日置氏の足跡 (7)  ホムツワケ伝承

出雲国出雲郡の大領(長官)をつとめる日置氏であるが、代々長官を務めていた家系であったように思う。そうなると、出雲平野の開拓の初期段階から、つまり出雲臣が意宇郡から移動してくる前から既に住み着いていたのではなのかなあと想像する。それがいつの時代かはっきりしないのだが、我々が思っているよりもはるか昔だったのではないのかとと思い始めた。

■ホムツワケ伝承の跡地


           

垂仁天皇の時代の物言わぬ誉津別皇子(ホムチワケオウジ)の伝承地には、神門氏、日下部氏、日置氏、鳥取部氏、品治部氏が関係しているように思われる。日置氏が中心氏族であった出雲郡出雲郷には(河内郷だったかもしれないが)、白鳥を捕らえた伝承地の求院(ぐい)という地名が存在する。

斐川町の
鵠(くぐい)神社の説明板によると、
鵠が捕らえられる前に飛び越えた川を鳥越川といい、捕らえた地は、「くぐい」が「ぐい」になり、求院という地名になったと言われる。

鵠神社(くぐいじんじゃ) 出雲市斐川町求院 八幡宮境内社    
祭神 誉津別王

e0354697_20564360.jpg

それと、『出雲風土記』に見える神門郡高岸郷、仁多郡三澤郷に見えるアジスキタカヒコの説話━大人になっても髭ぼうぼうで言葉がしゃべれないという記述━は、ホムツワケ皇子とかなり似ている。垂仁天皇の御子=ホムツワケ皇子と大国主命の御子=アジスキタカヒコ命と、どこかで話が習合してしまったかのように見える。

■尾張国の日置氏の起源
ホムツワケ伝承と日置氏との関係は、尾張国風土記(逸文)に見られる。

尾張国 風土記逸文  (『釈日本紀』卷十)
吾縵(あづら)郷
 尾張風土記の中巻にいう。丹羽郡。吾縵郷。巻向の珠城の宮で天下を治める天皇(垂仁天皇)の世、品津別(ほむつわけ)皇子は、七歳になっても言葉を発することが出来なかった。その理由を広く臣下に尋ねたが、はっきりとわかるものがいなかった。その後、皇后の夢に神が現れた。お告げに言う。「我は、多具(たく)国の神で、名前を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。我には祭祀してくれる者が未だにいない。もし我のために祭祀者を当てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう」。
天皇は、霊能者の日置部等が先祖に当たる建岡の君を祭祀者に指名して、(彼が神の求める祭祀者であるか否かを)占うと吉と出た。そこで、神の居場所探しに派遣した。ある時、建岡の君は、美濃国の花鹿山に行き着き、榊の枝を折り取って、縵(かづら)に作って、占いをして言う。「私が作った縵が落ちた所に、必ず探す神がいらっしゃるだろう」。すると縵がひとりでに飛んで行き、この吾縵郷に落ちた。この一件でこの地に阿麻乃弥加都比女の神がいらっしゃることがわかった。そこで社を建てて神を祀った。(「吾が作った縵」という建岡の君の発言によって)社を吾縵(あがかずら)社と名付け、また里の名に付けた。後世の人は訛って、阿豆良(あづら)の里といっている。”
  『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注  (角川ソフィア文庫)※ 下線と太字は、私。

阿豆良神社  愛知県一宮市あずら1-7-19

Azura Jinja-Shrine 20150724.JPG
             By 円周率3パーセント - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link



垂仁天皇の頃の話とは、応神天皇の時代よりはるか昔である。垂仁天皇の御子ホムツワケ皇子が、大人になってもしゃべれない理由が、出雲大神の祟りであったものが、尾張風土記では、(出雲大神の子孫と結婚したと思われる)出雲の多具(たく)の国のアマノミカツヒメの祟りということになっている。記紀に崇神天皇の項で、三輪山の大物主の子孫オオタタネコに祭らせたという話があるので、この日置部等が先祖に当たる建岡の君も、アマノミカツヒメの子孫である可能性もあるのではないか?


