけば、残念ながら、概ね奈良時代のできごとであったと思われる。

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Commented by たぬき at 2018-11-15 10:51 x
出雲の旧王家の富家の伝承によれば、
出雲大社こと、杵築大社の造営は出雲国造 出雲臣果安が中央政府から派遣される国司に実権を奪われる等によりプータローになりかけたところ

旧王家の富家(熊野大社の宮司を管掌していた)と神門臣家に泣き付いてきたのと
中央政府から(未だに隠然と権威と財力、信望のある旧王家らの力を削ぐため)先祖祭祀の神宮建設の話が持ち上がった事等から
旧王家の完全な持ち出し(資本)で現在の場所に杵築大社を造営した。 と言います。
土地は神門臣家。上物の建築物件は富家が。
宮司には富家が熊野大社から移って管掌した。

果安はその配下として雇われたに過ぎない。

ヤカラのハタヤスらはホヒやヒナドリの先祖代々同様に伝家の宝刀の陰謀を巡らしてマンマと杵築大社の乗っとる事に成功して、、、件の通り。

朝廷に取り入り媚びて味方に付けて強権発動により杵築大社を旧王家の富家らから奪った!?のが歴史かと。
Commented by たぬき at 2018-11-15 10:51 x
出雲の旧王家の富家の伝承によれば、
出雲大社こと、杵築大社の造営は出雲国造 出雲臣果安が中央政府から派遣される国司に実権を奪われる等によりプータローになりかけたところ

旧王家の富家(熊野大社の宮司を管掌していた)と神門臣家に泣き付いてきたのと
中央政府から(未だに隠然と権威と財力、信望のある旧王家らの力を削ぐため)先祖祭祀の神宮建設の話が持ち上がった事等から
旧王家の完全な持ち出し(資本)で現在の場所に杵築大社を造営した。 と言います。
土地は神門臣家。上物の建築物件は富家が。
宮司には富家が熊野大社から移って管掌した。

果安はその配下として雇われたに過ぎない。

ヤカラのハタヤスらはホヒやヒナドリの先祖代々同様に伝家の宝刀の陰謀を巡らしてマンマと杵築大社の乗っとる事に成功して、、、件の通り。

朝廷に取り入り媚びて味方に付けて強権発動により杵築大社を旧王家の富家らから奪った!?のが歴史かと。
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by yuugurekaka | 2018-10-27 18:38 | 出雲大社 | Trackback | Comments(2)