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日置氏の足跡 (2)  大舎人

■舎人郷(とねりごう)


舎人郷正倉推定地 
島根県教育委員会の表示板 

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舎人郷。

郡家の正東二十六里の所にある。志貴島宮御宇天皇(欽明天皇)の御世に、倉舎人君(くらとねりのきみ)たちの先祖、日置臣志毘(へきのおみしび)が大舎人(おおとねり)としてお仕え申し上げた。そしてここは、志毘が住んでいたところである。だから、舎人という。この郷には正倉がある。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)(太字は私)


この舎人郷(とねりごう)の由来の「大舎人(おおとねり)」とは何か?

〝大舎人  おおとねり
令制で,左右大舎人寮に属し,宮中で宿直,供奉 (ぐぶ) などを司った下級官人。四位,五位の子や孫から選ばれ,定員は各 800人 (のち左右合せて 400人) であった。〟(出典 ブリタニカ国際大百科事典 )

令制以後については673年(天武2)5月,仕官する者をまず大舎人(おおどねり)寮に収容し,その才能を試験したのち適当な職務につかせた。これは,天皇に近侍し,宿直や遣使をつとめる間に天皇に忠節をつくす習慣を養わせ,このように養成された大舎人を他の官司の官人に任じ,天皇による支配を官司に浸透させるしくみであったことを物語る。(世界大百科事典 第2版  株式会社平凡社)

ヤマト王権の中央集権を強めるために、天皇の傍で働くことで、教育され、その後適当な職務についたお役人なのだな。

■ 日置氏とは太陽祭祀にかかわりある氏族

日置氏がヤマト王権の中央集権化を強めるそういう職務である大舎人を派遣する豪族だったということなのだと思う。
もともとの出雲族というよりは、ヤマト中央との関係が強い氏族で全国に展開していったのだろう。あるいは、中央での職務を担うことで日置氏という一氏族を形成したのかもしれない。

よく言われることだが、日置氏は日神祭祀に関わる職務を担っていたという。いつの時代かわからないが、欽明天皇の頃には、太陽神ー皇祖神として位置づけられ、それを伝播する役割が主なものだったのか。
職務も時代時代によって変わり、ヤマト王権の中央集権化という役割がそもそもの役割だったのかな。

日御碕神社 日沈宮    
島根県出雲市大社町日御碕455

祭神 天照大御神 


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地上の聖火は天上の日神よりもたらされるがゆえに,日置氏は日神祭祀にかかわるようになったらしい。伊勢の斎宮の付近に日置氏が分布し,日置田が置かれていたり,また東の伊勢に対して落日西海の地にあるとして,日沈宮(ひしずみのみや)と称された出雲の日御碕(ひのみさき)神社の神官が日置一族であった。このことは,日置氏が文字どおり太陽祭祀にかかわりある氏族であり,日置部が日祀部(ひまつりべ)とともに古代天皇の日神的権威を奉斎し,全国に鼓吹することを職掌とした宗教的部民であったと考えられる。(世界大百科事典 第2版  株式会社平凡社)




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by yuugurekaka | 2018-05-06 07:00 | 日置氏の足跡 | Trackback | Comments(0)