国譲り神話と出雲大社創建(4) 壬申の乱

1)壬申の乱 

いわゆる 672年に起こった皇位継承をめぐって起きた内乱である。 天智天皇の御子・大友皇子(弘文天皇)近江朝側)に、皇弟である大海人皇子(後の天武天皇)が反旗をひるがえし、皇族・豪族が二派に分れて戦った。その結果、大友皇子は敗北し自殺し、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。そして、この乱を境に天皇の神格化と律令体制の整備とが急速に進んだ。〟 (株式会社平凡社百科事典マイペディアより)と、されている。

壬申の乱に登場する豪族の主な武将たちであるが、以下に記す。なにぶん、当事者たちが、『日本書紀』の書かれる時代に存在した人たちなので、さしさわりがって、全てが本当ではないのかもしれない。

近江朝側の登場人物
中臣金石上麻呂(物部連麻呂蘇我臣赤兄、蘇我果安、書直薬、智尊、穂積臣百足、穂積五百枝、犬養連五十君、忍坂直大麿呂、谷直塩手、佐伯連男、壹岐史韓国、樟使主磐手、廬井造鯨、大野君果安、田辺小隅、山部王、境合部連薬、秦友足、社戸臣大口、土師連千嶋

大海人皇子側
大伴連吹負、大伴連馬来田、書首根麻呂、大伴連御行、栗隈王、美濃王、小子部連鉏鈎、三野王、秦造綱手、忌部首子人村国連依、土師連真敷、物部連雄君(朴井雄君)、稚桜部五百瀬、三輪君子首、三輪君高知麻呂、田中臣足麻呂、当麻公広嶋、鴨君蝦夷、紀臣阿閇麿、坂本臣財、坂田公雷、紀臣堅麻呂、星川臣麻呂、膳臣麿漏、当麻公広麻呂、布勢朝臣御主人(阿倍御主人尾張宿禰大隈尾張連馬身大分君稚臣、出雲狛

これを見ると、磯城王朝時代からの古い著名な豪族(大伴氏、三輪氏、鴨氏、阿倍氏、尾張氏、紀氏など)の大半が、大海人皇子側についているのがわかる。また、どの系統かわからぬが、出雲姓の出雲狛の名も見える。つまりは出雲姓の豪族が、出雲国ではない近畿にも分布していたのだ。

一番驚くのが、藤原律令体制の時代の一角を担う物部氏(石上氏)・中臣氏が、壬申の乱の負け組であることだ。天武朝で、壬申の乱の功臣の氏族が一時は出世するが、持統天皇時代から没落が始まり、それとは反対に、物部氏(石上氏)・中臣氏(藤原氏)が官僚の要職をしめる流れになっていく。

2)物部氏と中臣氏

改めて、飛鳥時代の物部守屋氏と中臣氏の軌跡を『日本書紀』から見ていくと、このコンビで、戦った内乱がもう一つある。丁未の乱(ていびのらん)である。仏教の礼拝を巡り、廃仏派である物部守屋・中臣勝海と祟仏派の蘇我馬子が対立していており、結果として厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族と蘇我氏を筆頭とする諸豪族が勝利し、物部氏はこれを契機に衰退したと言われる。

時代をさらにさかのぼると、仏教公伝の欽明天皇の時代に既に、物部尾輿(もののべ の おこし)は、中臣鎌子(藤原鎌足とは別人)と共に廃仏を主張し、崇仏派の蘇我稲目と対立している。

さて、丁未の乱における中臣勝海の動きであるが、ウィキペディアによると、次の通り。
排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている)が、その帰路、舎人迹見赤檮が中臣勝海を斬った。

この彦人皇子(→ ウィキペディア 押坂彦人大兄皇子 )であるが、敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・広姫であり、息子である舒明天皇(田村皇子)から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)というように、中臣氏は、息長王家の皇統に寄り添っていく。

3) 天つ神と国つ神の分類

天神・地祇いわゆる、天つ神と国つ神であるが、中臣氏による大宝律令後の神祇革命―神道の国家的再編後に行われたのではないかと、私は思っている。天つ神と国つ神の分類は何によるものであろうか。たとえば、大辞林 』の書かれてある一般的な考え方である。

