国譲り神話と出雲大社創建(3) 出雲神宝

『先代旧事本紀』の巻十国造本紀では、出雲国造の起源について以下のように記載されている。

出雲国造
崇神朝の御世に、天穂日命の十一世孫の宇迦都久努を国造に定められた。

それと符合する起源話が、『日本書紀』 崇神紀の60年の記事にある。いわゆる「出雲神宝検校」の話である。その伝承地の一つが出雲市大津町止屋の淵であるが(詳しくは過去記事→ 出雲国造の系譜の謎(2) )、雲南市加茂町神原神社の周りも伝承地の一つであることを、『雲陽誌』(1717年)で、知った。

ここ加茂町の神原は、『出雲風土記』には地名起源として、「所造天下大神(大国主命)の神宝を積み置かれたところ」と、述べられている。

神原かんばらごう
郡家ぐうけ正北九里   りの所にある。古老が伝えて言うには、所造あめのした天下つくらしし大神おおかみが、かみの御財みたからを積み置かれたところである。それでかんたから郷というべきだが、今の人はただ誤って神原郷と言っているだけである。”(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

ここの宝は、昨今、加茂岩倉遺跡の事ではないかという話も多いが、加茂岩倉遺跡は、仮にそこが神原郷であったのならかなり北の方である。


赤川 島根県雲南市加茂町神原 

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1)雲陽誌

『雲陽誌』は、まず『出雲風土記』を抜粋したうえで、神原神社の神寶明神を説明した後、『日本書紀』崇神紀と垂仁紀に見られる「出雲神宝検校」を記載する。矢口大明神などの神社仏閣等を説明した後、神原の地を説明する。ここの地も往古は、八百万の神迎祭をしていたらしく、神々は、佐陀の社へいくことが書かれていた。

川  大東加茂より流て簸の川に入、
土手 上神原より下神原の間千四百間あり、此土手下を昔止屋の淵といふ、松井淵ともいふ、里俗つたふる、
   歌
   八雲路や松井の水の清けれは
     八百萬代の神は御手洗水(みたらし)
兄塚 振根の墓なり、塚頭古木あり、
すくも塚 入根の墓なり、松の老樹あり、
大舎押 神腹の中の高山なり、古振根隠たるところなり、

『雲陽誌』に書かれたこの地の伝承をどうみるかであるが、
①『日本書紀』の「出雲神宝検校」問題につながる元々の伝承が、神原の地にあった。
②『日本書紀』の記事と『出雲風土記』の記事から、後に「出雲神宝検校」伝承地とされた。
③「出雲神宝検校」とは関係ないが、『日本書紀』の記事につながる別の伝承地であった。
の3説が浮かぶ。
①の見方が最も素直な見方であるが、自分は、初め②であった。しかし、いろいろと考察しはじめると、③ではないかと思い始めた。

2)神原神社古墳

古墳とか遺跡から古代史を考えることが、科学的で実証的とされるが、公共工事でたまたま見つかった遺跡だけでストーリーを考えるには、資料が足りないのではないかと自分は思っている。例えば、近年島根県では荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡、田和山古墳、隣県での妻木晩田遺跡、青谷上寺地遺跡など、びっくりするような遺跡が発見されているが、まだまだ、どこかに重要な遺跡が埋まっているのではないかと思う。

神原神社古墳は、赤川左岸の河岸段丘上に立つ神原神社の本殿下にあった。赤川の堤防の拡幅等の河川改修工事が行うために、1972(昭和47)
年に発掘調査され、「景初三年」(239年)の紀年銘を持つ三角縁四神四獣鏡(→ウィキペディア 三角縁神獣鏡 )や鉄製素環頭大刀などが出土した。「景初三年」という魏の年号が記された鏡は、大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳で出土した物の2面しか発見されていない。

折しも、崇神紀の出雲神宝検校の話で強調される「鏡」が発見されたわけである。

「玉菨鎮石(たまものしづし) 出雲人(いづもひとの)祭(いのりまつ)る 真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ) 押し羽振る 甘美御神(うましみかみ)、底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし) 山河(やまがは)の水泳(みくく)る御魂(みたま) 静挂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主」
現代語訳 水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の玉。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の玉。(『日本書記(上)』 宇治谷 孟 訳  講談社学術文庫より)

