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賀茂神戸の謎(2) 高鴨の神 土佐国

■ 土佐国に流された高鴨の神

『続日本紀』(797年)に高鴨の神のことが書いてあった。

"天平宝字8年11月庚子(七日)
再び高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。高鴨の神について、円與とその弟の中衛将監・従五位下の賀茂田守らが[つぎのように]言上した。
昔、大泊瀬天皇(雄略天皇)が葛城山で狩をされました。その時に老夫がいて毎度天皇と競争して[獲物の]とりあいをしました。[そこで]天皇はこれを怒り、その[老]人を土左国に流されました。[これは私達の]先祖が[祭祀を]掌っていた神が化身し老夫と成ったもので、この時[天皇によって大和国から土左国へ]追放されたのです。<分注。今、以前の記録を調べたところ、この事件は見当たらない。>
 ここにおいて天皇は、早速[賀茂朝臣]田守を[土左国に]派遣して、高鴨の神を迎えて、本の場所に祠らせた。(『続日本紀』直木孝次郎 他訳注 平凡社)

葛城山と葛城一言主神社

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この高鴨の神との狩りの話であるが、『日本書紀』(720年)には、高鴨の神ではなく、葛城の一言主神との話が書いてある。

〝四年春二月、天皇は葛城山に狩りにおいでになった。突然長身の人が出現し、谷間のところであった。…中略…「自分は一言主神である。といった。そして、一緒に狩りをたのしんで、鹿を追いつめても、矢を放つことを譲り合い、轡を並べて馳せ合った。言葉も恭しく仙人に逢ったかのようであった。日も暮れて狩りも終わり、神は天皇を見送りされて、来目川までお越しになった。このとき、世の人々は、だれもが「天皇は徳のあるお方である」と評した。〟(『日本書紀』全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫)

葛城の一言主命には、まことに友好的な書き方だ。「徳のあるお方」というが、雄略天皇の別の記事を見る限りでは、ほとんどの記事が腹をすぐ立てて殺してしまう残忍な天皇として描かれている。坂合黒彦皇子と眉輪王をかくまった葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)も焼き殺されてしまう。

葛城一言主神社 拝殿  奈良県御所市森脇432 
祭神は、葛城之一言主大神と幼武尊(雄略天皇) 詳しくは、→ ウィキペディア 葛城一言主神社

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また、鴨族の神を神と思わぬ記事もある。

〝七年秋七月三日、天皇は少子部連(ちいさこべのむらじ)スガルに詔りして、「私は三輪山の神の姿を見たいと思う。お前は腕力が人に勝れている。自ら行って捕らえてこい」といわれた。スガルは、「ためしにやってみましょう」とお答えした。三輪山に登って大きな蛇を捕らえてきて天皇にお見せした。天皇は斎戒されなかった。大蛇は雷のような音をたて、目はきらきらと輝かせた。天皇は恐れ入って、目をおおってご覧にならないで、殿中におかくれになった。そして大蛇を岳に放たせられた。あらためてその岳に名を賜い雷とした。(『日本書紀』全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫)

だから、葛城山で共に狩りをした、高鴨の神を土佐国に追放したとは、さもありなんと思うわけである。高鴨の神とは、葛城の一言主神だったのか。
それを裏付けるように、土佐国風土記逸文の記事がある。

〝土左高賀茂大社

  ()(さの)(くに)の風土記に()ふ。土左郡(とさのこほり)郡家(こほりのみやけ)の西に去ること四里に高賀茂(たかかもの)大社(おおやしろ)あり。その神のみ名を一言(ひとこと)(ぬしの)(みこと)と為す。その(みおや)(つまびら)かならず。一説(あるつたへ)()へらく、大穴(おほな)六道(むぢの)(みこと)(みこ)(あぢすき)高彦根(たかひこねの)(みこと)なりといへり。(『釈日本紀』巻十二「一言主神」・十五「土左大神」


土佐神社 高知県高知市一宮しなね2丁目16−1

最初 土佐の「賀茂之地」に祭られ、後に「土佐高賀茂大社」(土佐神社に比定されている。)に祭られたとされている。

祭神は、味鋤高彦根神・一言主神。詳しくは→ ウィキペディア 土佐神社


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                                         By 663highland, CC 表示 2.5, Link

一言主命は、事代主命だと思っていた。「一説」というわけだから、味鋤高彦根命というのは元々異説だったのではなかろうか。
異説が書かれることによって、通説になっていくのだろうか。

『新抄格勅符抄』(806年)の神戸とも照合する。

高鴨神 五十三戸 大和二戸 伊与卅戸 天平神護二年符 土佐廿戸 天平神護元年符

なぜ、土佐国だったのだろうか。
土佐国造は、『先代旧事本紀』によれば、

都佐国造

成務朝の御代に、長阿比(ながのあび)()と同祖・三嶋(みしまの)(みぞ)(くいの)(みこと)の九世孫の小立(おたちの)(すく)( とある。

また、『賀茂朝臣本系』という新撰姓氏録逸文の伊予国、土佐国に関係する賀茂氏の抜粋であるが、

伊予国鴨部首  神魂命の譜で御多弖足尼(みたてのすくね)が祖。
土佐国賀茂宿禰。同国鴨部 神魂命の譜で小忍瓶足尼(おおしみかのすくね)が祖。
伊予国賀茂朝臣。同国賀茂首 神魂命の譜で小乙中勝痲呂(おとなかのすぐりまろ)が祖。

と、ある。葛城の賀茂氏が、伊予国や土佐国に分布しているのがわかる。 

この土佐国造の祖三島溝杭命」であるが、事代主神の妃ー活玉依姫の父親である。(→ ウィキペディア 玉櫛媛 )
葛城の賀茂族の始まりは、そもそも摂津の三島家に出雲の事代主命が妻問いし発生したこととなっている。
そのような縁で、土佐国が追放された一言主命を受けることとなったのだろうか。

しかし、『日本三大実録』(859年)には、「高鴨阿治須岐宅比古尼神」(従二位勲八等より従一位)、「高鴨神」(正三位より従一位)とは、別個に「葛城一言主神」(正三位勲二等より従二位)とある。
「高鴨神」=「葛城一言主神」ではないようである。再編されて、高鴨神が、高鴨神・葛城一言主神に分離されたのか、元々別の神だったのか、定かではない。



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by yuugurekaka | 2017-12-13 22:00 | 賀茂神戸の謎 | Trackback | Comments(0)