熊野大神の謎 (4) ~熊野三山~

■ 紀伊の熊野三社との統合

中世には紀州の熊野信仰の影響が強まり。いつからそうなったのかわからないが、近世には熊野大社は紀伊の熊野三山と統合して、上の宮は事解男・速玉男・伊弉冉の三神を「熊野三社」と云い、下の宮は天照大神・素戔嗚命・五男三女を祭り、「伊勢宮」と呼んだ。だから、古の熊野大社とは全く違う形になってしまったわけである。
しかし、明治の神道再編の中で、上の宮は廃し、下の宮一つにまとめて、熊野神社となった。
国幣中社にされ、その後大正五年に国幣大社に昇格した。そして、昭和52年には社名も熊野大社となり、現在に到っている。

熊野大社 上の宮跡地    熊野大社から約500メートル南のところにある。

e0354697_20465770.jpg

■ 紀伊と同名の神社

『延喜式』神名帳(927年)を見ると、出雲国と同名の式内社が多いことに気づく。
出雲も紀伊国も熊野坐神社」の社格は共に「名神大社」となっているが、須佐神社や伊達神社などが、「名神大社」で紀伊国の方が高い。(出雲国は小社)
そのことから、紀伊国が素戔嗚命や五十猛命の本源地とする説もある。
出雲は単に神話の舞台に利用されたとするがっかりした説も古代史に根強い。

紀伊国の出雲国と同名の神社

名草郡 加太神社    小社
名草郡 伊達神社(
いたてじんじゃ) 名神大社 
在田郡 須佐神社   名神大
牟婁郡 熊野早玉神社  
牟婁郡 熊野坐神社  名神大

加多神社  島根県雲南市大東町大東362  
祭神は、少彦名命 

e0354697_10243633.jpg


紀伊国名草郡にも存在し、出雲国大原郡に存在する「加多神社」の祭神スクナ彦命(記紀では少彦名命)であるが、その登場する場面で、
日本書紀では、「少彦名命、行きて熊野の御崎に至りて、遂に常世郷に適しぬ」とあり、ここでも「熊野」が出てくる。紀伊の熊野ともとれ、和歌山の潮御崎の伝承も存在する。

また、古事記では、「オホクニヌシが、出雲の美保の岬にいました時じゃが、波の穂の上を、アメノカガミ船に乗っての、」(三浦佑之 訳・注釈 口語訳 『古事記』文春文庫 )ということから、熊野の御崎は、出雲の美保関となっている。
「熊野」という言葉が、「神の」という一般的な使い方だったのかもしれない。

美保関と言えば、事代主命である。富家伝承では、スクナ彦は、副王であり、(主王がオオナムチ)、八代目スクナ彦である事代主命のことを云う。単に出雲族の神ではなく、同族化の原理で、紀氏も親戚である。だから、同名の神社が存在しても不思議はないし、どちらかが本物で勧請とかいうものではないのだろう。

■ 事代主命の子孫

物部氏の伝承であると云われる『先代旧事本紀』では、なぜだか事代主命の子孫の系譜が詳しく述べられている。出雲の国ではなくて、大和の国の賀茂氏、大神氏の系譜のようである。しかし、出雲氏、神門氏との婚姻のことも書かれている。

「御孫の都味歯八重事代主神は、大きな熊鰐となって、三嶋の溝杭の娘、活玉依姫のもとに通い、一男一女がお生まれになった。
御子は、天の日方奇日方の命と申し上げる。
この命は、橿原の朝の御世の御命令で食国の政治を掌る大夫となって奉仕された。
妹の姫鞴五十鈴姫の命は橿原の朝の皇后となり、二児がお生まれになった。神渟河耳天皇、次に彦八井耳命と申し上げる。
次の妹五十鈴依姫命は葛城の高丘の朝の皇后となられて、一児がお生まれになった。磯城津彦玉手看の天皇である。

三世の孫、天の日方奇日方の命。またのお名前は阿田都久志尼命と申し上げる。
この命は、日向の賀牟度美良姫を妻として一男一女がお生まれになった。
御子は建飯勝の命で、妹は渟中底姫の命と申し上げる。この命は軽の地の曲峡の宮で天下を治められた天皇の皇后となり、四柱の御子がお生まれになった。大日本根子彦耜友天皇、次に常津彦の命、次に磯城津彦の命、次に研貴彦友背の命と申し上げる。

