賀茂神戸の謎(6) 伯耆国 ④ 紀氏の系譜 

■ 大寺跡地

手間山から東へ、紀氏の本拠地であったところの会見郷(相見郷)辺りを巡ってみた。巨勢郷との境界がよくわからないので、実際のところ巨勢郷なのかもしれない。ただ、会見郡衙は会見郷にあるのが普通だと思うので、そこが巨勢郷であるという説は、少し釈然としない。

伯耆橋から見える日野川

鳥取県最大の全長約77kmの川である。
支流には、古来より集落が栄え、支流ではたたら製鉄の砂鉄の採取を目的とした「鉄穴流し」が行なわれた。

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伯耆橋を渡ると、大殿という地名に出会う。
うむいかにもと、思ったが、この大殿という地名は、明治10年大寺村と殿河内村が合併して発生した地名のようである。
なぜに大寺というかは、ここに大寺があったからである。

南側の越敷が丘の麓に、 白鳳時代(奈良時代の前)の大寺があった南に金堂 、西に講堂 北に塔 が配置され 、回廊 で囲まれた大寺が確認されている。北の仏塔 の心礎(柱の礎石)を見に行った。

舎利穴を持つ塔跡の心礎     鳥取県西伯郡伯耆町大殿

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大寺というぐらいだし、仏塔 の場所からも、大きなお寺だったとように思う。石製の鴟尾(しび)もかなり大きい。
石製の鴟尾は、群馬県の山王廃寺の二例 とここ大寺の一例のみだそうである。
鴟尾とは、お寺の屋根を飾る火災よけの装飾品のようで、お城のシャチホコの始祖とも言われているようだ。

石製の大寺廃寺の鴟尾    鳥取県西伯郡伯耆町大殿1171 福樹寺敷地内

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■ 上野三島両神社

主祭神は、溝咋姫命、大山祇命。大寺跡地のすぐそばの越敷が丘の麓にある。
三嶋溝樴姫命(みぞくいひめのみこと)(別名 玉櫛媛)を祭った神社は、山陰では珍しい。

三嶋溝樴姫命とは、事代主命が大阪・摂津の三島家に妻問いした事代主命の妃であり、『日本書紀』では、神武天皇の皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)の母である。
つまりは、大和の葛城山の母神のような存在である。→ ウィキペディア 玉櫛媛
それと、ここの大山祇命は、静岡の三島大社や三島神社の祭神で、大山の山の神ークナトの大神なのかもしれないが、三島系で奉祭しているところをみると、玉櫛媛の父神ー溝咋耳命(みぞくいみみのみこと)なのかもしれない。この溝咋耳命だが、或る説では、京都下鴨神社にまつる鴨建角身命と同神とされる。

拝殿

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右手にサイの神さんと思われる石神さまがある。
これは、古代のホト信仰のように思える。
二度目に参拝した時は、しろうとの目には古墳の石室のようにも見えた。
ここら辺は、越敷が丘古墳群がある場所なので、古墳であっても不思議は無い。
山陰では、神社の杜自体が古墳であることが多く、
元々古墳を奉祭していたんではないのかと思ってしまう。

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左手には、境内社。4社複合の社であり、右より荒神宮、木野山神社、日御碕神社、木山神社である。
この神社であるが、由緒はわからないが、元は近くの集落で奉祭していた神社ではないだろうか。
荒神宮は、ある説では、地主神のような神社とも言われるが、屋内荒神→同族荒神→集落荒神と集落が発展していった近世のものとも言われる。

どちらの説にしても、西伯耆には「木山」を祭る神社が集落が多いと感じる。木は、紀氏の「木」である。
木山神社も木野山神社も同じ神を祀っていたのではなかろうか。
想像でしかないが、紀氏系の荒神宮かサイノカミのようなものが、木山神社でないだろうか?
(しかし、後で調べてわかったことであるが、紀氏とは関係が無く、明治時代の初頭に大流行した伝染病の鎮静化を祈祷した神社だということだ。賀茂神戸の謎(9)出雲国③木野山神社・木山神社 