なんだか、まだ神宝の鏡が、赤川の水底にまだ埋まっているかのような感じのする話だ。
なお、この近くでは、神原正面北遺跡群 (方墳14基以上)、土井・砂遺跡(方墳6基)のように、もっとも古い方墳が多く発見されている。

神原神社古墳  
神原神社の東側に復元されている竪穴式石室。前期古墳で、周溝を加えた 35m× 30mの南北に長い方形墳であった。

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富家伝承(大元出版『出雲と蘇我王国』『古事記の編集室』など)には、神原古墳は、武内宿祢の墓と書かれている。武内宿祢と見て、頭が混乱してしまった。武内宿祢は、記紀では景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の時代に登場、『水鏡』では仁徳天皇55年に280歳で死去などと書かれ、実在性が疑われる人物とされる。

しかし、富家伝承本によると、武内宿祢とは家柄の名前であり、武内大田根(初代?)武内ソツ彦、武内ツク・・・という代々の武内宿祢の個人名を省いたとしている。武内宿祢の後継する氏族が、古代官僚の名家(紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など)ばかりなので、武内宿祢を伝説化する必要があったのか、あるいはまた別の意図があったのかわからない。

さて、ここに登場する武内大田根であるが、景行天皇の時代の人では無くて、垂仁天皇の時代の人で、九州から大和に攻め上がる物部王家の側についていたが、大和の磯城王家側に寝返った人物として書かれ、物部氏の追撃を逃げて、東出雲王家の富家をたより、因幡を通り、出雲国に逃げて、出雲国で一生を終えたという。『古事記』では、孝元天皇皇子の彦太忍信命と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたとされるので、垂仁天皇時代でちょうど良いのかもしれない。

さらに腹違いの弟、甘美内宿祢(うましうちのすくね)が、山城国宇治から神原の東に移り住んで、ここの地名が「宇治」となったという。
(甘美内宿禰は、内臣の先祖とされ、この「ウチ」とは山城国綴喜郡有智郷とされている。→ ウィキペディア 甘美内宿禰 

この甘美内宿禰との関わりであるが、『日本書紀』では、応神天皇の時代に登場し、またいつの時代の話か混乱する。ただ、『日本書紀』に書かれたことが真実だと疑わない思考だと、富家伝承のストーリーがなかなか頭に入らない。
この『日本書紀』のストーリーであるが、少し、「出雲神宝」の話にちょっと似ている。武内宿祢が、筑紫国に派遣されている間、甘美内宿禰が天皇に讒言する。天皇は武内宿祢の弁明を受けて、磯城(しき)川のほとりで、探湯(くかだち)ー呪術的な裁判法でうけいの一つを行い、勝った武内宿祢が甘美内宿禰を殺そうとする。天皇に許されて甘美内宿禰は死なず、紀直らの隸民になるという話である。

出雲神宝問題にでてくる、丹波の氷香戸辺が話す言葉の歌「真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ)」「甘美御神」に強調される「甘美」(うまし)であるが、当然、出雲臣の「甘美韓日狹(うましからひさ)」を暗にたたえる意味合いのように思えるが、富家伝承と神原神社古墳のことを前提に想像すると、鏡を持ち込んだの武日照命ではなくて、武内宿祢の弟の甘美内宿祢で、そういう伝承が、出雲神宝問題の創作につながったのではないのだろうかとも思える。

3)出雲臣 三系

戦後の古代史家でも、出雲臣家の兄弟の話と考える人は少なかったようで、井上光貞氏のように、東出雲の意宇勢力と西出雲の杵築勢力の二系の話である。
また、水野 祐氏の場合は、出雲神宝の話から、出雲臣家の系譜を三つの系列を見る。『水泳御魂考』(大和書房発行『古代出雲と大和』所収)に、以下のような表が載っていた。(本では、縦書き)

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根拠は、日本書紀の記事と代表人名の漢字のことぐらいしか、記述してなかった。

