賀茂神戸の謎(8)出雲国 ②安田荘 

出雲国の賀茂神戸から、伯耆国会見郡まで なんとなくであるが、紀氏の足跡と言うかそういうものを感じるのであるが、
奈良時代の官道という街道や関所は、どの氏族が担っていたのだろうとの疑問が出てきた。
海部(あまべ)・錦織部(にしごりべ)・土師部など、様々な部民制があったが、国土交通省のような部があったかどうか。
もしかしたら、紀氏が、掌握していたのかなと、──ここ伯耆国と出雲国につながる官道だけかもしれないが──、思った。

紀氏の羽田矢代命の後裔に、 道守臣というのがおり、姓氏録に
○左京皇別 道守朝臣 - 波多朝臣同祖。波多矢代宿禰の後。
○河内国皇別 道守朝臣 - 波多朝臣同祖。武内宿禰男の八多八代宿禰の後。
○河内国皇別 道守臣 - 道守朝臣同祖。武内宿禰男の波多八代宿禰の後。
○和泉国皇別 道守朝臣 - 波多朝臣同祖。八多八代宿禰の後。

と、ある。道守臣(ちもりおみ)が、字面から、道路を守るみたいに勝手に想像してしまう。
インターネットで道守臣を検索した。『先代旧事本紀』には、
開化天皇の御子に武歯頬命(たけはづらのみこと)がおり、道守臣(ちもりおみ)らの祖とある。
賀茂神戸の南に母理郷(もりごう)があるが、大国主命がせめて出雲国 を守るということに由来していると『出雲風土記』にあるが、
道守臣に関係していないだろうか。

出雲国と伯耆国の境界は、「手間剗」(てまのせき)という関所で、出雲側の安田関が比定されている。
しかし、手間の剗というなら、手間山の麓にあってこそ、手間剗だろうと思うのでちょっと釈然としない。それとも高速道路の入り口・出口みたいに、出雲国側と伯耆国側に別個にあったのだろうか。

■ 八幡宮の系統

賀茂神戸があったところも平安時代の終わり頃には、京都の石清水八幡宮の荘園に飲みこまれてしまったものと思われる。
さて、その八幡宮であるが、八幡宮にも勧請なり別宮とする本宮にも系統がある。しかしながら、様々な歴史を経て、どこから勧請したかわからなくなっていることも多いようだ。主な八幡宮の系統を示す。

①宇佐神宮 大分県宇佐市にある神社であり、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。(→ ウィキペディア 宇佐神宮 
 朝廷とのかかわりが最も古く、『新抄格勅符抄』延暦17年(798年)には1410戸、比咩神の封戸600戸で合わせて2010戸の日本最大の封戸をもつ神社であった。

②石清水八幡宮 貞観元年(859年)僧である行教(空海の弟子)が宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860年)清和天皇が社殿を造営したのが始まりと云われる初代神主には行教の甥・紀御豊が任じられ、以後も紀氏(田中・善法寺の二家)が社家として、今日に至る。(→ ウィキペディア 石清水八幡宮 

③鶴岡八幡宮 康平6年(1063年)源頼家が石清水八幡宮の分霊を相州由比郷(鎌倉の材木座1丁目)に祭ったのが始まりで、火事により焼失したので、源頼朝が建久2年(1191年)が現在の小林郷北山に造営して、改めて石清水八幡宮から勧請した。大伴忠国が初代の鶴岡八幡宮神主となり、大友氏も社家として今日に至る。 (→ ウィキペディア 鶴岡八幡宮 

出雲国の八幡宮の勧請の有り様だが、本宮は、石塚尊俊著「『雲陽誌』に見る勧請神社の研究」によれば、宇佐系10社、鶴岡系8社、石清水系11社その他3社、不明57社である。だが世の中の移り変わりで、再勧請というのもあるようだ。
いつの時代に勧請してきたかということもあるが、なぜにその神社を勧請するのかは、どこから原因が来るのであろうか。理由として、そこに分布した有力な豪族や氏族の存在なしでは、勧請されないように思う。

