日置氏の足跡 (12) 富家伝承 ー 日置王 

■上宮太子の御子 

富家伝承の本を読んでいるが、書いてあることの奇抜さに驚かせられる。それで、本当だろうか?と疑ってしまう。それで、すぐ検証してみたくなり、他の書物を読んでみる。いや「検証」などと言う事は、博学のもののいうことであり、浅学の私にとっては、まず、いろいろな書物を読んで、富家伝承本の登場人物をまず一人一人を調べ、通説を確認していくという基礎知識が必要になってくる。その繰り返しでこの3年間過ぎたような気がする。

「日置氏の足跡」のテーマも、斎木雲州著 『飛鳥文化と宗教争乱』(大元出版)を読んで思いついた。富家伝承本『出雲と蘇我王国』(大元出版)では、日置氏はヤマト王権の実権を握る蘇我王家の命を受けて、蘇我氏の親戚である出雲王家(富家、神門臣家)の古墳造りに派遣されたように書かれていた。

しかし、『飛鳥文化と宗教争乱』(大元出版)では、上宮王家の二人の御子(日置王、財王)が、皇位継承問題の激化を避けるため、推古天皇より上宮王家を分散するために、出雲国に派遣されたという話となっている。ちなみに山背大兄王一族の危機であるが、記紀では、蘇我氏の横暴から山背大兄王一族の滅亡となっているが、富家伝承では、息長氏王家VS石川氏王家の対立(中大兄王VS山背大兄王)の中で、蘇我氏ではなく息長氏王家側の中臣鎌子(後の藤原鎌足)手を下したとしている。

上宮太子は、通説的には聖徳太子の異称とされてるが、『日本書紀』では、聖徳太子として事績が伝説化されており、古代史の世界では聖徳太子不存在説も言われている。富家伝承本でも、上宮太子は実在する人物だが、聖徳太子は、架空の人物であり、“仏教界で「日本仏教の開祖」として作り上げた菩薩の名”としている。

唐本御影(とうほん みえい)より聖徳太子と二王子像。右の人物が山背大兄王とされている。

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    By 不明 - Japanese Painting Anthlogy, ed.et publ. by SINBI-SHOIN, TOKYO, 1941, パブリック・ドメイン, Link 


■推古天皇の娘ー菟道貝蛸皇女

『上宮聖徳法王帝説』によれば、「日置王」「財王」は山背大兄王と同じく、蘇我馬子の娘ー刀自古郎女を母として山背王・財王置王片岡女王の四人の御子となっている。(→ ウィキペディア 山背大兄王 
ちなみに、妃・橘大郎女には、白髪部王・手島女王の御子、妃・膳大郎女には舂米女王・長谷王(泊瀬仲王)・久波太女王・波止利女王・三枝王・伊止志古王・麻呂古王馬屋古女王がいることになっている。

しかし、『日本書紀』では敏達天皇と推古天皇の皇女ー菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)が、「東宮聖德」に嫁いだとある。富家伝承系図では、日置王」「財王」の母は、この貝蛸皇女で、「山背大兄王」「片岡女王」は、石川刀自古姫の御子となっている。(蘇我氏は、登場せず、石川臣の系譜となっている。)

さて、なぜ「日置王」「財王」という名称なのかという疑問がでてきた。たとえば、「財王」(たからのみこ)であるが、皇極・斉明天皇も宝女王(たからのひめみこ)とも云われる。また、反正天皇や仁賢天皇の皇女にも宝(財)の名が見られる。皇子女の宮の名称で、いわゆる御名代部であったと思われる。付随して、財日奉部(たからひまつりべ)という集団が存在する。財部の中で、太陽祭祀に従事した集団であったのかもしれない。

財部などは、王族によって、継承ー相続されてきた私有民達であり、あるいはそこで養育されてきたのかもしれない。
ウィキペディアによると、部民制は、“職業を軸とした職業部と、所属対象を軸とした豪族部および子代・御名代の2つのグループに分かれる。”
日置部は、一般的には職業部と考えられているが、これもまた皇子宮の御名代部であったのかもしれない。

そして、この子代(こしろ)・御名代(みなしろ)は、ウィキペディアでは、王(宮)名のついた部。舎人(とねり)・靫負(ゆげい)・膳夫(かしわで)などとして奉仕する。刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)などの例がある。御名代には在地の首長の子弟がなる。子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシハデ)にあたった。”と、ある。「改新の詔」で廃止されるまで続いたとされるが、人だけ奉仕しても成り立たぬ気がする。付随して屯倉(みやけ)という直轄地が地方にもたくさんあったのではないか?

