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賀茂神戸の謎(5) 伯耆国 ③ 紀氏の足跡

■ 母塚山より眺望

新年に母塚山(はつかさん)に登って、手間山を眺めた。

母塚山展望台から見える手間山

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母塚山は、伯耆国と出雲国の境にあるイザナミの御陵伝承地である。
展望台から母塚山頂まで歩いて、イザナミ御陵地をお参りした。
イザナミ御陵伝承地が、お墓山(鳥取県日野郡日南町大菅)といい、島根県伯太町や広島県庄原町の比婆山といい、出雲国の国境沿いにある。孝霊天皇の出雲攻め(いわゆる鬼退治)に関係があるのではないか。

母塚山頂の伊邪那美神陵墓

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左手に遠く孝霊山が見える。
展望台にあった地図によれば、孝霊山の左手の高台は妻木晩田遺跡(日本最大の弥生集落遺跡)のようだ。
倭国大乱時代の遺跡だ。

そういえば、手間山のもう一山超えた日野川流域は、孝霊天皇+吉備族の侵攻の伝承地である。
はて、手間山の麓の鴨部氏や大和から来た人たちが、葛城の王である孝霊天皇といっしょに来た人たち(となれば弥生時代末期)ならば、その時代は、出雲国の出雲族の味方であったのか?敵方だった可能性すらある。



母塚山展望台から見える孝霊山

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■ 手間山の東 星川郷・巨勢郷

平安時代中期には、手間山の北部、北西部を「会見郡 天万郷」、南西部を「会見郡 鴨部郷」、東部を「会見郡 星川郷」と云った。『姓氏録』にも 星川朝臣が見られる。
さて、この「星川郷」だが、
〝古くは、武内宿禰の子孫の波多臣(はたのおみ)の一族に星川臣があり、巨勢男柄宿禰(こせのおがらのすくね)の子を星河建日子(たけひこ)と言ったと伝えられる。会見郡内に巨勢郷があることと関連するとも考えられる。〟(徳永職男 著『因伯地名考』 鳥取郷土文化研究会 )(太字は 私)
巨勢郷は、星川郷に隣接しており、北東部にあったであろうと言われている。

『姓氏録』にも 星川朝臣が見られる。

大和国皇別 星川朝臣 朝臣  石川朝臣同祖武内宿祢之後也敏達天皇御世。依居改賜姓星川臣

敏達天皇の御世となると、6世紀の終わりの頃だ。
なお、大和国にも「高市郡巨勢郷」「山辺郡星川郷」がある。
おそらく古代豪族 紀氏(→ウィキペディア 紀氏 )の系統の一族が、かなり古くから手間山の東方面に土着していたと思われる。

■ 中世の手間山の麓

なぜ京都の賀茂神社に糾合されるにいたったかということが疑問である。なかなか良い文献に見当たらなかったが、『会見町誌』(1973年発行)に公地公民制から荘園への道筋がわかりやすく書かれていた。

〝こうした律令制度の下で貴族や社寺には、公地制に反する多くの土地の領有が認められていた。一方では人口の増加によって口分田が不足してきたこと等、こうした問題の解決として、養老七年(723)の「三世一身法」や、天平十五年(743)には「墾田永代私有令」が出されたので、皇族、貴族、社寺および地方の豪族たちは、競って開墾をすすめ、墾田が増えていった。こうしたいわゆる「墾田によってできた荘園」が、八世紀から九世紀にかけてできたのである。これは要するに律令政治のもととなった公地公民制も律令制そのものの矛盾から次第にくずれていった。
しかしこの結果、田畑はふえ、生産は高まったが、このようにして開墾した土地は永久に私有することはできても、租税を収めなければならなかった。…中略… そこで自分の開墾地を、中央の有力な皇族、貴族や社寺に寄付し、名義上ではそれらの所有であるとして租税の免除や検田の除外をかちとり、そのかわり収穫の一部を毎年おさめ、自分たちはその荘園を管理する荘官となって事実上の所有者となった。こうしてできた荘園を「寄進によってできた荘園」という。…以下 略…〟(『会見町誌』 1973年発行)

それで、荘園が発生し、賀茂神社や法勝寺へとつながるのか。
中世において「天万郷」→「富田庄」など、「鴨部郷」→「長田庄」、「星川郷」→「星川庄」「小松庄」( あくまでも「→」は全て同じ地域を示すものではなく、郷内に荘園が発生したことを示す。)などと呼ばれ方も変わる。

この富田庄、長田庄の名称は、事代主命に由来しているような気もするが、いろいろな本を調べてみたが、何もわからず。
それよりも、だれが、事実上の領主であったか?
 
