出雲路幸神社の謎(4)出雲国 野城の駅家(のきのうまや)

中世の文献から京都の出雲路幸神社や当時のサイノカミの社を外観すると①旅の神②鬼門封じの神、御霊を鎮める神③縁結びの神、性の神④身分の上下を問わず霊験ありと、いう性格を帯びており、武家社会の進展により、合祀の対象となり衰微の傾向があったように思えた。
その3点を頭に置いて、出雲国の出雲路幸神社を考えてみる。

グーグル 出雲国・出雲路幸神社の位置 

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■ 能義神社のすぐ近くの川岸 

まずは、この位置であるが、現在は飯梨川をはさんで、能義神社(のきじんじゃ)の西側にあり、すぐ近くである。なぜにこんなに近いのだろうかと感じた。飯梨川をはさんで…というのに意味を考えてみるが、この飯梨川(富田川)の位置は、寛文6年(1666年)の洪水以前は、今の場所ではなく、もっと西の車山の麓を流れていたようだ。

御由緒によれば、「もと道祖神、松井宮とも称し、今の境内地を五町ばかり距る狭井原に鎮座ありしを、天神社の境内たりし狭井山(現在地)に移し奉れりと伝う。旧社地は出雲風土記にいう国庁より野城駅を経て伯耆に至る国道線路に面し、東西松井の分岐点に位置した。」(島根県神社庁発行『神国島根』より)そうである。

遷してきたのは、寛文6年(1666年)の洪水が関係したのかどうかわからないが、寛永2年(1625年)の棟札がある。洪水の前には建てられていたことになる。

出雲路幸神社の近くから見た 飯梨川

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『雲陽誌』(享保2年―1717年)には、「能義郡 松井」の所に
「出雲路幸神 猿田彦命天鈿女命を祀、祭日十月十五日なり、當國【風土記】意宇群に狭井社あり、今能義郡なれは是なるへし、世俗道祖神といふ、王城賀茂川の西一條の北出雲路の道祖神と同社なり、…」と、書かれている。江戸時代八代将軍徳川吉宗の頃には、「出雲路幸神」と呼ばれていた。また、京都の神社と同名であることも認識されている。
「旅行の人門出に是神祭て先て啓行神といふ心にてさいのかみといふなり。」とも書かれている。猿田彦命が、ニニギノミコトを先導したとの話から、旅人が門出に、「みちひらき」の神として祭ったこともかかれている。

出雲路幸神社 島根県安来市西松井町88

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出雲風土記(733年)には、ここの周辺に「野城の駅家」が設置されたことが書かれている。(駅家は、単に駅とも云う。)

「野城駅。郡家の正東二十里八十歩の所にある。野城大神が鎮座していらっしゃるのによって、だから、野城という。」

駅家(うまや)とは、
〝令制において,国司の管轄に属し,駅馬をおいて,駅使の往来,駅鈴をもつ官人の乗用に供し,その宿所と食糧を提供する施設。大化改新によって初めて設置され,大宝令にいたって整備された。〟(ブリタニカ国際大百科事典 より) 他 ウィキペディア 駅家
現在の能義神社の周辺から西の車山方面に古代山陰道があったと云われている。中央と地方との情報連絡が主目的の道路であったようで、役人の出雲→奈良・京都の往来に使われてきたわけである。
時代は代わって、参勤交代などに使われた江戸時代の伯耆街道は、また別のところに整備されたのだが、ここの古代山陰道も、旅人の道となっていたのだろう。参考→ ウィキペディア 日本の古代道路


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by yuugurekaka | 2017-10-22 21:18 | 塞の神 | Trackback | Comments(0)