出雲路幸神社の謎(3)姫路・道辻の石塚

■ 今川貞世 『道行きぶり』

3代将軍足利義満時代、九州探題に任命された今川貞世(了俊)(※→ウィキペディア 今川貞世が九州に赴くまでを書いた紀行文『道行きぶり』(応安4年 1371年頃)には京都・出雲路幸神社にある同じような形のものが奉納された石塚の話が書かれている。

〝 四 石の塚とみとの出会い

  清水・金崎などうち過ぎるに、それより南にあたりたる所を問ひしかば、飾磨が里といふ。徒歩路は少し隔てたれども、川波の海に出でたるけしき、遥かに見渡され、なにとなくおもしろし。
 又いささか行き過ぎて、川のほとり近く、石の塚一侍り。是は神のいます所なりけり。出雲路の社の御前に見ゆる物の型ども、一、二侍りしを、「なにぞ」と尋ねしかば、「此(の)道を初めて通る旅人は、高(き)も卑しきも、必ずこれを取り持(ち)て、石の塚をめぐりて後、男女の振舞のまねをして通る事」と申ししか、いとかたはらいたきわざにてなむ侍りしかな。
 まことや、此(の)神の本社は、ほど近き所の海の中に立(ち)給ひたるが、「かやうにまなび侍るたびごとに、御社のゆるぎ侍(る)」となん申(す)めり。あらたなることなるべし。
  伝え聞く神代ののみと目合ひをうつす誓ひのほどもかしこし
ここをば、磯崎とも磯の渡ともいふにこそ。
  旅なればとけても寝ぬを春の夜の磯の渡わたりの遠くもあるかな。
それよりこなたに、恋の丸といふ里一村侍(る)。いかなる人の物思ふとて、名乗りにし侍りつらむとおぼえて、いとおかしく侍りき。
  夢とても妹やは見ゆる旅衣紐だにとかぬ恋のまろねにかかる所の名を聞き侍るに、まづ思ひ出る方の侍るかな。〟
                            
姫路のどこの川のほとりかわからないが、石の塚がある。京都の出雲路幸神社の前に見える物の形、これは現在の御石さんというよりも、何か奉納された、石か木かわからないが男棒のように思える。それを持って、しぐさをしないといけないからである。
昔は、幸神社にそういうものが神具として奉納されていたのだろうか。
「この道を初めて通る旅人は、身分の高さに関係なく、必ずこれを持って、性交の真似事をして通ること」となっており、今川貞世が気恥ずかしい思いをした。
「初めて通るもの」がしないといけないとは、この儀式が「祓い」の儀式だったのだろう。もしや、神主さんがするお祓いの原初的形態が、そういうものだったのかもしれない。

また、この社は「旅人」を対象にしているということがわかる。一般に近世のサイノカミは、道の神というよりは、村落共同体の神で、縁結びであったり、子どもの神であったり、災いが村に侵入しない御利益の神である。そういう旅の安全を祈願するというご利益を兼ね備えていたのだろう。

実にこの神の本社は、海の中に立ち、性交の真似事をするたびに、連動して、揺れ動いたと、云う。海の社といえば、宮島の厳島神社が思いつくが、そういう形態の神社も昔は多かったのかもしれない。



■ 『播州名所巡覧図絵』

享和三年(1803) 村上石田著『播州名所巡覧図絵』巻四には、今川貞世(了俊)の文章を引用して、その石塚に関連すると思われる「道辻塚跡」や「道辻の祠」の記事が見える。



兵庫県南西部を流れる市川                           画像出典 ウィキぺディア

Ichikawa river 04.jpg
               By Corpse Reviver - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link


「市川」の所の後に

〝 道辻塚跡、今は姫府惣社に土祖神として移されたれども、もとは此市の(国衙ノ庄)西に立たり、今川了俊九州にに往紀行、・・・〟(村上石田著『播州名所巡覧図絵』)

と、ある。
「道辻塚跡、今は姫府惣社に土祖神として移された」とあるが、姫路の総社・射楯兵主神社の「十二社」の中に、「道祖社  祭神 岐神」があるが、この社のことなのだろうか(→ ウィキペディア 射楯兵主神社 
場所として、射楯兵主神社の西の方の市川のほとりにあったのだろうか。


播磨国総社・射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)  兵庫県姫路市総社本町190  
祭神は射楯大神(五十猛尊)と兵主大神(伊和大神、大国主命)である。 画像出典 ウィキぺディア


Itate-Hyozu-jinja, shinmon.jpg
                         By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, Link


また、「飾磨川(しかまがわ)」の所の後に

〝道辻の祠、飾磨市中に小祠の残れり、今、幸の神といふ。此祠の事は、姫路志深 道辻祠として源貞世の文にいへるごとく、昔は社も大きくて、年の末には男女陰形の供物を備えて、里民の男女、女なし男なしの者は、此拝殿に打ち交り入(り)て戸を閉じて縁を引(き)たる也、又宮守は竹の杖を以(っ)て祓ひし、其(の)杖を以(っ)て妻妾を撰ばず腰を打(ち)て安産の呪とす、尚さるがう手づま曲鞠などでにて賑へり、今はすべて絶たり〟(村上石田著『播州名所巡覧図絵』)

とある。この「姫路志深」でインターネット検索すると、現在の姫路市御国野町深志野辺りが出てくるが、飾磨川の後に出てくるところをみると、現在の船場川河口付近のところにあったのではないかと自分には思える。ここの社は「男女陰形の供物」を備えるとあるが、男棒のものばかりではなく、女性のものもお供えしたもののようだ。主に「縁結び」、実際上の縁結びの場として、古は神社が機能していたらしい。
「志深道辻社」を検索すると、『赤松則房雑談聞書』が出てきた。

〝志深道辻社 赤松貞範貞和元年二月十日しかまよりうつす。男女のゑんむすびの祭也。男女の陰陽形を作り、神前にそなふ。〟(『赤松則房雑談聞書』)
これが本当であれば、貞和元年(1345年)には既に遷されていたことになる。これが、射楯兵主神社の道祖社かどうか、わからないが、室町時代には賑わっていたサイノカミの神社は、南北朝の時代にはすでに衰退期となって合祀の対象となっていたことが想像される。

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by yuugurekaka | 2017-10-14 06:57 | 塞の神 | Trackback | Comments(0)