■ 藤原氏と紀氏 

鴨部郷がほとんど長田庄となったが、どこの貴族の監督下にあり、だれが実権を握っていたのか。

〝しかしおそらく七・八代の藤原氏はあったであろうが、氏名は勿論、業績一切不明、ただ古代以来の村々を継続していたのであろう。ただし藤原氏はその領家として、九条家をいただき、長田庄の名目上の領主は九条兼実であったことも推定できる。〟(『西伯町誌1975)
(※ 太字は私)

それゆえ、ここ長田庄の氏神の長田八幡宮であるが、『西伯町誌よれば、藤原泰豊(右衛門尉泰豊)康永二年(1343年)に建立したということだ。

長田庄の産土神 長田神社の位置
手間山の西麓の神社をピックアップしてみた。






しかし、『吾妻鏡』には、建久元年(1191年)十一月六日の条に「大舎人允藤原泰頼お迎えのため参向、且つ愁申す伯耆国長田庄得替の事」とある。つまり、源頼朝の上洛の折に、奪われた長田庄を取り返したいと申しでたということだ。
もともと平安時代の終わりに藤原氏のものであったが、とられてしまったということだ。だれがとったかなかなかわからなかったが、
『西伯町誌』(1975)によれば、

〝奪ったものはだれか、それは平家方の有力武士紀成盛であろう。成盛は建久元年から六年前寿永三年の一の谷戦に平家方として参加し敗れて帰国している。それより十二年前の承安二年には大山寺を再建している。その大山寺の本尊地蔵菩薩の厨子銘に「会東郡の地主」とかいてある。会東は会見郡の東ということ、そのことは彼とその一族が西伯耆全域を支配したことを誇示したものである。また大山寺縁起によると、平安中期富田庄司が大山寺に強い勢力をもっている。富田庄は今の会見町である。伝承によると富田庄司も紀海六兵衛成盛であったという。又、成盛の本拠は岸本町長者原であり、成盛の塔という古廃寺が岸本町坂中にある。紀氏は成盛一代ではなく古代末から近世までこの地方にきこえた豪族である。『西伯町誌)(太字は私)

紀氏であったのか。紀成盛をウィキペディアで調べると、→ウィキペディア 紀成盛
〝紀成盛の一族、紀氏は元々中央の官人であったが伯耆守として赴任後、土着して在地領主となった。

ここで言う伯耆守という国司が、
延暦4年(785年) 正月15日に兼伯耆守 紀 白麻呂 のことのように思う。

紀氏自体、奈良時代の貴族である以前は、葛城の王族の一族である。そのような奈良時代の終わりではなく、もしや、もっと古く孝霊天皇とともに伯耆に来ていたのではなかろうか。奈良時代の郷名に紀氏の分家の名があるからである
紀氏であれば、アジスキタカヒコ命や高照姫命を祭神にしていても不自然ではない。

■ 長田神社の祭神 

手間山西麓の神社は、賀茂神社や八幡宮よりも、前の時代はどのような神を奉祭していたのだろう。なぜに西麓かというと、奈良の三輪山と大神神社の関係のようなそういうものの足跡のようなものはないかと思う次第である。
まずは、倭の賀茂神社である。

『鳥取県神社誌』によると
祭神は、別雷命、神武天皇、天照大御神、豊岩窻神、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命、素盞鳴命である。
賀茂神社を勧請したのだから、「別雷命、神武天皇」をはずす。そして、大正五年、六年に合祀された祭神をはずすと「天照大御神」のみ残る。もとは、手間山に登る太陽信仰の社だったかもしれない。

でも、祭神は時代によって消されたり、後付けされたりするものだから根拠としては弱いものである。ただ頭をよぎる程度の話である。

しかし、なぜ大和の天照大御神は、大和に居ることができなかったのか。富家伝承本では、太陽神(出雲族)VS月神(宇佐族)ということだったが、孝霊天皇の出雲攻めが影響しているのではなかろうかと、ふと思った。母系(イザナミ・天照大御神・高照姫命)の側につくか、父系(イザナギ、素戔嗚尊、天火明命)の側につくか…ということもあるのかなという思いがめぐった。