突然不連続に武家の社会に変わったわけではないのだろう。

■ 安田荘

八幡宮の保元3年(1158)十二月三日 『石清水文書』 左弁官下文によれば、出雲国には八つの石清水八幡宮の別宮があった。その時点で、八か所以上できていた国は、山城・河内・但馬・出雲の四か国だけだそうだ。出雲国の別宮は以下の通り。

横田別宮 安田別宮 赤穴別宮 枚浜別宮 日蔵別宮 新松別宮 白上別宮 大田別宮

この八宮であるが、一つ一つを調べたら、社家が紀氏であるので、おそらく何らかの足跡なりはあるのだが、荘園になる前から、紀氏の存在を裏づけるものがあるのだろうか?
どのように勧請してきあのであろうか。なんらかのゆかりが必要ではなかろうか。ちなみに、枚浜別宮は、松江の平濱八幡宮・武内神社である。

さて、その安田別宮の荘園であるが、大塚町の「服部」、確たる証拠は無いが賀茂神戸があったと云われている場所を含んだ地域であった。

安田荘要図
郷土出版社発行『松江・安田ふるさと大百科』より、転載。

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石清水八幡宮では、荘官(下司)を派遣し、現地の有力名主を下級荘官(公文)に任せて運営されていた。
しかし、承久の乱後、鎌倉幕府が地頭を江戸四郎太郎重持に任命した後、徐々に八幡宮の荘園が地頭に侵されて、寛元2年(1244)の下地中分によって南方が、石清水八幡宮領家分、北方が地頭分となるに至った。
 北谷(北安田村)・上清瀬村・吉佐村=地頭分
 南谷(安田中村・安田宮内村・未明村・安田関村・安田山形村)・服部村=領家分

■ 安田別宮

安田荘だった地域に八幡宮が二つある。一つは北谷の安田八幡宮(伯太町安田)ともうひとつは南谷の安田宮内八幡宮(伯太町安田宮内)である。

北谷の安田八幡宮の由緒であるが、『神国島根』(島根県神社庁発行 昭和56年4月)によれば
“当社は人皇四十二代文武天皇御宇大宝元年辛丑二月遂奏聞従筑紫宇佐勧請其節神官長妻某矢田某八幡某原某田中某長尾某相添同年八月十五日丑刻に当地へ奉遷座初̪而社殿建立と伝来” 
と、ある。
大宝元年(701年)とは、かなり古い。
安田荘にあったわけであるが、石清水八幡宮の勧請ではなく、宇佐八幡の勧請と述べている。
それと同時に“頼朝卿祈願所として祟敬被為在社として則出雲国八社八幡宮其内の一社也。” と、あり
石清水八幡宮とかの関わりは、なんら書かれていない。     

安田八幡宮鳥居  島根県安来市伯太町安田896  


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南谷の宮内八幡宮の方はどうかというと、
『神国島根』の御由緒を読むと、うってかわって石清水八幡宮の八所八幡の第2位に載せられたことなど石清水八幡宮の緊密な関係が述べられている。『伯太町誌 下巻』によれば“寛徳二年(1045)宝見山麓(要害山)に本宮の分霊を勧請し、石清水八幡宮の別宮となったのが当社の起源とされる。”と、ある。


安田宮内八幡宮鳥居  島根県安来市伯太町安田宮内66番


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現在の由緒だけ見ると、宮内の八幡宮が石清水八幡宮の別宮のように思える。
ただ、本題は紀氏の足跡が何かあるのかということである。八幡宮自体が、紀氏の祖-武内宿祢をいっしょに祭っていることも多いのでなんとも言えないところではある。

安田八幡宮には、境内社 木山神社(祭神 須佐之男命)、安田宮内八幡宮には境内社 木野山神社(祭神 大山祇命)があった。
しかし、この「木」の字が付く二社は、紀氏に直接にはどうも関係しない神社のようだと、調べていくうちにわかってきた。


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by yuugurekaka | 2018-02-10 18:57 | 賀茂 | Trackback | Comments(0)