日置氏の足跡 (10) 日御碕 ②  日沈宮  

1)経

経島(ふみしま)は、お経の本を載せる机のように見えるから、その名が付いたそうだ。「文島」又は「日置島」とも云う。出雲風土記時代、日御碕神社の下社ー日沉宮(ひしずみのみや)の元宮であるの「百枝槐社(ももええにす)」があったと云われている。
日御碕神社の神域として一般の上陸は禁じられている。8月7日の例祭(「夕日の祭り」)、神官が経島に上陸し、現在の経島神社において神事が行われる。

沈む太陽と経島

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日沈宮の御由緒は、次の通り。

日沈宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(ふみじま)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦二年(約一千年前)に勅命によって現社地に御遷座致されたのである。経島に御鎮座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞鳴尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮まりて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり。命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎祀り給うたと伝う。
 又『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沈宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』と天平七年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。かように日御碕は古来夕日を銭け鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇敬せられたのである。
 そして、安寧天皇十三年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇二年勅命により島上に紳殿が造営された(出雲国風土記に見える百枝槐社なり)が、村上天皇天暦二年前記の如く現社地に御遷座せられ、後「神の宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。


現在の日御碕神社は、寛永21年(1644年)徳川三代将軍家光の命によって造営されたもので、権現造りである。日光東照宮建立の翌年寛永14年より建立着工し、7年の歳月をかけて完成した。

当時は、現在の上社・下社、楼門・廻廊等に加えて、薬師堂・多宝塔・護摩堂・大師堂・三重塔・鐘楼などが建立されていた。(明治の神仏分離により、仏塔の類は解体されてしまった。)だから、現在の日御碕神社が、江戸時代そのままというわけではない。

日御碕神社  島根県出雲市大社町日御碕455
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日御碕神社楼門   島根県出雲市大社町日御碕455


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江戸期の地誌『懐橘談』を見ると、

『懐橘談 下』(前編1653,後編1661)
“耕雲明魏記に云 雲州日御崎大明神と即杵築大明神の季女に而十羅刹女の化現也 荒地山の鎮守也 孝霊天皇六十一年現霊異云々
一説には伊弉冊尊(ママ)軻遇突智を斬て剣の鐔より垂血激越て神となる 甕速日神次に熯速日神と申奉るこれ御崎の明神ともいへり
衆説まちまちなりしに詞官の語りけるは 上の三社は田心姫湍津姫市杵嶋姫の三女に素盞烏を合祭せり 下の五社は正哉吾勝尊天穂日命天津彦根命活津彦根命熊野櫲樟日命五男に天照太神を合祭りて 上の社下の社で都て十羅刹女と崇奉りし故に杵築より先此宮にまいり下向して大社は参り侍る古法なり

となっている。造営の時点の祭神は、上社ー素戔嗚尊と宗像三女神、下社ー天照大御神と正哉吾勝尊(アメノオシホミミ)・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命、(いわゆる「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」神話の構成になっている)となっていることがわかる。しかし、「衆説まちまちなりし」ということで、昔からそうだったかといわれると怪しい。
中世には「杵築大明神の季女(末娘)に而十羅刹女」というように「十羅刹女が祭神」の社のようにもなっていた。大国主命の末娘は、だれかとすぐ思いがちだが、中世の杵築大明神とは素戔嗚尊であった。

2)日の出日の入りの角度

日置というからには、夏至(太陽が一番強い日)、冬至(太陽が一番弱い日)の日没の方向が関係があるのではないかという説に基づいて、自分も考えてみた。自分は、その説には腑に落ちた感じはしない。でも、いろいろと線を引っ張って、一応やってみる。
便利なサイトがあった。→ 日の出日の入り時刻方角マップ

そのサイトを利用して日御碕神社の周辺に地図に線を引いてみた。赤い線が、夏至の日の出・日の入りで、黄色い線が冬至の日の出・日の入りである。上社の元宮ー隠ヶ丘に中心に置くと、冬至の日の入り線上に、経島がある。

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次に宗像神社を中心に置くと、夏至の日の入り方向に経島神社がある。
ちなみに、現在の日御碕神社を見ると、上社は夏至の日の出方向の角度に沿って建っているが、下社の方は、夏至の日の入り方向とは、少し角度がずれていた。

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実際に宗像神社の前に立ってみたが、経島の方向は見えなかった。
残念ながら、経島に沈む太陽を奉拝する場所でも無いようである。まあ よくわからない。
しかし、これは現在の祭祀場を踏まえての考察である。

3)日御碕神社 海底遺跡

『大社史話 第167号』(平成23年6月23日発行 大社史話会)の岡本哲夫さんの文章を見て、大変驚いた。
海面上昇や地殻変動に伴い、いままで地上にあったものが、海底に沈んでしまったという祭祀遺跡が、日御碕の海底で発見されていたというのだ。
インターネットで検索したら、いろいろと出てきた。



参道、石段や岩屋だとか、写真やYOUTUBEの動画を見る限り、祭祀場のように見える。

いつの時代、海底に沈んだのかわからないが、一つの説として、880年の出雲地震が考えられている。(「三代實録」に 「二七日丁未、出雲國言、今月十四日、地大震動、境内神社佛寺官舎、及百姓居廬、或顛倒或傾倚、損傷者衆、其後迄干二十二日、晝一二度、夜三四度、微震動、猶未休止、」と、ある。)ただ、海底に沈むような大きな地震ならば、当然出雲大社が倒壊しても不思議はないが、そういう記事はない。全くもって謎である。

日御碕神社の宮司さんから、経島で行われている夕日の神事が、昔は沖にある「タイワ」の瀬で行われていたという言い伝えを聞いたそうである。もし、経島ではなく、その海底遺跡で神事が行われていたのなら、夏至の沈む方位線もまた別のところに向かって引かれることになる。

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by yuugurekaka | 2018-08-06 09:08 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)