出雲路幸神社の謎(6)意多伎…おたき…愛宕

■ どこの鬼門にあたるか 

京都の出雲路幸神社は、京の御所の鬼門封じということだった。出雲国の出雲路幸神社の南西はどこか?と考えると・・・。
あっ 月山 富田城(とだじょう)がある。
中世の出雲国の中心は、現在の松江城ではなく広瀬町の富田城なのだ。

富田城跡のある月山 

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もしかしたら、狭井の社は、富田城の鬼門の守りとして、出雲路幸神社として、遷宮されたのかしら。
まあ 想像でしかない。
飯梨川自体が、北東に流れているので、能義神社も概ね北東である。
たんに宗教上の意味だけでなく、戦国時代には寺社が、急きょ本陣や宿営地となる。そういう実体上の守りの意味もあったという。

■ 京都の賀茂神社

出雲路幸神社の東側の神社を見ると、京都由来の神社が多いことに気付く。安来町の賀茂神社、赤崎町の貴布祢神社、利弘町の賀茂神社などである。

グーグルアースの地図

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貴布祢神社であるが、ご由緒によれば、「醍醐帝の御世延喜二〇年、山城国愛宕郡より後背の足引山に勧請」とある。延喜二〇年とは、920年であり、平安時代である。安来の賀茂神社は、「宝亀九年この地の人藤原実重・元重なるものが供物として雲州の物を度々献上して、勧請した」とあり、これは778年であり、もっと古い。利弘町の賀茂神社については「白鳳年中に国中天災地変続発して止まず、平治の為に勧請」とあり、白鳳時代となると7世紀後半から8世紀初めで、さらに古い。

賀茂神社鳥居  島根県安来市安来町安来541 
祭神は、別雷神、神日本磐余彦命
 
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和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)(931年 - 938年)は、平安時代中期の出雲国「能美郡」(美は義の写し間違いというのが通説であるが・・・)の郷名に「賀茂郷」と「神戸郷」が別々に載っているところを考えると、賀茂郷はおそらく、京都の賀茂社(安来町宮内の糺神社との関連もあるので たぶん下鴨社)であって、神戸郷は、出雲風土記に見られる賀茂神戸(奈良の鴨社ー鴨都波神社あるいは高鴨神社と云われている)だろう。京都の鴨と奈良の鴨で、頭の中が混乱しそうである。 (訂正しました。→紫の字)

賀茂神社 拝殿  島根県安来市利弘町521 
主祭神は、神日本磐余彦命

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■ 意多伎神社(おたきじんじゃ)

能義神社からすぐ東に行った所に、その神社はある。出雲風土記にも記載のある古社だ。創立年代は、不詳であり、勧請したものとは違う神社で、京都とはなんの関係もない神社だと思っていた。しかし、この「おたき」の読みは、どこか聞き覚えのあると思っていたが、京都の出雲郷があるのは、愛宕郡(おたぎぐん)というところである。愛宕山(あたごやま)から、由来して、愛宕郡となったと思う。でも、愛宕(あたご)というのは、丹波国の阿多古神社(亀岡市の愛宕神社)の阿当護神を勧請して、後から愛宕になったようにも思われる。(→ウィキペディア 愛宕権現 

もしや、愛宕郡となる前は、意多伎郡でなかったのだろうか? 
イザナミと火の軻遇突智を祭っており、火の神を生んだために母親であるイザナミを亡くならせたということで「仇子」(あたご)とよばれ愛宕となったとする説(本居宣長『古事記伝』)もあるが、よくわからない。

意多伎神社 鳥居   島根県安来市飯生町679

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ここの「おたき」であるが、意多伎神社の御由緒によれば、「意多伎は於多倍(おたへ)で、食物を多布留(たふる)の義であり、これも穀物に関連する意味であろう。」(『神国島根』)ということである。また、「オタベ」は古語で
物を食べるという意味とも『平成祭データ』に書かれている。となれば、愛宕郡もそういう食べ物のことに由来したのかもしれない。

出雲国風土記(733年)に「意陀支社」が二社あり、ここの地域の地名由来が書かれている。

飯梨郷(いいなしのさと)
〝郡家の南東三十二里なり。大国魂命、天降りましし時、ここに於て御膳食し給いき。故に飯成(いいなし)と云う。神亀三年(西暦726年)に字を飯梨と改む。

ここの祭神『大国魂命』であるが、『大国主命』と名前が似ているので、大国主命とされることが多いが、在地の神なのに「天降りましし時」というのが、どうもなじまない。それに出雲風土記では、大国主命のことを「所造天下大神命」としていて、ここは違うと思う。
私は大国魂命』とは、京都府宮津市の籠神社祭神、天火明命だと思う。『日本書紀』崇神天皇のところで、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にしたところ、うまくいったという記述、つまりは子孫を祭主にしたということだ。市磯長尾市は、倭直の遠祖である。古代豪族 海部氏がこの辺りにもいたのだろうか?

和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)(931年 - 938年)は、平安時代中期の出雲国「能美郡」(美は義の写し間違いというのが通説であるが・・・)の郷名に「賀茂郷」と「神戸郷」が別々に載っている。この神戸が、ここの大国魂命=大和神の神戸(出雲国五十戸)という可能性も高い。

意多伎神社 拝殿

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ここの神社は狛犬ではなくて、おいなりさんだ。ここの地名は現在飯生(イナリ)であるが、奈良時代に「飯成」と書かれてたのでもともと、稲荷神社の「いなり」の関係があったのではないかと思われる。稲荷神社は、どこの神社の境内でよく見ることができ、後から奉祭されたものが多いが、その本源地である京都の伏見稲荷大社の創建は、かなり古い。深草の秦氏族が、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、伊奈利社(現・伏見稲荷大社)を建てたということになっているが、『日本書紀』欽明天皇が即位(539年?または531年?)するまえに山背国紀伊郡深草里の秦の大津父の話が出ているので、秦氏の奉祭した神社はもっと古くからあったのかもしれない。→ウィキペディア 稲荷神 

稲荷神が、食物神の宇迦之御魂神と同一視されたとも云われているが、出雲風土記から見るに奈良時代には既に農業の神と食物の神との習合が始まっていたように見える。あれこれ考えると、京都一帯に地盤をもっていた秦氏との関連も考えられる。

さて、本題のなぜ京都の出雲路幸神社と同名の神社があるのかとの疑問であるが、この地域がかなり古い時代より、京都と関連があった場所であったことが一番考えられる理由である。サイノカミの社というのは全国にあり、出雲路幸神社の神徳というか、縁結びと鬼門封じ(封じというよりは、幽界と現世の架け橋の神のような気がする)は、出雲路幸神社だけでなく、サイノカミの社の特徴だと思われる。
そういえば、出雲大社の大国主命が、縁結びの神と同時に、「幽冥主宰大神 」(かくりごとしろしめすおおかみ)とも呼ばれるのは、サイノカミの神徳を体現しているのかもしれない。


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by yuugurekaka | 2017-11-05 19:38 | 塞の神 | Trackback