国譲り神話と出雲大社創建(5) 出雲国造神賀詞

1)尾張氏・物部氏 同祖
 
『海部氏勘注系図』(→ウィキペディア 海部氏系図 )や『先代旧事本紀』に見られる天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命、またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命)、つまり尾張氏の祖である天火明命と物部氏の祖の饒速日尊が同じ神だということであるが、一見異伝のように感じるけれど、『古事記』『日本書紀』や『姓録』の底流に流れているのではないかと思う。

斎木雲州著『お伽話とモデル―変貌する史話 (おおもと新書)』によれば、日向神話の海幸(火照命)・山幸(彦火火出見尊)、仲の悪い兄弟―尾張氏と物部氏を表現したものであるという。神武天皇の、諱は、彦火火出見である。本来尾張氏物部氏同祖で、尾張氏は、天火明命の天神であるが、物部氏(彦火火出見)との対比上、倭国造が地祇に位置づけられてしまったのではないかと自分は思う。

またの名天照国照彦天火明尊は、天神でありながらも地祇の祖という素戔嗚を表わしているものないかと思う。このあおりを受け、出雲族との密接度から紀氏の大元の系譜──、つまり天火明命→天香山命(天香語山命ともいう)という流れが、素戔嗚命→五十猛命という地祇系という別の表現を生じさせたのではないか。(天香山命の別名が、武位起命ータケイタテとなっており、五十猛、イタテ神とも考えられている。)

天香久山    藤原京の東に位置する天香久山(天香具山)。

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実際の所、尾張氏・物部氏同祖というのが本当の話なのか疑いを感じざるを得ないが、氏族間の取り決めというかそういうものがあったと思う。
 さて、出雲国造家の祭る神は天神者。伊勢。山城ノ鴨。住吉。出雲国造斎神等類是也。〟(『令義解』)であり、元々素戔嗚尊であった。出雲大社の祭神も、『先代旧事本紀』に「御鼻をお洗いに成った神のお名前は、建速素戔烏(たけはやすさのお)尊(みこと)と申し上げる。出雲の国の熊野・杵築の神社(島根県松江市八雲町熊野の熊野大社・出雲市大社町杵築の出雲大社、旧簸川郡)におられる。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社)ということを考えると、当時の物部氏や出雲国造家にとっては、元々の構想として、大国主命ではなく素戔嗚尊であったのかもしれない。

ヤマタノオロチを切ったとされる十握剣が、物部氏の石上神宮に祭られており、ヤマタノオロチの体から出てきたとされる天叢雲剣(草薙剣とも言う)が尾張氏の熱田神宮に祭られているということから考えても、素戔嗚尊が、尾張氏と物部氏をつなぐ神として、創出されたのではないかと思う。

2)出雲国造神賀詞

まずは、ウィキペディアから引用する。
〝出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。その性格としては服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。

『延喜式』にその文章が記述され、『貞観儀式』に儀式の内容が記されているが、前者の文章は8世紀中期以後の内容であると推定されている。内容は天穂日命以来の祖先神の活躍と歴代国造の天皇への忠誠の歴史とともに、天皇への献上物の差出と長寿を祈願する言葉が述べられている。〟 

服属儀礼か? 復奏儀礼か?

奈良時代に、なぜに、弥生時代設定の国ゆずりの話を奏上しないといけないのかという、時代錯誤的なというかリアリティーの無いものをしないといけないのかという疑問が自分の中にある。それを服属だの復奏だのという前に、単なる儀礼としても、その時代の、必要性にかられてされたものであると思う。
まずは、前提として、氏族としての天神や地祇の設定を認めないといけない。また、アマテラス大神から派遣されてきた天穂日命の子孫であるところの出雲国造が、出雲族の祖先神を鎮め、都を防衛させますなどということを宣言しないといけない。それが、その当時どういう意味があったのか。

服属儀礼とするならば、天皇家に服属した出雲の国の代表という話になる。この「出雲国造神賀詞」はそういう観点で書かれていない。
まずは出雲国という狭い話ではなくて、葛城の神々も含め、全国の「あらぶる神々」を「鎮め」つまり荒魂を和魂に変えて、出雲の神は天皇の都を守りましょう、それは高天原から派遣された天穂日命の子孫の出雲国造家の功績というストーリーである。

古代史家の中には、出雲国造を大国主命の末裔である出雲国王のように言う人がいるが、出雲国造家自体がそんなことは一言も言っていない。政治的な利益のために天穂日命を祖先にしているという想像も成り立つが、大神氏・賀茂氏のように大国主命を祖先とした方が、出雲国の民を支配するに好都合である。
元々は、素戔嗚尊を祭り、国譲り神話の成立より、ヤマト王権から大国主命を祭るように言われ杵築大社の宮司家となったというのが、実際のところなのだろう。

大宝律令・新たな神祇体制に邁進しなければならない時代にあって、この「出雲国造神賀詞」を奏上する意味は何なのだろう。壬申の乱以後のことを考えると、持統天皇・石上・藤原・中臣体制に反対する豪族(これが荒ぶる神なのだろう)を鎮めて、変革に協力させる仕組みがあったはずで、それを出雲国造家も担い、実際、都の周りに氏族として分布して役割を担ったのではなかろうか。何分 そういう文書など存在しないが、時代が下って平安京の時代になって、京都の都の近くに出雲氏が分布していることがそう考えさせてしまう。(→出雲路幸神社の謎(1)京都の出雲郷 

高天原から派遣されて、都で奏上するので、派遣されてどうやってきたかを報告する復奏儀礼にしか思えない。そもそも、出雲国は出雲族の発祥の地ではない、出雲国には大国主命・事代主命の子孫などいない、いるのは奈良であるという著名な古代史家たちの前提があるので、出雲国造家そのものが出雲族だとする混乱が服属儀礼説にあると思う。