長田神社 石段
かなり急で長い石段であった。こういう石段は、登るのに険しいので、よく何段あるか数える。
が、数えている最中、訳がわからなくなってくる。
177段あったような気がするが、ある方のサイトでは176段と記載してあった。

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さて、賀茂郷(鴨部郷)であったところの長田庄の長田神社である。もともとは八幡宮であったものだ。
『鳥取県神社誌』によると
当社氏子の範囲は延長三里に亘り大小部落34、現今四ヶ村に跨り此一帯の地方を古来長田庄と称せり。
 明治維新の際、八幡宮の称を廃し庄名に因りて今の社号に改めらる

氏子の範囲が広く祭神も多く 23もの祭神だ。

多古理比売命、田岐津比売命、市杵島比売命、誉田別命、気長足姫命、素盞鳴男命、足仲彦命、句々廼智神、稚日女命、保倉神、大日孁貴尊、倉稲魂尊、五十猛命、伊弉諾命、伊弉冉命、大山祇命、月読尊、武内宿禰、大鷦鷯命、菅原道真、事代主命、瀬織津比売命、岩猛命

社歴である。当神社は往古より八幡宮と称し奉り。 其創立年月不詳かならざるも、所蔵の棟札に徴するに康永二年卯月日造立記文のもの最も古く、天正13年(1585)雲三沢城主佐々木三澤少輔八郎為虎御隠居為清公社殿造営あり万治2年及延宝9年(1681)、因伯太守源朝臣光仲公再建せられ、当時社領七石九斗其他麻地幕提灯(御紋附)を寄進せらる。領主及武門の帰依又厚かりしを見るべし。

大正5年12月
法勝寺村大字馬場字ヨメコロシ鎮座無格社大﨏神社(祭神 素盞鳴命)
同村大字同字家ノ上鎮座無格社稲荷神社(祭神 倉稲魂尊 )
大国村大字與一谷字大林鎮座無格社大林神社(祭神 須佐之男命)
同村大字鍋倉字荒神谷鎮座無格社前田神社(祭神 誉田別命、気長足姫命、素盞鳴男命、足仲彦命、稚日女命、保倉神)
同村大字絹屋字宮ノ前鎮座無格社森脇神社(祭神 句々廼智神)を合併す。

同6年4月8日
法勝寺村大字法勝寺字五反田鎮座無格社机田神社(祭神 句々廼智神)
同村大字同字杉﨏山鎮座無格社杉﨏神社(祭神大日孁貴尊、岩猛命)
同村大字武信字ナシノ木下鎮座無格社武信神社(祭神 伊弉諾命)
同村大字徳長字権現谷鎮座無格社熊野神社(祭神 伊弉諾命、伊弉冉命) を合併。〟 

八幡宮の祭神と考えられる「誉田別命、気長足姫命、足仲彦命、宗形三女神、武内宿禰」をはずし、大正5,6年に合祀された祭神をはずすと、「五十猛命、大鷦鷯命、菅原道真、事代主命、瀬織津比売命」が残る。
当然ながら菅原道真公は、後付けされたもので、大鷦鷯命(仁徳天皇)も、佐々木源氏の由縁かもしれぬが後で祭神に加えられたのではないか。(浅学のため、なぜ出雲の三澤氏の頭に佐々木がついているのかよくわからない。)
大正時代に合祀された祭神をはずすと、「五十猛命・事代主命・瀬織津比売命」が残る。

もともと、鴨部郷だったから、事代主命が祭神で不思議はない。五十猛命は、紀氏の祖神であるが、紀氏の勢力は長く続いているのでいつの時代の話かわからない。
残る瀬織津比売命であるが、どの氏族が奉祭しているかよくわからないが、長田神社の周りは南北に法勝寺川、東に東長田川、西に山田谷川が流れており、ちょうど結節する場所である祓いの神とされて、穢れを川から海へ流すとされているから、禊払いの祭祀が行なわれていたかもしれないし、治水神として祭ったのかもしれない。

向こうに見えるは手間山、長田神社の前を流れる山田谷川

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by yuugurekaka | 2018-01-13 15:18 | 賀茂神戸の謎 | Trackback | Comments(0)