額田部皇女 推古天皇

日本書紀』敏達天皇の項で、「6年(577)2月条に詔して日祀部(ひまつりべ)、私部(きさいべ)を置く」の記事がある。私部とは、皇后の私有部民であって、つまり、ここでの皇后は推古天皇であり、推古天皇が皇后として、日奉部を領有していたことを示しているのだろうか。また、私部は、並立的に日奉部とは別個に皇后の職務をたすける部があったのだろうか。

仏教の伝来と共に習合が進んでいく片方で、太陽祭祀として神道が純化する流れもあったのではないか。
推古女帝というところから、太陽祭祀ー巫女として、天照大御神が皇祖神として体系化される出発点でもあったのか?

推古天皇の諱(いみな)は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)である。御名代部としての額田部で養育されて、またその額田部の屯倉や部民を相続、領有していたのかもしれない。出雲国でも額田部氏の分布があるので、出雲国でも部民や屯倉が設定されていたのか?
ウィキぺディアによると、“額田部のルーツは応神天皇の皇子、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)の名代であるとも、田部の一種であるとも、554年(欽明天皇15年)に誕生した額田部皇女(のちの推古天皇)の資養や王宮の運営の基盤であるとも言われているが、部民制は5世紀後半、雄略天皇の時代に施行されたと言われており、また大和政権と出雲東部の勢力情況からして、5世紀のものとは想定しにくいため、後者が有力な説である。” 

ところで、日置部は何か。日奉部とどういう関係があるか、さっぱりわからない。たとえば、日招きや宮廷の日読(かよみ)をつかさどるものとする説・卜占暦法を主とし太陽祭祀に従事する者という説があるが、『日本書紀』推古天皇 10年10月の記事に「冬10月に、百済の僧 観勒来けり。仍りて暦の本及び天文地理の書、并て遁甲方術の書を貢る。是の時に、書生34人を選びて、観勒に学び習はしむ。陽胡史の祖玉陳、歴法を習ふ。大友村主高聡、天文遁甲を学ぶ。山背臣日立、方術を学ぶ。皆学びて業を成しつ。」(岩波文庫より)とある。暦を作る職務ということなら、何か日置部の関連ありそうなことが書かれていてもよさそうな気がするが、何もない。
なにか特定の職務というより、御名代部として存在していたと考える方が、わかりやすいように思う。

■富家伝承  日置王額田部財王

日御碕神社 上社  島根県出雲市大社町日御碕455

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以下は、斎木雲州著 『飛鳥文化と宗教争乱』(大元出版)の抜粋である。

“皇后は貝蛸皇女を生んだが、後者に額田部と日奉部を与えた。”
“推古女帝は、「寺から夕日を拝めるように、鳥居を建てよ。寺は西向きに造れ」と指定した。夕日を拝むのは、炊屋姫の出身・額田家の信仰であり、その日奉部の仕事でもあった。”(四天王寺の鳥居)
貝蛸皇女から日奉王には日奉部の領地が与えられ、額田部財王には額田部の領地が相続されていた。
“その政所では、欽明帝の指示により、日置氏が神門臣家の古墳を造り続けた。日奉王の時期には、すでに大念寺古墳などが造られていた。”

日置王ではなく、なぜ日奉王?と思ったら、

“日置氏は朝鮮系の氏族であった。日奉部は敏達天皇が設置した。その日奉部を炊屋姫から受け継いで、日奉王となった。しかし都では息長系の勢力が強くなったから、その迫害をさけるため日置氏の名前を継いだ。さらに日置王は祖母の推古女帝の希望に基づき、日御碕神社を建てる仕事に専念した。