富家伝承では、以下のようになっている。ちなみに『姓氏録』では、土師氏の系譜(土師氏・菅原氏・秋篠氏・大枝氏)は、全て飯入根を祖としている。

出雲振根      神門臣家    大国主命(八千矛)の系統  西出雲王家 
飯入根       向家(富家)  事代主命の系統       東出雲王家 
甘美韓日狹・鸕濡渟 出雲国造家   天穂日命・武夷鳥命の系統 

改めて、「国譲り神話」を読んでみると、お隠れになる神が三神出てくる。大国主命、事代主命、天若日子である。
考えてみるに、大国主命と事代主命がお隠れになるというのは、出雲臣を始祖天穂日命 一系のみにするという、そういう隠喩ではなかったのかなどと思ったりする。それと、この天若日子であるが、富家伝承本『古事記の編集室』では、武内宿祢をモデルとしたものではないかと書かれてあったが、自分には、天火明命をモデルとしているのではないかと思える。

『先代旧事本紀』『海部氏勘注系図』にあって、記紀神話に無いもの、ー天火明命は、事代主命の妹 高照姫命と婚姻しー、『播磨風土記』『丹後風土記』にあって、記紀神話に無いもの、天火明命はオオナムチの息子ーそういう、天火明命が出雲族と婚姻関係を結び国王になろうとした伝承を記紀では書かなかったという暗号のようなものではなかったのだろうか…。



日本書記  巻五 崇神天皇  抜粋 
 
六十年秋七月十四日、群臣に詔して「武日照命(たけひなてるのみこと)の、天から持ってこられた神宝を、出雲大神の宮に収めてあるのだがこれを見たい」と
いわれた。 矢田部造(ヤタベノミヤツコ)の先祖の武諸隅(たけものろすみ)を遣わして奉らせた。

このとき出雲臣の先祖の出雲振根(いずもふるね)が神宝を管理していた。しかし筑紫国(つくしのくに)に行っていたので会えなかった。
その弟の飯入根(いい入りね)が皇命を承り、弟の甘美韓日狹(うましからひさ)子の鸕濡渟(うかづくぬ)とに持たせて奉った。

出雲振根(いずものふるね)が筑紫から帰ってきて、神宝を朝廷に差し出したということを聞いて、弟の飯入根(いいいりね)を責めて、「数日待つべきであった。
何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」と。
これから 何年か経ったが、なお恨みと怒りは去らず、弟を殺そうと思った。

それで弟を欺いて、「この頃、止屋(やむや)の淵に水草が生い茂っている。一緒に行って見て欲しい」と言った。弟は兄について行った。
これより先、兄は密かに木刀を造っていた。形は本当の太刀に似ていた。
それを自分で差していた。弟は本物の刀を差していた。淵のそばに行って兄が弟にいった。
「淵の水がきれいだ。一緒に水浴しようか」 と。
弟は兄の言葉に従い、それぞれ差していた刀を外して、淵の端におき水にはいった。後からの弟は驚いて兄の木刀を取った。互いに斬り合うことになったが、
弟は木刀抜くことができなかった。兄は弟の 飯入根(いい入りね)を斬り殺した。時の人は歌に詠んで言った。

ヤクモタツ、イズモタケルガ、ハケルタチ、ツヅラサハマキ、サミナシニ、アハレ。出雲健(いずもたける)が 侃(は)いていた太刀は、 葛(つづら)を沢山巻いて
あったが、中身がなくて気の毒であった。 ここに甘美韓日狹(うましからひさ)・鸕濡渟(うかづくぬ)は朝廷に参って、詳しくその様子を報告した。そこで吉備津彦と武淳河別(たけぬなかはわけ)とを遣わして、出雲振根を殺させた。出雲臣等はこの事を恐れて、しばらく出雲大神を祭らないでいた。丹波の氷上の人で名は氷香戸辺が、皇太子活目尊に申し上げて、
「私のところの小さなこどもが、ひとりで歌っています。水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の玉。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の玉。これはこどもの言葉のようではありません。あるいは神が取り憑いて言うのかもしれません」といった。そこで皇太子は天皇に申し上げられた。天皇は勅して鏡を祭らせなさった。 — 後略 —      
                               日本書記(上)  宇治谷 孟 訳  講談社学術文庫より


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by yuugurekaka | 2018-09-30 08:28 | 出雲と大和 | Trackback | Comments(0)