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賀茂神戸の謎(9)出雲国 ③木野山神社・ 木山神社 

木野山神社と木山神社について、なかなかその由来がわからなかった。
しかし、安田荘の八幡宮の事を調べている際に、『伯太町誌』の中で、それを見つけた。

“木野山神社
  大山祇命
  東母里 才ヶ峠
 明治初年悪病流行の際、これを食い止めるため同十三年四月二四日、岡山県上房郡津川町木野山神社より「家運長久家内安全」を祈願し 大山祇命を勧請したもの”(『伯太町誌』下巻)

明治時代の初めに岡山県の 高梁市の木野山神社から勧請とある。明治の初めの「悪病流行」とは何かと調べたら、それはコレラの流行とわかった。
ウィキぺディアによれば(→ウィキペディア コレラ )、最初の世界的大流行が日本に及んだのは1822年(文政5年)で、幕末から明治の半ばまで大流行し、多数の死者を出したようだ。近代医学の未発達の時代に、当時の人は妖怪「虎狼狸」(→ウィキペディア 虎狼狸  や動物霊の仕業と考えたようだ。

中部・関東では秩父の三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属とし憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆した。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられている。”(ウィキペディア コレラ より

本宮の木野山や木山の地名そのものが紀氏と関係がないとは思わないが、全く的外れの記事を書いたものだ。伯耆や能義郡に分布する木野山神社は、紀氏の足跡とは全く関係が無く、明治時代の初期に建立されたものだった。

■ 木野山神社 

岡山県高梁市津川町今津にある木野山神社は、社伝によれば、伊予国越智郡宮浦村から大山祇命他五大神を勧請したことに始まり天暦9年(955)の創建の古社である。木野山山頂に奥宮、麓に里宮が存在する。正殿に大山祇命、相殿に豊玉彦命・大国主命、末社に高龗神(たかおかみのかみ)・闇龗神(くらおかみのかみ)が、祭られている。神話では、伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとされている。( 高龗神は、京都の貴船神社の祭神である。)

この高龗神・闇龗神が、ここの神社では「狼さま」として信仰されており、コレラを「虎列刺」と書くことから「狼は虎より強い」ということが流布されて、狼を祭る木野山神社の信仰が広まった。明治9年に講社が創設され(木野山講)、コレラの流行とともに、講社は爆発的に増大し、岡山県下のみならず、鳥取県、島根県、広島県、愛媛県、徳島県にまで及んだ。コレラが岡山県下に流行した時も疾病退散祈願のため参詣者が木野山神社に殺到し、県が二次感染を恐れたため、木野山参り禁止の布告が出されたほどだった。

島根県では1879年6月ごろから流行し始めた。

“この爆発的に木野山信仰が拡大した1879年8月に、山陰においても木野山神社の講社に加入する地域が数多くあった。最も多いのが米子市街とその周辺部の会見郡で56講社、次は備中国に隣接する日野郡で22講社、出雲国では能義郡5講社、島根郡3講社、意宇郡1講社、楯縫郡3講社だった。松江市域の講社は、新材木町(島根郡)の三つの拝礼講社と横浜町(意宇郡)の1講社だけだが、記述の通り1879年8月の加入記録の半分しか現存しないことを考えると、松江における同時期の加入講社は他にもあった可能性がある。”
(喜多村理子『明治期における伝染病の大流行と民間信仰』  松江市歴史叢書7 松江市教育委員会発行 より )

■ 木山神社 

『伯太町誌』によれば、安田八幡宮の境内社 木山神社は、文政13年(1830年)に美作国から勧請とある。
伯耆や出雲の神社の境内社に見られる木山神社であるが、木野山神社のような文献が見られず、はっきりしたことがわからないけれども、木野山神社と一緒に祭られているところを考えると、これも岡山県真庭市木山の木山神社を勧請したものなのかなあと想像する。
場所は、同じ岡山県でも木野山神社よりは鳥取県伯耆地方にはるかに近い距離にある。

木山神社は、元は木山寺と共に神仏習合の「木山宮」として祀られてきた。元々は今の奥宮が本宮で、明治になり神仏分離政策により木山神社と木山寺に別れる。( →ウィキペディア 木山寺 

木山寺 岡山県真庭市木山1212番地

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By Reggaeman - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link


木山寺は、高野山真言宗の別格本山で、平安時代前期の弘仁6年(815年)に弘法大師が開いたとされる。医王山感神院と号す。
この寺は鎮守神として木山牛頭天王と善覚稲荷大明神を祀っており、木山牛頭天王は薬師瑠璃光如来、善覚稲荷大明神は十一面観音の垂迹神となっている。牛頭天王は、素戔嗚尊と習合しており、木山神社は京都祇園の八坂神社の御分霊を祀っている。

この八坂神社の祇園信仰だが、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとした信仰である。
だから、コレラ等の流行にも関係があるのではないかと思う。

木山神社自体の創建は、社伝によれば、弘仁7年(816年)で、農耕植林・牛馬殖産の神として、伯耆や出雲等からの参詣もあったという。『角川日本地名大辞典』によれば,
“明治以後、美作・備中北部を中心に京阪神、広島県に及ぶ敬神講・木山講が多数組織された。”
と、ある。伯耆や出雲でも木山講はあったかどうかわからないけれども、境内社でよく見られるから、その可能性はあるのではないか。

岡山の木山神社・木野山神社を勧請したものだとして、改めて大塚八幡宮の境内社ー木山稲荷神社を考えてみる。
お稲荷さんー狐だと思っていたが、よく見ると形が狐とは違っている。それに位置が、左側の木野山神社の方に偏っている。
これは、木野山神社の狼様なのだろう。

木山神社の霊験高い「善覚稲荷大明神」と木野山神社の「狼様」の霊験の二重のパワーで、明治時代初期の伝染病を鎮めるために祈祷が行なわれたのではなかろうか。

大塚八幡宮境内社  木山稲荷神社
右手が木山神社で、左手が木野山神社である。

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by yuugurekaka | 2018-02-17 07:00 | 賀茂神戸の謎 | Trackback | Comments(0)