アメノヒボコ・神功皇后を祖とする息長王家と石川臣家(『日本書紀』では蘇我氏)の緊張関係の中で、日奉部→日置部に名称変更になったような話である。
日置氏の起源は、神功皇后の御子 応神天皇の御子 大山守命とも、あるいは、姓氏録の「左京 諸蕃 高麗日置造  出自高麗国人伊利須意弥也」に見られる「高麗 伊利須使主 」の系譜なのか、しかし、これは斉明紀2年の伊利之(いりし)を同一人物とすると、大分後代の話だ。

次に日置王の兄、財王の記述である。

“一方の兄・財王は、出雲王国の王(意宇)郡舎人郷(安来市月坂・赤塚・野方方面)に就任した。” “その地の正倉は欽明帝の御代に設置され、日置臣シビが、大舎人として仕事を行ったと風土記に書かれている。その正倉役に財王が就任したことによる。”
“かれの正式の名は、額田部臣財王であった。”
“正倉の元もとの役は、倉米を換金し旧富王家の古墳を造る仕事であった。財王は富古墳群内に、いわゆる山代方墳を造った”

ガイダンス山代の郷の展示物
山代方墳と石舞台古墳の類似性を説明した図。富家伝承によると、石舞台古墳は蘇我馬子ではなく、用明天皇の寿陵となっている。


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“財王は寿陵を神魂神社の横(風土記の丘)に造った。それは出雲式の方突方墳(岡田山1号墳)であった。そこには円頭太刀などが収められていた。”

「額田部臣」の銘文のある円頭太刀   八雲立つ風土記の丘 資料学習館

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“岡田山1号墳の東に、財王の子孫の古墳ができた。それは御崎山古墳、と呼ばれている。その墳頂には日御碕神社の分社が建っている。これは財王の子孫が、日置王の子孫と仲が良かったことを示している。御崎山古墳からは獅嚙環頭大刀が出土した。これは都から手に入れたもので、円頭太刀よりも後に流行した形であることを示している。”(以上 斎木雲州著 『飛鳥文化と宗教争乱』大元出版 より)

御崎山古墳 松江市大草町 
全長約40mの前方後方墳である。

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参考文献  斎木雲州 著 『飛鳥文化と宗教争乱』大元出版 
      遠山美都男 著『古代王権と大化の改新』雄山閣出版
      井上辰雄 著 『太陽祭祀と古代氏族ー日置部を中心としてー』 
                         東アジアの古代文化 第24号 大和書房 
      木本雅康 著 『日置・壬生吉志と氷川神社 一古代の方位信仰を手がかりとして一』
      小川光三 『ヤマト古代祭祀の謎』 学生社
まあ読んだだけで記事にはあまり生かされていない。

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Commented by valmalete2 at 2018-09-16 18:10
これは、日御崎神社の社家の小野(日置)氏が、天冬衣命の末裔で、
息長氏ではないということを言いたいのだと思います。

富家からしたら日置は他家のことで、そこまで詳しい伝承が残っていなかった
から修正したということです。
職掌によっては、姓が違うと祖先が異なる場合と、同じ場合とで色々ありますから
勘違いすることもあると思います。
品治氏は、粟鹿大明神元記には大国主の末裔と書かれています。
富家の方は、息長系ではないかと書いています。古くは大国主系なんです。
Commented by yuugurekaka at 2018-09-23 15:43
valmalete2さんコメントありがとうございます。
『粟鹿大明神元記』見ました。
確かに吉備国品治部もありました。

>職掌によっては、姓が違うと祖先が異なる場合と、同じ場合とで色々ありますから
>勘違いすることもあると思います。

そうですね。元々職業部なので、職業部イコール管掌氏族とはならない場合もあるのが当然ですね。そういうことも、念頭に職業部を見ないといけないと思いました。
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by yuugurekaka | 2018-08-21 19:58 | 日置臣 | Trackback | Comments(2)