■ 三輪山の「大物主命」

『出雲国造神賀詞』では、三輪山の祭神を倭大物主櫛瓺玉命(やまとおおものぬしくしみかたま の みこと)という。

〝乃(すなわ)ち大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静まり坐さん大倭の国と申して、己命の和魂を八咫鏡に取り託けて、倭大物主櫛瓺玉命と名を称えて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提(うなで)に坐せ、賀夜奈流美(かやなるみ)の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹(やおに)杵築宮に静まりしき。〟(鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』講談社文庫から引用)

倭大物主櫛瓺玉命の櫛瓺玉命は、武蔵国瓺(菱玉)(みか)神社の伝承によると、櫛御気野命は女神、櫛瓺玉命は男神であり夫婦神であり、酒造の神だそうだ。(→ 神々の黄昏 瓺[菱玉](みか)神社と伊努神社 
※杵築宮(出雲大社)の枕詞の八百丹(やおに)は、賀茂真淵『祝詞考』によれば、「多くの土」という意味だそうだ。
賀夜奈流美(かやなるみ)命は、斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、9代目大穴持ー鳥鳴海命(事代主命の長男)だそうだ。(→ 天照らす 高照姫命 (1) 伯耆 蚊屋島神社 

三輪山 大物主命が鎮まる神の山と言われる。神社の伝承では、頂上の磐座に大物主大神、中腹の磐座は大己貴神、麓の磐座には少彦名神が鎮座しているそうだ。

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 さて、ざっとした内容は、大穴持命が出雲の神々を奈良の都に配置し天皇家の守り神にし、自分の分霊というか和魂を三輪山に鎮座させました、その名は、「倭大物主櫛瓺玉命」ですということ。三輪山の祭神は、『古事記』では、美保関で出会ったカミムスビの御子スクナヒコナでかつ大国主命の幸魂奇魂(和魂)、『日本書紀』では、スクナヒコナは、タカムスビの御子となっているが、熊野の御崎に行き、そこから常世郷へいくとなっている、そして、別の説ではと、前置きして、三輪山の祭神は、事代主命であると書かれている。事代主命は、『国譲り神話』では、出雲の三穗之碕で魚釣りをしており、稻背脛命が使者として熊野諸手船に乗ってくることになっている。さらに、この大物主命は、第二の一書には、大国主命がお隠れになった後、タカムスビの娘 三穂津姫と婚姻させるという話で登場する。ともかく、大物主命・スクナヒコナは、美保関や熊野という地名に関係があるつくりとなっており、『先代旧事本紀』の三輪山の祭主オオタネコの系譜を考えても三輪山の祭神は、事代主命であったと思われる。それが、大国主命の和魂となり、別名 大物主命にする意味はなんなのか。

出雲国造廣嶋が編纂した『出雲風土記』(733年)を見ると、スクナ彦は、飯石郡に1か所出てくるが事代主命は、全く出て来ない。野見宿祢さえ出て来ない。それゆえ、戦後の古代史家が、葛城の事代主命は出雲国の神ではないと言う根拠にもなっている。これは同じ出雲臣の事代主命の系統(富家)の足跡当時の出雲国造家は消そうとしていたのではないかと、私は思う。仁多郡の山のところに出てくる戀山(→ 鰐の恋山 -鬼の舌震 )伝説も、あれは、三輪山の神婚伝説の揶揄なのではないかと、うがち過ぎな見方もしてしまう。
(また『出雲風土記』では葛城のアジスキタカヒコ命は、登場するが、大人になっても髭がぼうぼうで、言葉をしゃべらなかったというまるでホムチワケ皇子のような設定である。これもそういう伝承があったというよりも、何か揶揄のように思える。)

それと、『令義解』に書かれる出雲国造家が斎神と書かれた熊野大社の祭神であるが、『出雲国造神賀詞』では、伊射奈伎乃日真名子(いざなぎのひまなこ)加夫呂伎(かむろぎ)熊野大神櫛御気野命(くしみけぬのみこと)と、どうもわかりにくい。『先代旧事本紀』のように「素戔嗚尊」と書けばわかりがいいが、そうしなかったのは、修辞語をたくさんつけて立派な神名にしていると理解されているが、
実際はそうでなかったから、別の祭神に変更するための作為だったのではないか。

上山春平説では、藤原氏・中臣氏が記紀編纂に関与したということが中心であるが、私は、時の左大臣ー石上麻呂(704年は右大臣)を輩出した物部氏にかなり配慮された神代記になっているように思う。ヤマトでも饒速日命、イズモでも素戔嗚尊というように始原は物部氏だったという書き方である。それゆえ、原田常治氏説(→ ウィキペディア ニギハヤヒ )に見られるような、大物主命は饒速日命であるという説がでてくるのだろう。インターネットで検索すると、それを主張される方が多いのに驚く。大物主命の「物」は、物部氏の「物」なのかもしれない。
当時の出雲国造家が、権力者であった藤原氏だけではなく、物部氏に対しても、おもんばかったとして不思議はない。


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Commented by たぬき at 2018-10-25 21:35 x
今の天皇家。というより継体天皇以降の天皇家は男系の血脈は出雲神族。
家系は渡来人の徐福を始祖とする天神族。その始めから母系は出雲神族(徐福さま初回の渡来時には出雲王国の王家のお姫様を后として五十猛を成し、2度目の渡来時には出雲神族で宇佐族でもある市杵島媛命を后に迎え御子のホホデミと媛のホヤ媛を成す。ホヤ媛は異母兄の五十猛に嫁して天村雲命(系譜上の神武天皇は天村雲命)を産む。ホホデミは物部王家=天皇家の祖。)

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by yuugurekaka | 2018-10-13 00:45 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(1)