日置氏の足跡 (11) 日御碕 ③ 十羅刹女社 

■なぜに「十羅刹女社」


日御碕神社は、中世の時代、「十羅刹女(じゅうらせつにょ)社」とも呼ばれていた。

まずは十羅刹女とは何か。ウィキペディア 十羅刹女 によると、“仏教の天部における10人の女性の鬼神。鬼子母神と共に法華経の諸天善神である。” “釈迦から法華経の話を聞いて成仏できることを知り、法華経を所持し伝える者を守護する”神だそうである。

太陽神「天照大御神」であるのなら、本地仏は、「大日如来」がふさわしいと思われるが、どうして十羅刹女なのだろうか。江戸時代の地誌『雲陽誌』(1717年)によると以下の通り。


雲陽誌 巻之十

日沈宮
(前略)
耕雲明魏記曰雲州日御崎の明神はすなはち杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現、荒地山の鎮守也、孝霊天皇六十一年威霊を現とあり、
衆説区々なりしに老祀官の語けるは、上社は素盞嗚尊に田心姫湍津姫市杵嶋姫の三女をあはせ祭、下社は天照大日孁貴に正哉吾勝尊天穂日命天津彦根命活津彦根命熊野櫲樟日命の五男をあはせまつれり、 上の社下の社すへて十神なり、故に十羅刹女といふか、天暦の帝深此宮を崇、日の字を加たまふ、故に日御崎と号す、 古今祭礼不怠霊験惟新なり

上社が、素戔嗚尊+宗像三女神、と下社が、天照大御神+正哉吾勝尊・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命の五柱で、合わせて10神、それで、十羅刹女か?などと書かれている。だが女神は4神である。江戸時代の学者もよくわからないのだ。


神宮寺の関係だろうか。日御碕神社の神宮寺は、現在別の所にあり、曹洞宗であるが、曹洞宗島根第二宗務所のサイトによれば、 「天暦2(948)年62代村上天皇の勅願により、日御碕神社の境内に伽藍を創建、神宮寺と号し、別当職を司った。当時は真言宗だったと伝えられる。」とある。法華経の諸天善神を真言宗で祀るのか。


■中世の出雲神話


…と思っていたとき、平安時代の末期、御白河法王の撰である『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)の一節が浮かんだ。

「聖の住居ははどこどこぞ、箕面よ勝尾よ播磨成る播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日御碕、南は熊野の那智とかや」である。出雲の鰐淵寺や日御碕は、「聖の住所」ー山岳修験の拠り所として平安貴族の間でも有名なところであった。鰐淵寺は、修験道から天台宗に転じたと云われている。“寺に残る経筒には仁平元年から3年(1151 - 1153年)にかけて書写した法華経を「鰐淵山金剛蔵王窟」に安置したとの銘があり”(ウィキペディア 鰐淵寺 )かなり前から、比叡山延暦寺と関係があったという。


―ウィキペディアの記事を見ていて、このお寺の起源が、いかに古いのかということにびっくりした。あくまで伝承であるが推古天皇といえば、寺の創始段階ではないか。と、同時に出雲風土記になぜ書いてないのか不思議である。お寺にある仏像が、持統天皇時代のものもあるから、出雲風土記の時代には存在したと思われる。それと、日下部氏由来の日下町と、鰐淵寺が地図上では近いということ。彦坐王日下部氏ーつまりは和邇氏、あの鰐(わに)は、和邇氏から来ているんではなかろうか?同じ智春上人が開寺したという万福寺も日下町から近い。


中世には、出雲大社が神仏習合時代、鰐淵寺が別当寺であり、祭神は素戔嗚尊だった。そして、日御碕神社も、中世には杵築大社の末社に取り込まれていた時期もあったということなので、その関係で、法華経の諸天善神である十羅刹女として本地仏が位置づけられたのでは無かろうかとの思いが浮かんだ。

