物部東征の道 ~西出雲~ (1) 稲佐の浜

稲佐の浜(いなさのはま) もしや奈良時代の話?


出雲大社より西へ1キロ行った所にある稲佐の浜です。ここが「国譲り神話」の舞台となっており、

大国主命に経津主(フツヌシ)神と武甕槌(タケミカヅチ)神の二神が、「国譲り」を迫ったと云われてい

る浜です。また経津主命は、物部氏の神で、甕槌神は中臣氏(藤原氏)の祭神であると云われて

います。


稲佐の浜 島根県出雲市 大社町杵築北稲佐


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しかし、同じ記紀に、天照大神のかなり後の子孫が東征をして、大和入りし、事代主命の娘や子孫

母族として、ヤマト王権を造るという大きく矛盾した話を載せていることを考えると、この国譲

り神話は、いったい何を意味しているのでしょうか。


史実ではないことはもちろんですが、記紀が書かれた時代のことを考えると、これは弥生時代の話

はなくて、もしや持統天皇の時代のことを言っているのではないかという思いが浮かびました。


よく言われることですが、天照大神のモデルは、天武天皇の後を継いだ女帝、持統天皇だとされて

ます。和風諡号の一つに「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)とあ

ります。→ウィキペディア 持統天皇


そうして考えていきますと、この「国譲り」を迫る経津主命のモデルは、石上麻呂(物部麻呂)で、

甕槌神のモデルは、藤原不比等となります。

この二人、元明天皇の時代には、左大臣、右大臣を任じられています。


しかし、物部氏や中臣氏は、共に壬申の乱で天智天皇の太子・大友皇子側の忠臣です。壬申の乱で、

敗北した側ですので、本来は没落していっても不思議はありません。

天武天皇の側には、いわゆる出雲系豪族というか、葛城王朝系豪族の尾張氏、三輪氏、鴨氏などが、

(三輪君高市麻呂、尾張宿禰大隈、鴨蝦夷…)ついています。


しかるに、天武天皇の死後、大津皇子が謀反の疑いをかけられ自害させられるなど、謀略めいた事件

もあり、結局のところ、天智天皇の系統が、持統―文武ー元明…と続くのです。あの壬申の乱は一

体全体なんだったのでしょうか。

そして、物部氏や中臣氏は、没落するどころか、持統天皇、元明天皇に仕え、出世しています。「国

譲り神話」とは、天武天皇ー葛城王族達から、朝廷を奪い返したという隠喩なのかなあ…と。

さて空想は、このぐらいにしておきます。

 

薗の長浜 大社町の「稲佐の浜」から出雲市長浜にかけての砂丘

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一説によれば、「稲佐の浜」を、古くは、出雲大社前の浜だけではなく、はるか西方の田儀浦まで

を言ったようです。

物部・豊連合軍(物部氏+宇佐氏)は、杵築の浜では無く、もっと西の浜から上陸したのではない

だろうか。



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by yuugurekaka | 2017-01-16 16:56 | 出雲王朝の崩壊 | Trackback | Comments(0)