日置氏の足跡 (3)  山代郷

■北新造院


出雲風土記(733年)の意宇郡山代郷の寺院の記載である。
山国郷では、「日置部根緒」今度は、「日置君目烈」、日置氏は、官位に関わりなく、個人名が出ており、新造院を建てているようだ。

〝新造院一所。山代郷の中にある。郡家の西北四里二百歩の所にある。厳堂を建立している。〔僧はいない。〕日置君目烈(へきのきみめづら)が造営した。〔この人は、出雲神戸の日置君 鹿麻呂(かまろ)の父である。〕〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私

北新造院跡(来美廃寺)  復元された参道・石段 


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松江市営来美アパート裏の丘にある。このように石段だけ見ているとさっぱりわからないが、説明板にイメージ図が書いてあって、古代の寺院をおぼろげながら想像できる。

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左下に講堂、上段に厳堂(金堂)、金堂(こんどう)の脇には、東西に塔があったと推定されているようだ。
金堂の両脇に塔を作るのが変則的であるそうだ。
出雲風土記が書かれた時代には、全て建てられていたかわからないが、こんな立派な寺院になぜ「僧はいない。」というのがピンとこない。まだ、出雲地方では、仏教が普及する過渡期であったのだろうか。

北新造院跡
(来美廃寺)
  復元された金堂の
石段
 

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金堂の推定されるところには、全国的にも珍しい仏像の台座である須弥壇(しゅみだん)があったようだ。

北新造院跡
(来美廃寺)
  復元された
須弥壇

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中央に蓮華座(れんげざ)、左右に脇侍(きょうじ)の像が安置されていたと推定されている。
また、金堂の東側の塔の上の飾りの相輪(そうりん)は、全国的にも珍しい石製だったそうだ。(一般的には銅製)

■南新造院


南新
造院は、日置氏がたてた寺院ではなく出雲臣が建てた寺院である。


〝新造院一所。山代郷の中にある。郡家の西北二里の所にある。教堂(きょうどう)を建立している。〔住僧が一人いる。〕飯石郡小領の出雲臣弟山(いいしぐんしょうりょうのいずものおみおとやま)が造営した。〟

〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)


実際に行ってみると、北新造院と比べて一見小さい気がするが、中心部に民家が立っていたりして、
見学できるところは、ほんの一部分でしかない。
道路を挟んで向こうの南側に直径約1、2メートルの柱穴5つと、1メートル以上の深さがある溝の跡などあり、南新造院の敷地は、かなり広いものと思われる。

南新造院跡ー
四王寺(しわじ)基壇跡 

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この教堂は、講堂と解されているようだ。なぜ、教堂のみ建てたと書かれているのだろう。少しずつ建てたのだろうか。また、飯石郡役所のNO.2であった出雲臣弟山が、なぜここ意宇郡山代郷に建てたのだろうか。そもそも、ここが出奔の地だったのだろうか。
後に出雲国造となる人物であるが、そもそも出雲国造も何系かあったのだろうか。


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by yuugurekaka | 2018-05-14 00:17 | 日置臣 | Trackback | Comments(0)