法勝寺の長田神社の合祀された神社で、句々廼智神(木の精の神と言われる)が2社もあったが、あれも紀氏と関係しているのかもしれない。

境内社

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■ 長者原台地

大殿からさらに西に行くと、長者原台地に着く。かなり広い高地で田畑の広がる場所である。最近では、奈良時代の会見郡の郡衙(郡家)があったとされる場所である。

坂長公民館の近くに、長者屋敷遺跡にあった建築物の柱跡を復元した公園があった。

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長者屋敷遺跡は、江戸時代には紀成盛の屋敷跡と伝えられてきた。
成盛の子孫を称する進 庄兵衛が、宝暦11年(1761年)に記した『紀氏譜記』には、成盛が七宝を帝に献上し、長者号を請け、「進貝録兵衛尉紀成盛長者」を名乗って代々繁栄したという。(『紀氏譜記』は、『日吉津村誌 下巻』に全文載っていた。)
『紀氏譜記』には、孝霊天皇と共に大和から来たとは書いてなかったが、孝霊天皇の朝妻姫への妻問いし、鶯王が誕生した事。鶯王を大将として鬼退治をしたが戦死し、楽楽福大明神の霊として祭られた事等が書かれてあった。

また、福彦右衛門の『伯路紀草稿』(1773年)には
「長者原村に、木の森長者進ノ甲斐六兵衛屋敷という跡あり。一町四方ばかり、四間四方に築地の井戸有り。駒谷石というあり。」
と、書かれてある。 (詳しくは→ 米子市役所ホームページ  キサイさん(別所) 

■ 紀氏の系譜

『紀氏譜記』(1761年)によれば、「孝元天皇の四世の孫 紀の武内宿祢と紀氏を名乗り賜ふ」とある。
また、『日吉津村誌 下巻』によれば伯耆国の紀氏の後裔氏族として、相見氏、進氏、巨勢氏等の名前が見られる。

伯耆の紀氏後裔氏族
『日吉津村 下巻』より
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さて、武内宿祢の後が、紀氏と書かれてあるが、通説的にはどうだったのか。
孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とするという一方、紀国造家は、『紀伊続風土記』(1806年)によれば、、神武天皇の畿内平定後、紀伊の国造に封じられた天道根命(あめのみちねのみこと)(神魂神の5世の孫)の家筋だとされる。

が、高群逸枝『母系制の研究』(上)(講談社文庫)によれば、

〝紀伊は古名を、毛という。…中略…然し、道根命の事蹟は記紀いずれもこれを欠いており、記孝元段に「木国造之祖宇豆比古」、景行紀に「紀直遠祖菟道彦」とあるのが最初の氏人であるが、二文、何れも国造祖或は遠祖としているのは、国造本紀と合わない。…中略…按ずるに、紀伊国造に二系あり、国造本紀記載の道根裔の国造は、式日前国懸二社を奉祭する後代の国造であって、本来の国造は、式名草郡伊太曾神社、大屋都比売神社、都麻都比売神社を奉祭する出雲族であったと思われる。〟(高群逸枝『母系制の研究』(上)より)(太字は私)

〝地神本紀には「五十猛神 亦云大屋彦神、大屋姫神、抓津姫神、巳上三柱并坐紀伊国、即紀伊国造斎祠神也」とある。高群逸枝『母系制の研究』(上)より)

さて、紀氏(進氏)が建造し長らく社務を執り行っていた日吉津村の蚊屋島神社であるが、大昔は、事代主命の妹神 高照姫命を祭っていたと思われる。
『紀氏譜記』によれば、「或書に日吉津天照皇大神宮は往昔は素戔嗚命也」とあるので、元々は、夫神の天照國照彦火明命≒素戔嗚命を一緒に祭っていたのかもしれない。

蚊屋島神社  鳥取県西伯郡日吉津村日吉津354


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ところで、なぜ伯耆の紀氏が出雲族の高照姫命や味鋤高彦根命を奉祭するのかという疑問だが、富家伝承系図を見ると一目瞭然。紀氏は、高照姫命や味鋤高彦根命の子孫でもある。
こういう系図でないと、証明できないとなると、紀氏が奈良時代や平安時代の国司派遣から土着したとする通説がどうなのかなあと思ってしまう。

富家伝承の系譜図簡略抜粋(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』大元出版より)
尾張氏の系譜は書いてありませんが、海部家と天村雲命まで系譜が同じです。
なお高照姫は、葛城山の御歳神社の祭神で、八千矛(大国主命)の娘下照姫とは別の神様です。

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by yuugurekaka | 2018-01-24 15:41 | 賀茂 | Trackback