鰐淵寺を中心とした縁起では、釈迦が法華経を初めて説いた場というインドの鷲霊山(りょうじゅせん)の一部が砕け落ちて、海に漂っているのを、素戔嗚尊が引き寄せ打ち固めたのがの島根半島であるとされる。

奈良の出雲風土記時代にある、八束水臣津野命が新羅や高志などの国のあまった土地に綱をかけて引き寄せたという国引き神話が、仏教と習合して、素戔嗚尊がインドの鷲霊山のかけらを打ち固めたというものに変容したと思われる。


十羅刹女の伝説

『雲陽誌』のそもそもの伝説、「耕雲明魏記曰雲州日御崎の明神はすなはち杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現、荒地山の鎮守也、孝霊天皇六十一年威霊を現とあり」というところであるが、「花山院長親耕雲明魏」の「修造勧進状」(1422年)の文書には、「杵築大明神の季女である十羅刹女」は無い。
孝霊天皇六十一年十一月、月国の悪神が、荒地山(あらちやま)の旧土を復さんと欲して攻めてきた。日御碕霊神が、防いだというものだ。

日御碕神社の社伝では、
孝霊天皇六十一年(神話時代)十一月十五日、月支国王彦波瓊が、兵船数百艘をひきつれてわが出雲の日御碕に攻めて来た。なぜ攻めて来たかというと、むかし、日本の八束水臣津野命が、出雲の国を大きくしようというので、新羅の御崎から国の余りをひっぱって来て、今の杵築の御崎をつくりあげられたが、あれをとりかえすために来たのであった。さあ大変というので、日御碕では小野検校家の先祖・天之葺根命十一世の孫の明速祇命(あけはやずみのみこと)が防戦これつとめられた。また遠祖須佐之男命も天から大風を吹かせてこれを助けられた。そのために彦波瓊の大軍はことごとく海のもくずと化した。このとき彦波瓊の兵船がその艫綱を結びつけていたのが、今も沖合に見える艫島であるという”(石塚尊俊 編著『出雲隠岐の伝説』 第一法規発行)

社伝においては、日御碕神社の宮司家の祖先である明速祇命となっているが、石見地方での伝説では、それが胸鉏比売(むなすきひめ)であったり、田心姫(十羅の賊を滅ぼし、十羅刹女の名を賜わう)となっている。 詳しくは→ ウィキペディア 胸すき姫 

石見神楽での演目「十羅」では、彦羽根という鬼神と戦うのが、素戔嗚尊の末女である十羅刹女となっており、「雲陽誌」の「杵築大明神の季女、而十羅刹女の化現」と合致する。




■素戔嗚尊の末娘はだれか

石見地方での伝説から考えると、素戔嗚命の末娘は宗像三女神の田心姫であると思う。しかし、記紀では、確か田心姫は長女であるはず。しかし、日本書紀の本書では最初に生まれた女神であるが、『日本書紀』第一の一書(別の説)では、3番目に化生し、名は「田心姫」で、辺津宮に祀られる。とある。『日本書紀』第三の一書でも、3番目に化生し、名は「田霧姫」で、辺津宮に祀られるとある。
『古事記』では、田心姫が大国主神との間に阿遅鉏高日子根神と下照姫(したてるひめ)を生むとしているが、富家伝承では、天之冬衣神の妻神である。

日御碕神社境内社 宗像神社

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日御碕神社の境内社 宗像神社であるが、自分が調べる限りでは。宗像三女神を祀っているのではなく、田心姫命を祀っているようだ。
もしや太古、太陽の巫女神として田心姫命を祭っていたのではないか。
また、本地仏として十羅刹女になったいきさつは、全く不明であるが、女傑の宗像族が日本海を行きかっていたということから来ているのではなかろうか。しかし、九州の宗像大社の奥津宮の本地仏は、大日如来となっていて十羅刹女ではないが。
あくまで、私の想像である。

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by yuugurekaka | 2018-08-13 18:09 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)