〝天の神と地の神。天つ神と国つ神。あらゆる神々。 〔日本では、高天原(たかまのはら)に生成または誕生した神々を天神、初めから葦原中国あしはらのなかつくにに誕生した神を地祇とする〕〟(三省堂 『大辞林 第三版』)

仮に高天原をヤマトだとすると、三輪山の大神をはじめ、事代主命やアジスキタカヒコ命などを奉祭する氏族が、地祇系とされていて、所在地とは関係がないようだ。また、ヤマトの所在地自体の倭国造の祖が、そもそも地祇となっている。
天皇家に縁がある氏族が、天つ神かというと、そういうわけではない。『日本書紀』では、神武天皇の皇后が、事代主命の娘(媛蹈鞴五十鈴媛命)と書かれており、三代に渡り、事代主命系の皇后とされており、それも理由になっていない。
先住民族が国つ神で、後から来たのが天つ神という説も強いが、宇佐氏とか尾張氏など天つ神なので、これも一貫性がないように思う。
では、壬申の乱の大海人皇子側が、地祇系かというと、(大伴氏や忌部氏は、地祇系でもいいように思うが)、そうなってはいない。
さらに賀茂氏や紀氏においては、天神系と地祇系の二つが発生する事態にいたっている。より古い方が、地祇系であるという見方が、強いのであるが、本当にそうなのだろうか。

ばくぜんと出雲系が地祇であろうと思われている。天照大御神⇔素戔嗚命の陰陽対立から、高天原から追放された素戔嗚命の子孫の神々を地祇ととらえるのが、もっとも正しいような気がする。
素戔嗚命自体が、高天原から地上に降りた時点で、国つ神に転化したのなら話がわかる。
しかし、『令義解』(りょうのぎげ)(833年)の書物(→ウィキペディア 令義解 )には、〝天神者。伊勢。山城ノ鴨。住吉。出雲国造斎神等類是也。地祇者。大神。大倭。葛木ノ鴨。出雲大汝神等類是也。〟とあり、出雲国造斎神(素戔嗚命のこと)は天神出雲大汝神(大国主命のこと)は地祇となっている。それと、大倭であるが、倭国造の関連する社であると思われるが、倭国造の祖(椎根津彦)は、海部氏の系統と思われるが、記紀では、素戔嗚命の子孫だとは書かれていない。

大神神社(おおみわじんじゃ)拝殿    奈良県桜井市三輪1422 

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深堀すると、なぜ地祇なのか明確な基準がわからなくなってくる。
さて、メインテーマの「国譲り神話」に戻るが、視点を変えると、「出雲族の政治の舞台からの名誉ある引退」の話にも見える。──ここでは、出雲族に出雲国造家を入れると、話が見えなくなる。なぜならば、国譲りを迫る側が、『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)では、出雲国造の祖「天夷鳥命(あめのひなどり」と物部氏の祖「布都怒志命(ふつぬし)」になっているからである。

また、この国譲りを迫る側が、『古事記』では、藤原氏の祖ー「建御雷神(たけみかづち)」「天鳥船神(あめのとりふね)」となっている。『日本書紀』では、物部氏の祖「經津主神(ふつぬし)」藤原氏の祖「武甕槌神(たけみかづち)」を加えて、事代主命への使者として熊野諸手船(くまののもろたふね)またの名は天鴿船(あまのはとふね)に使者の稻背脛神(いなせはぎ)ー出雲国造家の祖となっている。

三つの書物で、まとめると、本によってコンビは違うけれど、藤原氏・物部氏・出雲国造家の三者ということができる。戦後古代史家のいうように、作り話と言えば、身も蓋もないが、この氏族の構造から、出雲国造家もヤマト中央につながって、壬申の乱やその後の持統体制に向けて、中臣氏(藤原氏)や石上氏(物部氏)と連携した働きをしたのではないかと想像してしまう。出雲国造家が、中臣氏・石上氏の命を受けて働いたという確たる文書など存在しないが、そう感じてしまう。

地祇の出雲族の名誉ある政治的引退であるが、政治的引退を迫られるのは、国譲りを推し進めた側の天津神も結局は同じことで、国造から国司へとの転換という大宝律令体制の宿命から、出雲国造家自体も政治的実権を失うこととなる。祭政分離政策の一環として、神社の宮司家になっていく、または社家になる、という国家的な再編成が行なわれたのではないかと思われる。

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by yuugurekaka | 2018-10-05 11:09 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)