この建岡の君は、美濃国の花鹿山に行き、縵(かづら)に作って、占いをして、アマノミカツヒメの神がいる所を探し、社を建てたという話だ。もしや、日置部氏とは、神社やお寺を建てる場所を占いで、決めるというのが主要な職務であったのかもしれないと、思った。


この尾張国風土記の記事を裏付けるように、出雲風土記天甕津日女命(秋鹿郡)あるいは天御梶日女命(楯縫郡)の記載がある。

なお天甕津日女命は、大国主命の系譜の臣津野命の子の赤衾伊努意保須美比古佐倭気命の妻であり、天御梶日女命は、大国主命の御子のアジスキタカヒコ命の妻である。名前が似ているが、同一神であったかどうかはわからない。


島根県松江市鹿島町南講武602 多久神社 祭神 天甕津日女命


多久神社 島根県出雲市多久町274
御祭神 多伎都彦命・天御梶姫命

e0354697_20553495.jpg

■尾張氏の日置日女命


このアマノミカツヒメであるが、尾張風土記に出てくるくらいだから、尾張氏の系譜の神だったのではないかと思う。

先代旧事本紀 巻五 天孫本紀で尾張氏の系譜を見ると、
始祖 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
子  天香語山命 異腹の妹の穂屋姫を妻として、一男を生む
孫  天村雲命  阿俾良依姫(あひらよりひめ)を妻として、二男一女を生む。
三世 天忍人命  異腹の妹の角屋姫、又の名は葛木の出石姫を妻として、二男を生む。
   次に 天忍男命  葛木の国つ神・剣根命の娘・賀奈良知姫を妻として、二男一女を生む。
   妹に忍日女命。
四世 瀛津世襲命[又は葛木彦命という。尾張連らの祖である]。天忍男命の子。孝昭天皇の時代、大連
   となって仕えた。
   次に建額赤命。葛城の尾治置姫を妻として、一男を生む。
   妹に世襲足姫命[又の名を日置日女命]。腋上池心宮に天下を治められた孝
   昭天皇(観松彦香殖稲天皇)の皇后となり、二人の皇子をお生みになった。すなわち、天足彦国押
人命と、次に孝安天皇(日本足彦国押人天皇)がこれである。
   同じく四世孫・天戸目命。天忍人命の子。葛木の避姫を妻として二男を生む。
   次に天忍男命。大蝮壬生連らの祖である。

五世孫以下 省略。

アマノミカツヒメに似た名前の女神は出て来ない。天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊よりも前の時代の尾張国にいた女神だったのかもしれない。
しかし、5代天皇・孝昭天皇の皇后『日本書紀』本文では)世襲足姫命(よそたらしひめ)の別名が、日置日女命である。
もしや、この時代から、皇后の「御名代部」として日置部が発生して、なんどとなく、再編されてきたのではないかという思いが浮かんだ。また、この世襲足姫命は、ホムチワケ伝承の登場人物、彦坐王の御子たちの関連氏族である和珥氏の祖とされる天足彦国 押人命の母でもある。


富能加神社(ほのかじんじゃ)   島根県出雲市所原町3549

e0354697_17430945.jpg

出雲国神門郡に存在する、ホムチワケ皇子と出雲の肥長比売命を結ばれた檳榔(あじまさ)の長穂の宮跡の伝承がある富能加神社である。「ほのか」というからには、星神信仰とも関係があるように思う。星神と云えば、天津甕星ー天香香背男が浮かぶ。単に名前が似ているだけかもしれないが、「天背男命」という尾張氏の遠祖がいる。なんとなくではあるが、尾張氏も関係しているような気がする。


[PR]
トラックバックURL : https://yomiagaeru.exblog.jp/tb/27357231
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
名前
URL
画像認証
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by yuugurekaka | 2018-06-24 11:07 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)