四世の孫、建飯勝の命は、出雲の臣の娘・沙麻奈姫を妻として一男がお生まれになった。

五世の孫、建甕尻の命またの名は建甕槌命、または建甕之尾命と申し上げる。
この命は伊勢の幡主の娘、賀貝呂姫を妻として一男がお生まれになった。

六世孫、豊御気主命は、またの名前を建甕依命と申し上げる。
この命は紀伊の名草姫を妻として一男がお生まれになった。

七世孫、大御気主命は、大倭国の民磯姫を妻として二男がお生まれになった。

八世の孫、阿田賀田須命は、和迩の君たちの先祖である。次に建飯賀田須命は、鴨部の美良姫を妻として一男がお生まれになった。

九世の孫、大田々祢古の命は、またの名を大直祢古の命と申し上げる。
この命は出雲神門臣の娘、美気姫を妻として一男がお生まれになった。

十世の孫、大御気持の命は、出雲の鞍山祇姫を妻として三男がお生まれになった。

十一世の孫、大鴨積の命は、磯城の瑞垣の朝の時代に賀茂の君の姓を授かった。次に、弟の大友主の命は、同じ朝の時代に大神の君の姓を授かった。次に田々彦の命は、同じ朝の時代に神部の直・大神部の直の姓を授かった。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社より なお解説は省略。) 

事代主命の系譜に国譲りの「建甕槌命」(タケミカヅチノ命)が出てびっくりする。
6世孫の豊御気主の命であるが、紀州の名草姫を妻とするとある。はて、神武東征の熊野村の話に、神武天皇の行く手を阻む女首長「名草戸畔」が登場するが、もしや、この名草姫がモデル?などと思ったりもする。

「熊野」というのが事代主命や紀氏が関係しているのかなとちょこっと思った次第である。

■ 速玉社

出雲国にもある「速玉社」であるが、一般的には、現 熊野大社境内社・伊邪那美神社に合祀されているとされている。
しかし、『出雲神社巡拝記』(1833)には、「大庭村 国造北島舘古屋敷内 速玉大明神 記云 速玉社 式云 速玉神社 祭神 はやたまのをの命」ともある。

出雲風土記や延喜式の云う速玉社・速玉神社は国造北島家の古屋敷内にあるというのだ。
その社跡は、神魂神社に向かう参道脇にあった。
現在は、神魂神社境内社・稲荷神社に合祀されているが、出雲国造家にとっては大変重要な社であったようである。


e0354697_13272025.jpg


この社の祭神、「速玉之男命」はイザナギの命が、黄泉の国に訪問したときに、イザナミの命と離縁を決意しつばを吐いたが、吐かれたつばから生まれた神が、「速玉之男命」である。

海部氏、物部氏伝承によれば、天火明命=饒速日命ともされる。姓氏録をみると、天火明命を祖とする尾張氏、饒速日命を祖とする物部氏というように完全なイコールではない。富家伝承本には更に天火明命=饒速日命=さらに素戔嗚命と書かれている。

自分には、黄泉の国の話を考えると、
イザナミの命の離縁前のイザナギの天火明命で、離縁後のイザナギの命が饒速日命のように思える。それからすると、吐いたつばは離縁を象徴していて、饒速日命の別名のようにも感じる。

さて、「御鼻をお洗いに成った神のお名前は、建速素戔烏(たけはやすさのお)尊(みこと)と申し上げる。出雲の国の熊野・杵築の神社(島根県松江市八雲町熊野の熊野大社・出雲市大社町杵築の出雲大社、旧簸川郡)におられる。」(安本美典 監修 志村裕子 訳 『先代旧事本紀』 批評社)という『先代旧事本紀』の祭神の変更だが、出雲国造家の内部からもたされたものかわからないが、自分は壬申の乱から持統天皇以後の中央の豪族の権力関係が大きく影響したのではないかと思っている。


[PR]
トラックバックURL : https://yomiagaeru.exblog.jp/tb/27225567
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
by yuugurekaka | 2018-04-29 16:25 | 熊野大社 | Trackback